エリコのザアカイ
ユダヤに入ると道は丘陵地帯から再び広々とした平らな高原を進むようになった。遠くは低い山が横たわり、時々道の近くにも椀を伏せたような丘が出現する。牧草地にところにある背の低い木々という風景は、ガリラヤとあまり変わらなかった。
だが進むにつれて心なしか大地に岩が多くなってきたような気がした。その五十里岩は、緑の草の間から阿智こと委で顔をのぞかせている。
ここはすでにヘロデ・アンティパス領ではないが、その代わりにローマの属州であり、ローマが派遣する知事のポンティウス・ピラトゥスが治めている。そのピラトゥスがまた、先代のヘロデ大王やその子でかつてこの地域を治めていたヘロデ・アルケラオスに輪をかけての暴君だという。
だがその暴君もヘロデ・アルケラオスは私利私欲のためだが、ピラトゥスの場合はローマの出先機関、つまりローマの一部としての暴君なのだ。普段は海辺のカイザリヤに駐在しているので、エルサレムにはいない。だがそのカイザリヤもそう遠くはない。ちょっと道を外れて東へ行けばカイザリアなのだという。
やがて遠くの山が高度を増し、道自体も起伏が激しくなった。道の周りの丘もその数が多い。それと比例して、だんだんと緑の草原の間に顔をのぞかせていた岩がどんどん多くなり、しまいには岩場の間に草が生えているという感じに光景が逆転した。
もう夕暮れ近かったので、イェースズはまず泊まる所を探したが町などなく、仕方なく野宿だった。
翌日、朝出発してしばらく行った当たりで、道は左つまり東の方へと分岐点があった。イェースズの中でひらめきがあった。
「こちらの道を行くよ」
「え?」
エルサレムの道をよく知っているトマスが、声を上げた。
「まっすぐ行った方がエルサレムへの最短距離ですよ。ここを東へ行ってもエルサレムには行かれますけれど遠回りで、しかもこっちは砂漠の中を通っていかないといけません。まっすぐ行けば荒野の中を進むことにはなりますけれど砂漠を通ることはなく、しかも今日中にエルサレムに着けますけれど」
イェースズはにっこり笑った。
「忠告、ありがとう。でもね、その時のひらめきというのが神様の声だったりするんだよ。それに素直になることが大事だね」
トマスはそう言われては、師に従うしかなかった。ほかの使徒も、異論をはさむ者はいなかった。
やがてかなり東へ行ってから、道は南へと大きく旋回した。確かに緑がどんどん少なくなって。岩が多くなる。だがまだ砂漠というほどでもなく、岩場の続く荒野に背の低い木はあちこちに生えている。岩の間には草もあった。
こうなるともう耕作は無理で、牧草もなく、本当に荒野の中の道という感じになった。
遠かった周りの山も迫ってきて、道自体がその山を越える峠道に何度も差し掛かった。見晴らしはいいけれど、見えるのは岩場ばかりだ。
その道も再び平坦になってくると、すでに傾きかけている西日に照らされて、前方の不毛の地の中にうっすらと緑が横たわっているのが見えてきた。
イェースズは既視感を覚えた。来たことがあると思った。
「エリコですよ」
と、トマスは言った。
かつてモーセに率いられた出エジプトのユダヤ人たちが、ヨシュアとともに最初に攻めた町がこのエリコだった。ラッパの音で崩れたという伝説の高い城壁は今はない。実際、出エジプトの時のエリコと今イェースズたちが足を踏み入れようとしているエリコは、場所的に位置が少し違っている。
そしてイェースズにとっては紛れもなく見覚えのある岩山が、道の右側に見えてきた。
あの、初めてヨハネの教団に合流したときにヨハネの命で四十日間断食をして籠り、悪魔の誘惑を受けたあの洞窟のある岩山だ。
イェースズは胸が熱くなった。思えば東の国より帰還して、このイスラエルの地で彼が福音宣教を開始する前の、いわば原点ともなった場所だ。
「おお、ここか!」
ペトロもアンドレも、そしてヤコブも、かつてヨハネ教団に属していた人たちにとっても思い出の場所なのだ。
あの分岐点でのひらめきはエリコに招かれていたのだなと、イェースズは悟った。
そんな懐かしい岩山のふもとを通ってその南側に位置するエリコの町に、イェースズたち一行は入った。
