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人間・キリスト  作者: John B.Rabitan
第3章 福音宣教時代
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七の七十倍

 数日後のある日、何やら外が騒がしいとイェースズが思っていたら、そこへちょうどピリポが外から帰ってきた。


「外が騒がしいようだけど、何かあったのかね?」


 と、イェースズはピリポに尋ねてみた。


「何でもパン泥棒が捕まって、裁判に連れて行かれるようです」


 それを聞いて、イェースズは立ち上がった。


「その裁判に行ってみようか。あなた方も来るかい?」


 使徒たちは全員、行くと言った。


 外に出ると、ほんの少しだけ初夏の香りがあった。ガリラヤ全土を緑が覆い、花が咲き乱れる季節ももうすぐだ。

 裁判は、町の広場で行われていた。それを取り囲んでいるのは黒山の人だかりで、その中にイェースズたちの姿もあった。捕らえられた男はやせ細っていて、立ち上がる気力もないほどに体力的に弱っているようだった。着ているものも、悲惨なほどぼろだ。その男は役人に引きずられる形で、裁判官の前に引き出された。


「裁判官!」


 叫びのような金切り声をあげたのは、でっぷりと太った中年女だった。着ているものからも、裕福な階層の女のようだ。


「この虫けらは、昨日も私の所にパンをもらいに来たので追い払ったのよ。そうしたら今日は、とうとうパンを盗んでいこうとしてね、早くもう牢にぶち込んでちょうだい」


 広場を埋め尽くす群衆は、静かにことの成り行きを見ていた。裁判官は、立ち上がった。


「こいつを、牢にひったてい!」


「ちょっと待った!」


 群衆の真ん中に躍り出たのは、イェースズの使徒のピリポだった。


「被告人の言い分も聞かずに判決を下す裁判なんて、ありますかね!」


「なんだあ、おまえは!」


 裁判官が慌てていると、その耳に役人が何か耳打ちした。


「ああ、おまえはあのいわくつきの新興宗教の幹部だな。また説教でもしようというのか」


 威勢ばかりはいいは、裁判官の額には冷や汗がにじんでいた。ピリポはじっと、そんな裁判官をにらみつけていた。


「わ、分かった。その男の言い分を聞こう」


 男を連行していた役人は、男を小突いた。男はしばらく黙ってうなだれていたが、やがて恐る恐る顔を上げ、ぼそぼそと話しだした。


「私にはパンがないんです。妻も子供も飢えています。私はいい。妻や子供に食べさせるパンがほしくて恵んでほしいとお願いしたのです。でも、誰も見向きもしてくれません。みんな無関心でした。今朝も仕事を探しに行こうとすると、子供たちがお腹をすかせきって泣いているのです。そこで私は殺されてもいいから、この子たちの飢えを満たしてあげようとパンを盗んだのです。でも私はこの女に捕まり、女はそのパンを取り上げて犬にやってしまいました。私は罪を犯したのですから罰せられて当然ですけど、どうか、どうか子供たちに食べ物を与えてやってください」


 その後は、男はただ泣きじゃくるだけだった。裁判官は、無表情で男を見下ろしていた。


「裁判官」


 そう言って前に進み出たのは、一人の律法学者だった。


「モーセの十戒にも、盗んではならないとあります。いかなる理由があろうとも、盗みは神の律法に背く行為です」


「あなた方はもっと、多くの罪を犯しているのではありませんか?」


 そう言って前に出たのは、イェースズ本人だった。


「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神様を愛しなさいと、聖書トーラーには書かれています。神様をそのように愛するなら、なぜ神様がお創りになったすべての人を愛せないんですか?」


