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人間・キリスト  作者: John B.Rabitan
第3章 福音宣教時代
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ヘルモン山の麓

 ここからは雪を戴くイスラエルの地の最高峰ヘルモン山が、かなり近くに見えるようになっていた。だが、ここではちょうど町の背後の丘にさえぎられて見えなかった。

 この辺りはゴラン高原で、そこにあるピリポ・カイザリアはその名がローマの皇帝カエサルに由来することは海浜のカイザリアと同じだ。だが、海浜のカイザリアはアウグストゥス帝、こちらはティベリウス帝を記念しての命名である。

 付近はガリラヤやデカポリスとは別にピリポの四分領といわれ、かつてのヘロデ大王の息子の一人でガリラヤの領主のヘロデ・アンティパスの兄弟のヘロデ・ピリポが領有する地域である。ピリポ・カイザリアはガリラヤでいうとティベリヤに当たる州都であり、ヘロデ・ピリポの居城がある。都市として整備されたのはヘロデ大王の死後、ヘロデ・ピリポが領有するようになってからだから、それほど古い町ではない。

 その町が近づいた頃、ペトロが歩きながら何気なくイェースズに話しかけた。


「もしかしたらこの町にも、先生ラビの噂は広まっているかもしれませんね」


「そうかもしれないな。でもここへ来たのは、あなた方のためなんだ。わけは後で話すけどね」


「でもまた、人々が押し寄せてきたらどうしますか?」


「救いを求めてきた人々は、救わせて頂くしかないだろう。ところで、その人々は私をいったい何だと思っているだろうかね。人々の間に入っているあなた方の方が、私よりも彼らの声を直接聞いているんじゃないかな?」


 マタイが、イェースズの脇まで歩いて言った。


「ダビデ王の再来だって、そんなふうに言っている人もいました」


「私が聞いたところでは」


 と、ヤコブも口をはさむ、。


「エリヤに違いないってことです」


「エレミアだって言う人もいます」


 アンドレはそう言ってから、さらに付け加えた。


「あの会堂シナゴーグつかさのヤイロなんか、先生ラビの話し振りがエレミアそのものだなんて言ってましたよ」


 エレアザルが、


「だいたいの人は先生ラビのことを預言者だって思ってますね。平和の王のメルキゼグだとか」


 と言うと、トマスもそれに続けた。


「ヘロデ王は、先生ラビがヨハネ師の生き返った姿だとか言って恐れているそうですよ」


 イェースズは、いちいち苦笑しながら聞いていた。


「それだけかね? 私の耳には詐欺師だとかペテン師だとか言う声もかなり聞こえてくるけどね」


 そのことは使徒たちも知っていたのだが、遠慮もあってあえて言わなかったようだ。イェースズは歩きながら、後ろを歩く使徒たちの方を振り向いた。


「ところで、あなた方は私を何だと思っているのかい?」


 ペトロが最初に口を開いた。


「もちろん神の子、メシアです。私たちイスラエルの民が長年待ち望んでいた救世主です」


「ペトロ」


 イェースズは歩みを止めて、自然とそれにつられて立ち止まる形になった使徒のうち、ペトロを厳しい表情で見据えた。


「あなたまで、そんなことを言っているのかね。メシアというのがイスラエルの救世主だとするなら、それは違う。私が救わせて頂きたいのは、イスラエルの民だけではない。ましてや、世間一般でいうメシア、つまりイスラエルをローマから解放する救世主だと考えているのなら、それは困る。頼むから、そんなことを決して人々に言いふらさないでくれよ」


 いつになく厳しいイェースズの釘刺しに、ペトロは思わず身をすくめていた。


 ピリポ・カイザリアは新しい町だけあって、ことごとくローマ化されていた。円柱の柱の建物や白亜の壁など、ガリラヤから歩いても二日とかからない距離なのに、完全な異文化圏だった。その点、ティルスの港と変わらない。

