金持ちと天国の門
イェースズは再び、使徒たちを連れて旅に出た。
使徒たちの何人かはてっきりエルサレムに上るものと思っていたようだが、イェースズはまだ時ではないと言い、行き先は相変わらずガリラヤの中をめぐるのだと使徒たちには告げた。
「先生はいつになったらエルサレムにお上りになるのですか? そのつもりはおありなのですか?」
小ヤコブが歩きながら食ってかかったが、その質問は使徒たち全員の気持ちだった。だがイェースズは笑っているだけで、黙って歩いていた。
一行はまず、ガリラヤ湖の最南端に達した。ここからヨルダン川が南に向かって流れている。だがイェースズは、湖の東岸のデカポリスに行くと言った。デカポリスの領域内に入るのは、墓場でローマ兵の霊に憑かれた男を癒して以来二度目であった。
最初の村に入った時、一人の少年がイェースズを見つけた。そして驚いた顔をして、町中に触れ回り始めた。
「ガリラヤのイェースズ師だ!」
たちまちにどこから湧いたかと思われるような人々が、それぞれの家から飛び出してきた。イェースズの顔を見ただけでそれと分かるということは、噂だけではなくイェースズの似顔絵までもが流布しているようだ。
人々は大騒ぎだ。
「ありがたい」
「おらたちの村にも来てくれるなんて」
人々は押し合いへし合いし、寄ってたかってイェースズの衣に触れようとする。ガリラヤ、特に故郷のカペナウムではまるでイェースズの存在は忘れ去られたかのように、人々の熱狂も沈静化していたが、かえって異郷の方で根強いイェースズ崇拝があるようだ。
「お願いします」
口々にそう言って、早速人々はそれぞれの体の不具合を訴えだした。また、経済的困窮や不和などを訴えるものもいる。
イェースズは使徒たちと手分けして彼らに神の光を与え、病を癒すとともに魂を浄めていった。
群衆といっても小さな村なので、せいぜい七十人ほどだった。
そしてその中にパリサイ派の律法学者がいることに、イェースズは気がついた。どこの町にいっても必ずついてまわってくるのがこの律法学者だ。彼らの間でネットワークのようなものができていて、イェースズへの警戒が叫ばれているのかもしれないとさえ思ってしまうほどだ。
イェースズを素人から身を起こした新興宗教の教祖とみなし、自分たちは既成宗教の伝統の権化のようなつもりでイェースズを論破しようと息巻いている。
だが、この村の学者は背が低いだけでなく、腰が低かった。恭しくイェースズの前に出ると、
「イェースズ師よ、実はあなたに教えてもらいたいことがあるんだが」
と言った。態度こそ慇懃だが、その目には明らかに敵意が表れていた。
「何でしょう?」
敵意に対して敵意をもってせず、イェースズは愛和の笑みを向けた。
「あのう、離婚についてですが、あなたはそれを許されますか?」
「モーセの律法には、何と書いてありますか?」
「あなたもご存知でしょう。妻のことが原因で離婚するなら、その理由を書いた離縁状を渡しなさいとなってますね。その時に書くのがどういう理由なら離婚は許されると、あなたはお考えですか?」
それは学者の間でも時々議論のたねになるものであることを、イェースズは知っている。この学者は自分たちの仲間内での議論を、イェースズにまで吹きかけてくるつもりらしい。自分たちの高尚な議論をこの素人に持ちかけて辟易させ、天狗の鼻をへし折ってやろうという魂胆であることは見えみえだった。
しかしイェースズは、落ち着いていた。
「モーセの時代ではですね、離婚が許されないからと言って腹いせに妻を虐待するものがいると困るので、離婚が許されたのですよ。その時も、夫の一方的なわがままで女が離婚されないように、理由を記した離縁状を書けとこうなったのですね。でもそれはモーセの時代だからこそ許されたことで、神様の御経綸は日々進展しているんですよ。いつまでも同じと思ったら間違えます。その時代では真理でも、現代では御経綸にそぐわなくなっているということも多々ありましてね。モーセは偉大な預言者でしたけれど、どの預言者もその時代の教えを説いているわけで、それが何千年かたってカビが生えて、人知も加わっているのにいつまでもそれにしがみついているのはおかしいですよ。刻々と進展する神様の御経綸に乗り遅れますよ」
