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人間・キリスト  作者: John B.Rabitan
第3章 福音宣教時代
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異邦人の港町ティルス

 旅は少しガリラヤ湖沿いに西に行ってから南下して、マグダラやティベリアに向かう街道とは離れて北へと向かった。進むにつれて土地はわずかずつ高度を増し、麦畑と牧草地の広がる高原の中を進むようになった。遠くのところどころに思い出したようにそれほど背が高く無い木々の林が点在していたりする。

 振り返ると、かなり低いところにガリラヤ湖が広がっているのが遠くに見えた。牧草地にはまだ羊の群れが放牧されているが、間もなく雨季に入るので羊たちは小屋へと収納されるだろう。道の左右はほぼ平らだが、なだらかな起伏はある。

 やがて前にも行ったことがあるコラジンの町の脇を通って、さらに北へと進んでいった。

 午後も遅い時間になると、広々とした草原の中の道であることは変わらないが特に道の左側に草に覆われた丘が現れたりした。

 そしてそんな草原の中で日も暮れ始めたので、イェースズたちは小高い丘のふもとで野宿した。


 翌日も同じような景色だったが、周りの丘の高さも増し、右前方にはすでに丘ではなく山も遠くに見えるようになった。

 そして昼頃には、道は峠道となった。このあたりを境に異邦人の国に入る。でも、異民族どころか異人種の国をたくさん旅してきたイェースズにとってはガリラヤを出るということはどうということはなかったが、トマス以外の使徒たちはその初めての経験に緊張した様子で歩いていた。

 峠の頂上では、はるか遠くにいただきにすでに雪をかぶった高い本格的山岳が見えた。


「あれはヘルモン山ですね」


 ピリポが山を遠くに見て言った。名前は聞いていたが、実はあんな高い山だとはだれもが思っていなかったようだ。

 それからあとは広々とした高原ではなく、丘陵地帯の谷間の道を進むという形になった。

 ガリラヤの境を出てフェニキアに入った頃から、道は段々と高度が増し、周りの山々は岩肌がむき出しになった。道も起伏が激しい。

 もはやヘロデ・アンティパスの領土ではなく、ローマのシリア総督の治める所で、完全なローマの属州である。つまりは、イェースズたちにとっては異邦人の土地なのであった。


 その日は山中でまた一泊した。

 そしてさらにその翌日の昼前には、道は下りとなって平らな土地の中を進むようになった。やがて大海原が見えて生きた。

 ここまで来ると、寒風が身を刺した。十二人の使徒たちは外套で身をくるみ、風に立ち向かった。イェースズもまた、使徒たちと同様に徒歩だった。道はひたすらに木々の間を続き、このまま行けば世界の果てにってしまうのではないかという気がするような風景だった。だがそんな時こそ明るい笑顔で談笑しながら、一行は歩いていた。

 その海原の手前、岬となって海に突き出たあたり町が見えてきた。しかしそれよりも使徒たちが歓声をあげたのは、その向こうに横たわる大海だった。


先生ラビ、あれはティルスの港ですね」


 トマスが嬉しそうな声をあげた。峠の上から見る町は、大海のまっすぐな海岸線から海に突き出ている小さな岬の上まで続いている。


「あの町で、また教えを説きますか?」


 そう言ったヤコブは、意気軒昂としている。だが、使徒たちとともに立ち止まって町を見下ろしていたイェースズは、静かに首を横に降った。


「ここではゆっくりしよう」


「わざわざ異邦人の町を選んでですか?」


 ペトロの言葉に、イェースズはうなずいた。


「私も海が見たかったのでね」


 使徒たちの中には、大海を見るのは初めてというものも何人かいた。なにしろスケールの上で、大海はガリラヤ湖などとは桁が違う。


「とにかく町に入ろう」


 イェースズは歩きだした。

 町の中は完全にローマ一色だった。建築物もほとんどが石造りのローマ風で、その規模は彼らが知っているローマ風の町のマグダラやティベリアの比ではなかった。円柱が立ち並ぶ道には、その両脇がほとんど店となって商人の声がかまびすしい。ごったがえす人ごみは、誰もが忙しそうに歩きまわっていた。