 だが、中央に大きくヘロデ・ピリポの居城の城壁がそびえるほかは、町としてはそれほど大きくはなかった。

 ただ、もう一つ岩山のふもとの崖に掘られた形で威容を誇っている建造物がある。ローマ風の神殿で、祭っているのはエルサレムの神殿の神ではなく異教徒の神、すなわちローマ人の牧羊の神なのである。

 イスラエルの民にとっては許すべからざる神殿で、いわば悪魔崇拝とも偶像崇拝とも同義の神殿であった。それがイスラエルの地にあり、しかもそれを建てたのがユダヤ人であることは民と変わらないヘロデ・ピリポなのだ。もちろん、ローマ皇帝への追従のためだ。

 そのわきからは激しい流れが小さな川となって流れ出ているが、これがヨルダン川の源流の一つである。この流れがもう少し南の方でほかの三本の源流と合流してヨルダン川となり、一度はガリラヤ湖の北端で湖に注ぐ。だが、その南端で再び流出して塩の海へとまた注ぐのである。

 そんな町でイェースズたちは一軒の宿をとった。旅装を解いて早速見物に行こうとした小ヤコブと小ユダを、イェースズは制した。


「ここではあまり外出しないように」


 イェースズはそれだけを言って夕食にし、あとは早々に休んだ。


 翌早朝、イェースズは彼らをヨルダン川の源流の川辺につれていった。町はずれの岩場の谷あいを流れる川は、ヘルモン山からの湧き水である。

 その川の上流に向かって、イェースズは歩いた。ここまで来ると、さすがに人はいない。周りは緑に囲まれているがすぐ近くに岩むき出しの小高い丘があって、そこが異教徒の神を祭っている神殿がある場所だ。人がいないのは早朝ということもあるが、その異教徒の神殿のせいでもある。

 やがて、その神殿の前に着いた。


「なぜ異教徒の神殿に?」


 ペトロが歩きながら、怪訝な顔をした。イェースズは微笑んだだけで何も言わなかった。

 やがて神殿の前に着いた。独立した建物ではなく岩山の山肌の垂直の崖を神殿の建物のようにくりぬいている。その扉の向こうは洞窟となっているはずだ。

 使徒たちが驚いたのは、イェースズはその大扉の前に座ってぬかずき参拝を始めたことである。

 最初は唖然としていた使徒たちであった。

 無理もない。エルサレムの神殿以外の神殿を拝むなど、ユダヤ人としては絶対にあってはならない行為なのである。


「ラ、先生ラビ……」


 ピリポが恐る恐る声をかけた。イェースズはまだ参拝の途中だったので答えなかったが、やがて頭を上げて使徒たちの方を見た。


「あなたがたは人間の考えをまだ捨てていない。すべての民のすべての神殿はすべて神聖なものだ、礼儀としてあいさつくらいはするべきだ。すべての国の神界は一つ、すべての民も元は一つ、大元は一つなのだよ」


 師に言われて使徒たちも、心のどこかで抵抗はあるようだったが、師と同じように異国の神の神殿にぬかずいた。

 その後、来た道を戻りながら、激しい流れの清流のそばでイェースズたちは休息のために腰を下ろした。緑に包まれ、川の流れ以外はすべてが静寂の中にあった。


「みんな、この景色をよく見ておくんだよ。いつまでも見られると思ったら大間違いだ」


 使徒たちにとって明るい日ざしの中のこの景色は、一種の安らぎを感じるものだった。イェースズの言葉に、アンドレが微笑んで言った。


「そうですね。この景色は本当に心が和むから、よく見ておけと先生ラビはおっしゃった。確かに、いつまでも見てはいられない。やがてはガリラヤに帰らなければいけませんからね」


「しかし」


 と、イェースズは言った。使徒たちの視線が、イェースズに注目した。


「いつまでも私といっしょにいられると、安心してちゃいけない。いつ私がいなくなってもいいように、一人一人が私の代理となれるように自覚をしっかりと持ってほしいんだ。そのために、ここにあなた方をつれてきたんだよ」