学者の顔は、ちょっぴり曇った。
「神様の真理は、万古不易、永遠に普遍のものじゃあないんですか?」
「その通りです。神様は天地初発の時からのミチの本源で、その教えは古くして永遠に新たなるミチですからね、神理は不変です。では『創世記』には結婚について、どう書いてありますか?」
学者は一瞬黙った。先にイェースズの方が言った。
「人はその父母を離れて妻と結ばれ、二人は一体になる」
聖書の箇所がすぐ出てこなかった職業上のばつの悪さに、学者は苦虫を噛み潰したような顔で黙ってしまった。
「結婚というのは、前世からの契りなんですよ。因縁の世界ですね。双方の家の浄まり具合が相応となれば、神様が結ばれるんです。私はこの世の制度の結婚のことを言っているのではなくて、魂のレベルのことを言っているのですよ。人は結婚すれば、目に見えない霊波線という線でつながるんです。親子や兄弟、友人ともつながっていますが、夫婦の霊波線は最初は細くても、次第には親子以上になってしまいます。そして友人などとの霊波線は人間が勝手に切ることはできますけど、親子や夫婦の霊波線は人間が勝手に切ることは許されていません。それは、神様が結ばれたものだからです」
それからイェースズは、その場に居合わせた村人たちにも呼びかけるように言った。
「皆さんもお聞きください。夫婦とは二つで一つ、霊的には完全に一体なんです。火と水が一体となって万物が生成されるように、タテとよこを十字に組んで愛和の天国を作る責任が夫婦にはあるんです。家庭は社会の最小単位ですから、天国の礎も家庭の夫婦にあるってことになりますね」
「あのう」
イェースズのそばにいた若者が、声をかけた。
「そんなに重い責任が生じるのなら、最初から結婚しない方が楽なんじゃないですか?」
イェースズは笑った。
「確かにね。でも、ほとんどの人は一人では生きていけないんじゃないですか。火だけ、水だけではものは生まれないんですよ。火は水によって燃え、水は火によって流動するんです。一人でも生きていける人は特別な恵みをもらった人で、いろいろ事情があって結婚しない、あるいはできないという人、もしくは一生を神様に捧げて結婚しないって人もいることは否定しませんが」
その時、イェースズのすぐ足元で二人の子供がちょろちょろと追いかけっこをしてはしゃいでいた。この村の子供のようだ。すると村人の年寄りが、その子供をイェースズから遠ざけた。
「こら、子供の来る所じゃない、あっちで遊んでいなさい」
イェースズはその年寄りの肩に、そっと手を置いた。
「子供たちを追い払ってはだめですよ。そのままにしておいてください」
そしてイェースズはその子供のうちの一人を抱きかかえた。
「皆さん、私は使徒たちにも言ったんですけど、天国というのはこのような子供たちのものなんですよ。つまり、みんな悔い改めて、この子供のようにス直に神様を受け入れなければ天国には入れませんよ」
イェースズはその子供を地面に下ろし、頭に手を置いて霊流を送った。そして、再び村人たちを見た。
「さっきの話の結論としましてはですね、結局離婚したりその後で別の人と再婚したりしたら、それはそのまま十戒で禁じている姦淫の罪になるんですよ」
だが、律法学者の姿は、もうそこにはなかった。
翌日からイェースズたちは、ガリラヤ湖の東岸を北上した。早朝明けやらぬうちの出発だった。さもないと、村人たちはすんなりとイェースズたちを旅立たせてはくれそうもなかったからだ。
