ベテスダの池
彼らはオリーブ山のふもとにある一軒の宿屋に泊まった。
翌日、彼らは今度は橋を渡らずに谷に降り、神殿の土台の壁の北側、神殿に向かって右の方(北)に延びる城壁にある羊の門からエルサレムに入った。第一城壁は神殿の右にも左にも延びていて、南である左側の城壁の内側が下の町、つまり庶民の町である。
エルサレムの城壁は二重になっており、第二城壁は神殿の向こう側、つまり西側にあって土地的にも高台であり、そこは貴族の邸宅が立ち並ぶ地域だ。神殿の向かって右の第一城壁の中、第二城壁との間はただ空間として遊んでいる土地で、時々建造物が点在している程度だった。
羊の門はそんな向かって右の、神殿の北側の城壁のうちいちばん神殿に近くで、生贄の羊を搬入するのでその名があるという。
城壁の内と外は風景も何ら変わらず、何のための城壁だかよく分からない。神殿の背後、アントニオ城の向こうには、第二城壁が横たわっている。
イェースズがこの門から今朝は入城することにした理由の一つは、この門から入った所は人気もなく、信奉者に取り囲まれることもないだろうということだった。ましてやこの日は安息日なので、さらに信奉者が集まることはないと思われた。
もう一つの理由として、エルサレムでの最初の仕事としてイェースズが選んだのは説法ではなく、まずは貧しい、病に苦しむ弱者を手始めとして救わせて頂くことだった。イェースズがそう考えたのではなく、朝一番に神に額づくと、今日一日の彼がなすべき行動は自ずと神がささやいてくれる。あとは真ス直に行じるだけだ。
エルサレムで弱者や貧者、病苦に苦しむ人が集まる所ということで、彼は使徒たちとともにわざわざこの場所を選んで訪れた。それは彼のエルサレムでの最初の業としてふさわしい場所だった。
第一城壁と第二城壁のほぼ中間の荒地の中に、ひと固まりの回廊がある。そこがイェースズの目指す場所だった。回廊は赤い屋根を支える柱が並ぶ柱廊で、全部で五つあった。その柱廊に囲まれた中は地中が深く掘り下げられており、その底に二つの小さな池が見えた。
地面よりはだいぶ深い所にある。四方が人口の石の壁に囲まれているので、どちらも四角い池だった。池のほとりには多くの人がひしめきあっていたが、誰もがみすぼらしい動きの鈍い人たちで、ほぼ全員が病人のようだった。この日は安息日だから、まともな人はここに来ているはずもない。
上からのぞいても、明らかに目が見えない人、足が不自由な人などの姿が見える。また、折りたたみのベッドに寝かされている人もかなりいた。
「これが、ベテスダの池だよ」
と、イェースズが使徒たちに言った。この池の場所は、すでにイェースズはベタニヤでゼベダイに聞いていたのだ。
マカベアの時代に造られたこの池は、イェースズの生まれた頃に大祭司シモンが改築し、すぐにあのヘロデ大王が五つの柱廊を建てた。この池の水が神殿に送られているが、本来は神殿で捧げられる生贄の動物を洗う場所だったともいう。だが今は、池のほとりにいるのは病者ばかりだ。
「ベテスダの池といえば」
ヤコブが、したり顔でうなずいた。おそらくその父のゼベダイから、何度となくこの池のことは聞いていたのだろう。
「時々天使が舞い降りて水を動かすので、その時いちばん最初に池に飛び込んだ人が病を癒されるということですよ」
そう言われて、イェースズはその池を霊視してみた。だがなんら天使といわれるような高級霊が降りてきそうな場所ではなかった。だいいち、病人たちの陰の気で満ちている。時折水が動くというのは、この池の底から水が定期的に噴出すからだろう。いわば間歇泉なのだ。
イェースズは石の階段を、使徒たちと共に池のほとりまで降りた。どこまでも人工の、モザイクのような壁に囲まれた四角い小さな池だ。
石造りの人工の岸辺には、上から見た時と同様に人々が多くいた。今は誰も池に入ってはいない。池の水はきれいだが、かなり深そうで底は見えなかった。こんな所に体が不自由な人が飛び込んだりしたら、かえって危ないのではないかとさえ感じられる。この深さでは、大人でも背が立ちそうもない。
その時、本当に水が動いた。底から泉が湧き出たのだろう、水中からもくもくと水が湧きあがった。
「天使だ!」
人々は歓声をあげて、我先にと池に飛び込んだ。残されたのは、イェースズの近くにいたベッドで寝たきりの初老の男だけだった。彼は飛び込もうにも、だいいちベッドから降りられそうもない。どうも足が不自由のようだ。
その男の魂に光るものをイェースズの霊眼は見たので、イェースズは頭の禿げたその男の方へと歩み寄った。イェースズと目が合うと、男は苦笑を漏らした。
