エルサレム入城
イェースズはゼベダイの家に、七日ほど滞在した。
そこへも群衆が、入れ替わり立ち代わり押し寄せてきた。ベタニヤの人々だけでなく遠くエフライムあたりからも来ているようだったが、やはりエルサレムからの人々が多いようだ。
そんな人々は、イェースズに早くエルサレムに上ってくれと懇願していた。ガリラヤの田舎の片隅で教えを広めていたイェースズの名声は、すでに都にまで広がっているらしい。
イェースズは町外れの荒野の入り口の岩の上で、よく人々に話した。高い所で話せば、それだけ遠くへ声が通る。そして話の後では両手の手の平から一斉に霊流を人々にかかぶらせ、その魂を浄めていく。
そんな説法を終えてイェースズがゼベダイの家に戻ると、最初の日に来ていたゼベダイの末娘のルツが、また来ていた。しかも今日は、目にいっぱい涙を浮かべている。そしてイェースズの姿を見るなり、大声で泣き出してすがりついてきた。
「何かありましたか?」
その隣では、ゼベダイが困惑しきった顔で立っていた。ルツは泣きはらした目でイェースズの顔を見あげ、
「夫が……」
と涙声で話しはじめた。イェースズはすでにすべての事情が分かっていたが、あえて優しくその話を聞いてあげようとした。だが、ルツはそのまま絶句してまた泣きはじめ、仕方なくゼベダイが代弁して話しはじめた。
それによると、ルツの夫のアシャー・ベンは実は熱心なパリサイ人の律法学者で、当然のことながらこれまでもイェースズやその教えを軽蔑し、また警戒心をも抱いていた。
ところがその当のイェースズがいきなりこのベタニヤに現れ、しかも自分の妻の実家に客として迎え入れられたと聞いて仰天したアシャー・ベンは、ルツに実家とイェースズの関係を厳しく問いただした。そして、妻の父が実はイェースズの経済的支援者でありその兄二人がイェースズの使徒だということも初めて聞かされ、怒髪天を突いたのだということだった。
しきりに「騙された」と憤慨する夫にルツもつい感情的になって口論となり、とうとう家から追い出されたのだという。
「私……」
ゼベダイの話に続いて、ようやくルツがまた口を開いた。
「イェースズ師こそが救世主だってそう言ったら夫はひどく怒って私を責めて、あなた様のことをもののしって……。だから私は『何を信じるかは人それぞれの自由でしょ』なんて言ってしまって、そうしたら『俺をとるかイェースズをとるか、どっちか選べ』って……」
「それで飛び出してきたんですね」
イェースズはいたわるように、優しく微笑んで見せた。
「先生、私、これからどうしたらいいんですか?」
イェースズは優しいまなざしのまま、ゆっくりとサトすようにルツに言った。
「ご主人はまじめな方なんですね。本等に熱心な方なんだと思いますよ。だから私のことを異教徒とか変な新興宗教の邪教の教祖だとか感じるんでしょう。そんな邪教にかかわっているあなたが、許せなかったのでしょうね」
「でも……」
「いいですか? 決して裁いてはいけませんよ。ご主人は悪い人じゃあない。ただ、無知なだけです。無知とは恐いものです。ご主人と対立の想念を持つとかは厳禁です」
ルツはゆっくりうなずいた。
「長い目で見るんです。それに、あなた自身が責められるようなことはなかったですか?」
ルツは小首を傾げていた。イェースズはさらに話を進めた。
「あなたはいきなりパーッと、私の教えをご主人に押し付けませんでしたか? ご主人を説き伏せようという想念だったんじゃないですか?」
ばつが悪そうに、ルツはうなだれた。
「神様の教えは、議論するべきものじゃあないですよ。ご主人に納得して頂くには、相当年月がかかると覚悟してくださいね。今はご主人の魂が曇っているから、いやご主人だけではなくて、すべての全人類がそうなのです。魂が曇っているんです。だから神の光も神の教えも入ってこない。でもいつかは必ず分かる時が来ます。すべての人類は神の子ですからね」
イェースズはルツの目を、優しく見つめた。
「いいですか、秘策を授けましょう」
ルツはゆっくりうなずいた。