緑多い西岸と違い、こちらは岩がちな山が湖を見おろしている。その山の下と湖までの間にわずかに耕地があり、村落もそこにあった。時には山の上の方が切り立った崖になっているところもあった。
そんな崖の下を歩いて次の村まで来た時にはすでにうわさは広まっていて、村に入るや否や人々は早速イェースズ一行を取り囲んだ。
真っ先にすがってきたのは、一人の若い男だった。男は家の前まで来るとひざまずいて言った。
「私の話を聞いてください」
「何でしょう」
いつものようにニコニコしながら、イェースズは男を慈愛の目で見た。
「父が死にました。でも兄がその遺産を全部取ってしまったんです。どうか兄を説き伏せて、ちゃんと遺産を分配するように言ってくださいませんか?」
イェースズは苦笑した。
「あのう、私はこのような事件の調停員じゃあないんですよ。村のお役人にでも言ったらどうですか?」
「どうか、兄に神様の道を説いて回心させてほしいんです」
「あのですねえ。私は道を求めてきた人には神のミチを説きますけれど、こちらから無理に聞くことを強制したりはしないんですよ。一人一人の自覚によって自分の利己愛のベールを溶かしていかなければならないわけで、私の教えを聞いたとしても結局は自分にかかっているんですね」
「では師、あなたは私を救うことはできないと言われるんですか?」
「あなたは今、生活に困っているんですか?」
「いえ、そんなことは」
「一応食べていける経済力はあるんでしょう?」
男は静かにうなずいた。
「じゃあ、それで十分じゃないですか。どうしてそれ以上のものに、執着を持つんですか?」
イェースズは男を立ち上がらせ、すでにイェースズの周りに人垣を作りつつある人々を見回して、その村人たちににこやかな笑顔で言った。
「皆さん。真に言っておきますけど、ご自分の生活が満たされているのなら、それ以上のものをむさぼる心には注意してくださいね。すでに与えられている物への感謝、それが大事ですよ。神様は人類がかわいくてしょうがないから、どんどんどんどん何から何まで与えてくださっている、それに手を伸ばさないで、ほかのものをむさぼるとはどういうことでしょう。どんなに貧乏でも、犬や猫とは桁が違いますよ。神様からは一切を与えられているのに、何をまだ不足を言うのですか。感謝もしないで不平不満でむさぼれば、決して満たされはしません。今、大きなお城に住んで、毎日おいしいものをお腹いっぱい食べて、黄金の部屋の柔らかなベッドで美女に囲まれて休む、そんな生活を思い浮かべて、そんな人はなんて幸せなんだろうって思うでしょ? 思いますよね?」
村人たちは、遠慮してか誰も答えなかった。イェースズは笑いながら話を進めた。
「皆さん、謙虚ですね。でも本当は思うはずですよ。でも、もし仮にそんな生活を明日手に入れたとしましょう。まあ、最初のうちは有頂天になってそんな贅沢に酔いしれているかもしれませんけどね、そのうち飽きてきて、もっとすごいものがほしくなるんですね。黄金の部屋は飽きた。壁にダイヤをちりばめたい。美女に取り囲まれているといってもどうも年増だ、もっと若いのがいいとかね、どんどんどんどん欲望はエスカレートします。そうして、それがかなわないとですね、言っちゃ悪いですが皆さんにとっては夢のまた夢の御殿の黄金の部屋の柔らかなベッドの上で『私は不幸だあ~~』なんて言って泣くんですね」
これは人々に大ウケで、皆は一斉に笑った。
「欲望というのは、満たされないものなんです。満たされても必ず新しい欲望が出て、それで文句を言っている。悲しいかな、人間なんてそんなものですよ。どんな財産だって、命ほどの重さはないんです」
最初、人々は笑った余韻でざわついていたが、やがて静まりかえった。
