変容
イェースズたちは六日間、ピリポ・カイザリアの町に滞在した。そして安息日の翌日、イェースズはまだ暗いうちに起きだしてヤコブとエレアザルの兄弟、そしてペトロの三人だけを起こした。
「支度をしなさい。山に登るよ」
三人は慌てて、身支度をした。
町を出て郊外へ抜けるまで、イェースズは終始無言だった。いつになく厳しい表情の師の顔を、三人の使徒ははじめて見た。歩いて行く方角から、登る山とはヘルモン山らしい。
ヘルモン山といえばそのへんの山とはわけが違う本格的な山岳で、もうすぐ冬も近いというのにそんな山に登るという事実を、三人はなかなか受け入れられずにいるようだった。
しかしイェースズの厳しい表情から、質問すらできるような雰囲気ではなかった。イェースズとてそのような使徒たちの心の動揺を十分に読み取ってはいたが、それでもあえて何も言わずにヘルモン山の方へと向かった。
道はどんどんと高度を増していき、山岳地帯に差し掛かったという感覚があった。緑はところどころという感じになって山は岩をむき出し、うっすらと草に覆われている程度だ。だが、まだ本格的な山道になったわけではない。
麓の村に着いたのは、もう夕方近くだった。
まだ日は高いが、いよいよここから登山となる。そのまま登れば山中で暗くなるので、イェースズはこの村にとりあえず泊まることにした。宿屋などなく、民家に頼んで泊めてもらった。ここは標高も高く、野宿するには寒い季節になっていた。
東の国への旅での冬場の野宿もイェースズにとってはこれまで何度も経験しどうということはなかったが、大きな網元の息子であるヤコブやエレアザルなどには経験もなく耐えられないであろう。エレアザルは若いだけに何とかなるかもしれないが、年を食ったペトロなどには厳しいかもしれない。
翌朝、三人は登山を始めた。まるで何かに憑かれたように、イェースズは黙々と山に向かって歩く。どうしても今日ヘルモン山に登らなければならないという確信を、イェースズは持っていたからだ。
東の国への旅で、イェースズにとって登山もお手のものだ。
もはやこのへんは森林はほとんどなく、岩だらけの荒野で、その荒野の向こうに岩だけの頂上がそびえている。それが限りない威圧感で、使徒たちを圧倒していた。
日もとっぷりと暮れた頃、まだ頂上には着いていなかったが、イェースズは少し平らなスペースがあるのを見てそこに腰をおろした。使徒たちも息を切らせながら、その近くに座った。そこからは、座ったままで下界がよく見えた。だが今はもう宵闇が黒いベールを視界にかけて回っていた。
「完全に暗くなる前に、あの景色をよく見ておくんだ」
イェースズは使徒たちに言ったが、彼らは肩で息をするのがやっとで、最初は景色どころではない様子だった。
そのうちペトロが、顔を上げて景色を見た。
「おおっ!」
その声に、ほかの二人も同じように、夜の帳の中に入りつつある景色を見た。
ヘルモン山は三つの頂に別れており、今彼らの目の前にそびえているのはそのいちばん南の峰だ。あと二つの峰はさらにこの北の方へとはるかに続く。
イェースズが言った。
「ここから見ると、世界は広いだろう。そんな広い世界の中では、我われが笑い、悲しみ、傷つき、そして楽しんで生活している町は何とちっぽけなものか分かるだろう。この広い世界をお創りになった神様に、思いを馳せるんだ。あなたがたの信仰は、まだまだ薄いからね。もうすぐ光がなくなる。光がなくなると再び闇だけになる。光があるうちにすべてを見ておきなさい」
使徒たちは景色に目を奪われ、イェースズの言葉を聞いてはいてもその深い真意などは分かろうはずもなかった。そのうち、濃い闇のベールがそんな景色を溶かしていった。
イェースズはその場にひざまずいた。
「さあ、祈ろう」
使徒たちもそれに従った。
しばらくそうして祈っていたが、突然イェースズの全身にエネルギーがぶつかってきて、そのエネルギーに満たされるのを感じた。そしてそのまま使徒たちを残して、一人で歩いていった。そしてしばらく歩いてから、ものすごい衝撃がずっと上の方からオレンジ色の光となって降りてくるのを感じた。
イェースズに近づくにつれてそれは一段と明るさを増し、とても目をあけて色を見ることはできなくなって、目がくらんだ一瞬の後に彼の体はその光に包まれ、もはや肉体でも幽体でもない彼の霊体も直接に光を発しはじめた。
暖かく、安らぎがあって、気持ちよい光に包まれて、すでにイェースズは五官を断ち、大宇宙の大霊の波と交感していた。もはや宇宙と同化したイェースズの周辺を、エクトプラズマのヴェールが覆っていた。
そんな事態を彼は、驚くほど冷静に受け止めていた。高次元の霊流がとめどなく流れ入って全身に満ち溢れ、宇宙のすべてのエネルギーが一身に集中しているような感覚さえあった。そのエネルギーは創造主の大愛にして大いなる叡智、いや神智であった。