「人類はみな、神様に逆らってきたという罪を共通で背負っているんです。だから、家族の中に逆らう人が出る。そして何より、遠い過去世でご主人を神様のミチから引き離した張本人が、あなたなのかもしれません。だから今、その逆のお役を頂くんですよ。そういう場合はですね、御主人に徹底下座し、とにかく逆らわないこと。あなたの方が、ご主人に対して負債を背負っているんです。ご主人をお救いさせて頂きたいと思ったら、何でもス直に『はい』『はい』と聞いてあげるんです。愛と真で仕えるんです。これが行だと思ってください。私の教えはしばらくおいておいて、ご主人に徹底的に下座をする。そして何よりもまず、自分がすっかり変わってみせることです。『おや? こいつ、この頃変わったな? その秘密は何だろう』と、放っといてもご主人の方から求めてきますよ。ご主人とて、その本質は神の子ですからね。でも、いくら口で立派なことを言っても言葉と行いがちぐはぐでは、ご主人の心を溶かすのは難しいでしょう。まず、自分が熱くなることです。熱く燃えるんです。熱さはすべてを溶かします。こんな素晴らしい神様の教えを頂いておきながら、自らの至らなさのために相手に分かってもらえないとしたら、神様に対しても申し訳ないじゃないですか」
ルツはまた涙を流したが声を上げて泣くことはなく、黙ってうなずいた。イェースズはルツから目を離し、周りの使徒たちを見渡して言った。
「明日から七日間、全員でルツの家に行くんだ」
「とんでもない」
と、ルツは訴えた。
「夫は決して会いませんよ」
イェースズはまた優しい笑みをルツに向けた。
「いえ、あなたのご主人に会いに行くわけじゃありませんよ」
そして、使徒たちに言った。
「この方の家の周りで、あなた方の手で、火の洗礼を施すんだ」
「家にですか?」
と、トマスが怪訝な顔をして声をあげた。
「どうやればいいんですか?」
と、温厚なアンドレさえ、質問をぶつけてきた。
「空中に手のひらからのパワーを放射するんだ。でも、空中といっても、本当はその家の霊界なんだよ。曇ったら拭く、これが神様の大愛の仕組みだね」
それからまた使徒たち全員に向かって、
「交代でいい、七日間はルツの家の周りで手をかざして祝福しなさい。この世と霊界は表裏一体なんだから、霊界を浄めることが大事だ。そしてこれがこの町での最後の大仕事。それが終わったら、いよいよエルサレムだ」
「おおっ」
使徒たちから歓声が上がった。それとは関係なしに、ルツは、
「ありがとうございます」
と礼を言い、それから本来の明るさを取り戻した。
一週間がたった。いよいよ明日エルサレムに入るということをイェースズが使徒たちに告げると、誰もが歓声をあげた。本当ならガリラヤからほんの五日で着けるはずの距離なのに、思えば長い旅になってしまった。
夏のさなかにガリラヤを出発したのに、もうすっかり秋だ。そのたびの終点に、今彼らはさしかかろうとしていた。
神殿を戴くイスラエルの民の心の中心、その聖都――平安の都に至る前夜、使徒たちはいつまでも杯を重ねていた。
その時ゼベダイが、イェースズをそっと別室に呼んだ。
「明日は、ロバに乗ってお行きなさい」
と、ゼベダイはイェースズに言った。イェースズはすぐにゼベダイの内心を読み取った。その心の中には、『ゼカリアの預言』があった。
救世主がエルサレムに現れる時は、ロバに乗ってくるとそこには記載されている。
イェースズは笑った。
「そうですね。私は人々に奉仕するためにエルサレムに入りますから、馬ではなく下座の心でロバにしましょうか」
「いえ、そういうことではなくて」
ゼベダイの本心を知っているイェースズは、その言葉の先を手で制し、
「では、ロバをお借りできますか?」
と言った。ゼベダイは、ゼカリアの預言を実現させようとしているのである。
「私の友人がオリーブ山の麓でロバを持っていますから、手紙を書いておきましょう」
「しかし、真の救世主はミズラホの国から白馬に乗って入城するんですよ。本当は」
ミズラホとは「東の国」という意味だ。そして、かの霊の元つ国は別名をトヨアシパラ・ミドゥホの国といった。
「そうですか。残念ながら私は、白馬は持っていない。それよりも、やはり救世主はスザの門から入らねば」
スザの門とは神殿の東側にあって、いきなり城外から神殿の正面に入ることのできる門だが、この門は開かずの門で誰もそこを通れない。だが伝説では。救世主はこの門からエルサレムに入ることになっている。