「皆さんは、よく言うでしょ。私の家とか、私の体とか、でも、実はみんな神様からお貸し頂いているんですよ。何一つ自分のものなんてないんです。すべては神様からの拝借物なんです。私の家は大工でしてね、今は弟が継いでますけど、大工が家を建てたってそれは材料を加工して組み立てただけですね。何もないところから物を生じせしめられるのは神様だけです。人間はどんなにあがいたって、何もないところからは眉毛一本、ケシの種一つ作りだせないんです。体だってそうです。私の手、私の鼻なんてよく言いますけど、体でさえ神様から一時お借りしているんです。だってそうでしょう? 皆さんの体をお創りになったのは神様でしょう? 自分で作ったって人、いますか?」
人々は、忍び笑いをもらした。
「いませんね。当然です。いえ、両親が作ったって方もいらっしゃるかもしれませんけど、親は産んだだけで、子供を創造してはいません。だってそうでしょう? 皆さんの中で子供を生んだ方、お子さんをこんな顔にしよう、ここに目をつけて、こんな形の鼻になんて考えて作りましたか?」
人々はまたどっと笑った。
「誰もいないでしょう? よかったですね。もしそうならば、不細工な顔だったら親が怨まれることになって、親としてはたまったものじゃあないですよね」
また、笑いの渦だった。
「ですから、皆さんの体も神様からお借りしているんですね。この世での生活が終わったら、体はあの世に持っていかれないでしょ。その時はお返しする、つまり土に還るんですね。もともとは神様が、土から創られたのが人間ですからね。あの世へは霊魂だけが行かれますけど、じゃあその霊魂も自分で作りましたか? 神様は土で創った人間の体に、神様の霊をひきちぎって命の息として入れてくださったんですよね。そうなると、魂も神様のもの、つまり自分のものなんて何一つないんですね。自分なんて、ないんですよ。こう考えたら、ものごとへの執着など起こるはずがないでしょう。執着なんて、ありもしないものをあると思っているから生じるんです」
人々の何人かは、まだ腑に落ちないというような顔をしていた。そこでイェースズは語調を緩めた。
「いいですか。あるお金持ちがいましてね、その年も豊作で有り余るほどの財産が手に入って、もとの倉にはもう入りきれないくらいになったのでもう一つ新しい倉を造ったんです。そして自分の莫大な財産を見つめては、『もうこれで何年かは遊んで暮らせる』なんて考えていたんですね。それをご覧になって神様は何て言われたかというと、『愚かだなあ。おまえの霊魂は今夜肉体を離れて幽界に行き、肉体はお墓に入ることになっているのに、この莫大な財産はどこに行くのだろう』て言われたんですよ。ですから、自分のために財産を蓄えても何にもならないんです。もっと神様第一、神様中心に考えて、一切の執着を断つことですね」
イェースズはその村ではそれだけ語ると、あとはいつものように癒しの業を施した。人々の訴えに心から同情して、手をかざすのである。奇跡はたちどころに起きた。
その村には一泊だけして、イェースズたちはさらに北上した。カペナウムを出てから、もう五日くらいたっていた。
次の村は、湖からすぐの所にあった。ここで船を借りて、イェースズたちは今日中にカペナウムに帰る予定でいた。
その岸辺の村に着いた時、一人の若者がイェースズの前に小走りで現れた。
「イェースズ師ですね。お願いです。教えてください」
イェースズは立ち止まった。眼前には湖水が、青々とした水をたたえている。その向こうにはっきりと見える対岸に横たわる丘陵はガリラヤだ。
「何でしょう?」
イェースズは相変わらず微笑んで青年を見た。
「どんなよいことをしたら、死んだ後に天国に行けるんですか?」
「あなたは、どんなことをよいことだと考えていますか?」
青年は少し目を伏せた。
「例えば、毎日神様に祈ることですかね」
「それをよいことと考えたのは、なぜですか?」
「しないよりもいた方がいいに決まっているからです」
イェースズはゆっくりと微笑んでうなずき、青年の目を見据えた。