聞くと、聖書に出てくるエリコの町はここより北に一時間ほど歩いたところで、あの岩山からは真東になるという。その町はかなり昔に異民族によって焼き滅ぼされて、今は廃墟を残すのみということだ。
イェースズが岩山の南のこの時代のエリコの町に入ると、すぐに町の一部の人々の間で大騒ぎになった。
うわさがサマリヤからユダヤに流れるはずはないから、イェースズがガリラヤを後に旅に出たという情報がデカポリスの方へ流れ、そしてこの町にも来たらしい。
さらにここはかつてヨハネ師が洗礼を授けていたヨルダン川の拠点よりも近い。ヨハネ師より洗礼を受け、その話を聞きに行っていた人たちも多いはずだ。イェースズがヨハネと合流した後によくヨハネの代理でイェースズも人々に話をしていたことがあったので、イェースズの話を聞いたことのある人も多いはずだ。そういった人々も、もう一度イェースズの話を聞きたいと騒いでいるのかもしれない。
もう夕暮れ近かったので、イェースズはまず泊まる所を探した。ところが人々はイェースズたちを取り囲んで、どんどんついてくる。その中には、ガリラヤで解散したはずの弟子たちの中に見た顔もいた。
「ダビデ王の子孫!」
群衆の中で、小さな叫び声が上がった。しかしすぐにそれは取り囲む人々のざわめきに消された。
「ダビデ王の子孫」
また、聞こえた。
ペトロはすぐその声の方へと、人をかき分けて走っていった。ダビデ王の子孫とは、救世主の代名詞だ。聖書には、メシアはダビデ王の子孫から出ると書いてある。
ペトロに連れてこられたのは、盲人だった。それまで着ていた服すら脱ぎ捨てて上半身裸になり、その初老の男はイェースズのそばに手さぐりで進んだ。
「なぜ私をダビデの子孫などと言うのですか?」
イェースズはその盲人にそう尋ねた。
「みんなの足音がいつもより激しいので何事かと尋ねてみたら、ガリラヤのイェースズ師が来られたといいますから、ここまで来たんです。あなたこそダビデ王の子孫としてお生まれになった方だと私は思っているのです」
「あなたは何がお望みですか?」
「目を治して下さい」
「治りますとは私には言えませんが、神様にお願いしてみましょう。治るかどうかは、神様のみ意です。私には断言できません。あなたも強く神様に念じてくださいね。お名前は?」
「バルテマイと申します」
イェースズはしばらく「神様」に念じた後、バルテマイと名乗った盲人の前にかがんで親指を目から少し離して当てた。指からもイェースズの霊流は放射され、しばらくそうした後、今度は背後に回って後頭部に手をかざして霊流を目に向けて貫いた。
「あっ!」
バルテマイは、鋭い大声を上げた。その声は、周りの人々のざわめきをぴたっと止めるのに十分だった。
「見える! 見えるぞ!」
ついさっきまで盲人だったバルテマイは立ち上がって踊りまわり、涙を流しながら再びイェースズの前にひざまずいた。
「ありがとうございます! ご恩は忘れません」
「私が治したんじゃないんですよ」
イェースズはニッコリと微笑んだ。
「あなたの信仰が、あなたを救ったんです。あなたの信仰の厚さが、救いとなったんです。この業は施す方の想念は三分で、受ける方の想念が七分なんです。さあ立って、私についてきなさい。これから私が伝えさせて頂く神様のみ教えをよく聞いて、日々の生活の中でそれを実践して、今度はあなたが寄り多くの人を救っていくんです。そうやって神様の御用にお使い頂くことが、何よりのご恩返しですよ」
イェースズはバルテマイの肩に優しく手を置き、また歩き出した。
群衆に囲まれながらもそのまま町はずれの東の方へしばらく行くと、大きなイチジク桑の木があった。幹はずんぐりしているが広く枝を張って、そうとう大きな木だった。
その木に登ってこっちをうかがっている男がいることに、イェースズは気がついた。服装を見ると高価な綾がふんだんに使われた服を着ており、そういった身なりのよさから、その若くて小柄な男は明らかに収税人だとすぐに分かった。
その想念をイェースズは、素早く読み取った。親譲りの収税人という職に就いたがそれゆえに人々に嫌われ、、友もなく寂しい思いをしている孤独な男のようだった。