今、イェースズは、自らの真我を確実に自覚していた。その真我は神の分魂であるところの、神の子の自覚だった。
するといつの間にか目の前に二人、光に包まれた人が立っていた。ひと言も言葉をかわさないうちに、イェースズはその二人が誰であるのか魂の次元ですでに察していた。察したというより、はじめから知っていたと言った方がいいかも知れない。
「おおおっ!」
イェースズの目からは、たちまち涙があふれ出た。とめどない感激が、後から後からわいてくる。目の前の二人もイェースズを見て、やはり感無量というように泣いていた。
二人とも体全体が光に包まれ、その衣は白く輝いていた。その姿は今やイェースズも同じだった。右側の、顔が髭で覆われた老人は、
「しばらくです」
と、イェースズに言った。
「お懐かしい」
と、イェースズも言葉を返した。
「お会いしたかった。モーセ」
イェースズはその老人の手をしっかり握り、それから左にいた自分と同年輩の男の手もとった。
「師、ヨハネ、いや、今はその魂の名でエリヤとお呼びしよう。本当に、申し訳なかった。あなたがはっきりとエリヤであるとは知っていながら、そのように接することはできなかった」
「仕方がないことです。肉身を持って現界に生まれれば、五官のみに頼るしかありませんからね」
「神霊界の友人と時を同じくして現界にいても、私はイェースズ、あなたはヨハネという名だった。もし私が平凡な大工だったら、又従兄弟のあなたを魂の友とも知らずに生活していたでしょう」
そこへ、モーセの低い声も響いた。
「肉身を持って現界に行ったのに、あなたはよく神理をサトッた。いや、サトッたのではなく、今のあなたは霊智であり、神理そのものだ。使命を帯びた光の天使ですら、現界に下れば使命を自覚せずに堕ちていくものすらいる」
「確かに現界は厳しいところです。大いなる修行の場ですね」
「それどころか」
現界ではヨハネであったエリヤも、言葉をはさんだ。
「あなたはやがて人々に捕らえられ、鞭打たれるかもしれない。しかしその直前に、神の栄光があなたに現れる」
「はい。しかしどんな困難にも、神理は負けません」
モーセもうなずいた。三人は長い転生の過程で結びついた、強い縁生の魂の友だった。再会の感激に、また三人でひとしお涙を流し合った。
「一つだけお聞きしていいですか」
と、イェースズはエリヤに言った。
「エリヤ、いや、今だけ師ヨハネと呼ばせてください。あなたはなぜ、たった一人でヘロデの王城に乗り込んだのですか?」
本当なら、死んだ直後の人に現界のことをいろいろ話題にするのはタブーである。執着をとる修行の妨げになるからだ。だが、目の前のヨハネだったエリヤは、魂のレベルが違うので話は別だ。
「弟子たちを助けたかった。だから弟子を救うために、私は単身で王城に乗り込んだのです」
その短い言葉の中に、イェースズはすべてを読み取った。ヘロデ王からもパリサイ人からも敵視されていたヨハネは、その教団本部を王の兵に奇襲されて、すべての弟子とともに捕縛される将来を見て取った。その先手を打って、ヨハネは弟子に解散を命じ、自分は一人で城に乗り込んだのである。また、解散を命じても動かないことが予想された高弟のペトロとアンドレ、ヤコブとエレアザル、そしてイェースズもまたその中の一人だったが、このメンバーはわざとベタニヤに使いに派遣したのだ。
「そうでしたか、師」
「私の方こそあなたが本当の救世主かどうかなんて手紙に書き、いくら現界の肉身の中にあって霊的なことが分からなくなっていたとはいえ、今になったら愚問でした。お恥ずかしい」
涙の中にも、イェースズは微笑を見せた。モーセの髭も、涙で濡れていた。
「私が現界でなしたことは、律法を伝えることだった。今やその律法も人知によって形骸化し、おかしなものになっているな。今の私は真の律法の象徴として、あなたに会っている」
「私は、真の預言者として」
と、エリヤも言った。イェースズもまた、静かにうなずいた。
「そして私は、律法と預言を高次元で完成させなければならない」
「あなたの立場は微妙だ」
といってからモーセは、さらに付け加えた。
「今や神霊界は火・日の系統の神々は御隠遁され、水・月の時代となっている。副神の統治の世においては邪神すら跋扈し、人びとはモノと金と権勢にしか欲がない。地には争いが絶えない。だが、正神の御経綸では、いつかは天の岩戸の注連縄は解かれる。国祖の神も艮よりお出ましになり、炒り豆に花咲く時代となろう。だが、御経綸上はそれは間もなくのことではあるが、この現界の時間でいえばもう少し先のことだ。だから月・水の系統の神々の時代に、龍神・日出の神の鱗となって現界に降りた日の霊統であるあなたは、夜の世にあっては霊的な妨害も強かろう」
その言葉を、エリヤが受けた。
