エルサレムへ
昨夜の嵐はよほどひどかったらしく、朝になってから小ヤコブとペトロだけをつれて湖岸まで出てみたイェースズは、大きな爪あとをいくつも見た。
あちこちで木々が根から掘り出されて倒れ、家の土塀が壊れている所もある。町の背後の小高い丘の上では土砂崩れが起こり、そんな光景が一転して透き通るような青さで晴れた空の下に広がっていた。
そんな湖岸の一角に、何やら人が集まっているのが見えた。行ってみると、漁船が残骸となって打ち上げられていた。そこに集まっていた人々の何人かがイェースズに気がついて、胡散臭そうな目を向けた。
ところが、一人だけ若者が、目を真っ赤にしたままイェースズに近づいてきた。
「イェースズ師ですね。昨日の嵐で、兄貴が死んじまったんですよ!」
若者が振り返った視線の先に、水死体が地面に転がされていた。
「お気の毒に」
そう言ってイェースズは、遺体に近づいていった。蒼白な顔が苦悶にゆがんでいる、そんな死に顔だった。イェースズはその前にしゃがみ、遺体の額に手をかざした。しばらくそうしていたが、別に遺体が動き出したなどというようなことはないまでも、顔に幾分赤みがさしてきた。
「兄貴を生き返らせて下さるんですか?」
「いや」
申し訳なさそうに、イェースズは首を横に振った。
「お気の毒だけど、生死を司るのは神様ですからね」
「でも師は、会堂の司の娘を生き返らせたっていうじゃないですか」
「あくまで、神様のお許しが出たらの話ですよ。あなたのお兄さんももし神様のみ意ならそうなるかもしれませんけど、私にはなんとも言えませんね」
イェースズ自身、ヤイロの娘の時のような強い動機は感じられなかった。
「ただ、この方はあちらの世界に行っても救われますよ」
イェースズは立ち上がった。
「ほら、顔色が変わったでしょう」
「本当だ。まるで眠っているような生き生きとした顔になった」
若者が驚いていると、イェースズはその方に優しく手を置いた。
「お兄さんはきっと、天国に行きましたよ。手厚く葬って差しあげて下さい」
イェースズが歩き出すと、小ヤコブが小走りにその脇に並んで歩いた。
「先生、あちらの世界で救われるっていうのは?」
「最初の遺体の顔を見ただろう? だいたい人の死に顔で、その魂はどの世界に行ったかは分かる。蒼白で苦悶深刻なら、気の毒だけど地獄だね。でも、死んでからまる一日は遺体とそこから離れた霊魂の霊波線はつながったままだから、その時に火の洗礼の業を施してあげれば、スーッと上の世界に行けるようになる。そうなると死相も変わって、赤みがさした穏やかな顔になる。天国に行った人の死に顔は眠っているようで、時には微笑さえ浮かべていることもあるんだ」
「本当に桃色で、つやつやになりましたね」
「不思議ですね」
と、ペトロも反対側から口をはさんだ。
「神様の愛だよ」
イェースズがニッコリ笑って言ううちに、林を抜けてイェースズの家に近づいていった。
ところが、家にはまた多勢の人が押し寄せていた。女性や子供がやたら目立つその群衆は、病の癒しを求めてきていた人々とはどうも異質のようだ。彼らはイェースズの姿を見てどよめき、そんな人々をかき分けて母マリアが出てきた。
「昨日の嵐でたくさんの船が沈んで人も多勢亡くなったみたいだけど、皆さんはその亡くなった方たちのご家族の方たちですって。何とか助けてって来たけど、あなたは留守だったし」
イェースズは慈愛深く母に微笑んで、それから家に入ってヨシェの仕事場である土間にいた人々と対した。
「師!」
「夫が、夫が」
「私たち、どうしたらいいんですか?」
人々は口々に叫んで、イェースズに詰め寄った。