「三十八年も、寝たきりですぜ」
問わず語りに、男の方からイェースズに話かけてきた。イェースズはベッドの脇に、身をかがめた。
「足がよくなりたいのでしょうね」
「そりゃあ、そうですとも。でも、水が動いても歩けるものが真っ先に池には入ってしまうし、私は誰かの手を借りないとベッドから降りられもしない。ここにいるのは自分が治りたい病人ばかりで、わしに手を貸してくれる人なんかおりませんでしてね。だから今も治らずじまいですよ」
「ここへは、どうやって?」
「毎日、息子が運んでくれるんですがね、ついでに水が動くまで待ってわしを放りこんでくれたらいいものを、わしをここに置いたらいつもさっさと帰っちまう。やっかいばらいにここにつれてくるんでしょうけど。あんたさんも、どこか病気なんですかね?」
「いいえ」
「おお、そんな人がここに来るなんて珍しい。何しに来なさったんで? あ、まあ、そんなことはどうでもいい。病気ってわけじゃないんなら、今度水が動いたらわしを池に放り込んで下さいませんかね」
「その必要はありませんよ」
イェースズがニッコリと笑ってそう言うので、男は怪訝な顔をした。
「必要ないって……?」
「みんなはここに天使が降りてくるなんて言ってるようですけど、真っ先に池に入った人だけを救う天使なんて、どこから遣わされた天使でしょうかね。神様が使わした天使なら、そんな変なえこひいきはしませんよ」
「じゃあ、えこひいきしない天使は、どこに降りるんですか」
イェースズは微笑んだままそれには答えず、黙って男の足に向けて手をかざし、霊流のパワーを放射していた。両脚のそけい部、もも内側のくぼみ、膝の裏の少し下、足首の順でパワーを浴びせかけていった。そして最後に男に目を閉じさせ、眉間から全身に向かって、そして主魂に向かってパワーを注いだ。
「さあ、ベッドをたたんでお行き下さい」
男は最初はきょとんとしていたが、あまりイェースズが熱く言うので恐々と地面に足をつけた。男の表情が「ん?」というように変わった。
「歩ける!」
男の大声で、池から上がってきた人々は、濡れた体のままイェースズを一斉に見た。
男は、
「神に感謝!」
と叫んで、イェースズにも何か言おうとしたが、人々があまりにも勢いよくイェースズの周りに殺到したため、イェースズに礼を言う機会も持てずに行ってしまった。イェースズはそこにいたすべての人々を、使徒たちと手分けして癒した。
時々使徒たちは、どう手をつけたらいいか分からずにイェースズに質問をしに来ることもあった。
「この人はぜんそくだからね、背中の二つの骨の内側をよくさぐってごらん。盛り上がっているはずだから、そこに手をかざして濁毒を溶かしてあげなさい」
「目が見えない人は後頭部と目頭。目頭は親指の先でね。ほかの四本の指は頬に当てるんだ。そうしないと、間違って親指が目を突いてしまったらたいへんだ。それと、あごの下の、骨がちょっとくぼんでいる所の内側と、首の下の骨の内側、それから乳のちょっと上」
「腹部の上の方が痛い? 痛いっていう所に手のひらをぴたっと当ててみて、熱があったらその裏と表。裏を心持ち長めにね。熱がないようだったら、ここここ」
イェースズは自分の眉間を示す。このようにしてイェースズは、てきぱきと使徒たちに指示した。解剖医学もない時代にイェースズの人体に関する知識は、まさしく驚愕ものだった。
こうして池のほとりに来ていた人々は次々に癒されていき、長年の病が全快した人も少なくなく、驚きと歓声で満ち溢れた。まさしく降る星のごとき奇跡の嵐だった。
「先生は、どこで医学を修めたのですか?」
と、トマスが突然変な質問をするほど、使徒たちとて驚きは隠せずにいた。イェースズは笑っていた。
「その驚きは、大切だよ。私が癒せば必ず癒されるに決まっているなんて感動も驚きもなくなっていたりしたら、それは神様に狎れてしまっていることだからね。癒すのは神様であって、私ではない。でもね、肉体的なことも分からずに、次元が高い霊的なことの指導はできないよ。病気治しではなくて無病化が目的だけど、あなた方もしっかりと体験を積んで、業積みをしてほしい」
すべての人が癒されて池から去り、イェースズたちはやっと解放された。そしてイェースズを使徒たちが囲む形で、柱廊の所まで上がってきた。もう昼も過ぎている。
「先生」
と、そこでペトロがイェースズをつかまえた。
「先生は、受けるものの信仰が七割とおっしゃいましたけど、何も知らない、つまり信仰心なんてない人々が次々に癒されて、奇跡が起こったのはなぜですか」
