サマリアの女
炎天下であった。
乾季であるから土地も乾き、歩くたびに砂ぼこりが舞い上る。
一行はイェースズを先頭に歩いていた。ガリラヤ湖の西岸を南下してマグダラやティベリアに向かう街道からは外れ、そのまま高原を彼らは西へと進んだ。
ガリラヤ湖からはどんどん離れていく。やがて次第に道は南へ向かうようになった。
広々とした牧草地が続き、あちこちで羊の群れが放牧されていた。見渡す限りの平らな土地で、時々は木々が集まっているところもある。
はるか遠くはどちらの方角もなだらかな丘陵だ。そんな風景が延々と続く。のどかであった。
ごくたまに集落があって、日が暮れたらいい具合に宿屋に泊まることもできた。そして、出発した日も含めて三日目の朝から、道は起伏のある丘陵地帯に入った。時々ある集落も、家の様子がこれまでと違う。
いよいよ異邦人の住むサマリアの地帯に入ったようだ。
サマリアの人々はユダヤ人であってもエルサレムの神殿とは別のゲリジム山の神殿を奉じているため、一般のユダヤ人からは穢れ多き異教徒と蔑まれ、豚のごとく貶められていた。
サマリアの地はかつてアレキサンダー大王の時代に異民族のアッシリア人が移り住んだ地域で、この地のユダヤ人と混血した。そんなわけでバビロン捕囚からの解放後に帰還した純粋なユダヤ人とは反目し、この地は異教化したのである。
彼らは自分たちの都合によって自分たちもユダヤ人であると称したりユダヤ人とは異なる民族だと吹聴したりころころと態度を変えるので、それもまたユダヤ人からは忌み嫌われる要因の一つでもあった。
しかしイェースズにとっては律法学者もおらず、しかもここは今はローマ総督の直轄地でもあったためヘロデ王の目からも逃れられる格好の通路であった。
サマリアに入ったと実感した日の昼には、サマリア人にとってのエルサレムに当たるゲリジム山が見えてきた。
日ざしが強い。そんな陽光を受けて輝く山は二つあり、どちらもそう高くはなく丘といえる程度だ。
左の丘がゲリジム、右がエバル山で、ゲリジム山が若干の緑に覆われているのに対しエバル山は完全に不毛の岩だけの山だった。
そのふもとにスカルの町があった。
「ヤコブの井戸のある町ですね」
と、トマスが言った。
この一帯はかつてイスラエル人の祖であるヤコブが息子のヨセフ、すなわちエジプトで宰相になったあのヨセフに与えた土地だったという。
かつてはシケムと呼ばれたそのスカルという町にヤコブが自ら掘ったといわれている井戸があるということは、ユダヤ人なら誰でも知っている。
しかしそれは、幻の井戸だった。なぜなら今やスカルは異教徒の国、サマリアの真ん中にある。だから、ユダヤ人はその伝説の井戸を実際に見ることは困難だった。別に行こうと思えば行けるのだが、ユダヤ人は誰も行こうと思わなかった。
その夢のまた夢の伝説の井戸が見られるというのだから、使徒たちは誰もが狂喜した。
スカルの町に入って、井戸はすぐに見つかった。見つけてみると町の一角にある何の変哲もないただの小さな井戸で、本当にこれが伝説の井戸なのだろうかと誰もが半信半疑だった。
「伝説なんて、そんなものさ」
と、イェースズは笑って言った。だが、この井戸は今でも現役の井戸なのである。
ちょうど昼時で皆が空腹を感じているだろうと、イェースズは使徒たち全員を町へパンを買いに行かせた。井戸のそばに、イェースズが一人で残る形となった。
しばらくすると、一人の若い女が水瓶を手に水を汲みに来た。朝や夕方ならともかく、こんな真昼間に水を汲みに来るなど、よほどいわくつきの女のだろうと誰もが思うはずだ。人目を避けているとしか思えない。
イェースズは彼女が井戸から水を汲み上げるまで、少し離れた所の石に腰掛けてじっと見ていた。
やがて水を汲み終わって歩いてくる女がイェースズの近くを通ろうとしたが、イェースズに気づいて思わず目が合った。女は慌てて目をそらして避けるように立ち去ろうとしたが、イェースズはにこりと微笑んで女を呼んだ。