「このたびはお気の毒でしたね。亡くなった皆さんのご家族のお救いをさせて頂きたいのだけど、ご遺体をここにお持ち頂くのも無理でしょうし、私が全部のご遺体の所をまわるのも厳しいですね。心から、亡くなった方々の冥福を祈らせて頂きます。神様に念じておきましょう」
人々はこぞって礼を言った。
「せめてものあなたがたの魂を救わせて頂きたい」
イェースズは全員を土間に座らせ、両手をあげて一斉に霊流を放射した。ほんの短い時間だったが、中には泣きだす婦人もいた。泣きながらしゃべるのは、嵐で死んだ婦人の夫で、今妻の体を借りてイェースズの霊流を受け救われたと涙ながらに礼を言っていた。そんなケースが、二、三人はいた。
それからイェースズは、人々に言った。
「皆さんは、これから生活にもお困りでしょう」
それからイスカリオテのユダを呼び、
「この方たちに、私たちの財産を全部分けてあげなさい」
と、言った。驚いたのはユダの方である。ペトロもユダとともに、イェースズに詰め寄った。
「先生は魂の救いをあされるのであって、物質的な救済はなさらない方だと思っていましたが」
「もちろん、霊的な救いが主で物的な救いは従だが、従は従であっても無ではない。時と場合にもよるけど、自分の家の軒下に逃げ込んだ傷ついた羊がいたら、誰でも助けるだろう? さあ、ユダ」
ユダはまだ、躊躇していた。
「この人たちは見知らぬ人々だ。少しくらいなら分けてあげられますが」
「いや、全部だ。見知らぬ人って言ったけど、みんな我われが慕ってやまない神様の、その神の子たちなんだよ。同じ神の子だから、みんな兄弟じゃないか。家族じゃないか」
「確かに先生のお言葉だと、我われは無一文になっても必ず困らないようになるってことでしたよね」
と、マタイがユダをたしなめた。ユダはしぶしぶ自分が管理して来た金を、人々に配った。その人たちが礼を言って去ってから、イェースズはやっと家の奥に入ることができた。するとヤコブが、激しい口調でイェースズに言った。
「先生、霊の救いをいつも言っていた先生なのに、なんで物質的な援助までするんですか。我われの食べる糧まで全部なんて」
イェースズは苦笑した。
「相変わらず雷の子だね。確かに霊的な救いは大切だけど、人の心というものも大切にしないと人を導くことはできないよ。まず相手のことを親身になって考える。病で苦しんでいるのなら、心から同情する。あの人たちは食うに困っているのだから、まず飢えを満たしてあげる。そうしないと、いくら『神の国は』なんて話しだしたって聞く余裕なんてないじゃないか。ましてや、『今のあなたの不幸は前世からの罪穢で』なんて言おうものなら、感情を逆なでするだけだ。神理は確かに神理で、前世の罪穢はその通りなんだけど、人を導くにはそういった気配りも必要なんだね。病に苦しんでいる人にも、確かに病気治しが目的ではなくて奇跡は方便で、人々を無病化させて神様のみ意である全人幸福化を実現させることが究極の目的だけども、足が痛いと言う人に『病気治しが目的じゃないんですよ。神様のみ意は』なんて説いても、その人は『とにかく足を治してくれよ、そうしたら話も聞くよ』となるだろう。私がなぜ何回も同じ話をするかって言うとだね、あなたがたに常に基本に元還りしてほしいからだ。そうしないと、どんどん人知の解釈がついて変な方向へ行ってしまう」
そう言ってイェースズは笑った。だが使徒たちは、神妙な顔をしていた。
「でも先生は『奇跡を見たら信じるなんて虫がいい話だ』ともおっしゃっていたような気がしますけど」
と、ペトロが言った。
「確かにそう言ったけど、それはいつまでもそこから脱皮できない人に向かって言ったんだよ。最初はどうしてもみんなご利益信仰だし、そこから入るのは仕方ないことで、そんな人類の心の習性を神様はよくご存じだから見せる奇跡も下さる。足が痛いという人に対しては、足を治してもらいたいというその人の心をまず大事にすることだね。それを先輩になればなるほど『病気治しじゃない』『奇跡を見たら信じるなんて本物じゃない』なんて本人に直接言っちゃうんだよ。そこは誡めないとね」
