シロアムの池の癒し
秋は日増しに深まり、かなり冷え込むようにさえなってきた。そんなある日、イェースズはペトロ、ヤコブ、エレアザルの三人とともに、神殿の南のダビデの町を歩いていた。
神殿の南の門を正面に見るあたりだ。神殿を見上げる形にはなっているが、それでも目を反対側に転じるとここも高台で、その下の谷越しにオリーブ山までよく見える。
やはりエルサレムは大きい。あの露天商の店を壊したことなど、もしガリラヤで同じことをしたら全土で有名人になってしまうだろう。事実、イェースズの名声はガリラヤではどの村にも鳴り響いていた。
しかしここではあれだけの事件を起こしたとしても大部分の住民はイェースズを知らず、イェースズが使徒たちと堂々と歩いていても誰もが無関心にすれ違って行く。
この町の道は起伏が激しい。だから箱型の家と家の間の細い道は、突然急な坂道になったりする。
なにしろ真っ直ぐな道というものはほとんどなく、街中は恐ろしいほど見通しが悪い。しかも、どの道も実に狭いのだ。
イェースズたちが歩いているのもそんな曲がりくねった細い坂道で、その途中の道端に座っている老人がいた。どうも目が全く見えない人らしい。
「先生」
ペトロが、歩きながらイェースズを見た。
「先生は、不幸現象にはすべて原因があって悪業の清算だっておっしゃいましたけど、やはり目が見えないというのも本人かその両親の罪なんでしょうか」
「こらこら」
イェースズは慌ててペトロの袖を引き、近くの路地に入った。ほかの二人もついてきた。
「あんなこと、本人に聞こえるような声で言うものではない」
そうたしなめてから、イェースズは少し微笑んだ。
「確かにその通りだけど、いきなりそのようなことを本人に面と向かって言うものではないよ。まあ確かに、あらゆる不幸現象には必ず原因がある。すべてが相応で、善因には善果が、悪因には悪果があるというのは動かせない法則だ。霊界の置き手だよ。その悪因というのはいわば神様へのお借金のようなものだから、いつかは清算しなければならない時が来る。だから不幸現象を待って清算するか、自ら進んで積極的なアガナヒをして、つまり人を救って歩いてお借金をお返しするか、どちらが得かってことだね」
その時、一人の老女が路地をそっとのぞいたが、使徒たちは気づかずにいた。イェースズは話し続けた。
「だからすべてを感謝で乗り越えて、決して不平不満は言わないことだ。不平不満を言ったら、ますます魂の曇りを積んでしまうからね。そういうことが分かって『ヨブ記』を読むと、実にそのことを適格に言い当てているのがあの書だと分かるんだけど、残念ながら今の人であの書の真意が分かっている人は少ない」
「ではあの目が見えない人も、前世で人の目を突いたかなんかしたんでしょうか?」
「断言はできないけど、可能性としてはあるな」
「では、私たちが奇跡の業であの人の目を癒したら、あの人のお借金を肩代わりしてあげたということになるんですか?」
「それは違う」
イェースズは首を横に振った。
「神様へのお借金は、誰も肩代わりしてあげることはできないんだよ。奇跡が起こるのは神様のみ業がそこに現れるため、神様の力と栄光を表して万人の眼を開かせる方便だ。だから、奇跡の後が大切って何度も言っているようにね、その人のお借金は残っているんだよ。後はその人が報恩と感謝の念に燃えて、いかに人を救ってお借金を清算するか、神様は神様との因縁のある人からそのチャンスを与えるために奇跡を出してくださる。奇跡というのも、神様のご都合があって出されるものなんだよ。因縁のある魂だから神様はなんとしてでも救って、御用にお使い下さろうとしている。神様にとって役に立つ人だろうから、使ってくださる。そのために、いつも言うように行きがけの駄賃として奇跡を出して下さるわけで、そのへんをサトって神様の御用をして人を救わせて頂こう、そしてお借金をお返ししようと思いが切り替わらなければ、神様からすれば奇跡を出してあげた意味がないということになる。せっかく奇跡を頂いておきながら、再び浄化が起こるというのはそういうことなんだね」
「あのう、ちょっといいですか」
そこに割り込んできたのが、先ほどから路地をのぞいていた年配の太った女だった。
「さっきからお話を伺っていましたけど、あなた方、あの目の見えない方のことを話されていたでしょう?」
女は清らかな目元に笑みを浮かべ、あくまで温和そうに話した。
「ええ、そうです」
と、ペトロがイェースズに代わって答えた。女は答えたペトロとイェースズ、そしてほかのヤコブとエレアザルをも交互に見てから口を開いた。