「申し訳ありませんが、その水を一杯頂きたいのですが。のどが渇きましてね」
女は立ち止まったものの、その表情をこわばらせた。
「あなたは、ユダヤのお方では?」
女の目は、イェースズを見ずに地面の方を向いていた。
「そうですけど」
少し驚いたような表情が、女の顔にさした。
「どうしてユダヤの方が、こんな所に? そしてサマリア人で、しかも女である私に話しかけてくるなんて」
イェースズとて若い男性なのだ。やたらと若い女性に声をかけるものではない。だがイェースズは微笑んだまま、女のそばに歩み寄った。
「サマリア人とかユダヤ人とか、そんなこと誰が決めたのですか? みんな、同じ神の子ですよ。兄弟なんですよ。何々人とか言って区別したりお互いに争ったりするのは、人間が人知で勝手に作った垣根なんですよ。そんなのは、神様からご覧になれば実にばかばかしいことです。いいですか。互いに兄弟である全人類の共通の親神様である最高の神様の教えを耳にしたならば、あなたの方から私に水をくれって言ってくるんじゃないですかね」
「え?」
女は怪訝な顔をした。
「私があなたに、水をくれって言うんですか? だってあなたは、水を汲む道具をお持ちじゃないじゃないですか。ここの井戸は深いんですよ。それにこの井戸は、ヤコブの井戸なんですよ」
「ええ、知ってますよ」
「私たちはいつもこの井戸から水を汲んでいますけど、それはヤコブから水をもらっているってことなんです。それなのにあなたが私たちに水をくれるなんておっしゃいましたけど、あなたはヤコブよりも偉いんですか?」
「みんなのどが渇くと水を飲みますけどね、そんな水はいくら飲んでも時間が立てばまたのどは渇くんです。でも、私があげようと言った水は霊的な渇きを潤すものでしてね、つまり霊的な教えのことをいうんです。その水を飲めば、二度と渇くことはない」
女はまだ怪訝な顔をして、水瓶を持ったまま首をかしげていた。
「そんな、飲めば二度とのどが渇かない水なんて、そんな水があるのでしたら頂きたいものですわ。そうすれば毎日、ここに水を汲みに来なくても済みますからね」
「じゃあ、その水を差し上げますから、ご主人も呼んでいらっしゃい」
「私、夫なんかおりません」
「そうですね」
こんな昼間に人目を避けて水を汲みに来るってことだけでも女の素性は分かりそうなものだが、笑いながらもイェースズはさらにその霊眼で女の想念をすべて読み取っていた。
「あなたには特定の夫がいない。もう五人の男性と、夫のような生活はしてきましたけどね」
女の目が見開かれた。そしてその手から水瓶が滑り落ちて、地面で音をたてて砕けた。それでも女は、全身を硬直させていた。
「どうして、どうしてそんなことを……。私の素性を、誰から聞いたんですか?」
「誰からも聞いていませんよ。あなたの心の中を、ちょっと見せて頂いただけです」
女は地にこぼれて広がった水も気にせず、イェースズの足元にひざまずいた。
「あなたは、あなたはいったい、どなた……なのですか? よ、預言者?」
イェースズは微笑んだだけで、それには答えなかった。女はひざで歩いてイェースズににじりより、その衣の端をつかんだ。
「あなたは、ユダヤ人の預言者ですか? 教えて下さい」
「私はね、ユダヤ人のとかサマリア人のとかそういうのではないし、ましてや預言者ではありませんよ。何々教とか何々宗とかの宗門宗派という人知の垣根を壊すために来たんです」
「じゃあ、一つだけ教えて下さい。あなたがたユダヤ人は、なぜエルサレムの神殿こそが本物で、私たちのゲリジムの山の神殿は偽者だなんて言うんですか?」
「私は、そんなことは言いません。時が来たらエルサレムでもゲリジムでもない所で、人類共通の親神様を斎き祭る時が来ます。天地の創造主であるその最高の親神様をお祭りするその場所では、大きな祭りが行われるんです。人類史上、かつてなかったほどの盛大な祭りなんです。そこには全世界全人類が宗門宗派の壁を取り払って、男も女も老いも若きもこぞって、金持ちも貧乏人も関係なく参列する大真祭が行われるんです」