「でも、先生」
ナタナエルがしつこく食い下がる。
「ご利益信仰の人が、自分の病気が治ったらさっさと去っていってしまったら?」
「それはその人がそれだけの縁だったってことかもしれないし、いつかは時が来れば真の信仰に目覚めるかもしれない。『病気を治してくださったんだから、神様に感謝しなさい』と一応は言っても、それをス直に聞くかどうかはその人の問題だから、それも聞かないで我われを治療師のようにしか思っていない人でも、我われは決して裁いてはいけない。最初はそんなつもりで来た人でも、それがきっかけでやがて霊的に目覚める人もるはずだ。だから、最初はご利益信仰でもいいんだ。いつまでもそれでは困るけどね」
イェースズと使徒は、いつも食事する一室に入った。
「でも先生、ぶっちゃけた話、やはり昨日の嵐で亡くなった人にはそれだけの罪穢があったということなんですね」
と、ナタナエルが聞いた。
「原因のないところに結果は生じないよ。でも、繰り返すけども、それを面と向かって言わないこと。とにかく昨日の嵐によって、悲惨な光景がこの町で展開されている。そんな中で悲しむ人に罪穢がどうのこうのなんて言ったばかりに、『こんなひどい仕打ちをするのが神様なら、私は神さまなんか信じない』なんて人が出たらどうする? ましてやそんな人々は、『今こうして家族を失うという不幸現象を通して神様はあなたの罪を消してくださったのだから、感謝しなさい』なんて、そんなことをいわれた日にはわれわれは怨まれるのが落ちだ。確かにそれはその通りであったとしても、悲しみに打ちひしがれているさ中にそんな残酷なことは言ってはいけない。特に今の時代はね」
「ところで先生、ちょっと話は変わりますが」
シモンが沈黙を破った。
「私も心痛めていることがあるんですけど」
「なんだい?」
「この春、ローマ知事ポンティウス・ピラトゥスによって、多くのガリラヤ人が十字架につけられましたね」
その事件なら、ついこの間ガリラヤにも情報が伝わってきた。ガリラヤのエルサレム巡礼団が、饗宴中にいきなりローマ兵に捕らえられたのである。
彼らはローマの反覆を謀る政治的メシア団で、もちろん熱心党の流れだった。ガリラヤはユダヤと違ってローマ皇帝直属の属州ではないため、いわば熱心党の本拠地ともなっていた。
そんなガリラヤからエルサレム巡礼団を装って上京していたメシア団の一団はいともたやすく正体を見破られ、逮捕後にピラトゥスは彼らを裁判にかけることもなくいきなり十字架刑に処した。エルサレムからエリコに向かう荒野の中の街道沿いに、おびただしい数の十字架が並んで立てられたのである。
そもそもこのポンティウス・ピラトゥスなる人物、ローマ皇帝ティベリウスの寵臣であり、反ユダヤ感情旺盛なセイアヌスの手下であったという。
ちょうどイェースズが留守をしていた四、五年前にユダヤ州知事としてローマから赴任して来たのだが、ローマ皇帝の象と鷲の軍旗を掲げてのエルサレム入城は、ユダヤ人たちを興奮させた。完全なユダヤ蔑視政策と重税が、そこから始まった。最高法院の会議場でさえそれまではローマ人が入れなかった神殿の中にあったのに、ピラトゥスはそれを丘の上に移築させた。
ユダヤ人の目から見れば、ピラトゥスの圧政よりもかの先代ヘロデ大王の暴政の方がまだ同じユダヤ人だけにましだったかもしれない。神の民を以って任じるユダヤ人にとって、異邦人であるピラトゥスの圧政は耐え難きものがあった。
そして去年、神殿の七枝の燭台の炎が消えた。それによっていよいよユダヤの終末を憂い、メシア待望の気運も高まっていたし、各地で自分こそ預言のメシアだと自称するものも増えた。