だがその魂は透き通り、輝いてさえいるのがイェースズの霊眼に写った。そこでイェースズは立ち止まり、イチジク桑の木を見あげた。
「何をなさっているんですか?」
「あ、あのう」
木の上の若い男は、慌ててとっさに答えられなかった。
「どうしてそんな木の上にいるんです?」
「いえ、あの、町じゅう大騒ぎしてるもんですから。何でも不思議な力で病気を癒す方が来られたって聞いたのでひとつこの目で見てみたい、あ、いや、お顔を拝したいと」
「それでしたら、人々といっしょに私のそばに来られればいいではないですか」
しばらくは木の上と下でのやりとりだった。
「私はみんなから嫌われてましてね。それに、見ての通り背も小さいから、町の人々の後ろからでは見えないもので」
イェースズはすでにこの男の、内心の変化を見ていた。収税人として、人々からまき上げた金で生活してきた彼は、それで正しいと思っていた。どんな手段にせよ金をもうけたものがこの世での勝利者だと思っていた。
だが、今やイェースズの姿とそのアウルから発せられる霊光によって、その魂は本来の輝きを取り戻していた。主である魂が変われば従である心もそれに伴って変わっていく。その変わり目に、この若者はいる。
「下りてきませんか。ザアカイ。今夜あなたの家でお世話になりたいのですがね」
「え?」
しばらく体が固まった男は、言葉も発せられずにいた。まだ名乗った覚えもないのに、自分の名前をいきなり呼ばれたのである。
イェースズの方もまた、誰からもこの男の名は聞いていなかった。だが、相手の想念を読めば、その名前くらいすぐに分かる。
「あのう、あいつをご存じなんですか?」
群衆の中の細身の年配の男が、イェースズの前に躍り出て言った。
「ありゃ収税人ですよ。罪びとだ。そんなやつの家にお泊まりになるんですか?」
血相を変えて言うその初老の男の前に、咳払いをしてマタイが立った。そして木の上のザアカイに向かって言った。
「先生の言われる通りに、降りてきなさい」
「でも、私は確かに罪びとだ。多くの人から金をまき上げてきた。それで贅沢な暮らしをしてきたんだ。中には貧乏で明日の、明日のパンすら買えないからと泣いてすがる婆さんを蹴飛ばして、税だと称して金を取った。本当の税なんて、取った額の半分でしかなかったんだ。私は、私は……」
ザアカイは涙混じりに、叫び声を上げていた。それを聞いて、先ほどの年配の男が鼻で笑った。
「ふん、今さら何を言っても始まらんわい」
マタイはさらに木の根元に近づいた。
「私もあなたと同じ、かつては収税人だったんです。でも今は、先生の使徒にして頂いてますよ」
それを聞いて、ザアカイの眉が動いた。そしてゆっくりと木から降りてきて、イェースズとマタイの前にかがんだ。イェースズはその肩に、優しく手を置いた。
「あなたは今、過去の罪穢を詫びる心はありますか?」
「はい。あります。でも、どうやってお詫びをすればいいか」
「あなたの苦しみは、よく分かります」
イェースズは、優しい口調だった。
「その詫びる心が何よりです。あとは、あなたの罪をお許しくださった方に、どうお報いしていくかにかかっていますよ」
ザアカイは、驚いたように目を上げた。
「お許しくださった方って、あの、私の罪は、許されたのですか?」
「お詫びの証を立てるのです。あなたは何をさせて頂きますか?」
「はい、全財産を貧しい人に施します。不正にまき上げたお金は返します」
「今、あなたの家に救いが訪れました。その想念転換と自捨新生の心こそが救いです。あなたの祖先はきっと善行を積んだのでしょう、そのお蔭であなたの家には財がある。でも、財は罪に通じるんですね。金持ちであるってことは、祖先の善行の果ですから、別に悪いことではありません。しかし財をなしたということは、あなた自身が自覚している通り、罪穢も積んできましたね。多くの方を苦しめてきましたね。そんな汚れた財産は、なくした方がいいですね」
「先生の言われる通りです」
と、マタイが口をはさんだ。