「それはどこなんですか? その祭りは、いつ行われるんですか?」
「いつかなどということは、私にはどうでもいいことです。でも、いつかは来るということは確かです。終わりの時代に、全世界の人が心を一つにして神様を拝む巨大な黄金神殿が、高い山に造られるんです。それはエルサレムでもゲリジムでもない山で、人々はそこで全霊の神理のみ言葉で神様を拝します」
「その山って、どこなんですか?」
「ずっとずっと東の国ですよ。あなた方も、ユダヤ人も知らない東の国で、その国の名は」
イェースズがそこまで言いかけた時、ざわめきが近づいてきた。使徒たちが戻ってきたのだ。すると女はすくっと立ち上がり、
「偉大な預言者が来られたことを、みんなに告げ知らせてきます」
と言って、砕けた水瓶など気にもとめずに駆けだした。女は使徒たちとすれ違う形となったので、使徒たちもちらりと女を見た。
「ご苦労だったね」
イェースズはニコニコして元の石に腰をおろし、使徒たちをねぎらった。使徒の何人かは女の後ろ姿に首をかしげながらも、十二人そろってイェースズを囲み、円座になって足を投げ出し、体を横たえて座った。イェースズの座っている石の背後には、オリーブの木が茂っていた。
「ところで、トマス」
と、イェースズはトマスに顔を向けた。
「あなたは出発する時、刈り入れまであと四ヶ月もあるのにって言ってたよね」
「はい。確かに仮庵祭まであと四ヶ月もありますけど」
「うん。畑の麦の刈り入れは確かに四ヶ月先だけど、あなた方の収穫の時は今だ」
「え?」
トマスだけでなく、誰もが怪訝な顔をした。それを見てイェースズは笑って遠くを指さした。
「あれをご覧」
使徒たちがイェースズの指さした町の一角を一斉に振り返ってみると、砂ぼこりをあげてこちらに向かってくる一団があった。
「さっきの女が私のことを言いふらして、人々を集めてきたんだろうな。私はこの町に神の教えという種をまいたけど、それを刈り取るのはあなたがただよ」
「でも先生」
小ヤコブが、不服そうに顔を上げた。
「先生もおなかがへっておられるでしょう? せっかくパンを買ってきましたから」
それを聞いて、イェースズはまた笑った。
「神様のみ意のまにまにその業を成し遂げる方が先だよ。神様と波調を合わせて、そのみ意を地に成り鳴らせていくんだから、ちょっとくらいの空腹なんてどうでもいいじゃないか」
イェースズがそのようなことを言っているうちに、群衆はそばまで来ていた。先頭はさっきの女だ。
「この方です」
と、女は人々にいった。本来なら人目を避けるべき町でも有名な男たらしの女なのに、イェースズを紹介するに当たっては実に堂々と臆する様子も見せていなかった。
「この方が、私の心の中まですべて言い当てられた預言者です」
群衆はざわめいた。長老ふうの頭のはげた老人が、一歩前に出た。
「人の心の中を読めるというのは、たしかに預言者の印だ。しかし、あんたはユダヤ人ではないのか。我われサマリア人を豚のごとく軽蔑しているユダヤ人じゃろ。たとえ預言者だったとしても、ユダヤ人ならわれわれには何も話してはくれまい」
それを聞くとイェースズは、ゆっくりと群衆のそばまで行った。そして、
「皆さん」
と、ゆっくり話しはじめた。
「ユダヤ人である私が皆さんと話をするのは、何も不思議なことはありません。神様はすべての人類の親神様で、ユダヤ人だけの神様でもないし、サマリア人だけの神様でもありませんからね。ユダヤ人もサマリア人も、そしてギリシャ人やローマ人だって、全世界全人類誰一人例外なく、すべて同じ神様の御手によって創られたのです。すべての人類は、等しく神の子なんですね。神様の愛は、すべての人に平等に注がれています。私はガリラヤから来ましたけど、ガリラヤでもここでも同じ太陽が同じように光を与えてくれています。何ら変わりはありません」