だが彼らの末路は悲惨で、たいてい十字架にかけられて終わるのが落ちだった。彼らにとってメシアというのは、政治的にローマを覆す勢力のことだからだ。
そんな気運の中で、現にイェースズのことをもそのような政治的メシアだと期待したものもかつていた。この十二使徒の中にも最初はそういう考えのものもいたし、今に至ってもまだ怪しいものさえいる。
だからイェースズは、まっすぐにシモンを見た。
「その十字架にかかった人々も、前世の罪穢によるものかどうかをあなたは聞きたいのだね。それに対して神様が仕組んだことだと、もし仮に私がそんなことを言ったらあなたは信仰を捨ててしまうかい?」
「そんなことより」
シモンは目をむいた。
「私は先生に、彼らと同じような末路は取ってほしくないんです」
「真に言っておくけど、その人たちはあくまで現界的には罪を犯して罰を受けたんじゃない。ガリラヤ人は誰でも政治的な野望を捨てて、悔い改めない限り同じ目に遭う」
「じゃあ、先生はローマの支配を認めて、それに甘んじていると言われるんですか!」
「そんなローマだのユダヤだの、近視眼的なことは私にはどうでもいい。要は神様のみ意に沿っていくことだよ。ローマ人とかユダヤ人とかギリシャ人とか関係なく、神様は全世界全人類の親神様なんだ。そもそもあらゆる民族も、元は一つだったんだ」
イェースズはもっと高次元の霊的次元で話をしていたが、彼らの理解は確かにバベルの塔以前は民族は一つだったというくらいのものだった。
「じゃあ、全世界全人類の親神様は、なぜユダヤ人だけが迫害されるのを許されるんですか。こんな、何十本もの十字架を許されるんですか」
その答えは、イェースズは分かってはいても使徒たちに告げることはできなかった。その時、
「それはつまり」
と、イスカリオテのユダが口をはさんだ。
「彼らが十字架で殺されたのは、彼らが本物のメシアではなかったってことだけだ。本物のメシアなら、自分で十字架から降りてくるはずだ」
イェースズは少しため息をついた。
だがイェースズの方から、夕食の時にまたその話を持ち出した。この日は今ではこの家の一家の主であるヨシェも加わっていた。
「昼間の話だけどね、シロアムの塔の話は、あなた方も知っているね」
有名な事件だから、知らない人はまずいないはずである。
エルサレムのシロアムの塔が突然崩壊して、十八人もの人がその下敷きとなって犠牲となった事件が最近あった。。その情報は、ついこの間ガリラヤにも伝わってきた。
「その十八人も罪びとで、神様から裁かれたのだろうか?」
イエスの問いに、誰も答えなかった。
「分かりません」
と、ヤコブが最初に言った。
「そうだね。近視眼的な見方じゃ、分からない。でも、霊界の厳とした法則を知っていれば、はっきりと分かる。その十八人は神様から裁かれたわけではなく自分でまいた種を自分で刈り取っただけだ。その法則には、原因があれば必ず結果が生じ、自分の持っている原因は必ずいつか結果になる」
「じゃあ、やっぱり罪の報いじゃないですか」
ナタナエルが、そう言ってから眠そうに目をこすった。
「まあ、ある意味ではね。その罪も過去世に犯した罪であることは間違いなく、人にしたことは必ず自分に返ってくる。人になした善行もはっきりと自分に返ってくるけれど、悪いこともまた同じだよ。この法則からは、誰ものがれることはできない。これは法則であって、決して神様に罰せられてというわけではない。裁きは神様の権限だって言ったけど、実は神様でさえ神の子である人を裁きはしない。ただ、軽い魂は上に上がり、重い魂は下に沈むように仕組んでおられるだけだ。これが法則なんだよ」
使徒たちは食事の手を置き、じっとイェースズの話に聞きいっていた。