「あなた方、目の見えない人の気持ちがお分かりですか? それはつらいものなんですよ」
「あのう、あなたは?」
と、ヤコブが尋ねた。
「私はああいう方々のお世話をさせて頂いているものなんです。私たちの家には目の不自由な方、足の不自由な方などがたくさんおります。そういう方たちを集めて、お世話させて頂いているんですけどね。なにしろこんな世の中ですし、この都では人々の心は都の周りの砂漠と同じです。家もない労働者が冬に外で凍えないように、毛布や食料も配らせて頂いています」
「それは素晴らしい」
イェースズの顔が輝いた。
「世間では罪人として貶められている方々にまで、愛の手を差し伸べるのですね」
イェースズは嬉しそうな顔だった。
「はい、褒めて頂いてありがとうございます。でも、先ほどのあなた方の会話はいただけませんわ」
「なぜですかな?」
「ああいう方たちは、すべてが闇の中の人生なんです。生きる希望もないんですよ。仕事もできません。孤独なんです。そういう人の心を、心で感じてあげるのが本当の救いなのではないでしょうか? 言葉で慰めるより、その人の心になってお世話させて頂く、そういったことでその人の心は癒されていくんですよ。救われるんです。それなのにあなた方は、目が見えないのは罪びとだからだだとか何とかおっしゃって、その人の心をますます苦しめていることにお気づきになりませんか? ただでさえ苦しいんですよ。それなのに、その苦しみが罪の結果だなんていう言い方は、その人をもう奈落の底に突き落とすようなものではないでしょうか。私にはすごく残酷なことだと思います」
イェースズも微笑んで、うなずきながら聞いていた。女言葉が途切れたので、イェースズは口を開いた。
「おっしゃる通りですね。素晴らしいお考えをお聞かせ頂いてありがとうございます。しかし、残酷なようでも真理は真理なんですね。それを告げてあげるのが、その人のためだと思いませんか?」
「いいえ。あまりにも残酷すぎます。自分が罪を背負って今苦しみを背負っているなんて、苦しみは余計に増えてしまいます。それはその人の不摂生とかで病気になることもあるでしょうけれど、その人には何ら責任のない病気だってあるでしょう? だから、その人の身になってお世話して差し上げた方が、ずっと救いになると思いますけれど」
よくしゃべる女だった。しかしイェースズは、その話の一つ一つを丁寧に聞いていた。
「救われるとおっしゃいましたけど、それは心が救われるんですよね。川で言えば、心は中流です。川下である肉体の救いにはならないんです。心が救われても、目が見えるようにはならないでしょう?」
「それとこれとは、別問題だと思いますけれど」
「いえ、それが同じなんですよ。残酷なようでも真実を知ってもらって、心よりももっと奥の、川上である魂を浄めてしまえば川中の心も、川下の肉体も救われていってしまうんです。究極の救いが、ここにあると思いませんか? 川中の救いはそこに止まってしまいますけれど、川上の救いは川下にまで及ぶんです。あなたは失礼ですが、神秘体験のお一つもされたことがないのではないでしょうか? 知らないということは、怖いことなんですよ。本人に責任のない病気なんて、一つもありません」
「病気を神様の罰だとお考えなのですか? そのお考えも、どうしても納得がいきかねますけれど」
「私は、そのようなことは申しておりませんよ。神様は大愛です。すべての人に愛と歓喜をお与えくださっています。そして人は、神様にとっては宝ともいえる神の子なんです。かわいくてしょうがないんです。なのに人間の方で神様から頂いた魂を汚し、濁らせ、包み積んできてしまいました。神様は大愛なるが故に、神の子がかわいくてしょうがないからこそ、その大愛のみ心で汚れた魂をお洗濯して下さるんです。それがいわゆる不幸現象なんですね。だから不幸も神様の愛の現れなんです。そういう関係がありますから、自分の罪を神様に徹底してお詫びし、感謝で乗り越えさせて頂ければ剰さえ前よりも増して魂がきれいになって、神様の御用もさせて頂けるんです。それが本当の救いでなくて何でしょう? 神様の大愛の中で生かされている私たち人類は、すべて本来は幸せにならないとおかしいんです。幸せとは、他人が幸せになることが究極的幸せなんです。そういう意味では、あなたも今、幸せでしょう?」
「はあ、ま、まあ」
女はようや口数を少なくして、うなずいた。