「こっちと比べてこっちの方がいいなんていう相対的な『いいこと』では、あまり意味がありませんね。だいいち、死んだ後に天国に行くためにいいことをするんですか? それじゃあ、あなたは死ぬために生きているんですか?」
「え、そんなことありません」
「そうでしょう。死んだ後にああなるこうなるということで、教えを広めるのは私は好きではありませんしね。人間は生きているうちに、つまりこの世で幸せにならなければ神様に対して不孝だし、この世を天国にするのが神様から人間に与えられた使命です。この世で幸せになって、この世に天国を作り、この世での命を精一杯生きてはじめて天国に入れるんです。死んでから天国に行くためにいいことをするなんて、はっきり言って動機が不純ですね」
「そうですか。師。私はお金も財産もありますから、一応幸せだと思います。じゃあ、天国に行けますね?」
青年は今一つ、イェースズの話が分かっていないようだ。
「お金があることが、幸せですか?」
「はい」
イェースズはニコッと笑った。
「そう思ううちは、本当の幸せは遠いですね」
「じゃあ、もっと何をすればいいんですか? もったいぶらないで教えてください。あなたほどの素晴らしい師はいないって評判なので、わざわざ来たんですから」
「私が素晴らしいって言ってくださるのはうれしいですし、ありがたく思いますけど、これも『ほかの人に比べたら』という相対的なことでしょう? でもあなたが心と魂を向ければ、相対的でなく絶対的に素晴らしいお方の教えを聞けますよ。そのお方こそが、神様です。神様は、絶対的に素晴らしいんです。ですから天国に入るためには、その神様のみ意を日々の生活の中で実践することですね」
「例えば?」
「人を殺さない。姦淫しない、盗まない、うそをつかない、両親を敬う」
「ちょっと待ってください」
青年はイェースズの言葉を止め、語気を荒くした。た。
「それは十戒じゃないですか。そんなの小さい時からずっと守ってますよ。イスラエルの民なら、守って当たり前でしょう?」
イェースズは青年の服装を見た。確かに上流階級の御曹司のようだ。
「あなたにはまだ、一つ足りないものがありますよ」
「え? 何ですか?」
「あなたの家には財産があるって言いましたね。それを世のため人のために使って、すっきりしてから私についてくるんですね。そうすれば、天の倉に宝を積むことになりますから」
すると見る見る、青年の態度が豹変した。
「やっぱりそうだったのか」
イェースズはすでに、その青年の心の中を読み取っていた。
「やっぱりって、そのやっぱりは当たっていませんけどね」
「いや。やはりあんたたちは金儲け主義だ。私が財産を持っていると口をすべらした途端に多額の献金を要求して、それを出さないと救われないとまで言った。結局は、どんなにいい教えを説いているふりをしても、信者から金をまきあげるのが目的だというのは見え見えだ」
イェースズは落ち着いて、笑顔を崩さずにいた。
「私は、世のため人のためと言ったんですよ。私にくれとは言っていません」
「そんなの詭弁だ。最初だからそう言うのさ。そのうち本性をむきだして、多額の献金を要求してくるに決まっている。それを断ると、破門とかにするんだろう。よく分かった。もう、いい」
青年は踵を返した。そのやり取りを、使徒立ちは唖然と見ていた。イェースズはほんの少し苦笑をしたもののあくまで落ち着いて、その後で突然その場に伏して祈りだした。真剣に何かを神に詫びているようだった。その青年の想念を神様に対して詫びているのだろうというのは弟子にもすぐ分かったが、祈りが終わってからイェースズは待っていた使徒たちに、ばつが悪そうに言った。
「金儲け主義だなんてもし思わせてしまったとしたら、それ自体で罪になるんだよ。それを詫びていたんだ」
そしてイェースズは使徒たちと船に向かった。船に乗りながら、イェースズは使徒たちに言った。