「その因と果が一生のうちにある場合もあるけど、多くは前世と今生にまたがっているものだ。弱いものが虐げられて殺され、その一方で木偶の坊が帝王でござい、裁判官でございとふんぞり返っている。誠実な娘が奴隷になって、どうでもいいような女が着飾っている。こんなのを見たら人々は滅茶苦茶だと思うだろうし、世の中は不公平にできていると思うだろう。でも、それこそ近視眼っていうものだよ。そんな人に限って神を呪い、神なんて存在しないとまで言いだす。でもね、もっと霊的に眼を開いてみれば、分かるはずだ。人が再生転生を繰り返すものだってことは、あなた方も手かざしの体験によってはっきりと分かっただろう。今、奴隷で苦しんでいる人は前世は暴君だったのかもしれないし、悪をしても栄えている人は何かしらの受け取り役なんだろうね。それでこそ公平ってもので、不平等のように見えるけどそれが平等で表面上は不平等である、つまり平等の不平等の平等で、これを神の絶対平等っていうんだ」
「じゃあ、先生。私たちは今先生に巡り会えて幸せですから、前世は善人だったんですね」
トマスが無邪気にそういうので、一同はやっと笑った。そして止めていた手を動かして、みんなまたパンをほおばりはじめた。
イェースズもひとつパンを口に運び、笑って言った。
「私に巡り会えたってことよりも、神のミチに出会えたってことで、神様とのご因縁、つまり前にも言った御神縁が深いんだよ。でもね、油断しちゃだめだ。例のシロアムの塔につぶされた人たちもね、あの事件が起こるまでは幸せに暮らしていただろうね。不幸は突然やってくる」
「え、そんな恐いこと言わないで下さいよ」
マタイが首をすくめるので、それを見て皆また笑った。
「いや、脅すわけじゃないんだけどね、いいかい、あなた方は例えばぶどう園に飢えたイチジクの木に実がならないからって園の主人が切ってしまおうとしたのを、管理人が肥しをやってみるからもう一年待ってくれって頼んだのでかろうじて切られずに済んでいる、それと同じかもしれないよ。みんな誰だって前世で悪いことをしていないわけないんだから、まず自分の罪穢をサトることだ。シロアムの塔につぶされた人や昨日の嵐で亡くなった人が前世の罪穢の結果というのは本当かもしれないけど、自分の罪穢を棚にあげて『あなたの不幸は前世の罪穢なんですよ』なんて配慮のかけらもないことを平気で言うのは、同じ穴の狢がよく言うよということになるんだよ。ああ、それなのに、ちょっとこういうことを聞きかじると、不幸な人を見て鬼の首を取ったように『あんた、罪穢が深いんだね』なんて言う。お互い様なんだから、そんなことは人様には言えないだよ。そんなことを人様に言っている暇があったら、まず自分の罪穢をサトりなさいってことだ。そもそも、罪があるから不幸が起こるっていってもだね、それは、さっきも言ったように決して神様が与える罰ではないんだ。神様はきれい好きなお方だから、人の魂が罪で曇ったらとにかくお洗濯してきれいにしてくださる。そのお洗濯ジャブジャブが、あらゆる不幸現象というふうに人間の目には映るんだね。原因があれば結果があるというのも、こういうことなんだ。曇った魂は病気、貧困、争い、災害、そういったものでお掃除され洗濯される。そういったアガナヒをしないと、元のきれいな明かな霊の魂にはならないからだよ。でもそれは、消極的な曇りの消し方だね。それよりもっと積極的に世のため人のために立ちあがって、霊的に人を救って歩くことによって神様の御用をし、さらにみ魂磨きの精進をすれば、どんどん魂の曇りは消されていく。だから不幸現象という結果を招くはずの原因を持っていた魂でも、アガナヒは小さくしてもらえる。つまり大難は小難に、小難は無難で済ませて頂けるんだ。どっちが得かよく考えてみよう」