イェースズはいつしか真顔になった。
「スザの門とは、スザを迎える門ですね。スザとは、天の時が至れば東の国に建てられる黄金神殿のことなんですよ。光は東方より来るものです」
イェースズはそれだけいうと高らかに笑った。
翌朝、ゆっくりと朝食をとって、昼も過ぎてから、イェースズたち一行は出発した。午後になってから出ても、夕方よりはるか前にエルサレムには着く。
ベタニヤからだと東から、神殿が見えるころにはそれを左手に見てオリーブ山の上を北上し、神殿の北東辺りでUターンする形でケテロン谷に降り、オリーブ山から谷を越えて神殿に直接至るアーチ橋をくぐって神殿の東側面の下を南下して市街地に入る。
その時神殿の東南角の下を通るが、谷から見上げると外壁の角が一段と高く見えるので、神殿の頂とも呼ばれている。それを見上げながら、反逆者アブサロムの墓に石を投げていく人も多い。
だがイェースズがもし本当にスザの門から入るつもりなら、そこは通らないことになる。
ベタニヤからエルサレムへ向かう街道は、イェースズがいよいよエルサレムに入るということを聞いた信奉者たちが押し寄せ、それがぞろぞろとついてきてたいへんな騒ぎとなっていた。
やがて一行は、ベテパゲという、オリーブ山の南東にある町にさしかかった。オリーブ山は山とはいっても実際は小高い丘で、斜面の麓あたりにはぽつんぽつんと緑もあり、それらは山の名の通りオリーブの木か、あるいは背の低いイチジクの木だった。
イェースズはそんな町の中を歩きながら、ピリポとナタナエルを近くに呼んだ。
「あの向かい側の村に行けばロバが木につながれてるから、それをつれてきてくれ」
「え、でもそんな、勝手につれてきていいんですか? 持ち主に怒られませんか?」
ナタナエルが、心配そうに首をかしげた。イェースズは笑った。
「私の名前を出せば、大丈夫だ」
そう言って二人を行かせて、ほかの使徒たちとともに休息がてらイェースズが待っていると、二人はほどなくロバをつれてきた。
「いやあ、びっくりしました」
と、ロバの手綱をイェースズに渡しながらナタナエルが言った。
「本当にロバが木につながれていましたよ。それで紐をほどいていたらやはり持ち主が来て怒ってましたけど、言われた通りに先生のお名前を言うと、はい、はい、はいって感じでうなずいて、快くロバを渡してくれたんです」
ピリポも、
「全く先生は、何もかもご存じだ」
と感心していた。
「でも、このロバ、どうするんですか?」
ピリポに聞かれて、イェースズは微笑んだ。
「乗って行くんだよ」
何かに気づいたように、ピリポは感嘆の声とともに手を打った。
ロバに乗ったイェースズを使徒たちや群衆が囲むようにしてオリーブ山を旋回すると、目の前にパッとエルサレムの全容が展開した。
横たわる城壁の向こうに、建物がひしめきあって果てしなく続いている。そしてやや右に巨大な石の四角い神殿が居座り、その右側にはアントニア城の四つの塔がそびえているのが見えた。
これが都なのだと、イェースズはロバの上で息をのんだ。あまりにも巨大である。こんな巨大な都市は東への旅でも、シムのティァンアンくらいだった。
イェースズにとってエルサレムは初めてではないが、少年期の記憶は彼の中で薄く、この町にそのかけらをも拾うことはできなかった。ただ、巨大ではあっても、ほんのわずかかすかに残っている少年時代に感じた印象の中のエルサレムの巨大さに比べれば、ひと回り小さいようにも感じられた。
オリーブ山と神殿との間は谷となっていて、その谷の上を神殿の東側中央のスザの門まで石造りのアーチ上の橋がかかっていた。本来はスザの門は開かずの門だから、普段はこの橋を渡る人は全くいないはずである。人々は普通はここを素通りして、橋のずっと先の北側より谷に降りて、向かって左手、神殿の南にある城壁の門から市街地に入る。
だがイェースズはロバに乗ったまま、その橋を渡り始めた。それは、イェースズの意志ではなかった。イェースズはもともと普通に橋の渡口を通過して、ずっと北の方で谷の方へ下りるつもりだったのである。