「自分の罪をサトッたら、まずは神様の御用させて頂ける自分に切り換える、そうやって罪がすべて消えたら放っておいてもひとりでに幸せになるんです。人間とは、最初からそういうふうに創られているんです。ですから、そういったことを相手に伝えて幸せになってもらう、これが本当の人救いで、最高の幸せですね。そして、一人一人が幸せになって、幸せもののみの世になることを神様はお望みですし、幸せになるということは人類の神様への第一責任なんです。そのために奉仕するのが神様の御用ですし、人救い、つまり人様を幸せにして差し上げることですね。神の光と神の正しい教えに今日また一人加わらしめたまえと祈って、そのために行動する。それが救いです。失礼ですが、心が癒されても病気がそのままなら、それは自己満足ですよ」
女は、どう答えていいかわからず、戸惑っていた。
イェースズはまた、微笑みの中にも厳しい目を女に向けた。
「あなたは先程、私の幸せかという問いに、幸せだとお答えになりました。でも、あなたがあのような体が不自由な方々のお世話を続けてこられて、あなたの体自体がますます不具合になってきていますでしょう?」
女は一瞬はっとした顔をした。そしてバツが悪そうに下を向いて、ボソッとした声で言った。
「はい、たしかに」
「あのような方の世話をして、物質的な援助をすればするほど、神様が見えなくなってきていますでしょう?」
女は黙ってしまった。イェースズは、優しく何度もうなずいた。
「ああいった方々は一見不幸に見える現象で、自らの罪をあがなっている、つまり神様へのお借金を返済しているんです。それをあなたが横から手を出しますと、あの方々から借金返済の道を奪ってしまう。すると神様は、せっかくあの方々の罪を消してあげようとされているのにあなたが邪魔をしているとご覧になって、あの方々の借金をあなたに付け替えてあなたに肩代わりさせてしまうのですよ」
「そんな話……」
女は反論したいようだが、言葉が見つからずにいるという感じだった。イェースズは続けた。
「もちろんあなたは善の心でされている活動だと思います。そのこと自体は素晴らしいことです。でもあなたが救った方々に、自分の罪の自覚と本当の意味での罪穢消しについて語らないで物質的に救っただけだとしたら、あなたの善は小さな乗り物の善にすぎない。小さな乗り物の善は、神様から見れば時には悪となることすらあります」
「そんなこと、あるわけないでしょう」
「いいえ。あるのです。その証拠に、あなたが今の活動を続ければ続けるほどあなた自身の体が悪くなり、神様が見えなくなったとあなたは認めましたよね」
女は少し黙ってから言った。
「では、どうすればいいのですか? この活動をやめろとでも?」
「いいえ。あなたがされている活動の心は素晴らしい。他人への愛にあふれている。そのことは敬意に値します。どんどんなさるべきです。でも」
「でも?」
「もっと霊的に考えて、あなたが救った方に本当の意味での罪の許しとあがないについて語って聞かせることです。これをすれば、その方々のお借金をあなたが代わりに背負わなければならないということはなくなります」
「そんな、私は口下手ですし」
ここまで弁舌を振るってきたのによく言うという感じだが、イェースズは笑っていた。
「まずはお話ししたかどうかです。相手がそれを聞いて受け入れるかどうか、回心するかどうかはどうでもいいのです。まずあなたが語ることが重要です。私も使徒たちに、まず病めるものを癒せ、しかる後に福音を伝えよと教えています。癒しただけで福音を伝えなければ、相手の方の罪穢をこちらに付け替えられますから」
女は黙ってしまった。だが、女の心には少しずつ変化があった。イェースズの言葉に乗っている黄金のパワーに、逆に目を覚まさせられたという感じだ。
「まずは霊的に救ってしまえば、物質的援助はしなくても心や体は自然と癒されます。よろしい。問答無用、実際に体験して頂きましょう。いっしょにいらっしゃって下さい」
イェースズは女を連れて路地を出た。目の見えない人は相変わらず同じ所に座っていた。
「あなたは、目が見えるようになりたいですか?」
イェースズはかがんで、目の見えない人に聞いた。
「そりゃあもう、目か見えるようになったらほしいものなんかないさ」
「そうですか。神様にお願いしてみましょう」
イェースズは天に向かってしばらく念じ、男の前頭部と後頭部に時間をかけて手からのパワーを放射した。霊流が目の見えない人の魂を包み、前世からの罪穢や魂の曇りを削ぎとっていった。
「さあ、目を開けてください」
「そんな、私は目が見えないんです。もうずっと前からです」
