罪のゆるし
「罪……」
この一言が、まだ幼い少年イェースズの心にのしかかって離れなかった。
今まで自分は何一つ悪いことはしていない、自分に罪などないと思っていたのである。だからこそ神様は、ほかの子供が持っていないような特別な力を自分に与えて下さったと思いこんでいた。自分が念を凝集し、それを言葉にして発すると、すべてがその通りになってしまったのである。
ところが、その力も、母のマリアには通じなかった。現象はことごとく自分に跳ね返ってきた。
そして母から、自分にはとてつもない罪があったことを告げ知らされたのである…… 今はもう死んだ前の王様が、生まれたばかりのイェースズを殺すためにエルサレム中の赤ん坊を殺した。罪もない生まれたばかりの子供が、イェースズのために何千人も一斉に殺された……その事実は、イェースズの心の中では大きな衝撃だった。
それからというもの、イェースズは外に出なくなった。一日中薄暗い部屋に引きこもり、頭を抱えて過ごす毎日となった。かえってその状況を心配したマリアは、イェースズにとってはまた従兄になるヨハネを呼ぶことにした。
そして夏、ヨハネはエリザベツに連れられてカペナウムにやってきた。蒼白くやせ細った我が子に比べ、いかにも野生児という感じのするヨハネが、マリアの目にはたくましく見えた。
ヨハネは今は母親と一緒には暮らしておらず、塩の海の近くの洞窟でマセノという初老の僧と一緒に修行をしているという。マセノはユダヤ人だが長くエジプトの僧院で修養をし、ヨハネを気に入って引き取ってともに生活をしているという。
そんなヨハネが母とともにヨセフの家に着いた時、イェースズはいつもと同じように部屋に引きこもっていた。
さっそくマリアはヨハネに、イェースズを湖にほとりにでも連れ出すように頼んだ。ヨシェも一緒に行きたがったがマリアはそれを許さず、ヨハネに任せることにした。
ヨハネがイェースズのいる部屋に入っても、イェースズは振り向きもしなかった。ヨハネは、その背中に軽く手を置いた。
「イェースズ、僕だよ。湖にでも行かない?」
「行きたくない」
やっとイェースズは、ぽつんとつぶやいた。
「せっかく遠くから来たんだから、湖くらい案内してくれたっていいじゃないか」
すると急に、イェースズは勢いよく振り向いた。
「僕は、罪びとなんだ」
不意をついたようなイェースズの言葉にヨハネは一瞬たじろいだが、すぐに、
「僕の先生のマセノが、罪のことをいろいろ言ってた」
と、ヨハネが言ったので、イェースズは身を乗り出してきた。
「何て言ってたの?」
「じゃあ、湖に行ってから。湖に行かないと話してあげない」
イェースズは仕方なくいうふうに立ち上がった。
それから数分後、二人の少年は湖の湖畔にいた。
「水が青いね」
驚いたような表情で、ヨハネはガリラヤの湖を見ていた。風が強い。ヨハネはその風を思いきり吸い込んだ。
「海の匂いじゃなくって、草の匂いがする。こんな青い海があるんだ」
「君の住んでいる所にも、海はあるんだろう」
イェースズは、会話にあまり乗り気でないという感じでぼそぼそと言った。ヨハネだけが、元気にうなずいた。
「あるけど、こんなに青くないよ。岸辺にはここのような木も草も生えていないし、水も白っぽくて塩が一面に浮いているんだ」
「塩?」
「うん。塩が柱のようになっている所もあるよ。ロトの妻っていうんだ、その塩の柱は」
ヨハネはもう一度、湖岸の景色を見回していた。湖岸は緑に覆われた牧草地か麦畑で、なだらかな丘陵となって湖を取り囲んでいる。それからヨハネはまた、沖に目を移した。
「船がいるね。漁師の船だね。ここには魚もいるんだね。僕の住んでいる所の海は魚もいなくって、人間が海に落ちてもプカーって浮いてしまうんだよ」
厳しさの象徴のような塩の海のほとりの荒野から、優しさの象徴のようなこのガリラヤに来たヨハネは、心がだいぶ和んでいるようだった。
その時、イェースズが口を開いた。
「君の先生は、罪のことを何て言ってたんだい? 罪をなくすには、どうしたらいいって? 羊や鳩を捧げればいいの?」
「そんな犠牲っていうものは馬鹿げてるって、先生は言ってたよ」
「だって、エルサレムの神殿とかでは、みんなするんでしょ」
「うん。見たよ、僕。先生は、僕をエルサレムに連れて行ってくれたこともあったから。そこでたくさんの動物が殺されてたから、不思議に思って先生に聞いたんだ」
「先生は、何だって?」
「神様は犠牲がお嫌いなんだって。動物を犠牲として殺すのはよその国から来たやり方で、そんなんで罪は消えないって」
「じゃあ、どうすればいいって?」
「罪って人間が自分で選んだ道なんだから、その道を引き返して自分の力で抜け出なさいって」
「よく分からないなあ」