「何だ、おまえは。さっきのでしゃばり男の仲間か」


 裁判官はそう言ってから、また役人の耳打ちを聞いた。


「ほう。教祖様じきじきのお出ましとなったわけだな」


「私どもは、そのような宗教ではありませんよ。私は教祖などではありません」


 イェースズはニコリと笑い、言葉を続けた。


「今回の事件で、ここにいる多くの人の中に真犯人がいます」


 人々はどよめいた。


「何を言ってるの? わたしゃあこの男がパンを盗むのを、直接この目で見てるのよ。それにこの男は自分が犯人だってたった今、自分の口で認めたじゃないのさ」


 そう叫ぶ中年女を、イェースズは指さした。


「まず、真犯人の一人は、あなた!」


「な、何ですって? 私は被害者なのよ」


 それを無視して、イェースズは今度は裁判官を指さす。


「それからあなた」


 裁判官は、ビクッと一瞬身を後ろに引いた。


「そしてあなた、それかからあなたとあなた、そしてあなたもだ」


 イェースズは次々に、群衆の中の人々を指さしていった。


「この方が飢えて苦しそうにしているのに、パンを恵んであげなかった人たちです。ほかにももっといます。誰もがこの方に無関心でした。憎んでいたのならまだしも、無関心だった。こんな愛と正反対のことがあるでしょうか? あなた方一人一人がすべて神の子であるように、この方とて神の子です。神を愛せよという律法がありますが、神の子を愛さないで神を愛しているとはとても言えないと私は思います。そうすると、この方を愛さなかった皆さんは、皆律法に反しています。いいですか。無関心とは決して法律で罰せられることもなく誰からもとがめられることはないけれど、実は殺人よりも恐ろしい罪なんですよ」


 中年女は赤面してうなだれ、裁判官は足を震わせていた。イェースズは男に手を貸して、立ち上がらせた。


「今、私の使徒に送らせますから、私の家に来なさい。あなたと奥さんや子供さんへのパンを上げよう。そしてパンだけでなく、もっと大切な命のパンをあげよう。今、あなたは生活が苦しいようですけど、今の苦しみはあなたの罪を許すための神様の大愛のあがないなんですから、苦しい分だけ罪が許されたと喜んで神様に感謝なさい。そして神様の御用に徹していけば、つまりあなたがこの世でする御用と神様の御用が一致すれば、知らず知らずのうちに食べものにも困らない生活になっていきます。あなたは、神様に愛されているんですよ」


 男は何度もうなずき、涙を浮かべて礼を言っていた。そしてイスカリオテのユダを呼んで、男を家に連れて行くよう頼んだが、その前にイェースズは、


「でも、人間の社会の掟では裁判官の判決には従わないといけない。人間の社会に住む以上は人間の社会の掟に従うべきだから、一応裁判官に聞いてみよう」


 と言って、裁判官を見た。


「裁判官、この方の判決に変更はないのですか?」


 裁判官がしぶしぶと、


「おまえの好きにせい。どこへともつれて行け」


 と言ってから裁判官が訴えた中年女を見ると、女も苦虫を噛み潰したような顔でうなずいたので、イェースズはイスカリオテのユダに男を連れて行かせた。そしてイェースズも背中を向けようとしたが、


「ちょっとお待ちなさい」


 と、イェースズを大声で呼び止めるものがいたので振り向いた。さっきの律法学者だった。


「あなた方は何ですか。人の不幸につけこんでて、そうやって自分たちの仲間を増やそうとするのですか。それがあなた方のやり方ですか」


 イェースズは再び、律法学者と群衆の方を向いて立った。


「ではお聞きしますが、あなた方は皆、たとえ不幸につけこんでだとしてでもいいですから、あの方に何かしようとしましたか? さっきも言ったように、愛の正反対の無関心だけだったのではないですか? いいですか、学者さんだけでなくこちらにいる皆さんにもお伺いしますが、皆さんがあの方と同じ立場だったらどうされますか?」


 誰もが口を閉ざし、静けさが広場を包んだ。


「さあ、あなたはどうされます?」


 イェースズは律法学者に尋ねたが、学者は口をへの字に結んだままだった。そこで今度は裁判官に矛先を向けたが、裁判官も黙ったままだった。イェースズは再び群衆を見渡した。


「いいですか、皆さん。人が人を裁くことはできないんですよ。自分が盗人ぬすびとである人ほど、他の盗人を裁きたがるものです。でも、みんな罪びとなんですよ。みんな罪を背負って生きているんです。私は罪なんか犯していないなんて言う人でも、前世では分かりませんよ。前世の記憶はありませんけど、この世で何らかの不幸が起きるということは、何もないところに結果は生じませんから、必ず原因があるはずなんですね。その原因が自分が生まれてからこのかた見つからないのなら、それは前世にあるとしか考えられないではないですか。だから、自分の罪をしっかりと自覚したのなら、他人様に頭が上がるはずがないんです。ましてや、人を裁くなんてことはできないはずです」