「収税人っていうのはローマからの報酬は雀の涙だから、人々からまき上げるしかありませんよね。その状況は、私は痛いほどよく分かっている。でも、人々を苦しめた罪穢は罪穢で魂が曇っていますから、そういった因縁を一度清算しないと、魂の曇りは取れませんよ」
イェースズもうなずいた。
「罪穢を積んだままだと、いつかは神様のお洗濯が来ます。神様はすべての人類は等しく神の子だから、すべての人類を愛しておられます。その愛する神の子の魂が曇っていたら、神様はきれいにしてあげようとお洗濯をしてくれます。ところが、神の愛のゆえのお洗濯なのに、人々はそれを『不幸な現象』と呼ぶんです。それがアガナヒです。でも、自分で人々を救って歩き、神様の光とミチを伝え、神様に奉仕の精神を持っていけばそれが積極的アガナヒとなって、神様からのアガナヒは受けずに済むというのが実相なんですね。自分の罪を自覚し、そういった積極的なアガナヒの行によって罪は消えます。あなたは許されるのですよ」
イェースズはさっき血相を変えた年配の男を見て、それからそこに集まって自分を囲み、事の成り行きを見ていた群衆にも言った。
「このザアカイを罪びとだと貶めるのは簡単です。でも、どんな罪びとでも罪を自覚し、詫び、人救いに励めば罪は消えます。今日私がこの方の家に泊めて頂くのも、すべて神様からのご指示であるんです」
イェースズはザアカイを立たせ、その家に自分と使徒たちを案内してくれるように頼んだ。
エリコに数週間滞在した後、イェースズ一行はいよいよエルサレムに向かうために、砂漠を越えねばならなかった。今回の旅で、いちばん過酷な道といえる。
猛暑の季節は過ぎているとはいえ、まだ日中は汗が吹き出る暑さだ。そんな中を砂ぼこりと戦いながら、一面の砂漠を行く。道は決して平坦ではなく、椀を伏せたような起伏がまるで海の大波のように重なるその谷あいを縫って道はくねりながら続く。
時には深い渓谷の淵になったり、目の前には巨大な岩だけの山が立ちふさがったりで、恐ろしいほど見通しが悪い。いつどこに盗賊が隠れていて、突然躍り出てきたとしても分からないくらいだ。
幸い人通りはけっこう激しいので、こういう時は盗賊はなりを潜めているだろう。それでもこの砂漠は盗賊団の格好の隠れ場所ともなっているから、油断はできない。
ごくわずかな緑が思い出したようにあるだけで、あとは恐ろしいほどに不毛のちであり、視界は茶色一色に塗りつぶされているといってもいい。
そんな道をあと一日も行けばいよいよエルサレムだ。朝エリコを出れば、暗くなるまでにはエルサレムには着ける。
しかしイェースズは、エルサレムに入る直前にどうしても立ち寄らねばならないところがあった。
それはベタニヤである。ベタニヤはほとんどエルサレムの一部とも言っていいくらいの近さで、ほんの小一時間歩けばそこはもうエルサレムなのだ。
だがイェースズは、そこで足を止めねばならなかった。そこには、イェースズの支援者でもあり、使徒ヤコブとエレアザルの父のゼベダイがいる。素通りするわけにはいかない。
やがて、小高い丘の上にわずかな緑を持つベタニヤの町が見えてきた。かつてイェースズがまだヨハネ教団にいた頃、同教団の幹部だったペトロやアンドレらと共にここに来たことがある。この町から戻った時にはもう、ヨハネ師は捕らえられていた。
そこからイェースズの宣教が始まったわけだから、彼にとってもエポックとなった町である。そして今は使徒になっているマタイと初めて出会ったのもこの町でだった。
ゼベダイの家ではヤコブやエレアザルが何も知らせていないにもかかわらず、ゼベダイ自身が門のところまで出迎えてくれた。この町でもイェースズのうわさで持ちきりで、イェースズたちがこの町に向かったという情報はすでにエリコから伝わっていたから驚きだ。だから町中の人がイェースズを待ち焦がれていたし、当然ゼベダイの耳にも入っていた。
「やあやあどうも、しばらくですな」
かつての師ヨハネの友人だったというゼベダイは、相も変わらずの気さくさだった。そしてペトロやアンドレにも目を向け、
「あなた方もお元気ですかね。懐かしいなあ」
と、言った。
「はい、お蔭様で」