だが、何ものかの大いなる意志によって、それが当然であるかのようにイェースズは橋の上へと進んでいた。自然と、群衆もそのままついてくる。そして人々は自分の上着を脱いでイェースズがこれから歩く道に敷き詰め、さらにはナツメヤシの枝をそれぞれ手にとった。間もなく仮庵祭の頃で、その時にはナツメヤシの葉で皆誰もが小屋を造るので、この時期の都には大量のナツメヤシの葉が届けられていたのである。人々はナツメヤシの葉を手に、大声で歌い始めた。
「聖なる、聖なる、聖なる神。すべてを治める神なる主」
それは、『イザヤの書』の一節だった。群衆は橋の上の道の左右に別れ、その間を使徒たちに囲まれてロバに乗ったイェースズはゆっくりと神殿の方へ向かって行った。
「主の栄光は天地に満つ。天には神にホザンナ!」
ホザンナ《誉賛名》とは、救いを求める言葉である。歌声は高らかに、よく晴れた空に響いた。
「主の名によって来られる方に賛美。天には神にホザンナ!」
人々の「ホザンナ」と叫ぶ歓声の中、スザの門の前までイェースズはたどり着いた。その門の上には、十六光条日輪紋がしっかりと刻まれていた。
それは紛れもなく、あの霊の元つ国のスメラミコトの象徴だった。イェースズは思わず目を細めた。
橋の終点は神殿の土台の側面の石の壁で、スザの門はその壁に設けられている。壁の上には左右に長く、ソロモンの回廊が横たわっていた。下から見上げても、何本もの柱が左右に延々と続く。
その時、門の前にいたパリサイ派の学者たちが数人、イェースズの前に立ちはだかり、イェースズに向かって叫んだ。
「あなた方は何ですか! こんなに人々を引き連れて大騒ぎして。しかもスザの門から入ろうなんて! スザの門は開かずの門だ。それに神殿参拝には、ちゃんと手続きがあるでしょう!」
イェースズはロバをとめ、慈愛に満ちた目でその学者を見つめて黙っていた。
「しかも、ロバなんかに乗って!」
その学者がイェースズに詰問している間も、人々の歓声と歌声はやむことはなかった。
「いいかげんにしなさい! 非常識じゃないですか。エルサレムの住民たちはいい迷惑だ。早く静かにさせなさい」
しかし、いくら橋の上を埋め尽くす群衆とはいえ、エルサレムに住む全員の人口に比べたらごく一部の人たちだ。
つまり、この時点でのエルサレムの人々のほとんどは全くイェースズのエルサレム入城を知るよしもなく、それぞれがそれぞれのいつもと変わりない日常生活を送っていた。
「とにかく、この人々を黙らせなさい!」
学者が叫ぶ。イェースズはようやく顔を上げた。
「この人たちをあなた方が黙らせたら……」
イェースズは一息ついた。
「石が号びますよ。メシア降臨の世、天国は近づいたのです」
「石が号ぶ?」
「石つぶてが飛んでくるということですよ」
「なんだと!? 我われを脅迫する気か!」
真っ赤な顔で震える学者たちをよそにイェースズのロバが門の前に立つと、長いこと開いたこともなく固められていたはずの門の石の扉が急に開いた。
イェースズと使徒たちは、そのまま聖なる都の聖なる神殿の中にいきなり入ったことになる。いきなり人々の雑踏の中に放り込まれたわけだが、さっきまで自分を取り巻いていた群衆とは全く違う人々ばかりで誰もがイェースズに気づかず、無関心に使徒の何人かと肩をぶつけて通り過ぎていった。誰もがイェースズに見向きもしない。
やはり、都は巨大だった。この雑踏の中では、信奉者の歓声も歌声も、ほとんどちっぽけなものだったといっていい。
イェースズが驚いたのは、神殿の南の庭はソロモンの廻廊近くまで出店がひしめき合っていたことだった。まるでバザールである。
ここは異邦人の庭といって、誰でも来ることができる。それにしてもいけにえの小動物を売る店、両替商、果てはおみやげ物屋まであって、足の踏み場もないくらいだ。それは、神聖な場所に、およそふさわしくない雑踏だった。
それを見てイェースズは、義憤を禁じ得なかった。そして少年時にここに来た時も、同じことに憤慨したことをイェースズはようやくおぼろげながらにも思い出していた。
この日、イェースズたちは参拝手続きをしていなかったので参拝することはできず、しかも間もなく日も暮れようとしていた。日が暮れたら安息日が始まってしまう。そこでとりあえず北側の門から神殿の外に出てエルサレムの市街地へと入った。




