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人間・キリスト  作者: John B.Rabitan
第3章 福音宣教時代
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罪の女

 秋も深まり、ベタニヤを通過する旅人が急に増え始めた。いよいよ仮庵祭が始まる。

 仮庵祭はもともとその年の収穫を、七日ないし八日間にわたって神に感謝する秋の大祭であった。一日目、二日目と神殿で燔祭はんさいにすべき動物や穀物については、律法で細かく規定されている。

 それが後世になってから出エジプト時の荒野での彷徨を記念するという意味が加わり、祭りの期間に人々は屋外や畑地にナツメヤシの葉で仮小屋を作ってそこで生活するようになった。神の国から見れば、この世は仮の棲家すみかであるということを表すためだ。

 ベタニヤでゼベダイも、家の近くの高台に仮小屋を建てた。だが今年は、イェースズと使徒たちの仮小屋がその隣にもう一軒建つことになる。

 そして祭りの最後の日、イェースズと使徒たちはエルサレムに行き、神殿に昇った。この日が祭りのクライマックスで、神殿では燔祭はんさいとともにシロアムの池から汲んできた水が注がれ、「律法の喜び(シムハト・トーラー)」の日として「伝道の書(コーヘレス)」が朗読される。


 イェースズが神殿の庭に上がると何人かの信奉者はすぐにイェースズに気がついたようだが、なにしろ年間で最大の大祭当日である。ガリラヤを含むユダヤ全土から参拝者はエルサレムに集結して人口は数十倍に膨れ上がっており、そんな大群衆の中でイェースズに群がって歩くことは到底不可能であった。イェースズの周りにひしめき合う人々はイェースズのことを全く知らず、彼に無関心な人の群れだった。

 イェースズたちがニカノルの門までたどり着くのに、押し合いへし合いでかなり時間がかかった。そして参拝を終えて退出し、異邦人の庭まで出てきた時である。そこはすでにいつもの生贄いけにえの動物売りや両替商の店が完全に復活していた。


「あっ!」


 そこで突然ある人が、イェースズを指さして叫んだ。


「こいつだ! おい、みんな!」


 その声にこたえて六、七人の男が店の立ち並ぶ方から人をかき分けながら来て、イェースズを囲んだ。だがそこへも群衆の流れはどんどんぶつかり、そんな中で立ち止まっている彼らに顰蹙の目を向けながら無関心で流れていった。

 使徒たちはかばうようにイェースズの前に固まった。イェースズを取り囲んだのは以前ここで店を壊された商人たちで、その目は敵意を含み、憎悪の念に燃えていた。


「祭司様はこいつを石打ちの刑にしてやると言っていたのに、なんでぬけぬけとこんな所を歩いているんだ。祭司様はなぜ放っとくんだ」


「おい、おまえ!」


 商人の一人が、イェースズに怒鳴りつけた。


「おまえはどうも救世主気取りでいるようだけどな、言っておくが救世主は白馬に乗って東の空からある日突然降りてこられるのだ。おまえはただの人間で、東どころか北のガリラヤ出身だろう」


「たしかに」


 イェースズは穏やかに言った。


「私の出身地をご存じなのですか」


「おまえの弟子たちの言葉の訛りを聞いていれば、すぐにガリラヤ人だと分かる!」


「たしかに私は人間としてガリラヤで生まれて、この世で生活してきました。でも私は、神様から遣わされたんです」


「なんだと! またそんなたわごとをほざいているのか。やっちまえ!」


 商人たちは一斉にイェースズにつかみかかろうとしたが、使徒はちはそれに抗すべくイェースズの前で見構えた。それまで無関心に流れていった大群衆も何人かは注意を向け、ほぼその次の瞬間にイェースズの周りは人垣ができた。見ものとしてはおもしろいと思ったのだろう。


「抵抗するな!」


 と、イェースズは使徒たちに、厳しく言い渡した。そして、両手を商人たちに向けた。ものすごい量の霊流エネルギーが放射されて商人たちを包んだが、もちろんそれは誰の目にも見えなかった。だがイェースズの目には、商人たちに憑依している霊がもがき苦しんでいる様子が手に取るように見えた。


「なんだ、こいつ。気持ち悪いやつだ」


「精神異常者を相手にしていても、しょうがない」


「祭司様に言って、役人に捕らえてもらおうぜ」


 そんな捨てぜりふを残しながらも、商人たちは不思議なくらいすごすごと引き下がって、人ごみの中に消えた。

 周りで見ていた人も何が何だか分からず呆気にとられていたが、その中の一人だけ感嘆の声を上げた。


「奇跡だ。この人の手からは黄金の光が出ていた。私にははっきり見えた」


 若い男だった。人々は怪訝そうな顔でその男を見た。男はさらに、


「この人は救世主メシアだ」


 と、叫んでいたが、人々は首をかしげながらもほんの二、三人だけ残して雑踏に戻り、イェースズの周りはその二、三人と使徒たちのほかは無関心で流れ行くもとの人の流れがぶつかってくるだけになった。