 イェースズはそれだけを言うと、彼らに背を向けた。その中の律法学者がイェースズの背中に言った。


「前世ってなんだ? そんなものはない。我われはそんなものを認めない。聖書トーラーにはそんなものがあるとは書いていない」


 イェースズはそれには答えず、使徒たちをつれて広場を後にした。

 歩きながら、ペトロがイェースズに話しかけた。


「さっきの神様の御用と人の御用が一致すれば、食うには困らなくなるということで、前に山の上でのお話の時、先生ラビは空の鳥と野の白百合の話をされたのを思い出しましたよ。空の鳥も全く食うに困っていないし、白百合もあんなにも着飾っているから、神の子である人が神様の御用さえしていれば、何を食べよう、何を着ようと思いわずらわなくても、食うに困ったり着るものに困ったりはしないということですよね」


 イェースズは笑った。


「ペトロ、ようやくあなたも、打てば響くというようになってきたね」


「あのう」


 そこへ、ピリポが口をはさんだ。


「さっきは私が出すぎたまねをしたばかりに、先生ラビにお手数をかけて申し訳ありませんでした」


 それにもイェースズは、笑顔を向けた。


「いいんだよ。あまり政治的なことに首を突っ込むのはよくないけど、先ほどはあなたが前にでなければ、あなたも無関心という罪を犯してしまうところだった。あなたが前に出なくても、ほかの使徒の誰かが同じように前に出ただろうからね。あなたのお蔭で、先ほどの方は救われたんだ。あなたの功績は大きいよ」


「しかし先生ラビ、一つお伺いしたいんですけど」


 と、トマスがイェースズのそばに来た。


「もし、犯罪行為を行っている人を現行犯で見てしまった場合は、どうしたらいいんですか? 自分の罪を考えたらその人を裁けないから、見て見ぬふりをしなければならないんですか?」


「さっきも言ったけど、人間社会の掟も守らないといけない。人間社会の掟も守れない人が、神の置き手(掟)を守れるはずがないからね。法に反している人を見た時は、法にのっとった行動をしなくてはだめだ。法にのっとった行動なら、これは裁きにはならない」


「では、法律に背くというほどではなくて、道徳的に悪いことをしている人を見た時は?」


「まず、気をつけなくてはいけないのは、陰でその人の悪口をいわないこと。その人に愛と真で直接忠告してあげることだ。これもまた、裁きにはならない。それも人前じゃなくって、誰も見ていない所でそっとというような気配りも大切だ。それでも聞かなきゃ放っておけばいい。人それぞれ時期があるから、そのうちサトるだろうってね。それを、『私は裁かないけど、そのうち神様に裁かれるよ。かわいそう』なんて思うと、それも裁きになるよ。神様が裁くか裁かないかなんて、人知で判断できるものじゃあいない。ましてや神様でさえかわいい神の子を、そう簡単には裁いたりはなさらない。それを勝手に神様が裁くなんて決めつけて、ましてやそれを期待しているかのような想念は神様へ責任転嫁しているようなもので、それ自体裁き心だね。だから我われにできることは、どこまでもその人を許すことだ」


「許すっていったって、限度があるでしょう?」


 と、ペトロが口をはさんだ。


「もしその人が悔い改めたって言った後で、また同じことしたとしたら?」


「許すんだよ」


「分かりました。でもやはり、限度があると思います。あまりにも許していたら、その人のためにならないんじゃないんですか?」


「そんなことは、神様がちゃんとお考えになるから、心配しなくてもいい」


 と、イェースズは笑った。


「じゃあ、私たちは許していけばいいんですね? 何回くらいが限度ですか? よく言われているように、七回までは許さないといけないんですか?」


「いや、七の七十倍までもだ」


 それは単に四百九十回という意味ではなく何度でもということの比喩にすぎないことは、質問したペトロもすでに分かっていた。


 家に着いた。

 先ほどの男はイスカリオテのユダから眉間に霊流を放射してもらったあと、パンを与えたが自分は全く食べようともせず、抱きかかえるほどのパンを妻と子供たちのためと言って持って帰ったそうだ。

