神殿の商人駆逐
日が没して安息日が終わるのを待ってからイェースズたちは宿を探し、下の町と呼ばれている神殿の南方に広がるあたりに宿を取った。第一城壁の内側ではあるが、その西側のヘロデ王宮や最高法院、貴族の邸宅が並ぶ上の町とは第二城壁で仕切られた庶民の町だった。
翌日は、イェースズと使徒たちで町の中を歩いた。とにかくスケールが大きい。箱形の家が所狭しとぎっしりと並び、道は石畳で、その上をまたぎっしりと人が行きかっている。
彼らはしっかりと固まって歩いた。道は迷路のように入り組んでいるので、はぐれたりしたら絶対にめぐり会えないような気にさえなる。そしてやたら建物の下がアーチ状の門になっていて、洞窟のようになっている狭い道が多い。
特に小ヤコブと小ユダにとっては、何から何まで珍しいようだった。道行く人々はすべてがユダヤ人だとは限らず、ローマの兵士、ギリシャの商人などもあふれている。
そんなイェースズを目ざとく信奉者が見つけてついてくるが、その数はエルサレムの全人口に比べればかけらにすぎなかった。多くのものは全く無関心にイェースズとすれ違って行く。
イェースズたちはその足で神殿参拝の手続きを取りに行き、その許可がおりたのは三日後だった。
神殿参拝の許可がおりると同時に、イェースズは使徒たちをつれて神殿へと向かった。
今度は神殿の南側の側面の、石の壁にある二重門から入った。入ってしばらくは地下道になり、階段を昇ると神殿の壁の上の異邦人の庭に出る。今日もおびただしい数の商人が、そこに店を出して庭を埋め尽くしていた。
「先生、生贄の動物は?」
「いらない」
いつになく険しい表情でイェースズが言うので、声をかけたイスカリオテのユダは思わず首をすくめてしまった。実際には動物だけでなく、ギリシャ貨幣をユダヤ貨幣に両替しないと神殿に奉納金として納めることはできないのでそのための両替屋も多数店を出していたが、イェースズは貨幣の両替を命じる気配さえなかった。
この庭からだと神殿は右側面を見せており、神殿に入るには右の方、つまり東を向いている神殿の正面に回らないといけない。やがて美門をくぐって女人の庭をぬけ、イェースズと使徒たちは多くの人ごみに混ざってニカノルの門をくぐり、男子の庭に入った。男子の庭の中、つまり神殿の巨大な四角い建物の前には祭司の庭があり、その中央には大きな生贄台も置かれている。
祭司の庭は低い柵で囲まれているだけなので、男子の庭からは中の様子がよく見える。だが一般参拝者はこの祭司の庭の柵の外で参拝することになっていた。
目を上げると、直方体の神殿がそびえていて、この中の一番奥が至聖所だ。
イェースズは感無量だった。初めてではないにしろ、少年時代に参拝して以来の民族の心の中心である神殿参拝だった。
だが、感無量ではあったが、イェースズの心にはどうしても晴れない部分があった。異邦人の庭は、完全に市場と化している。
イェースズは異邦人の庭よりも、二、三段高くなっている所に出た。この上は異邦人は上がることが許されておらず、その分だけ雑踏が少なくなっていた。
すると人ごみの中から、イェースズの信奉者たちが現れた。イェースズがこの神殿参拝をするという情報がもう流れたのか、高い所に立っているイェースズを見つけては、その周りに集まってきた。信奉者とはいっても心からイェースズを崇敬してきている人たちばかりではなく、物珍しさの物見遊山の人もかなりの数で混ざっていた。神殿のごく一部の一角で、イェースズは信奉者たちに囲まれた。彼らは皆、イェースズの言葉を待った。
「皆さん」
イェースズが口を開いた。
「私は今日はこの神殿の庭を、皆さんに神様の教えをお伝えする場として選んだのではありません」
人々の間で、ざわめきが起こった。だがイェースズが再び話し始めると、また人々は静まった。
「今日は皆さんではなくて、ここでご商売をしている方々に聞いて頂きたいんです」
イェースズは集まった群衆にだけ聞こえる声ではなく、わざと大きな声で叫んだ。だからイェースズを取り巻く群衆が多すぎて商売の手を休めていた商人たちも、自然とその言葉に胡散臭そうに耳を傾けていた。
「イザヤの書には、こう書いてあります。『私の神殿は、すべての民の祈りの家と呼ばれる』。いいですか。ここは神様の神殿、祈りの家で、いわば聖域です。ここでご商売をされるのはいかがなものでしょうか」
商人たちは、それを聞いてせせら笑った。そして、その中の一人、スズメを売っていた商人が大声で返した。
「俺たちに、立ち退けって言うんかい? 俺たちゃあ、ちゃんと許可をもらってここで商売やってるんだ」