「ちょうど今の若者が来たから思い出したけど、この前の例え話、あったよね」
ナタナエルが、応えた。
「ああ、あの倉の中で金を数えていた爺さんの話ですね」
「そう。あれをもう少し詳しく言うとね、その人は以前私の所へ、足が痛いから何とかしてくれと言ってやってきたんだ。そして自分が金持ちであることを自慢するから、そのお金を世のため人のために使ったらどうですかって今日のように言ったら、やはりそのおじいさんも怒って帰っていってしまったんだ。それからしばらくしてから、その爺さんの近所の人に爺さんのことを聞いたら、倉の中でためた金貨を数えて喜んでいるうち、倉の中から火が出ておじいさんは倉の中で焼け死んだってことだった。私がはっきりとお伝えしなかったばかりに尊い命が失われたのだから、その後は私もさすがに少し落ち込んだよ」
「でも、自分の喜びの元である金倉の中で死んじゃうなんて、そのおじいさん馬鹿ですね」
小ヤコブが、そう口を挟んできた。
それには少しうなずいただけで、イェースズは話し続けた。
「そうしたらしばらくたって、ほかの人の眉間に洗礼の業を施していたらね、そのおじいさんの御霊が出てきたんだ。そして言うには、『今は炎に焼かれる地獄に落ちている』ということで、自分の執着心が炎となって自分を焼いているんだね。この世では炎に焼かれたらすぐに焼け死んじゃうけど、あちらではもう死なないんだからその苦しみは永遠に続くんだ。そしてさらにおじいさんの御霊は『エレアザル、エレアザル』って叫ぶんだよ」
使徒たちは一斉に、使徒のエレアザルを見た。
「私も最初はこの使徒のエレアザルのことかなって思ったんだけど、どうも別人のようで、聞くとそのおじいさんが生きていた時にお屋敷の門の前に住みついていた浮浪者の名前だって言うんだ」
浮浪者と聞いて、皆もう一度エレアザルを見てどっと笑った。エレアザル自身も照れて笑っていた。
「それで、その浮浪者のエレアザルももうすでに死んでいるのだけど、かなり高い世界に行っているってことで、このおじいさん、生きている時はエレアザルにびた一文恵んでやらなかったくせに、その時になってエレアザルに救ってほしいと頼んでいるんだよ。だからそんな虫のいい話はできない相談だよと懇々とサトしておいたんだけど、今度は私に向かって、エレアザルを生き返らせてやってくれって言うんだ。そして生き残った遺族に、『自分と同じようにお金に執着していたら地獄に落ちるぞ』とエレアザルに伝えてくれるように言ってくれって言うんだね」
「それで、先生はなんて?」
と、トマスが口をはさんだ。
「そんなことをしなくても、生き残った方々に聖書を読んでもらえばそれでいいって言ってあげたんだ。それなのにおじいさん、死んだ人が生き返って何とか説得した方が効き目があるって言って聞かないからね、聖書が受け入れられない人には死んだ人が生き返って何を言っても無駄ですよって言ったやったけど」
一行は全員船に乗り終わったので、ペトロが帆を上げた。
船が湖水の上に出てから使徒たちはイェースズとともに甲板に座った。
「先生、さっきの話ですけど」
と、マタイがイェースズに尋ねた。
「金持ちであるってことは、悪いことなんですか?」
「いや、決してそうではない。金持ちだってことは、その家の先祖が善徳を積んできたという家で、その因縁によって善行の受け取り役になっているってことだ。しかし有り余るほどの財産を築いた人に限って、お金に執着するんだね。そこで、ご先祖様のお蔭だということへの感謝の思いを忘れ、自分で築いた財産だと思いこんで、自分の欲望を満たすためだけにそのお金を使う。人は神様と波調が合い、この世での仕事の御用が神様の御用と一致すれば、神様からいくらでも与えられて食うには困らない。しかし、もっともっと自分が一生使いきれないほどの莫大な量の財産があると、その人のつまずきになる。だいたい財をなしているということは、善徳の結果であると同時に、どこかで人を苦しめた結果なんだね。そんな物質欲旺盛な人は、やはり救われは難しいだろう」