使徒たちは、何度もうなずいていた。
「と、いうことで話は変わるけど、秋の仮庵祭にはいよいよエルサレムに上ろうと思う」
みんなの顔が、パッと輝いた。
「おお、先生、ついに!」
エレアザルが、喜びの声をあげた。
「これで先生の名声は、天下に広がる」
と、シモンもうれしそうだった。
「出発は一ヵ月後。それまでみんな、ゆっくり休むといい」
「一ヵ月後? 仮庵祭はまだ四ヶ月も先じゃないですか。一ヶ月後っていったら一番暑い時期だ」
と、トマスが言うと、イェースズはにこやかに笑んでぶどう酒の杯を置いた。
「途中、いろいろ寄りたい所もあるんでね。そのくらいに出ないと仮庵祭には間に合わない。まずは、サマリヤを通っていこうと思う」
「え? サマリヤ?」
アンドレが声をあげたのも、無理はなかった。そこは同じユダヤ人でもちょっと毛色が違い、エルサレムのユダヤ教から見れば異端の教えを信じる異教徒とされる人々が住む所だからだ。
だから普通ガリラヤからエルサレムに上る人はヨルダン川沿いに南下して、サマリヤは決して通らない。イェースズが使徒たちを驚かせたのは、それだけではなかった。
「私はエルサレムに、これを打ち立てに行くんだ」
イェースズが懐から取り出したのは、霊の元つ国を離れる時にミコからもらった十字に木を組んだ形象だった。だがそれを見て、使徒たちは口々に、
「先生」
と、叫んで顔を引きつらせた。
「先生、なんて不吉な!」
ペトロも顔を蒼白にさせていた。それは火と水をタテヨコ十字に結ぶ神の御経綸を象徴するものだったが、使徒たちが慌てふためいたのも無理はなかった。
彼らの目から見ればそれは、死刑の道具である十字架にしか見えなかったからだ。そんな慌てる使徒たちを見てイェースズはいたずらっぽく笑い、
「またあなたがたは、人間の考えでこれを見てるね」
と言った。だがイスカリオテのユダだけは、
「大丈夫だ。先生なら大丈夫だ」
と、したり顔で言っていた。
だが彼とて、エルサレムに十字を立てるというイェースズの言葉の真意が分かっていないという点では、ほかの使徒たちと同じだった。そしてそれを、ヨシェもまた悲痛な顔で聞いていた。
エルサレム出発までの一ヶ月間は、何かと慌しかった。エルサレムまでは五日ほど歩けば着くのだからそう遠くはないのだが、なぜか別世界のように感じられる。出発の日が近づくにつれ、日増しに暑くなっていく。
そんなある日、イェースズはカペナウムに集まってきていた弟子団を解散させ、説得してそれぞれの郷里に帰らせた。これには使徒たちも驚いた。
「先生、エルサレムに行くには人数が多い方がいいと思いますけど」
これは、シモンの意見だ。どうも彼はまだ、腹にいち物あるらしい。しかしシモンでなくても、ヤコブなども弟子団をきちんとした形の教団にして、それでともにエルサレムに上った方がいいと言う。
イェースズは黙っていた。教団を作る気はさらさらないことは、もう彼らに何度も言ってきたはずだ。どうしても、彼らは分かってくれない。教団は人知の産物でしかないのだ。
だが、ほかの使徒たちの中には、弟子団は留守番させておけばいいという意見もあった。仮庵祭が終わったら、すぐに帰ってくると彼らは思っているのだ。その根拠として、いつもイェースズのそばにいる一番弟子で、表向きは妻でもあるマリアが留守番なのだ。しかしイェースズは、
「いや、来年の過越しの祭りまで、エルサレムに滞在することになるかもしれない」
と、言った。それも表向きで、師はエルサレムに根拠を移し、いよいよ世界宣教に乗り出すのだと勝手に解釈した使徒もいた。
イェースズがこの教えはやがて世界に広がると言った言葉もガリラヤの田舎でくすぶっている間は実感がわかなかったが、エルサレムに拠点を移すとなるとそれが急に現実味を帯びてくる。ピリポやトマスをのぞいて多くの使徒たちの意識では、エルサレムこそが世界の中心だったのである。