 今度、妻と子を連れてあらためてイェースズの話を聞きに来るとのことで、何度も礼を言って帰っていったとのことだった。

 イェースズはそのままユダを含めた使徒をひと部屋に集めた。


「さっきペトロが言っていた許す話だけどね、こんな話がある」


 使徒たちを座らせてから、イェースズ者その輪に加わって座り、話しはじめた。


「昔、ある王様の家来が王様にかなりの額の借金をしてね、それをいつまでも返さないからというとう王様の前に引き立てられた。その借金のがくとは、一万タラントくらいだったかな。その家来はそんな大金を返せるすべもないと王様に惨状を訴えたら、王様は全財産を売り払ってでも借金を返せと言ったんだ。家来は『どうか、もう少し待ってください』って一所懸命頼むから、その借金を全部帳消しにしてやったんだ。ところがその家来は自分の仲間で、ほんの少しの百デナリ程の金を貸していた人の所に行って、その首根っこをつかんで早く返せと責めたんだよ」


 使徒たちはみな、ひたいにしわを寄せた。イェースズは続けた。


「そこで首根っこを押さえられた仲間は、『どうかもう少し待ってください』って頼んだんだけど、とうとうその最初の家来が借金を返さない仲間の男を牢に入れてしまった。それを見ていた人がそのことをこっそりと王様に告げたので、王様は怒ってその家来を呼び寄せ、『私はあれほどの憐れみをもっておまえを許してやったのに、おまえはなんで仲間を許せないんだ』と、その家来の借金帳消しをなしにして借金を復活させ、さらには牢に入れてしまった」


先生ラビ


 と、トマスが手を上げた。


「それって、実話ですか?」


 イェースズは苦笑した。


「それが実話かどうかなんて、そんなことは今はどうでもよろしい。これと同じことが、結構われわれの周りでも起きてるんだよってことが言いたかったんだ。私たちは皆罪びとなのに、神様に許されて今もこうして生かされている。こんな罪深い私たちを神様は許してくださったのにその私たちが人を許さずに裁いていたら、その家来と同じように牢屋行きだ。許せばあなたも許される、裁けば裁かれる。こういうふうに厳とした原因があってそれ相応の結果が必ず生じるのが、霊界の掟だ」


 使徒たちの顔は引きつり始めた。その緊張をほぐすかのように、イェースズはこの上ない笑顔を見せた。


「では、私たちが罪を犯した時は?」


 と、ナタナエルが質問し、マタイが、


「やはり神殿の涜罪所へ行って罪を告白しなければなりませんか?」


 と、言うので、イェースズはまた笑った。


「そんな人知で考えた形式で、罪が許されるはずがない。涜罪所に立ったからとて、神様の御前に立ったわけではない。神様に直接祈って、よくお詫びをすることだ。それも許されたいという執着じゃなくて。心から申し訳なかったと頭を下げ、お詫びのあかしとして何をさせて頂けるか一人一人考えることだね。それは一概にこうだとは言えないんだ。一人一人、魂の状態や魂の背景は違うからね」


 イェースズはまた、十二人を見渡した。


「まずは何よりも神様の御用をすることだけど、罪を許してもらうためというのは本当は下だ。そんなこと抜きにして、ひたすら御用をさせて頂いた時に罪は許されていく。いいかい。召使が一所懸命主人のために畑で働いてきて帰ってきたとしても、主人は『さあ、食事にして下さい』なんて言うかなあ? たいていは『さあ、私の食事の支度をしろ』と言うだろう? 主人の食事の給仕をして、それが終わってからでないと召使は自分の食事はできないよね。主人の食事の世話までしたとしても、召使はそのことに対するお礼の言葉を主人に要求するかい。だから神様の御用もそれと同じで、させて頂けたことにまず感謝し、『なすべきことをさせて頂いただけです』と謙虚でいなければいけない。それを、これだけやったんだから罪を許してくださいなんてそんなの神様との取引みたいで、本当の信仰じゃあない。ただひたすら無心に神様にお仕えし、すべての神の子にお仕えする。そうしているうちに、罪というのは許されて、本来だったら不幸現象でアガナわなければならなかった罪穢による魂の曇りをも消して頂いてそれがみ魂磨きともなり、大難を小難に、小難を無難にして頂けるんだ。そして罪が許されるというだけでなく、神様の御用はやがては神様への功しともなって、恵みと救いが与えられる。これが報い求めざる報いということだ。求めずとも与えられる人になっていく」


 イェースズは、使徒たちの顔を見て微笑んだ。そしてなぜか、イェースズの目に涙が浮かんだ。

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