人々は水を打ったように静まり返って、イェースズの話に耳を傾けていた。イェースズの金口の説法にはその言霊に神の光が乗り、それが黄金のパワーとなって人々を包んでいた。
「サマリアに一歩入ったら急に太陽の光が暗くなったなんて、そんなことはありませんでしたよ。いいですか。私はサマリア人だから吸う息も半分でいですとか、私はユダヤ人だから三分の一でいいですなんて、そんなわけにはいかないでしょう? 私は、サマリア人はユダヤの大切な隣人だと思っています。神様の大愛の中で生かされ育まれていることを考えたら、サマリア人だのユダヤ人だのという人知で作った垣根なんて、どこかへ飛んで行ってしまうと思いますけどね」
人々の間で歓声が上がった。自分たちをさげすんでいるユダヤ人の口からこんな話が聞けたということは、彼らにとってものすごい感激だったようだ。
「確かに、本当に預言者だ!」
「いや、メシアだ!」
と、そんな声が群衆の中からあがった。
「どうかしばらく、この町でお話しをしていってくださらんか」
そう頼んだのは、最初の長老ふうの男だ。イェースズに異論があるはずがなかった。これまでも、異邦人の町で説法や奇跡の業を行なってきたイェースズである。しかも、目的のエルサレムでの仮庵祭は、まだ四ヶ月も先だ。イェースズと使徒たちは、人々とともに町の中央へと向かって行った。
イェースズは、早速群衆とともに広場に行った。そこにはさらに別の群衆が、イェースズの到来を待っていた。だがそのほとんどは面白半分に集まった人々であり、イェースズが預言者だという風潮に対しては半信半疑のようだった。
ところがイェースズが始めたのは、説教ではなかった。人々に体の不具合はないか聞いて、使徒たちと手分けしてそれを癒していった。これだけの人が集まると、みんなどこかに体の不調があるものである。十三の列に並ばされた人々は順番にイェースズや使徒たちの手からのパワーで次々に癒されていき、歓喜の渦が広場にまき起こった。
そのうち一人が、町でも悪魔憑きとして手をこまねいてという男を連れてきた。そこでイェースズが直々に、その男を座らせて眉間に手をかざした。
ほかの使徒たちの列に並んでいた人々もこの町では有名な悪魔憑きだけに、丸く人垣を作ってイェースズの業を見ていた。
やがて男に憑いていた霊が浮き出てきて体を振るわせはじめたので、イェースズは懇々とその憑依霊をサトした。
「あなたの執着心が、そのまま地獄を作り出しているんですよ。ましてやあなたは幽界脱出の大罪を犯してこの方にとり憑き、この方のお邪魔をしてこの方を苦しめている。あなたは大変なことをしているのですよ。大根元の『神様』のお気に召すものは繁栄し、そうでないものは破滅になります。あまたが今していることは、大根元の『神様』のお気に召すことですか?」
男は、正確には男に憑いていた霊ははっとした顔をした。
「あなたが今暗くて冷たい世界にいるのは、あなたの想念が暗くて冷たいので、相応の世界に引き寄せられているだけなんですよ。ですから、今きっぱりと想念を切り替えて、今天国にいらっしゃる方々と全く同じ想念になってしまえば、あなたもたちまち天国へとお許しいただけます。あなたを救えるのは、あなた自身です。あなたの想念転換だけなんです」
そうしてイェースズはいつもの通り、この例の全ての過去世を思い出させ、その時に戻ってそのすべてをやり直させた。
しばらくしてから男の体の震えは止まり、霊が離脱したので見るみる間に正気に戻っていった。
人々はただ驚くばかりで、声をあげてその様子を見ていた。
それからもイェースズは人々を癒し続けていたが、夕方近くになって群衆の悲鳴と共に、けたたましい馬の蹄音が響いた。そして広場に乱入して来た馬の上の役人は、イェースズを見下ろして言った。
「そなた、ユダヤ人でありながら、何しにここへ来たのだ」
居丈高な役人の怒声にも、イェースズは笑顔を失わなかった。
「そなたはこの町で変な宗教を流行らせ、分裂させることによってサマリアを滅ぼそうとしているユダヤの手先だろう。そうはさせないぞ」