 岬の方へ行くと、海に突き出ているだけ余計に海が広く感じられる。そこにはやはり巨大な何本もの円柱で支えられた、ローマ風の神殿が建っていた。岬はもともと島だったのだが、その島にできた要塞を攻略するためにアレキサンダー大王が石の橋をかけ、そこに土砂が堆積して陸続きの岬となってしまったのだという。

 イェースズはそんな岬から大海を見て、かつての東方への旅の記憶を蘇らせて胸を熱くしていた。岬の北側は港で、大きな帆船がいくつも停泊しているのが見えた。


「いつかあんな船で、この大海を渡ってみたいですね」


 と、ペトロが言った。


「あなた方はいつか、いやでもあの船に乗ることになる。私はあなた方を全世界に派遣すると言ったじゃないか」


 そう言うイェースズの目も、海の彼方を見ていた。

 異国の町の中を歩くのは、使徒の大部分にとってはさらに緊張を伴うようだった。イェースズとトマス以外は、皆初めて異国の土地に来たのである。ここはカイザリア、プトレマイオスと並ぶ海の玄関口で、国際都市でもある。町中に飛び交っている言語は実にかなりの種類があって、ローマ人の姿も多い。

 この地方の人々の言語はセム語で、アラム語は通じない。しかし、たいていギリシャ語は通じたので、イェースズにとっては不自由はなかった。通貨もローマの貨幣がそのまま使えた。

 そんな商店が並ぶ石畳の道を一行が歩いていた時、背後から、


ヤーサス(もし)!」


 と、叫ぶ声がした。


「ガリラヤのイェースズ師とそのお弟子さんでは?」


 振り返ってみると、一人の婦人がギリシャ語で話しかけてきた。服装や顔つきからしても、明らかにギリシャ人だった。もうこんな所まで自分のうわさは広まっているのかと、イェースズ本人が驚いていた。


「そうですよね? ユダヤのお方という感じの服装ですし、お弟子さんを十二人連れてますから、聞いた通りです。さっきから私、お弟子さんの数を数えていたんです」


「でも、それだけで分かったんですか?」


 イェースズも歩みを止め、女の方を向いてギリシャ語で話しかけた。


「いいえ。心にひらめくものはあったんです。まるでお体全体から光が出ているようで、おそばに来るとすごく熱く感じましたし。それも聞いた通りです」


 ギリシャ語が分かるトマス、ピリポ、マタイは互いに顔を見合わせていた。そしてトマスが代表するという形で、そこに口をはさんでギリシャ語で言った。


「あのう、ラビは今回、休養のためにここに来られたんだ。ちょっとほっといてくれませんか?」


「あ、それはごめんなざい。でも、どうしてもお願いしたいことがあるんです」


 それを聞いてイェースズは、トマスを手で制した。


「どうしました? 何かあったんですか?」


「実は」


 女はひざまずき、泣きそうな叫び声でイェースズにすがった。


「娘に悪霊がとり憑いているんです。お願いです。救ってください」


 やり取りが分からないシモンがトマスの袖を引き、通訳を求めた。トマスは耳打ちする形であらましを告げた。それを聞いたシモンは、そのままアラム語で女に言った。


ラビは、ユダヤ人を救う救世主なんだ。あんた、ギリシャ人でしょ。だから知らないかもしれないけれど、我われイスラエルの民は唯一絶対の主なる神を奉じていてね、その神様は我われイスラエルの民を救うためにメシアを遣わしてくださるということで、ずっと待ち焦がれていたんだ。そのお方がこの方なんだ。イスラエルの救世主なんだ」


 イェースズはそれをも制そうと思ったが、トマスが女にギリシャ語への通訳を始めたので、それを聞いていた。トマスは「メシア」を何とギリシャ語に訳そうか少し悩んでいたが、その語源の油を塗られたものという意味で、「クリストス(キリスト)」と訳した。