二年ぶりである。ヤコブやエレアザルとて、自分の父を見るのは久しぶりなのだ。
二年とひと口で言っても、ついこの間と言えば言える。しかしその二年の間に、イェースズの境遇は全く変わっていた。変わってしまっただけに、たった二年というその二年がイェースズにもペトロたちにもずっとずっと長い年月のように感じられた。
「あなたの姿は、前とは見違えるように変わった」
と、ゼベダイも言った。イェースズは笑った。
「よく言いますよ。それより、奥様やお嬢様がたはお元気ですか?」
「ええ、それこそお蔭様で。さ、どうぞ中へ」
前に会った時はイェースズはまだヨハネ教団の幹部であったし、その頃は何かあってもヨハネの教団へ逃げ帰ればよかった。だが、たった二年で今やイェースズは教団も作らずに十二人の使徒だけをつれて神のミチを伝える旅に出ている。そしてゼベダイが経済的にイェースズたち師弟を支えてくれていなかったら彼らは収入が手薄となって、その活動もままならなかったはずだ。
中へ通されたイェースズは座るよりも前に、まずそのことを丁重にゼベダイに謝し、礼を尽くした。
「さ、堅苦しいことは抜きにして。長旅で疲れておられるだろう」
ゼベダイはイェースズや旧知のペトロ、アンドレにだけでなく、初対面であるすべての使徒たちにも同じ笑顔を見せた。自分の息子のヤコブやエレアザルでさえ、息子としてではなくイェースズの使徒として遇していた。
部屋の中で足をのばして座った彼らの所へ、娘のマルタが冷えたぶどう酒を持ってきた。ヤコブやエレアザルの姉だ。
「弟たちがお世話になってます。あらまあそれにしても、本当にお父さんが言っていた通り、イェースズ師は前にも増して光り輝いて見えますわ」
ニコニコと相好を崩して言うマルタに、イェースズは照れて笑い、
「お変わりないですか」
と、聞いた。
「はい、お蔭様で」
「姉さんは、いつでも相変わらずだよな」
と、ヤコブも笑いながら横槍をいれた。それをおどけた視線で制して、マルタはイェースズにまた笑顔を向けた。
「今日は、下の妹も来てますのよ」
マルタが呼ぶと、イェースズが前にも会ったゼベダイのもう一人の娘のマリアとともに、まだ幼い表情の残る少女も部屋に入ってきた。
「末の妹のルツです」
いきなり多くの男性が家に現れたから、少しはにかんでルツは頭を下げた。
「おやおや、ヤコブやエレアザルは、こんな美人のお姉さんと妹さんにはさまれてたんかい。知らなかった」
と、トマスがちゃちゃを入れたので、みんなでどっと笑った。イスカリオテのユダも、いつもの苦虫を噛みつぶしたような顔を今日は捨てていた。
「ヤコブんとこの親父さんは、ずいぶん子沢山なんだな」
ユダが冗談を言うのは珍しかったが、それだけに皆は余計にまた笑った。
「前に来た時は、ルツはいませんでしたよね」
イェースズの問いに、ルツはまたも恥らってうなずいた。
「いっちょ前に、嫁に言ってるんですよ」
エレアザルの答えに、イェースズは驚いた表情を見せた。
「え? まだ、こんなにお若いのに?」
実はイェースズはすでに霊眼によってそういう事実はすべて感知していたのだが、あえて周りに合わせて驚いたふりをして見せていた。
「そうするとお姉さん方は、困ったことになりますよねえ」
「姉貴たちは、もうとうがたっている」
エレアザルの言葉に、マルタはまた弟をおどけてにらんだ。
「今日は、お里帰りかい?」
イェースズの言葉に、ルツの顔が少し曇ってうつむいた。この時もすでにイェースズはすべての事情を察知していたが、あえて知らないふりをした。
「まあ、ルツだけじゃなくって、町中の人がこの家の前に押しかけているんですよ」
マリアの話の通り、どうも玄関の方が騒がしい。
ゼベダイが、
「昔のように、この町の人々に洗礼を施してくださいますか」
ゼベダイに言われて、イェースズは喜びながら立ち上がった。
「はい。いつでも、どこでも、だれにでも、させて頂きます。でも、昔のヨハネ師の洗礼とは違いますよ。今は水ではなく、聖霊と火による洗礼です」
「席が温まる暇もなく、恐縮ですが」
ゼベダイが、すまなさそうにイェースズに頭を下げた。