先生ラビ、そんなことをおっしゃらずに、いつまでも私たちといっしょにいてください」


 訴えるように、トマスが叫んだ。ナタナエルも、それに続く。


「そうです。そんな悲しいこと、おっしゃらずに」


 イェースズは、静かに首を横に振った。


「先のことは、誰にも分からない。すべて、神様のみ意のままだからね。私が言いたいのは、もし私がいなくなるようなことがあったとしても、その時はあなた方一人一人が私の代理人としてやっていける自覚を持ってほしいということなんだ。私がこの世に来た目的は、人々の魂を浄めてその魂を開かせ、あまりにも人々が神様から離れすぎないように自覚を促すことだから」


 イェースズの座っているすぐそばを、川は音をたてて流れている。


「だから今回の旅は人々を救うのが主ではなくて、あなた方とゆっくり話がしたかったからなんだ」


「え? 私たちの休養のためじゃあなかったんですか?」


 マタイが、情けない声を上げた。


「確かにこの間は、あなた方を休ませてあげるっていったけど、その休ませるっていう意味はボーっとして何もしないでいる時間を与えるってことじゃなくて、元気づけて明日への働くための活力を与えることだ」


「確かに、そうおっしゃっていましたね」


 ペトロの言葉に、何人かの使徒は無言でうなずいた。その後シモンが顔を上げた。


先生ラビ先生ラビはどこかへ行ってしまわれるおつもりなんですか?」


 あのもとつ国の皇子から、必ず戻ってくるようにと言い渡されている。つまりイェースズはいつかはこのユダヤの地を離れてもとつ国に帰らなければならないのだ。

 それに世界中に霊的結界であるフトマニ・クシロを張り巡らせるという使命もある。

 だが、今は使徒たちにはそのことは言えない。


「まあ、どこかへ行くというよりもだね、まだちょっと先にはなると思うけど、いよいよエルサレムに行こうと思っている。もちろん、あなた方もいっしょだ」


 エルサレムと聞いて、使徒たちの顔が少し明るくなった。


「私にとって、エルサレムは危険な町だ。ガリラヤにいて一度も私はティベリアには行こうとはしなかっただろ。でもティベリア以上に、エルサレムは危険なんだ。律法学者も私の噂を聞いて手ぐすねひいて待っているだろうし、下手をしたら祭司や長老からもひどい目に遭わされるかもしれない。霊的にも、今は夜の世だからあからさまに神理を告げると人々の反感を買うし、邪霊の妨害もあるはずだ」


「そんなあ、先生ラビ!」


 ペトロが悲痛な声を上げた。


「ローマを追い払って神の国が顕現するまで、先生ラビは死んじゃいけませんよ」


「黙りなさい」


 それまでのイェースズの笑顔が消えて、激しい口調だった。


「まだ、そんなことを言っているのか。私がそのような政治的な救世主ではないってことは、何回言ったら分かるんだ。そのような考えは、私にとって邪魔でしかない。あなたは神様のことを考えないで、人知でばかり判断しているじゃないか」


 いつにない剣幕で言われたペトロは、首をすくめた。イェースズは再び使徒たちを見回し、その時はもういつもの笑顔に戻っていた。


「いいかい。私についてこようと思ったら、古い自分は捨てて新しく生まれ変わるんだ。そしてそれぞれが自分の重荷を負って、自分の足で歩いて従ってきてほしい。真の救世主は、決しておんぶや抱っこで人々を神理へとつれていったりはしない。『私といっしょにいるだけで必ず救われる』なんていう師がいたら、それは信用できない。いや、かえって危ない。そんな人にはたいてい動物霊がついていて、本人もそれが神懸かっていると思っているから始末が悪い。真の救世主は道案内をするだけで、歩いていくのは自分の足でなんだ。一人一人の自覚と精進が大切なんだよ。だから、いつまでも私を頼っていちゃだめだ。何かあっても先生ラビがなんとかしてくれるなんて、そんな甘ちょろじゃだめなんだ。ましてや、私を神様と間違えて崇めるなんて言語道断だよ」