 イェースズはそれを聞き、全身が震えた。かつてエジプトのピラミドウの中で、自分が授かった称号である。

 さらにシモンは言った。


「自分の子供を養う義務がある親がだね、その子供を十分に食べさせてあげられないうちに、そのパンを取り上げて犬にやったりするかい?」


 トマスの通訳を聞いてから、女はきりっとしてイェースズを見た。


「でも犬だって、食卓からこぼれたパンのくずを食べてもいいでしょう?」


 イェースズはにっこり微笑んで、女に直接ギリシャ語で言った。


「そのとおりだね。ましてやあなたは犬ではなく神の子人だ。こんな強い信仰の人は、イスラエルの民の中でも珍しい。あなたの家はどこですか?」


 女の顔が、パッと輝いた。また涙があふれ、何度も礼を言ったあと立ち上がって案内をした。

 女の家は、立派なギリシャ建築だった。

 娘は暴れて手がつけられないので、一室に監禁されているという。その部屋にイェースズが入ると、十代前半と思われるその娘は絶叫とともに暴れだし。部屋の隅をつたって何とかイェースズから逃げようとした。イェースズはヤコブとトマスに娘を押さえつけさせ、その眉間に手をかざした。

 霊光が放射され、娘の全身を目に見えない光が包んだ。苦しみもがいて娘は顔をそむけるが、そのたびイェースズの手はその眉間を追いかけた。

 やがて娘は暴れなくなり、全身を小刻みに震わせながら泣きだした。


「御霊様、何かお話ができますか?」


 いつもの調子でイェースズは優しく語りかけた。その言語も、いつものアラム語だった。娘は首を横に降った。


「苦しい、許さぬ」


 それはおよそ若い娘の声とは思われない大人の男の声で、娘に憑いている霊は娘の口を使って語った。


「何か怨みがあるのですか?」


「そうだ。何百年もずっと耐え忍んできた。この家を根絶やしにしてやる」


「そのような想念で、苦しくはないですか?」


「苦しい。苦しいからやるのじゃ」


 実はイェースズはアラム語で問い娘はギリシャ語で答えるという、はたから見たら実に異様な光景だった。だがそれで、会話が成り立っているから不思議だ。


「その苦しさから救われるミチは、神様のみ光を頂くしかないんですよ。神様はすべてをご存じです。あなたを苦しみから救うためにも、まずあなたが神様に詫びてください」


「詫びる? 何を詫びるというのだ」


「あなたは今、幽界脱出をして人の肉身にかっているという重罪を犯しているのです。それに、どんなご事情でこの娘さんにおかりかは存じませんけど、あなたが怨みに思うような仕打ちをされたということは、あなたもまたその前世において、同じような怨みをかうことを必ず誰かにしていたんですよ。原因がなければ結果は出ないのです。あなたの過去世をご自分で見てきてごらんなさい」