 だが、イェースズを救世主と呼んだ男もまた、その場から立ち去ろうとしなかった。


「前にベトサダの池で多くの病人を癒したのも、あなたでしょう? どうか、私にも神のみ言葉を語ってください」


「あのなあ」


 と、男をたしなめたのは、男とともに好奇心だけで残っていた見物人だ。


「いいか、救世主がガリラヤ人であるわけがないじゃないか。この人もその周りの弟子たちも、みんなガリラヤ訛りがる。救世主はダビデ王の子孫で、ベツレヘムで生まれるって聖書トーラーには書いてあるじゃないか」


 そんな声は無視して、男はイェースズのそばによった。イェースズはにこやかに微笑んだ。


「私の話が聞きたいと思ったあなたは、幸せです」


 イェースズは男と、ほかに残っていた人々をさっと見渡した。


「心が渇いている人は、私の話に耳を傾けてください。それは私の言葉ではなくて、神様の言葉をお伝えさせて頂きますから。今日はシロアムの泉の水が神殿で注がれる日ですけど、神様の言葉を受け入れて生活の中で実践すれば、心の奥から命の泉が湧き出ますよ」


「神様って、どこの神様だ? 神様ならあそこにおられるじゃないか」


 見物人の一人が青空にそびえる四角い神殿を指さした。イェースズはもはや何も語ることなく、最初に声をかけた男に共に来るように促してその場をあとにした。

 

 イェースズはその晩、使徒たちをベタニヤのゼベダイの家に帰らせ、一人だけ残ってオリーブ山に登った。ここからだと、エルサレムの市街が一望できる。

 大祭の最終日の夜とあって、夜更けまで町全体に煌々と明かりが灯っていた。月は満月で、その冷たい光の中でイェースズは祈りに没頭した。

 まずイェースズは、これでいいのだろうかと、エルサレムに上ってからの日々を内省した。そんな時、魂に響いてきた神の声は、


――焦るなよ。だが、ぐずくずしてはならんぞ。


 という繰り返しだった。


――神の時は、近づいておるのじゃぞ。このままでは遅いぞ、間にあわんぞ。まだまだのんきすぎるぞよ。


 それは明らかに神からのお叱りだった。イェースズはその言葉の前に、ただただ嗚咽した。


 翌朝早く、イェースズはまた神殿に昇った。今度は使徒もおらずにたった一人でである。

 祭りの翌日の静けさは、記憶の中の祭りの喧騒をますます顕著にするが、祭りの痕跡は神殿の庭のあちこちに見えた。庭は泥や布切れが目立ち、何人かの人は後片付けのために異邦人の庭を歩いていた。

 ところがイェースズが地下から昇る階段から一歩庭に出た途端、空気は一変した。皆慌てて互いに何かをささやき合い、中には一目散にどこかへ駆けていくものもいた。

 イェースズは秋の空を仰いで朝の新鮮な空気を吸いつつ、庭の淵のソロモンの廊の方に歩いた。何本もの太い円柱に支えられた屋根付きの廊で、神殿の東側をずっと向こうまで長く続いている。

 その回廊の屋根の下にイェースズが入った時、背後に多勢の足音を聞いた。

 振り向くと、パリサイ派の律法学者の一団が、肩を怒らせてこっちへ向かってくる。その中に若い女性がねじ伏せられて、無理やりにつれて来られていた。ブロンドの髪もかき乱し、着ている服もぼろぼろだった。だが顔は、驚くほど美形だった。

 学者たちはイェースズの前に来ると、女を地面に叩きつけた。


「あんた、ガリラヤのイェースズだな」


 居丈高の学者の言葉が、朝の空気を切った。イェースズは落ち着いて、笑みさえ浮かべてそんな彼らを見ていた。


「そうですが。しかしあなた方は女性にずいぶん乱暴なことをなさるんですね」


「やはりそうか。ガリラヤまであんたのことを調べにいった仲間が言っていたが、怪しげな魔術で奇跡を起こして人々を扇動し、変な新興宗教を起こしたそうじゃないか」


「私は神様に命じられるままに、その教えを伝えているだけですけどね」


「じゃあ、聞くが」


 いちばん前の学者が、目の前に倒れている女を指さした。女は恐怖におののき、立ち上がる力もなく肩で息をしている。


「この女は、姦淫の現場を取り押さえられたものだ。律法では石打ちの刑にせよとあるが、どうする」


 イェースズはその問いが罠であることは、すでに見抜いていた。もし律法通り石打ちの刑にせよと言ったら、今や死刑執行件をユダヤ人からことごとく取り上げているローマへの反抗となる。だからといって石打ちの刑を否定すれば、律法を否定したことになる。