男は激しく首を横に振った。実はもう男の目は癒されていたのだが、自分は目が見えないという思いこみが強く、目を開けられずにいた。
そこでイェースズは世間のまじない師がするのと同じように地につばを吐き、それで泥をこねて男の目の上に塗った。
「さあ、シロアムの池に行って洗ってきなさい」
そこからシロアムの池はすぐそばだった。男がよろめいて立ったので、慌てて女がそれを介護して池に行った。イェースズもここからなだらかな坂を南へ五分ほど下ったところにあるシロアムの池に足を向け、使徒たちもついて来た。
ところがイェースズたちが池に着くと、そこはもうすでに大騒ぎになっていた。かなり大きな四角い池で、池の向こうは城壁の内側になっている。池に下る幅の広い階段は三段階になっており、池のほとりもかなり広いスペースで、ここがエルサレムの神殿巡礼者の待機所にもなっている。
その池のほとりで、男が目が見えるようになったと叫んでいたのだ。そしてイェースズが入ってくると、先ほどの女がそのそばに近づいた。
「治ったんですよ! この方の目、本当に見えるようになったんですよ!」
先ほどは穏やかにイェースズをたしなめていたその女が、まるで狂ったように興奮しているのである。
「それはよかった、よかった」
そのイェースズの声を聞いて、さっきまで目が見えなかった男が近づいてきた。
「今のお声で分かりました。私の目を開いてくださったのは、あなたなんですね」
「私の力じゃありません。神様ですよ」
その時、池のそばにまたもやパリサイ人の律法学者が数人いるのをイェースズは見た。しかもしきりにこちらの様子を伺い、案の定そのうちゆっくりと歩み寄ってきた。その学者たちを目が見えるようになった男が指さし、イェースズに言った。
「私が目が見えるようになったと騒いでいたら、この方たちがそんな馬鹿な話があるかと毒づいてきたんです」
「さっきからこの人が言っている目を開いてくれた人というのは、あなたですか?」
学者の一人が、イェースズに尋ねた。だがイェースズが答える前に、男がしゃしゃり出た。
「この方こそ、神様から遣わされた預言者です」
「あっ!」
もう一人の学者が、突然叫んだ。
「こいつは前に神殿で暴動を起こしたガリラヤのイェースズだ!」
「何ッ!」
学者たちの顔が、急にこわばった。そして、まだ興奮している男に、イェースズを横目で見ながら言った。
「こいつは悪い人間なんです。神を冒瀆する新興宗教の教祖でしてね、こんなのにひっかからないように気をつけることですな。こいつの信者になったものは会堂から追放するというお触れも、今日になって出たばかりですからね」
そのお触れに関しては、イェースズは初耳だった。さもありなんとも思うし、また一抹の寂しさを感じなくもなかった。自分の名誉の前での寂しさではなく、あくまでも神の言葉を受け入れないで伝統と権威にあぐらをかいた既成宗教に対する寂しさでもあった。
「でもですね」
男はそれでも学者に食って掛かっていた。
「この方がいい人か悪い人かは存じませんけどね、私の見えなかった目が、今はこうして見えているんですよ。私はこの方に救われた、それだけは紛れもない事実ですからね。学者さん方はよくモーセの教えの話をされますけど、モーセの昔ならいざ知らず、今の世でモーセに見えなかった目を開いてもらったなんていう人、いますか? でも私は、この方に眼を開いてもらったんです」
そんなやりとりをそばで聞いていたイェースズだが、学者ではなく目を開いた男に向かって言った。
「あなた目を開いて下さったのは、神様なんですよ。神様を信じてくださいね」
「こんな私なんかに、何で神様はそんな奇跡を?」
「あなたは神様とご因縁があるんです。あなたがこれから強い信仰を持つことを神様はご存じだから、あなたの罪を赦してくださいました。神様への徹底感謝と罪のお詫び、そして報恩の一念行に燃えることです。あなたも私も、すべての人は神の子ですから。でも、自我に打ち勝ったものが真神の子です。そうなった時に、神の子の力が蘇るのです」
「信じます。信じますとも」
「さっきまでのあなたのように肉眼の目を開けなくても、霊の眼を開けば肉の目も自ずから見えるようになります。でもですね、なまじっか肉体の目が見えるばかりに、肉の目で見たことがすべてだと思い込んで、霊の目が盲目になっている方が多いのです」
イェースズはちらりと、学者たちの方を見た。
「それは、我われのことか。我われが盲人だとでもいうのかね」
「肉の目にだけ頼って、それがすべてだなんて考えると間違えますよ」
学者たちは返す言葉が見つからず、唇をかみ締めていた。