 女はしばらくうなだれていたが、目を閉じたままはっとした表情をした。そして今度は激しく泣き出した。


「すべて私がしてたことが自分に返ってきていただけなのですね」


「そうです。でも大丈夫ですよ。あなたはその過去世に戻って、天国にいらっしゃる方の想念ですべてをやり直してごらんなさい」


 女に憑いていた霊は、そのすべての過去世をやり直して、この世的にはほんの短い時間で戻ってきた。


「だいぶ楽になりましたね?」


「はい」


「では、この娘さんにあなたが障っていたことを全部元に戻しましょう」


 またしばらく時間が経過した。イエスは言った。


「もう、あなたは天国に行ったでしょう?」


「はい。とてもきれいで明るい、温かな世界にいます」


「それではきっぱりとこの方から離れて、さらに上の世界を目指して修行に励みましょう」


 娘の体の震えは、ぴたりと止まった。


「静かに目をあけてください」


 娘は、つぶらな青い瞳をパッと開けた。


「はっきりしていますか?」


 こくりと、娘はうなずいた。完全に正気に戻っている。母親が泣きながら娘にしがみつき、それからイェースズの前で地に伏して涙声でイェースズに礼を言った。


「ありがとうございます。ありがとうございます、ご恩は忘れません」


「今後は川上であるお母さんの信仰が大事ですよ。あなたが信じているあなたの神様でけっこうですから、強い信仰心を養ってください。それが救いになります」


「本当にありがとうございます」


「それから、お嬢さんのことで今日のこういうことがあったことは、この町では誰にも言わないで下さい。私が来ていることもね」


「はい。分かりました」


 イェースズは戸外に出た。冬の日ざしが潮風とともに、雲の間からさっとさした。


「やはり、もっとよそに行こうか」


 イェースズは使徒たちに、ぽつんとつぶやいた。

 

 ところがもう翌日には何人かの人が、イェースズたちの泊まっている宿屋に押しかけた。最初に来たのは、耳と口の不自由な男だった。


「お願いです。手を置いて、夫の耳と口を癒して下さい」


 その男をつれてきたその妻に哀願されたイェースズは、驚いた。単にイェースズが病人を癒すということだけでなく、こんな異国の町にまで具体的な方法までもがうわさとして流れているのだ。


「そうですか。耳も聞こえず話もできないなんて、本当にお気の毒ですね」


 イェースズはほとんど深いため息混じりに、男への憐れみを示した。それからまずその男の眉間に、手のひらから霊流を放射した。

 浮霊してきたのは、この男が前世に槍で目を突いて殺した兵士の霊だった。これもやはり、三百年ほど前だという。


「そうですか、それはお辛かったでしょう。苦しかったでしょう。安心してください。私はあなたの味方ですよ」


 イェースズは涙を流さんばかりに御霊にも憐れみを示し、それから霊査とともに邪霊をサトして救い、離脱させた。そして、イェースズは使徒たちのわからない言語での呪文のようなものを唱えた。


「トポカミ、エミタメ」


 そのわけの分からない言葉を,使徒たちは「聞け」という意味のアラム語の「エファタ」だと思っていたようだ。しかもその通りに、次の瞬間には男の目と口が開いた。


「おお、しゃべれる」


 泣きながら礼を言う妻と、癒された男に、またもやイェースズは、


「このことは口外無用」


 と、言い渡しておいた。

 ところが、宿を訪ねて来るものは後を絶たなかった。若い娘に手をひかれた盲目の老人も来た。


「いつから見えなくなったんですか?」


 と聞くと、老人は、


「十年くらい前から少しずつ霞んで、しまいには見えなくなっていたんだよ」


 およそ突然なるものはたいてい霊障であるが、十年かけて次第にということを聞いてこれは濁毒の排泄による単なる清浄化作用と見たイェースズは、その老人の後頭部にしばらく霊流を放射し、それからまぶたの上に親指から霊流を流した。