どこの地域にも、パリサイ人のような人々はいるらしい。イェースズは役人を見上げた。
「あなたがたは?」
「ゲリジムの神殿にお仕えする祭司様の手のものだ」
「ではお帰りになって、あなた方のご主人にお伝えください。私はご心配しているようなことは毛頭考えておりません。私は霊障に苦しむ人々を救い、病を癒し、神理の福音を説くために来たんです。他意はありませんよ」
役人はそれだけを聞くと、黙って馬頭を回して立ち去った。群衆たちは心配そうにざわめいて、イェースズを取り囲んだ。
しばらくすると、祭司が自ら歩いて広場に入ってくるのを、イェースズは見た。そして祭司がイェースズのそばまで来ると、イェースズは相手に有無を言わさないほどの素早さで、ニコニコしながら祭司の手を握った。
「シャローム。愛和で力を合わせましょう。そうすれば人類は栄えます、分裂は滅びです。私はあなた方をお助けするために来たのであって、妨げるために来たんじゃありません。サマリア人、ユダヤ人、ギリシャ人など、すべての神の子が愛和団結することが重要なんです」
たちまちイェースズの霊流エネルギーが握った手を通して、祭司の霊体を包んだ。最初はこわばった顔をしていた祭司だったが、何かが満たされたと感じたようで、次第にその顔もほころんでいった。心配して静まりかえっていた群衆の間からも、歓声が上がった。イェースズは言葉を続けた。
「神様はすべての神の子が愛和団結すること、そして神と人との一体化、神人合一までお説きになろうとしておられます。でも神の教えはまず自分が実践して生活の中で証をしなければ、人々を救うことはできないんです」
祭司はイェースズに手を取られたまま、しきりにうなずいている。
「祭司様は、神様の僕です。みんながあなたがたに、霊的指導を求めているんですよ。人知の掟は捨てて、まずあなたがたが霊的に目覚めてください。人々にこうしろとかこうなってほしいとか言う前に、まず自分がそういうふうになり、そういうふうにするんです」
その時、イェースズの方に駆けてきて、その足元にひざまずいた女がいた。見ると泣いている。
「あなたはすごい力をお持ちなんでしょう? 母が、死にそうなんです」
「お母さんが、どうされました?」
「熱病なんです。とてもここへは、つれて来られるような状況じゃありません」
「そうですか。それはお気の毒に。落ち着いて、気をしっかり持ってください」
イェースズはそう言ってから、両手を合わせて強く念じた。その念の力はパワーとなって、たちまち女の家の方へ飛んでいった。その同じ時刻に、女の母親は癒されていた。
イェースズの噂は、サマリア全土に瞬く間に広がった。彼らはスカルに数日滞在した後、どの村に行ってもたちどころに群衆に取り囲まれた。人々の病を癒し、教えを伝え、そうしているうちに月日はどんどんたっていった。
結局スカルからユダヤまでの境界は目と鼻の先であるのに、ユダヤ領に入るまで一ヶ月かかったことになる、。ちょうど暑さが絶頂を極める頃で、この時期を過ごせば日一日と秋になっていくはずだ。
いよいよ明日はサマリアを出るという最後の晩、夜になっても群衆は去らなかったので、イェースズはその霊魂を浄めるために一斉に火の洗礼の業を施した。その後、一人の若者がイェースズのそばに来た。
「質問してもよろしいでしょうか?」
その言葉にイェースズはニッコリ笑って、穏やかに言った。
「どうぞ、何なりと」
あたりはもう暗く、人々の手のランプだけが広場を照らしていた。
「師は全人類が救われるのが、神様のみ意だとおっしゃいましたね」
「そうですよ。すべての人類は神の子だから、神様からご覧になれば一人残らずかわいくてしょうがないんです」
「でも全人類の数に比べたら、師と出会って教えを聞ける人の数なんて、ごく一握りじゃないですか? それでも師の弟子にならないと救われないのなら、神様は無慈悲だって気がするんですけど」