「だから私も現界でヨハネであった時、天国は近づいたと説き、水ではなく火と聖霊で洗礼を授ける人が来ると説いた」
イェースズは二人の言葉にうなずいた後、厳かに言った。
「私は天の岩戸閉じが、単なる神々の色恋沙汰ではないことも知っています。大いなる『大根元の神』のご意志なのでしょう?」
モーセは大きく首を縦に振った。
「ただ、今の世はそのような神界の秘め事を、明かなに人々に説くわけにはいかぬ。だがやがて封印が説かれれば、大千三千世界の大立て替え大立て直しが起こり、火の洗礼の大峠を越えてタテヨコ十字に結んだミロクの世が出現する」
「はい。私はユダヤというヨコの文明の国に生まれ、霊の元つ国というタテの文明の国で御神示を受けました。私は今、火の洗礼を施していますけど、それも一代限りで、私の後は、エリヤ、あなたがヨハネとして現界でしていたような水の洗礼になるでしょう。先ほどモーセが言われた通りに今は何もかもをもあからさまに伝えることは許されておりませんし、しばらくは水の洗礼も致し方ないこと、私の教えは水の教えとしてヨコの社会、ヨモツ国に広がるでしょう」
「それでいい」
厳かにモーセは、再び大きくうなずいた。
「我われの立場は、やがて天の時に至る前の正神と副神の戦いのどちらに加担してもならない。『大根元の神』は争いとは無縁じゃ。争いの渦の真中心に生じる一本の真空の空間、これこそが素の空間で、『宇宙最高の唯一絶対神、大根元の神』へ通じるミチじゃ」
エリヤもうなずいてイェースズを見た。
「タテのみ、ヨコのみでは神主文明にはなりません。火と水、タテとヨコが十字に組まれた時に、真新文明、神の国は到来します」
「月の系統の神々の夜の世、すなわち自在の世に日の霊統のあなたが、物質一辺倒の人類があまりにも霊的な思考や神より離れすぎないよう歯止めをかける苦労は大変だろうが、がんばってほしい。やがて、自在の世は終わり限定のみ世が来る」
イェースズはモーセのその言葉に、力強くうなずいた。モーセはさらに、言葉を続けた。
「あなたはその使命どおりに、全世界に邪神への防御網である『フトマニ・クシロ』を張り巡らさねばならない。だからどんな迫害に遭おうとも、その使命を果すまでは死んではならぬ」
霊の元つ国を出る時に、師のミコからも「決して向こうで死んではならぬ」と言われたイェースズであった。
「ありがとうございます」
二人の聖者、魂の友の激励にイェースズは心を込めて言った。モーセもエリヤもにこやかに微笑んだ。
「安心してお行きなさい。私たちはいつでもあなたを見守っている」
まずそう言い残して、モーセが消えた。
「私の弟子だった者たちや、後のことを頼みます」
まだ地上の記憶が新しいエリヤは、ヨハネの感覚でそう言ってから消えた。
イェースズを包んでいた光も消え、また元の夜の闇が戻った。そして肉体の感覚がイェースズに戻り、寒さを覚えた。
振り向くと三人の使徒は少し離れたところでひざまずいて目を見開き、歯をかみ締めている。彼らはすべてを見てしまったようで、畏れ戦いて身動きもできずにいるらしい。
イェースズが歩み寄ると、ペトロは突然狂ったように叫んだ。
「先生! 私たちは素晴らしい!」
それは、悲鳴に近かった。
「こ、ここに、幕屋を建てましょう。三つ、三つです。一つはモーセのために、一つはエリヤのために、もう一つは先生のために」
気がよほど動転しているのか、そんなわけの分からないことを叫んで、ペトロはまだ震えていた。ほかの二人に至っては、口も聞けずにいる。イェースズはそのペトロの言葉には答えずに、ただ微笑んでいた。
するとまた、使徒を含めて四人を暖かなまばゆい黄金の光が包んだ。そして、その光の中から声がした。
「これは我が選びたる子なり。汝らこれに従え!」
その言葉は使徒たちには全く不可解な言語であったが、彼らの胸の中でアラム語になって響いたことは、イェースズなら体験上すぐに分かる。
果して使徒たちは、地にひれ伏した。その言葉はイェースズにとっては懐かしい霊の元つ国の言葉であったし、父神であらせられる国祖の神のお出ましだということも理解していた。
すぐに光は消え、あたりはまた夜の闇となった。
「今日見たことを、決して誰にも話してはいけないよ。さあ、山を降りよう」
使徒たちは、力なく立ち上がった。その後も、彼らは全くの無言だった。幸い月があったので、つまずくことなく山を降りることができた。
麓近くにまで下った頃に、ようやくエレアザルがイェースズに話しかけた。
「マラキの予言には恐るべき日の前には主はエリヤを再び遣わすとありますが、今日エリヤが現れたことは何か関係があるのですか?」
イェースズは穏やかに笑んで、答えた。
「エリヤはとっくに来ていたではないか。肉身を持って別の名前でこの世に生きていた。でも人々はそれをエリヤだと気づくこともなく、殺してしまったのだ」
それからまた、一行は無言に戻った。