「どうですか? 見えますか?」


「おお、周りでふらふらしているのは、木か? 人間のようでもあるが……」


「じゃ、もうちょっと」


 イェースズは目頭に霊流を放射し、それから老人の下あごを軽くなでた。しばらくして老人は、大きな声を上げた。


「見える! 見えるぞ! 木なんかじゃない、人間がいる」


 老人はキョロキョロと、あたりを見回した。


「おじいちゃん、本当に見えるの?」


 若い娘に聞かれて、老人は大きくうなずいた。


「ああ、見えるとも。ああ、ありがたい。あんたは神様じゃ」


 老人はイェースズを伏し拝んで、その場にひれ伏した。イェースズは笑いながらも、


「私は神様じゃあないですよ。どうかお立ちください。そんなふうに私を拝むのだけはやめてください」


 と、きっぱりと言った。だが老人はしばらくやめようともせず、そしてやおら立ち上がると、


「神様じゃ、神様じゃ。神様がこの町に来たぞ」


 と、言って外へ出ていった。あっとイェースズは思ったが、制止することもままならなかった。老人をぺトロとヤコブが追おうとしたが、イェースズはそれを止めた。


「もう追わなくてもいい、私たちの方がこの町を出よう」


 イェースズはそう言って笑った。


「昨日来たばかりでもう出発ですか?」


 使徒の何人かはいいぶかしげな顔をしたが、


「私はやはり、ここでも枕することがない」


 と言い、そして慌しく仕度が始まり、ユダが勘定を払った時は外はもう昼過ぎだった。


「これから、東へと向かおう」


 と歩きながらイェースズは言った。ところが、町を出る辺りで、何人かの人が走ってイェースズを追いかけてきた。


「もし、お待ちを!」


 イェースズたちが立ち止まって振り向くと、男が三人、息を切らせて追いついてきた。ギリシャ人と変わらぬ服装をしているが顔はこの土地の民族なので、この町の上流階級の人たちのようだ。よほど走ってきたらしく彼らは皆肩で息をし、しばらくは言葉が出ずにいた。


「どうしました?」


 イェースズは笑顔で、暖かく問いかけた。


「もう、ご出発で?」


 確かに上流階級らしく、ギリシャ語を使う。


「そうですが」


「困ります」


 三人のうちの一人が、そうきっぱりと言った。


「もう少し留まって下さい。町にはまだ、あなたの救いを必要としている人々が五万とおりますので」


 イェースズはしばらく黙り、大きく息をついてから言った。


「それは分かっています。でも私は、長く一ヶ所に留まるわけにはいかないのですよ」


「なぜ、一ヶ所に留まるわけにはいかないのですか」


「まだ、時が至っていないのです」


「時?」


「やがて時は来ます。その時になったら、全世界に、そう、この町にも救いの訪れは告げられるでしょう」


「それはいつですか?」


 イェースズはニッコリ笑って、隣に立っていたペトロを示した。


「彼はもともと漁師でしてね。空の雲の様子を見ただけでこれからの天気をぴたっと当てるんですよ。皆さんだって夕焼けだったら明日は晴れだとか、南風が吹いたら暖かくなるとか、空模様で天気を見分けたりしますよね」


 イェースズの言葉の真意が解せないらしく、男たちは首をかしげていた。引き合いに出されたペトロも、ギリシャ語が分からないのでぽかんとしていた。


「いいですか。時と私が言いましたのはですね、神様のご計画ということなんです。もちろんそれは、人知で計り知ることのできるものじゃあありませんけど、でも御計画つまり御経綸はどんどん進展しているんですよ。そして天のしるしを見て天気を見分けられるのと同じようにですね、今何が起こっているのかを見れば、今の時代がどういう時代かも分かると思うんですけど」


「何が起こっているかって、あなたというすごい方が現れて、人々の病を癒しているじゃあないですか。ですからもっとこの町の人々を、病気から救ってください」


「いいですか。私は病気治しの治療師でもまじない師でもないんです。私はもっと全人類規模の、魂の救いのことを考えているんです。病気が治るという奇跡が起こっても、それは単に神様の御実在を知らしめるための見せる奇跡でしてね、行きがけの駄賃でしかないんですよ。自分の病気さえ治ればいい、自分さえ救われればいいという考えは、神様はお嫌いなんですね」


「ですから、私ではなくてこの町の多くの病人を癒して下さいとお願いしているんですが」


「あなたの考えは、実に素晴らしい。病に苦しむこの町の人々を何とか救ってほしいという思いはよく分かりますよ。でも、結局はこの町の人々だけが救われたらいいんですか? 私を必要としている人々は、ほかの町にもたくさんいるんです。自分の病気治しという利己愛ではなく、まことの利他愛で神様とすべての人に奉仕できる人を、神様はお求めになっておられます。奇跡はそのための方便ですから。そして残念ながら、今の時代はまだ夜の世、水の時代、月の時代です。ですから、はっきりとした印は与えられないんです」