「そうだね。そう考えるのも無理はないね」
微笑んで若者にそう答えた後、イェースズは再び群衆の方を向いた。
「皆さんも聞いてください」
そして今の若者の質問をイェースズの口から群衆に伝え、そしてイェースズはさらに言った。
「では、救われるっていうことはどういうことなのでしょうか。救われるというのは、結局神様の幸せの門に入れて頂けることですよね。でもその門は、すごく狭いんです。言葉を換えて言いますと、真理の門はすごく狭いんです。なぜなら今の世の中は、一切が真理と反対の方向へと流れているんです。逆さまなんです。逆なんです。逆の世なんですね。世間で言われる常識という波に乗ってしまったら、今はまだいいですが、でもやがて時が来れば一気に滅びの道に入って行くことになるんです。その滅びの門はとても広くて楽に入れるんですよ。皆さん、感謝をしなさいって言われて一所懸命訓練しますよね。でも、不平不満や怒り、ねたみ、人の悪口なんて、訓練しなくっても楽にすっと出るでしょ。いや、私は毎日不平不満を言う訓練を積んでいます。人の悪口や愚痴を言う訓練を積んで、それで頑張って悪口や愚痴を言っていますって人、いますか?」
人々は一斉に笑った。
「いませんね。でも、感謝の想念を持つのは訓練がいる。だから、方向転換をする努力はしなければならない」
イェースズは一度そこで息をついた。人々は静まりかえっている。
「私も最初はよくペテン師だの詐欺師だの、大ほらふきだのとかよく言われたものです」
あくまでもイェースズはにこやかに、ゆっくりと話をしていた。
「でも人から何と言われようとも、私の正しさは神様が証明してくださる。皆さんもご覧になったように、どんどん救われの事実が出たじゃないですか。世の中で常識といわれていることが神様の世界から見ると案外非常識だったりするんです。そして、非常識だと思われるようなことが実は常識だったりするんですね。だから、人知では判断は難しい。いや、危ないです」
分かったのだか分かっていないのか、群衆は一応うなずいて聞いている。
「そうでしょう? 皆さんは病気をしたらクスリを飲む。これが常識です。でも、せっかく神様が体内の毒素を溶かして排泄させて上げようというお仕組みをクスリで止める。神様からすると、それは非常識なんです。熱が出た、鼻が出た、下痢をした、みんなありがたいことですよね。体の中がきれいになるんですから。だから、ああ、ありがたいと感謝する。それが常識なのに、世間の人々はそれを非常識と言う。全くもって変な世の中になったものです」
イェースズの話に熱が入ってきた。
「それで先ほどのご質問ですけど、私の弟子になるかならないかなんていう形式じゃないんですよ。要はいかに自らが自覚して、狭い門を自力で見つけるかです。もちろん皆さんは今ここで私がお伝えさせて頂いている神様のみ教えを聞くことが許されていますし、それは千載一遇のことと言ってもいいでしょう。しかしですね、神様の教えは全人類に普遍の教えなんですから、やがては全人類に広まるはずです。そして今はまだ私には皆さんに告げることは許されていないすべての神理が公開される時も、やがて来るでしょう。それでもまだ広い門の方を求めているようでは、その後すぐに神様の狭い門はバタッと閉じられてしまうんです。例えば門限が過ぎて家の戸が閉められたら、それに遅れて戻ってきた召使がいくら戸を叩いても戸は開けてもらえないでしょう? その時に『私はあなたといつもいっしょにいたじゃないですか』って叫んでも、主人は『おまえなんか知らない。さっさと出て行け』って言うんです。これと同じで、いくら私の話を聞いて、私の弟子になったとしても、形式だけそうであって中身が伴わない、内面的な想念転換ができない人は、私は『あなたなんか知らない』と言いますよ。冷たいようですけど、これが神様のお示しですから仕方がないんです。ましてや私を『主よ』なんて呼んで崇め奉るなんて本末転倒、言語道断でしてね、私を崇めている暇があったら私がお伝えさせて頂いている神様のみ教えを生活の中で実践することです。そっちの方がよっぽど大事ですし、神様のみ意とも合いますから早く救われに入っていけるんですね。私が皆さんをおんぶに抱っこで救われの道につれて行ってあげるのだなんて思っていたら、大きな間違いです。自分の足で歩くしかないんですよ。そして自分の足で神様のお宮までたどり着いたとしてもちょっと中を見て『ああ、素晴らしい。いいものを見せて頂いた。ありがとうございました。はい、さようなら』で回れ右、後は地獄へ一目散って人が多いんですね」