「心を浄めるんだって」
「どうやったら、罪が許されるの?」
「罪って、神様から借金をしてることなんだって。だから借金を返し終わるまで、罪は許されないんだって」
「どうやって返せばいいの?」
「人を苦しめた分、人を助ければいいんだって。自分の時間を自分のために使うんじゃなくって、ほかの人のために使うんだって。それが動物なんかじゃない、本当の意味の犠牲だって先生は言ってたよ」
「でも、神様は犠牲は嫌いだって、君の先生は言ってたんじゃないの?」
「えっとね、人間が本当の意味で犠牲を捧げたら、神様は犠牲が嫌いだから、その犠牲を犠牲でなくして何倍にもしてまた返して下さるんだって」
「うわあ。そうかあ!」
イェースズの顔が、急に輝きだした。
「なんだか力がわいてきた」
「神様からの借金は、ほかの人が代わってあげることはできないってことも、先生は言ってたな。自分の罪が許されるようにできるのは自分だけで、自分を救えるのは自分だけなんだって」
「ありがとう」
イェースズの顔に笑顔が浮かんだ。
「それから先生はね、神様は人間に選ぶという自由を与えて下さってるとも言ってた」
「選ぶ?」
「選ぶことによって人間は神様の近くまで昇って天国にも入れるし、地獄に落ちることにもなるけれど、全部それは人間の自由なんだってさ。天国に行くのも地獄に行くのも、人間に自由に選びなさってことなんだってよ。だから、怠けていてはだめで、自分の力で努力することが大切なんだって」
「じゃあ、僕は何をすればいいかなあ」
「まず、勉強すれば? 神様の本も、僕の洞窟にはたくさんある。先生はね、それが読めるようにって僕に字も教えてくれた」
「そうかあ。僕の家にも、そういう本はたくさんあるよ。それを読んで勉強しよう」
「先生も僕のお母さんも、僕が大きくなったら、この世の闇を照らす光にならなきゃなんないっていつも言ってる。いつか神様はメシアを使わされるから、そのための準備をする役目があるんだって」
「そうだね、勉強して、それからたくさんの人を助けよう。何しろ僕には……」
イェースズは自分の不思議な力のことを言いかけたがやめて、
「そろそろ帰ろう」
と、明るく言った。それはイェースズがここ数日間見せたことのない笑顔だった。二人はもと来た道を、湖をあとにして歩きだした。
「ヨハネはちゃんと、イェースズをうまく何とかしてくれるかしら」
マリアは心配そうにつぶやいていた。
「大丈夫さ。一生懸命修行しているっていうヨハネだからね」
と、ヨセフは笑って言った。エリザベツも、微笑んでいた。
「きっとイェースズは、うちのヨハネなんか追い抜いていくんじゃない?」
「そうだったらありがたいんだけど、あの子、最近おかしくて」
「どの子供だって、そんな時期があるんじゃなくって?」
「でも、あのこの場合は特別でね、急に神憑ったかと思えば、今のように落ち込んだりして。やはり、あの話をしたのはいけなかったかしら」
「王様の赤ちゃん殺しのことね」
「いや、そろそろ、言うべきときだったと思うよ。いずれは知れることだし、いつまでも黙っておけるものでもない」
ヨセフが、そこで口をはさんだ。
「それだけではなくて、エジプトでわしらが勉強したことをあいつに伝える頃じゃあないかとも思うんだがね」
「だって、あの子はまだ六つですよ」
「ヨハネなんかは、とっくに修行に入っているって言うじゃないか。なあ、エリザベツ」
「うちの子の場合は、いい先生が見つかりましたから」
その時、入り口のドアをノックする音が聞こえた。
「あら? 二人が帰ってきたのかしら」
マリアが振り向いてつぶやいたが、ヨセフは首をかしげた。
「あの二人なら、ノックなんかしないで直接入ってくるだろう」
マリアはそれもそうだと、入り口の方へ言った。そして叫んだ。
「サロメ!」
エリザベツもその名を聞いて、思わずドアの方を見た。
サロメとの再会は、エジプト以来だった。かれこれ三、四年ぶりくらいになる。聞けばサロメはエッセネ兄弟団の僧院幹部よりメシアの母候補であったマリアの生んだイェースズの養育係を言い渡され、はるばるガリラヤまで来たということであった。
「まあ、なんという神様のお仕組みでしょう」
マリアはついさっきのエリザベツや夫ヨセフとの会話を思い出して、ただ目を円くしていた。
そこでマリアはイェースズとヨハネが帰ってくる前に、今までのイェースズの状況をサロメに話した。サロメは微笑んで聞いていた。
そこへイェースズとヨハネが帰ってきた。そして、
「お父さん、お母さん。今日から僕、一生懸命勉強するよ」
とイェースズが言ったものだから、ヨセフとマリアはただ唖然として互いに顔を見合わせていた。そしてそのうち、マリアの目に涙が浮かんできた。