「そうだ、そうだ! 祭司様のお墨付きだ。どこの馬の骨とも分かんないようなあんたに、そんなこと言われる筋合いはない!」
その時、イェースズの背後で咳払いがした。振り向くと先日の祭司が二人、イェースズをにらみつけて立っていた。
「どうも庭に人が集まって変な雰囲気だと思って来てみたら、またあんたか。いいかね。この人たちの言う通り、ここで燔祭の動物を売ったり、お金をユダヤ貨幣に両替することは律法でも認められているのだ」
「『あなたの神殿に対する情熱が、私を食い尽くした』と詩篇にも書いてありますね。ここでご商売されている方々は、言っちゃ悪いが正直ではない。うまく金額をごまかして暴利をむさぼっていますよ。たとえば、両替も金利がめちゃくちゃ、スズメは実際に売っても神殿では預かるだけで殺してなく、またここに戻されて何回も同じスズメがいろんな人に売られています。エレミアの書にもありましたね。『私の名がつくこの神殿は、盗賊の巣のように見える』」
「ちょっとそれは、言いすぎじゃないか」
ハト売りが商売をほったらかして、顔を赤くしたままイェースズのすぐそばまで走ってきた。
「俺たちゃまじめに、生活をかけて商いをしているんだ。それを強盗の巣だと?」
商人たちは何人かが段の上に昇ってイェースズを囲み、その胸座をつかんだ。今にも殴りかかりそうだ。十二使徒も駆け寄り、イェースズをかばうようにイェースズと商人たちの間に入ろうとしたが、商人の数はどんどん増えた。
黙っていないのがイェースズの信奉者の群衆たちだ。
「先生の言われる通りだ」
と、多勢で商人たちをイェースズから引き離した。ところがそれと同時に、段の下でも大きな音と悲鳴が聞こえ始めた。イェースズを救うべく段上に上がった群衆とは別の群衆が、商人たちの店を力任せになぎ倒し始めていた。
檻が倒れ、スズメやハトが一斉に空へと飛び出した。人々は壊れた店の柱の木を拾い、それを手に持って暴れていた。店は多くの群衆によって次から次へと壊され、もはやイェースズにつかみかかるどころではなくなった商人たちは、慌てて自分の店の方へと駆けて行った。
だが、ほとんどすべてといっていいくらいの店が、すでに壊されていた。羊が逃げて庭を走り回り、また多くの金貨が庭にばらまかれた。異邦人の庭は叫び声や動物の鳴き声、群衆が店を打ち壊す音が響き、店のほとんどが残骸となった。
「なんていうことをしてくれるんだ? 商売ができないじゃないか!?」
商人たちは途方に暮れてそう叫んでいたが、すべてが片付くとイェースズを信奉する群衆は再びイェースズを囲んだ。
「万歳! ダビデの子、万歳!」
祭司たちはもうあきれた顔で、それでもイェースズをにらみつけていた。だが今は使徒たちがイェースズを守っており、祭司は手を出せない。
「おまえはいったい何の権利があって、こういうことをするんだ!」
イェースズの目は穏やかさを取り戻し、静かな口調で言った。
「私が命じたわけではありませんけど。でも彼等はなイスラエルの民なら必ずすべきことをしたまでじゃないですか。神殿を命に換えてお守りするというのが、本当のイスラエルの民でしょう? 違いますか?」
そこへ別の祭司たちが多勢、騒ぎを聞きつけてやってきた。
「何の騒ぎだ!」
聞くまでもなく、すべて打ち壊されて瓦礫の山となった異邦人の庭の状況を見れば、嫌でも分かる。そして群衆はイェースズを取り囲み、
「ダビデの子、万歳」
と、歌い続けていた。そこには、多くの子供たちすら混ざっていた。イェースズは祭司を見た。
「お聞きですかかな。子供たちの声を。『われらの主よ。あなたの栄光は天の上にあり、乳飲み子と幼児の口によってほめたたえられています』。これも詩篇ですね」
「何だと! こいつ、自分を神だというのか。これ以上の神への冒涜があるか。これは石打ち刑ものだな」
イェースズは穏やかだった。目には笑みさえ含まれている。
「私はひとことも、自分が神だなんて言っていませんよ。もしそんなことを思う人がいたら本末転倒です。私が神様なのではなく、天の御父が神様なんです」
「これは神への冒涜というだけではない。これだけのことをしでかしてくれたんだから石打ちだけでは済まないぞ! 民衆を扇動して暴動を起こしたということは、ローマ当局への反逆でもある」
祭司たちは、うわずった声で当のイェースズはほったらかしで議論していた。その時、群衆がどっと一斉に段上に上がり、イェースズを取り囲んだ。そのどさくさに乗じてイェースズは人垣の中をうまく脱出し、使徒だけを連れて城外に出た。そしてこの日はベタニヤに戻り、しばらくゼベダイの屋敷に逗留させてもらうことにした。