「信仰心がないなんて、決めつけるのはよくないね。あの人々はこの池に飛び込めさえすればと、必死ですがっていた。すがる心は信仰の中でも大事なことだよ。それと、やはり見せる奇跡というのもある。神様は、そのみ力と栄光を表すために、信仰心がないものにでもまずは救いの綱を投げてくださる。そういう場合の奇跡は神様からお借金をしたようなものだからね、奇跡のその後の信仰心が大事なんだ。そのことを人々に言うおと思ってたけそ、あまりたくさんの人が来たから言いそびれたよ」
ばつが悪そうにイェースズは笑った。
「そういえば最初の爺さん、本当にさっさと帰ってしまいましたね」
と、ヤコブが言った。
「でも、あれほどの奇跡を頂いたんだから、心あるものはこれから神殿に行ってお礼の祈りを捧げるでしょう」
エレアザルに言われてうなずいたイェースズは、
「神殿に行ってみよう」
と、言った。
アントニオ城を右に見て、北の門より神殿に北側から入ることになった。さすがに安息日だけあって、庭の出店は異邦人が経営するものがポツリ、ポツリとあるだけだった。
はたして、先ほどの初老の男はいた。そんな状況だから、すぐに見つかったのである。折りたたみベッドを小脇に抱え、きらびやかな服の三人のサドカイ派の祭司たちと話をしていた。そこに、イェースズは歩み寄った。
「あ、この方です」
男はイェースズを見ると、慌てて祭司たちにイェースズを示した。
「私を歩けるようにしてくださったのは。この方がベッドをたたんで歩けと言って下さったんです」
それを聞いた祭司たちは、眉をしかめてイェースズを見た。
「今日は安息日だ。その安息日にこの人はベッドを持ち歩いているからとがめたら、誰だか分からない人に足を癒されて、ベッドをたたんで歩けと言われたというのだが、その人があんたなのかね」
「確かに、私ですが」
「けしからん! 安息日にものを持ち運んだりしてはいけないことは、あんたも知っているだろう。それを、なぜそうしろと言った?」
「その前に、私もこの方を探していたんです。少し話をさせてくれませんか?」
すでにその周りを十二人の使徒が取り囲んでいたので、祭司たちも少したじろいで黙っていた。イェースズは足が癒された初老の男の前に立った。
「あなたは何かしらの因縁で中風になっていたのですけど、これからはそういった悪因縁は断ち切って、よい結果を得る因縁を積んだ方がよろしいかと思いますよ。奇跡が起こったと喜んでいるだけで、想念を入れ替えて神様に奉仕する心にならないと、今度は許されなくなりますから」
その男に祭司が何か言いかけたが、男は明るくイェースズに礼を言うと逃げるように立ち去ってしまった。ほんの先ほどまで両足とも動かずに、歩けないでいたものとは思えないような早さだった。残った祭司たちは、憤慨した顔でイェースズをにらみつけた。
「あの男の足を癒したとは、本当か」
「私ではなく、神様のみ力が、神様の栄光を表すために奇跡を起こして下さいました」
「でも、あんたが直接癒したのだろ? あの男もそう言っていた。安息日に他人の癒しなどしていいと思っているのかね」
「あのベテスダの池には、安息日でも多くの病人が押し寄せていますよ。もしその病人が癒されたら、あなたは水を動かした天使に向かって、安息日にしてはならないことをしたと言ってとがめるのですか?」
祭司の目はつりあがり、顔も赤くなりはじめていた。イェースズは穏やかな表情で、笑みさえ浮かべて話し続けた。
「それに、太陽に向かって安息日だから光を送るな、雲に向かって安息日だから雨を降らせるなって、そうおっしゃいますか? 天の御父である親神様が、安息日だからといって休まれますか?」
「ちょっと待て」
祭司は鋭く、イェースズの言葉を制した。
「最初の屁理屈は、まあ聞き流そう」
「屁理屈……ですか?」
「ああ。屁理屈だ。しかし、神は七日目に休まれたと『創世記』には書いてある」
イェースズは穏やかに笑った。
「宇宙一切を統一運営しておられる神様が一日でもそのみ働きを休まれたら、われわれ人類は生存できませんよ」
「それよりも、さっき神のことを『御父』とか言ったな。自分を神の子だとでも思っているのか」
「そうですよ。アビフさん」
イェースズは笑いながら、平然と言ってのけた。
「な、何?」
名乗った覚えはないのにいきなり自分の名前を言われたので、祭司は目を見開いたまま一瞬かたまった。イェースズはさらに話を続けた。
「その『創世記』では人類の祖はアダムということになっていますけど、まあ、仮にそうだとしてアダムには父親はいましたか? 天から降ってきたのですか? 地から湧いたのですか? 木の股から生まれたのですか? 違いますよね。モーシェははっきりと、アダムは神によって創られたって書いていますよ。つまり、親は神様です。アダムは神の子です。その子孫である我われが神の子ではないとしたら、いったい誰の子ですか? 猿の子だとでもおっしゃるのですか?」