「貧しい人は幸いっていうのは、そういう意味だったんですね」
マタイが言った。イエスはうなずいた。
「いいかい、針の穴に糸を通すのってたいへんだよね。器用じゃないとなかなか通らない。でもね、金持ちが天の国に入るというのは、その針の穴に糸じゃなくって綱を通すようなものだよ」
「え?」
ちょうど船の上に丸めてあった綱を見て、ペトロが驚いたような顔をした。
だが、小ヤコブは怪訝な顔をして、とぼけた口調で言った。
「ガムラって、あの動物のラクダですか? いくらなんでも針の穴にはラクダは通れないでしょう」
イエスは大声で笑った。
「動物のラクダじゃない。船をつなぐ方の綱だ」
たしかにラクダも綱も、アラム語では同音異義語の「ガムラ」である。
「ま、ラクダも背中のこぶが邪魔になって針の穴を通れない」
「とんだガムラ違いでした」
恥ずかしそうに頭をかく小ヤコブの様子とイェースズの駄洒落の冗談に、船上は一気に笑い声が満ちた。
アンドレがイェースズに言った。
「つまり、お金の心配をしちゃいけないってことですか?」
「まず神の国と神の義を求めれば、この世で必要なものは与えられる。いやもう実は、与えられているんだよ。人々が手を伸ばさないだけだ。それなのに手も伸ばさないで不平不満を言っているようでは、何をかいわんやだね。神の国と神の義を求める、それはあくまで神様第一に、霊的なことに主眼を置く神主霊主の想念に切り換えていくことで、そうすれば現界的なものは何ら心配することなく無尽蔵に与えられる。それが与えられずにいるというのは、どこか神様のミチから外れている証拠だからよく反省することだ。ただし」
イエスは口調を強めた。
「今貧困で苦しんでいる人に向かって、『あの人は神様のミチから外れてるんだ』なんて思いを持って裁いたらだめだよ。それでは彼らを罪びとと言って差別しているパリサイ派の学者さんたちと同じになってしまう。まずは、救いの手を差し伸べる。こういったことを説いて差し上げるのはそれからだ。私が言っているのは、他人がどうのこうではなくて、自分のことを考えなさいってことだ。要は生きていくために必要なものは神様の道を歩んでさえすれば神様より与えられる。神様はあなた方が今何を必要としているかよくご存知だ。だから、ぴたっと与えてくださる。お釣りがないくらいにね。ただそれには、神様と波調が合っていることが必要だ。だから、どうしたらお金を儲けられるかなんてことはきっぱりと考えることをやめて、どうしたら神様のみ意と合い、波調を合わさせて頂けるか、それだけを考えていればいい。あなたがたはみんな自分の仕事を捨てて私に従ったが、私に従ってから今まで一度でも食うに困ったことやひもじい思いをしたことがあったかい? どうだい、ユダ」
話を振られたイスカリオテのユダは、
「ありませんでした。毎日来られる人々のお志や、マタイやヤコブのお宅からのご寄付で十分です」
と、表情も変えずに言った。
「先生」
ペトロが顔を上げ、得意げに言った。
「私なんか親も妻も放っておいて、先生に従ってます」
イェースズはそれを聞いて一瞬困ったような表情をしたが、すぐに笑顔に戻った。