 男たちがどう答えていいか言葉を選んでいるうち、イェースズの方から、


「それでは、失礼します」


 と笑顔で言ってきびすを返した。

 しばらく行ってから、ギリシャ語の分かるピリポが、


「今の時代に印は与えられないっておっしゃいましたけど、それはどういうことなんですか?」


 と、聞いてきた。


「まだ、本当の意味での印が与えられる時代じゃあないってことだよ。今はまだ夜の世だからね。いつか神霊界が夜明けとなって昼の世になったら、本当の印が与えられるようになるんだ」


「それは、いつですか?」


「さあ、分からない。私にもはっきりとは言えないんだよ。ま、もう少し先だろうとは思うけどね。でも、確実に近づきつつあることだけははっきりしている。だからヨハネ師も私も、神の国は近づいたと言ったんだよ。こんなことはあなた方だけに言えることで、多くの人にはまだ言うことは許されていない。だから、あなた方もこの話は、ほかの人にはしないようにね」


 そうしてイェースズは来た道を戻る形で、再び東へと向かった。


 午前中は平たんな道だったが午後からは起伏が激しくなり、左右にも不毛の丘陵が波打つような大地となった。

 あのヘルモン山が見える峠を越えたころには日も西に傾いており、峠を降りたところの町に宿をとった。もはやそこは異邦人の土地ではなく、ガリラヤだった。

一行は泊まった宿屋でそこの女主がパンを焼いてくれたのでそれを皆で食べた。食べながらイェースズは、


「くれぐれもパリサイ人やサドカイ人のパン種には、気をつけた方がいい」


 と、言った。ナタナエルが、顔をあげた。


「まさか、昨日のおばさんがパリサイ人だとでも?」


「そんなわけはないだろう」


 と、イェースズは声をたてて笑った。


「でも、パリサイ人やサドカイ人のパン種には気をつけろなんて」


 アンドレも顔を上げた。


「彼らはパン種に毒でもしかけるってことですか?」


「つまり、我われは彼らに命を狙われているってことですか?」


 エレアザルが、顔を引きつらせた。


「全く、何を言っているのかね、本当にもう」


 と、さらにイェースズは声を高くして笑った。


「なあにを、いつまでもパンのことでごたごたと。まだ分からないのかね? 私が命のパンと救いの杯って言ったら多くの人は勘違いして去って行ったけど、あなた方だけは真意を分かっていたんじゃなかったのかね」


「はい」


 と、ペトロが声を上げた。


「パンとぶどう酒は先生ラビのお言葉から出る神様の教えで、それを実践することで肉にし血とせよということだったんでしょね。……あ!」


 急にペトロは叫んだ。


「パリサイ人のパン種って、パリサイ人が説く教えのことなんですね。でも、なんでパンではなくパン種なんですか?」


 イェースズはにこやかに、大きくうなずいた。


「さすがだ、ペトロ。パリサイ人のパン種は、偽善だよ。それを毒というんだ。でも、毒入りのパンだったら最初から毒入りパンとして、そのままの大きさだろう? でも、パン種っていうのは最初は小さいのに、パンをどんどん膨らませていってしまう。そのように彼らの偽善も、最初は小さいのにどんどん膨らんでいくんだね。偽善が通用するのがこの世だけだということも、もうあなたがたは知っている。霊界は想念の世界だからね。内に秘めた想念が、互いに筒抜けの世界だ。だから、偽善は通用しない。今までは異邦人の町にいたから、私を祈祷師か何かと勘違いした人々が病気治しのために押しかけて来たとしても、パリサイ人の律法学者はいなかった。だけど、いよいよここからはイスラエルの民の土地だから、また律法学者がいるぞ」


 イェースズはいたずらっぽく笑った。

 それから彼らは出発した。急げば昼過ぎにはピリポ・カイザリアに着ける。何としてもそこまで行きたいとイェースズは考えていた。

 視界が開けた広々とした緑豊かな高原地帯を進み、そして木々が生い茂ったちょっとした丘のふもとに巨大なローマ風の建築物の群れが見えてきた。

 そこがピリポ・カイザリアだということであった。

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