そうして、いよいよ出発の日になった。その前まで、ピリポはベツサイダに、ナタナエルはカナに、そしてアンドレ、ペトロの兄弟、ヤコブとエレアザルの兄弟、マタイは同じカペナウムにあるそれぞれの実家に帰してもらっていた。
そして昼過ぎに、全員がイェースズの家に戻ってきた。
だが、ヤコブとエレアザルは、その母親までもつれてきていた。どうしても見送りたいと言う。エレアザルは使徒たちの中でいちばん若くまだ少年の面影が残っていたりするから、母親も心配だったのだろう。
だが、彼らの父親のゼベダイは一年の大半をエルサレム近くのベタニヤで過ごしているのだから、過保護といえば過保護だった。そんな母親を、二人の兄弟は喜んで連れてきたわけでもなさそうだった。
「母さん、やめてください。お願いですから」
イェースズの家に入るなり、ヤコブとエレアザルはその母親を制止しようとしているようだった。それを振り払って母親は毅然とイェースズの前に来た。気性の激しい女のようだ。
イェースズは初対面ではない。まだヨハネ教団いた時にベタニヤで一度会っている。だが相手は、あの時息子たちといっしょにベタニヤに来たヨハネ教団の幹部と、今の息子たちの師が同一人物とは分かっていないようだ。
ヤコブの母親は、家の前でひざまずいた。
「ゼベダイの妻で、ヤコブとエレアザルの母のサロメです」
かのエジプトの尼僧と同名だが、この国では名前の種類の絶対数が少ないので同名が多く、従ってそのことはあまり意識されない。現にイェースズの嫁姑が同じマリアだが、そのようなこともこの国では珍しくない。
「これは偉大な師、せがれどもがいつもお世話になっています」
イェースズは慌てて、その婦人の前に腰を低くした。
「いえいえ、こちらこそご主人のゼベダイのお志には、いつも感謝申し上げております」
「ところで師」
ヤコブの母サロメの口調が急に代わり、イェースズを見上げるようにした。
「エルサレムに行かれるとのこと、おめでとうございます」
別にエルサレムに行くくらいでおめでとうは大げさだなとイェースズは思っていると、サロメは声を落とした。
「エルサレムにユダヤ人の王国を立てた暁には、うちのせがれをいちばん近い側近にしてくださいね」
ユダヤの王国など打ち立てる気などさらさらないイェースズは、ただ笑っていた。ヤコブもエレアザルも困りきった顔で、母親の後ろにつっ立っていた。イェースズはあくまでも穏やかに、微笑んでサロメに言った。
「あなたは私がしようとしていることを、よくお分かりになっていないようですね」
「は?」
怪訝な顔で、サロメは口を開けてぽかんとした。そこでイェースズはそれを飛び越えて、その後ろにいたヤコブとエレアザルの兄弟に言った。
「あなた方は私がしようとしていることを理解して、共についてきてくれるね?」
「はい、もちろんです」
と二人の兄弟は答えた。
「確かに、あなた方ならついてくるでしょう。しかし、私が言う神の国での地位は私が決めるのではなくて、神様のみ意一つですよ」
イェースズはとりあえず、それだけを言ってサロメには帰ってもらった。そのあとすぐに、使徒たちは庭に出た、ヤコブとエレアザルもっしょだった。
そこへ妻マリアが、もてなしの小料理を持って入ってきた。そして、サロメと何やら話を始めていた。だがイェースズの関心は、外の方へあった。部屋を出る時の使徒たちから、何やらどす黒い波動を感じたからだ。
そこでイェースズはサロメとマリアの話の区切りを盗んで、外へ出てみた。案の定、ヤコブとエレアザルはほかの十人の使徒に囲まれて、何やら論争をしていた。
「あなたがたは何かね」
ヤコブたちに先頭に立って意見しているのは、ペトロだった。