「あのねえ……。真に言っておくけど、あなた方はこの世で報いを求めちゃいけない。何かいいことをしてもこの世で報いを得てしまったら、神様からのご褒美は頂けない。まあ、神様からのご褒美目当てでいいことをするっていうのも、また違うけどね。他の人の見ていないところでこっそりと悪いことをする人ならたくさんいるけど、神様はちゃんとご覧になっている。それと同じで、ほかの人の見ていないところで善行を積む、つまり陰の徳を積むのも神様はご覧になっている。そして神様がいちばんお喜びになるのは、そのような陰の徳だね。だから前に、右の手でいいことをしたのを左の手にさえ知られないようにしなさいって言ったんだ。報いを求めちゃいけない。あなたがたを人々の間に遣わした時にも、業を施して病気が癒されても決してお金を受け取らないようにと言ったはずだ。お金をもらうとそれで報いは受けてしまったから、天の倉に宝は積めない。そればかりか、そういう時のお金の動きには、相手の悪因縁まで乗ってくることがあるんだ。それを受け取ってしまうことにもなるんだよ。あなたがたはただでもらったのだから、ただで与えなさいと言っておいた。もう与えて与えて与えて与えて、与えっぱなしにしていればいいんだ。神様は、霊的な意味で百倍にもしてお返しくださる。神様は犠牲がお嫌いなんだ」
イスラエルの風習として、羊など神に犠牲の動物を捧げるのは習慣となっていただけに、イェースズのこの言葉は実に意外ではっと全員でイェースズを見た。
「いいかい、誤解しないようにね。私が言いたいのは、神様は犠牲がお嫌いだからやめなさいということじゃあないんだよ。神様は人類が神様に向けてなした犠牲を、犠牲のまま終わらせてしまうのがお好きではないということだ。だから神様に犠牲をしてそれが正しい犠牲なら、神様は数百倍にしてお返しくださる。それからペトロ、そしてまた何人にかには言っておきたいことがもう一つある」
「何でしょう?」
ペトロは表情を引き締めた。
「あなたがた十二人はずっと最初の頃から私といっしょにいるし、またペトロやアンドレ、ヤコブとエレアザル、ナタナエル、ピリポ、この人たちはヨハネ師の教団でもいっしょだった。小ユダヤ小ヤコブは生まれた時から私のそばにいる。でもね、いくら私とともにいる年数が古くても、熱く信仰をしてなければ救いはない。後のカラスが先に立つこともあるから注意なさい。油断禁物だ」
「後のカラス?」
ピリポがそう言って首をかしげたが、みんな同様に怪訝な顔をしていた。
「信仰には、古い新しいってことは関係ないってことだよ。これから後にひょろっと来たものが、霊的にはあなた方よりずっと昇華するってこともあり得るんだ。極端な話、私を直接知らないずっと後の人が、あなたがた以上に私の教えの伝道者になるかもしれない」
「そんなことがあるんですか?」
トマスが言うので、イェースズは笑った。
「こういう話がある。あるぶどう園の主人が労働者を雇いに朝早く出かけて、何人かを雇ってきて一デナリの報酬を約束してぶどう園に行かせたんだ。そして昼前にも何人かの労働者を市場で見つけてぶどう園で働くように誘い、午後にもまた同じように何人か雇ったんだ。そして夕方になってぶどう園に行って、まず午後に雇った人に約束の報酬の一デナリを払って、昼ごろや取った人にもやはり約束の一デナリを払ったら、彼らは夕方来た人よりも多く働いたのだからもっともらえると思ってただけに文句を言い始めた。そして朝早くから働いていた人にも一デナリだったから、朝一からの人たちは怒りだした。一日中働いていた自分たちと、午後になってから来た人と同じ一デナリとはどういうことだってね。あなた方はどう思う?」
「そりゃ、怒るでしょう」
イスカリオテのユダがそう言い、ほとんどの人がそれに同調した。
「でもね」
イェースズは笑いながら続けた。
「その主人は言ったんだよ。朝早くに雇う時に、報酬は一デナリだとちゃんと言ったはずで、約束は守ったのだから文句を言われる筋合いはないってね。それに、午後から来た人も、仕事の質は朝早くから来た人に劣ってはいなかったとも言ったんだ。だから、神様の御用をさせて頂くに当たっても、早い、遅いは関係ない。要は信仰がどれだけ熱く燃えているかだね。後のカラスが先に立つとは、こういうことだよ。むしろ、罪穢が深い人から順番に、神様は先に私の所に来させたのかもしれないよ」
穏やかな風を受けて、船は湖上を滑っていった。