人々は、どっと笑った。
「そして門が閉じられてから慌てて戻ってきても、もう遅いんです。ですから神様のお宮の門にたどり着いたのなら中へ入れて頂いて、お庭を拝見させて頂いて、お宮の中にまで入れて頂いて、いちばん奥まで通される人になってください。そこにはアブラハムやイサク、ヤコブなど皆さんのご先祖や預言者はもちろん、いろんな賢者が世界中から集められています。ただそこでは、後のカラスが先に立ったりしますよ」
その時、数人の男たちがイェースズの前に出た。どうやらその服装からユダヤ人でいうパリサイ人のような聖職者のようだったが、パリサイ人のようなどす黒い波動はイェースズは感じなかった。
「あなたは素晴らしい。感動しました。あなたの教えには黄金の光が乗っています。でも、私たちはあなたに、あることを伝えなければなりません」
「何でしょう」
イェースズはすでにこの男たちが言おうとしていることは分かっていた、あえて聞いた。
「早くサマリアを出て、ユダヤに戻った方がいいですよ」
「それは、なぜです?」
「サマリアはガリラヤと同じヘロデ王が治めていますけど、そのヘロデ王があなたを殺そうとしているようなんです」
ヘロデ・アンティパスがその焦燥感からヨハネを殺し、今度は自分に矛先が回ってくるであろうことは、イェースズはすでに知っていた。男たちはイェースズがユダヤ人だから、エルサレムのあるユダヤから来たと思い込んでいるようだ。だから、ヘロデ・アンティパスの領有するガリラヤに行っては危ないと警告したようだ。しかし、イェースズは言った。
「実は私は、ガリラヤから来たんですよ」
男たちは一瞬怪訝顔をした。ガリラヤならヘロデ・アンティパスのお膝元でさえある。自分たちの忠告は無になってしまったわけだ。だが、イェースズは優しく微笑んだ。
「ご忠告、感謝致します。ありがとうございます。ただ、もともと私どもはガリラヤからエルサレムに向かう途中にこのサマリアを通っただけですから、これからエルサレムに向かいます。ただ、私はヘロデ王から逃げるためにガリラヤを後にしたのではなくてですね、多くの苦しむ人々を救わせて頂くのが目的なんです。その救いの業を完成させるためには、どうしてもエルサレムに行かないといけませんからね」
イェースズに忠告した男たちは、ああそうですかという感じで拍子抜けに聞いていたし、同時にそれを聞いていた使徒たちでさえイェースズの言う奥深い真意は分からずにいたようだ。
そのイェースズの言葉通りに、翌朝になるとイェースズは使徒たちとともにエルサレムに向けて出発した。道はサマリア人たちの神殿のあるゲリジムの山のすぐふもとを横切る形でスカルの町を抜け、そのあとは道は一気に南下した。
「いやあ、驚きましたね」
と、ペトロが歩きながら言った。
「サマリアの人々って、ガリラヤの人よりも温かいんですね」
ヤコブが、それに相槌を打った。
「聖職者でさえ、先生の言葉にス直に回心したじゃないですか。あれにはびっくりしましたね。ガリラヤのパリサイ人たちの頑固さとはえらい違いだ」
イェースズは微笑んでそんなやり取りを聞き、そして口を開いた。
「ユダヤ人が豚のごとくさげすんできた異教徒の人々があんなに人情厚く、あんなにも神の前に従順なんだよ」
「そんな彼らを忌み嫌うユダヤ人の方が、なんだか不遜にも思えてきますね」
と、トマスが吐き捨てるように言った。