「あんたたちも先生がおっしゃるように、物質的な欲はもう超越していたと思っていたのだがね」
「ちょっと待ってくれ」
ヤコブが慌てて答えているうちに、皆は出てきたイェースズに気づいた。
「この二人を責めちゃいけないよ」
照りつける陽射しの中で輝きながら、イェースズは涼しい顔で言った。
「この二人のお母さんがどうも誤解されているようで、決してこの二人が私におべっかを使って取り入ろうとしたんじゃない。そんなことをしたって無駄だってことは、この二人がいちばんよく知っている」
「その通りです」
ヤコブが、力強く答えた。イェースズはさらに使徒たちに言った。
「エルサレムに行くといってもだね、地上的な王国を築きに行くんじゃないってことは、あなた方ももう分かっているはずだ。地上の王国での重職は、神の国でもまた重職かというと、そんなことはない。地上の王は威張って人々を虐げるのが多いけど、神の国でいちばん偉いのは心の下座ができた人だ。前にも湖畔で、決して卑下ではなくて自分をいちばん低くする人が、天国ではいちばん上に上げられると言っただろう。だから、どこまでも人様に下座して、奉仕する事が大切なんだ。世のため人のためなら何でもさせて頂きますって想念が大事で、それが神様の御用は何でもさせて頂きますってことにつながるんだよ。自分は神様の御用がしたいって人でも、とにかく神様だけ、『世の中? 知らないね。他人? どうでもいい』なんて人は、神様の御用なんてさせて頂けるものじゃない。よしんばさせて頂いていると思っていても、それは自己満足なんだよ。下座していれば、やがて神様が吹きあげてくださる。私だって、群衆が私に仕える事を望んではいないし、そんなことのためにこの世に来たんじゃない。むしろ私は人様に仕えるため、すべての神の子の僕となって仕えるためにこの世に派遣されたんだ」
イェースズの家の玄関前の路上に立ったままイェースズの話を聞いていた使徒たちは、皆うなだれて沈黙していた。やがてペトロが顔をあげ、ヤコブの前に出て頭を下げた。
「誤解してすまなかった。許してくれ」
謝られたヤコブたちの方が、かえって恐縮していた。ほかの使徒たちもペトロに倣い、それを見てイェースズは大声で笑った。
「さあ、これで和解成立。大調和の神様の御想念と一体化できたね」
それからイェースズは、そのまま十二人を連れて湖畔に出た。
イェースズはその風景を、目に焼きつけた。使徒たちは、これまでも何回か旅に出たその旅立ちの時と同じような感覚でいるようで、今度は今までよりちょっと長くなるなくらいにしか考えていない。
だがイェースズは、この故郷の風景をしっかりと目に焼きつけておく必要があるように感じられてならなかった。いや、感じられるというより、知っているといった方がいいかもしれない。長く離れていたこの故郷に帰ってきてから約二年、そこに自分の人生が凝縮されているような気がする。
しかし、これからが本番なのだとも思う。いよいよエルサレムに上る。十二歳以来のエルサレムで、確実に何かが自分を待っているとイェースズは思った。そして希望とともに一抹の不安もあった。
夜。
明日になれば出発である。イェースズはいつまでも起きていた。狭い部屋に雑魚寝している使徒たちも、眠れずにいるようだった。あちこちでため息や寝返りの音がする。
イェースズは外に出て、夜空を眺めた。月が大きく明るかった。いつの間にかそばに、妻マリアが来ていた。
「何だ、まだ寝ていなかったのかい」
今のマリアは、自分の心中をあからさまに吐露するような性格ではなくなっていた。
「君も必ず後から来てくれ。待ってる」
とだけ言った。マリアは、静かにうなずいた。それはあくまで妻ではなく、もう一人の使徒としての態度だった。