 イェースズはしゃがんだ。石畳の庭だったが、昨日までの祭りのために泥が積もって、指でなぞれば字が書ける。


「どうした。答えられないのか?」


 学者たちの嘲笑が頭上を飛んだが、それでもイェースズは一心に文字を地面の上に書いていた。


「早く答えろ! どうなんだ!」


 イェースズは立ち上がった。そして同時に、近くにあった石を拾った。女の表情が、一層恐怖に引きつった。


「お許し下さい。好き好んでそのようなことをやったわけではないのです。病気の母と幼い妹がいるんですけど、父が死んでから我が家のお金は全くなくなって、パンも買えないんです。こうでもしなければ……」


 女は涙で叫びながら、必死でイェースズにすがろうとした。それを再度学者は、二人がかりで押さえつけた。


「いいでしょう! 石打ちの刑にすれば」


 学者たちの顔が、一瞬ほくそ笑んだ。だが、次の瞬間、


「ただし!」


 と、力を込めてイェースズが言うので、学者たちは思わず身をすくめた。


「あなた方の中で罪のかけらもない人だけが、この女に石をお投げなさい」


「何だと。われわれを誰だと思っているんだ。おまえのような民間の素人に、そのようなこと言われる筋合いはない!」


「そうだ! 生まれてこのかた律法を叩きこまれて、律法の中で生きてきたんだ。律法に背いて、罪など犯すはずはないではないか」


「そうですか。じゃあ、これをご覧下さい」


 イェースズは微笑みながら、さっきまで地面に書いていた字を学者たちに見せた。のぞきこんだ学者たちの顔は、見るみる蒼ざめていった。そこには学者一人一人の名前と、これまで犯してきた罪状がすべて書かれてあった。しかも、心の中で思っただけで誰も知るはずもないことまでが、そこには記されていたのである。

 学者たちは一様に震えだし、何も言えずにいた。イェースズは石を捨てて、女の前にしゃがみこんだ。


「さっきまでの威勢のいい学者さんたちは、どこに行ってしまったんでしょうねえ」


 そう言ってイェースズは笑った。そして、女に言った。


「もう誰も、あなたをとがめる人はいないようですよ。もちろん、私も裁きはしません。立って、元気を出してお行きなさい。ただし、もう二度と罪を犯さないように」


 女は最初は這うようにしてその場から離れ、そしてよろめきながら立ち上がって一目散に駆けて行った。イェースズは、まだ震えている学者たちを見た。


「心の闇が照らされたのが、そんなに恐いですか? 私は世の光なんですよ。何でも照らしてしまいます」


 そう言ってイェースズは、また大声で笑った。学者の一人が、恐る恐る口を開いた。


「あんたはいったい誰なんだ」


 イェースズは相変わらず、微笑んでいた。


「さっきからずっと言ってるじゃないですか。神様のお声をお伝えさせて頂くものだって。私が伝える神のミチをそのまま実践したら、罪から解放されて自由になります」


「自由だって?」


 学者の中の一人が、やっと力を取り戻して言った。


「我われイスラエルの民はアブラハム以来、誰の奴隷にもなっていない。それなのに自由になれるとは、どういうことかね」


 これはうそで、実際には出エジプト前のエジプトでのことやバビロン捕囚もあり、現に今もローマの半植民地となっている。だが、それは問題にせずにイェースズは話を続けた。


「さらにさかのぼって、アダムは罪を犯しませんでしたか?」


「だがすでに、アブラハムがしたように、罪の身代わりの子羊の生贄いけにえを捧げた」


「それはいいですが、真剣に神様に詫びましたか? アブラハムの子孫なら、アブラハムに倣ったらどうですか? それなのに神理を告げる私を陥れようなんて」


 やがて、学者の一人が金切り声を上げた。


「こいつは頭がおかしい。危険な存在だ。いや、悪魔が憑いている」


「残念ながら、私はそんなのではありません。私は天の神様に、ただ波調を合わせているんですよ。自分は根となり踏みにじられようとも神様の御名をたたえ、弥栄いやさかを讃えていきます。そうすれば、永遠の命が得られるんです」


「やはり、こいつは気違いだ! 神様と波調を合わせれば死なない? モーセやアブラハムも、みんな死んでしまっているではないか。自分を何様だと思っているんだ!」


「皆さんが私をどう思おうと、それはあなた方の自由です。でも私は、神様に命ぜられたままに動いています。それも別の神様ではなくて、あの神殿に祭られている神様です」


「やはり、こいつは頭が変だ」


 学者たちは、イェースズの胸倉につかみかかろうとした。そこでイェースズは自分の肉体をエクトプラズマ化させ、次の瞬間には神殿の外にいた。

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