 使徒たちは、息を呑んで静まり返っていた。イェースズはもう一度そんな顔ぶれを慈愛の目でさっと見渡して、続けた。


「あなたがたはね、いつ私がいなくなってもいいように、私が伝える神様の教えを血とし肉として日々の生活の中で実践に移し、そうして一人一人が私の代理人になってほしいんだ。そのためにあなたがたを選んだんだ。あなたがたが、世の光なんだよ。世の人々を導くのは私の奇跡の業ではなくて、あなたがたの生きざまだ。それを見て人々は目覚めるんだ。いくら口でいいことを言っても、口先だけでは波動は伝わらない。だからまず、すっかり自分が変わってしまうことだね。自己変革に勝る雄弁はないんだよ。教えを上手に受け売りしても、自分で身についていないのなら波動が伝わらないから論争になるだけだ。議論ではパリサイ人などにかなうはずがない。だから、議論になったら逃げろと私は言ったんだ。人知をぶつけあっての議論なんかで、神理に到達できるはずはない。だからと言って、これまた人知で教えに勝手に自己流の尾びれをつけちゃいけないけど、何も言わなくてもあの人のやってることなら間違いないって思わせてしまうほどに自分を変えてしまうことだ。後ろ姿で導くっていうのは、こういうことなんだよ」


先生ラビ、受け売りしないででも尾びれもつけないっていうのは、難しいんじゃないんですか?」


 小ヤコブがそう尋ねると、イェースズは声をあげて笑った。


「難しくなんかないさ。受け売りせず尾びれもつけないってことは、教えを人知を入れずにス直に実践に移して身につけるってことだ。頭で聞いて頭で覚えたことだけを人に伝えることを、受け売りっていうんだよ。そうではなくて、自分がまず実践して自分の血とし肉としたものを、余計な物をつけ加えないでそのままお伝えするんだ。難しいって思うのは、まだまだ自分を捨てきれずにいるってことだ。つまり、執着を断ちきれていない証拠だ。自分の肉体的な命を救ってほしくて私についてきても、決して霊的な命は得られない。むしろ逆に私のために肉体的命が奪われることがあったとしたら、その人は霊的な永遠の生命が得られる。霊的な命を得られなければ、この物質の世界ですべてのものを手に入れたって仕方がないだろう? いいかい、この私のことを先生ラビは特別で、自分なんかだめだなんてくれぐれも思わないようにね。そういった自己限定をしていたら、いつまでたっても精進はできないし、昇華しょうげもできない。自分をだめだって卑下するのは、創り主である神様をも卑下しているのと同じで、かえって慢心になるんだよ。卑下や自己限定と私がいつも言う下座とは全く次元も性質も違うものだから、そのへんは心得違いしないように」


「なるほど、そうですね」


 エレアザルが感心した声をあげた。イェースズは優しくうなずいて、また続けた。


「だから自覚を持って、自分の道を歩んでほしい。私はエルサレムに行くことを、恐れたりはしない。議論をふきかけられても議論で勝負しようなどとは思わないし、私を捕らえようとする人がいても、私は戦わずに終始無抵抗を貫くつもりだ」


「そんな、先生ラビが捕らえられて殺されることなんかあるんですか?」


 トマスの悲痛な声は、相変わらずだった。


「ヨハネ師もああいうことになったし、かなりの覚悟がいるだろう。だから、いつまでも私がいると思わないようにね。むしろあなた方の自覚と独り立ちのためには、私はいなくなった方がいいかもしれない」


「いやだ! 先生ラビ、いつまでも私たちといっしょにいてください」


 口々にそう叫ぶ使徒たちを見て、イェースズは悲しみを含んだ微笑を彼らに見せた。

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