アビフと呼ばれた祭司もほかの二人の祭司も返す言葉が見つからないようで、ただ顔に青筋を立てて黙ってイェースズをにらんでいた。
「真に言っておきますけど、私がしている業は神様がされているんです。もし私が神様から離れたら、この奇跡の業はもう使えなくなる。だから、すべて神様のみ意のまにまにしているんですよ。だから神様は天の御父で、私たちはその子供なんです」
アビフ以外の祭司がイェースズにつかみかかろうとしたので、イェースズはそれを手で制した。
「まあ、お聞きなさい。私が言った神の子という意味は、何も私だけが神の独り子だなんて言っているわけではありませんよ。すべての人類は、皆等しく神の子なんです。そう、あなたも神の子です。それからあなたも」
そう言ってイェースズは、祭司を一人ずつ指さしていった。
「みんな神の子なんですよ。だから誰でも神様のみ意にかなえば、神性化できます。神と人とは、本来一体なんですよ。父と子が一体であるようにね。そのことがはっきりと分かる天の時が、間もなく訪れるんです。時が来たらすべての人は墓の中、つまり無知と不信と罪の中で生活していた人々もみんな這い出して、今までの再生転生中の過程での罪穢を清算させられるんです。信賞必罰の世になるんです。その時には、人口は今の数十倍に膨れ上がっているでしょうね。なにしろ、過去の清算のために、魂が一斉にこの世に再生してきますから」
「いい加減にしろ!」
今まで黙っていた祭司の一人が、ついに怒鳴った。
「いったい誰に向かってものを言っているんだ! 素人の分際で! 我われは祭司なのだぞ! 再生転生だなんて、正統な神の教えからは離れた異端の考えではないか!」
イェースズは、それでも落ち着いていた。
「いいですか。風火水雷もみんな神様の使者です。すべては神様のみ手内にあるわけでして、人だってそうなんですよ。ましてや人は、地上の物質によって神の国をこの土に顕現させるために遣わされた神の子なんです。神様の地上代行者なんです。それが、人類なんです。ですから、あなた方のように神様に仕えることを本職とされている方々は、人類に仕えなきゃいけないんです。祭司でございってふんぞり返って神宝である人類を見下していては、神様に仕えていることにはなりません。等しく神の子である人類は、互いに拝み合わなければならないでしょう? それを、私を含めた人類を蔑んで、神様だけを崇敬することはできないはずです」
「黙れ、黙れ、黙れ! 何の根拠があって、何の権威があって、そんなたわごとを自信たっぷりに言うのだ!」
「すべて神様に教えられたことを、神様のみ意のまにまにお伝えさせて頂いているだけです。自分の意志や自分の考えなんて入っていません。私が根拠を示したところで、それが何になりますか? 私と使徒たちがしている奇跡の業、そしてそれによる救われの事実、その報告は山と積まれています。私や使徒たちの行く先々で、奇跡は降る星のごとく日常茶飯事に起こっています。これこそ神様からの直接の証言であり、あなた方に提示できる証拠です。そのことを謙虚に神様に下座して受け止め、ス直に受け入れたらどうですか?」
「この大ほら吹きのペテン師め! そんなのまやかしだ! 神への冒涜だ!」
「あなた方が神様からの証言を受け入れないということは、神様の教えを心にとめていないんじゃないですか?」
「おまえに言われる筋合いはない! 素人の分際で!」
「あなた方が私の業を認めないのは、あなた方が正統と思っている宗教的基盤と相容れないからでしょう。頑なに否定しようとするのも、祭司としての地位を守るためでしょう? 祭司たるもの、あんな田舎から出てきた男の奇跡の業を信じたとなれば、立場ないですものねえ。破門になって、失業もしかねないですからね。わかりますよ。あなたのお立場ならそう考えるのが自然です。ですから私はあなたがたを否定したりはしません。ただ、モーセはなんとおっしゃるでしょうか?」
「我われは、モーセの教えの通り、毎日それを生活の中で実践している」
「しかしですね、長い年月がたつうちに神様のご計画も進展していますし、また形骸化して停滞もするんです」
「ええい、黙れ! この異端の邪教! 我われには長い伝統と権威があるんだ。おまえなんか、石打ちの刑にしてやる」
イェースズはまだ何かを言おうと思っていたが、祭司たちは背を向けて行ってしまった。




