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人間・キリスト  作者: John B.Rabitan
第3章 福音宣教時代
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外からの汚れと内からの穢れ

 イェースズの信奉者たちが去った後のカペナウムは、本来の町としての機能を取り戻していた。

 もはや群衆はいない。いるのはもともとのこの町の住民と、商用の旅人だけだった。もの寂しくもあったが、これでいいのだともイェースズは思っていた。

 十二人の使徒たちも、久しぶりにのんびりとした毎日を送っていた。まさに、嵐が去った後の静けさという感じだった。


「これから我われを襲ってくるであろう試練は、今までのようなあんなものじゃあない。だから今のうちによく休んで、鋭気を養っておくんだ」


 イェースズが使徒たちにそんなことを言っていたある日、エルサレムへ行っていた母と弟のヨシェ、そして妹ミリアムも戻ってきた。この頃ではもうミリアムも、まだ幼いながらもどことなく娘らしさを感じさせるくらいに成長していた。

 気候もだいぶ寒くなってきていた。


 そんなある日、イェースズの安息は破られた。またもやパリサイ派の学者が三人、イェースズの家を訪ねてきたのである。

 使徒たちはまた顔をしかめたが、その学者は初めて見る顔だった。聞くと、このガリラヤの学者ではなくてエルサレムからはるばる来たのだということで、しかもイェースズに会うのがわざわざエルサレムから来た目的だという。

 到着したのが夕刻ともあって、遠路はるばる訪ねてきた人々だけにやはり礼儀として夕食でもてなさざるを得ない状況だった。

 本来は律法学者といえば、民衆にとっては下に置けない存在である。祭司階級のサドカイ派が親ローマであるのに対し、パリサイ派は律法を遵守することでローマに対抗していたので、特に反ローマの色彩が強いガリラヤでは民衆の心と共鳴していた。

 母マリアと妻マリアがともに、子羊の肉とパン、ヨーグルトで彼らをもてなした。ぶどう酒も出したが、彼らはそれを飲むはずがない。

 母マリアは客を席に着かせてから、イェースズを呼んだ。イェースズが同席を許したのは、ヤコブとエレアザルの兄弟、およびペトロ、ピリポの四人だけだった。ランプの灯された部屋に、イェースズはその四人の使徒といっしょに入り、学者たちとともに床に並べられた料理を囲んで横座りに座った。


「ようこそ、遠路はるばるおいで下さいました」


 イェースズは愛想よく微笑んで、学者たちに料理を勧めた。


「では、ごちそうになります」


 学者たちはパンをとり、子羊の肉を引き裂いた。そしてイェースズや使徒も同じように食事に手を出した時、学者たちは一瞬自分たちの手を止めて、イェースズたちの手先を見ていた。


「ところで、わざわざおいで下さったのはどのような用向きですか」


 イェースズに尋ねられ、学者の一人が慌てて目を上げて答えた。三人とも若いが、イェースズよりかは年長のようだった。


「あなた方のうわさは、エルサレムにまで達していますよ。ガリラヤの方ですごいことが起こっているとね。今までにない預言者が現れたとか、パリサイやサドカイ、エッセネとも違う新しい宗教ができつつあるとか、そりゃあもう大騒ぎですがね」


「エルサレムでですか? 子供の頃は別として、私は最近では行ったこともないのに」


「仮庵祭で上京したこの町の人々が、盛んに言いふらしていましたよ」


 別の学者が、そう口をはさんだ。またもう一人の学者も、顔を上げた。


「ガリラヤの王様も、あなたに会いたいそうです」


「ほう、そこまで話がいっているんですか」


 ガリラヤの王といえば、ここから毎日見ているガリラヤ湖の西岸の町、ティベリアに城を構えている。ローマ建築の強固な城壁に囲まれたティベリアは新しい町だけに、そこにいる住民は各地から集められた雑多な民だ。そこにいる王とはヘロデ・アンティパスに他ならない。

 イェースズも、使徒たちも、それを聞いて一瞬顔をしかめた。なにしろ、ヨハネ師を殺した張本人なのである。だから、これは危険な誘いだった。だからイェースズは興味がないようなそぶりで、パンを口に運んだ。


「王が会いたいと思うほどの人ですから、どんな人なんだろうと思って我われは来たんです。ところがうわさに聞いた群衆は、どこにもいないのですね」


「解散しました」


 イェースズの答えに、学者たちは驚きの眼を開いた。


「解散したって、もう新派の宗教はやめたのですか?」


「いえ、私は最初からそんな宗教の団体を作るつもりはありませんよ」


 学者のリーダー格らしい男が、イェースズを見た。


「一つ、お伺いしてもいいですか?」」


「どうぞ」


「私たちイスラエルの民は誰でも祖先からの戒律を守って、その上で生活をいていますね。でも私は、あなた方を見て本当にびっくりしました。これはまさしく我われ普通のイスラエルの民ではない、新しい宗教だと思いましたがね」


 少し間をおいてから、イェースズは逆に尋ね返した。


「それはどういうことでしょうか」


「あなた方は四人が四人とも、先ほど手も洗わすに食事に臨んだではないですか」


 食前に手を洗うとは単なる衛生上の問題ではなく、ユダヤ人にとっては大切な宗教的儀礼なのである。


「昔の人の言い伝えも守らず、汚れた手で食事をするのあなた方はいったい何なのですか」


 すると、イェースズが答えるよりも先に、ピリポが口を開いた。


「『イザヤの書』には、『この民は口先では私を敬っているが、心は遠く離れている。ただ、人知で作った戒律によって私を拝んでいる』って書いてありますね」


 イェースズはそんなピリポを手で制して、学者の方を向いた。そして、


「いやあ、うっかりしていました。ご忠告、ありがとうございます」


 と、深々と頭を下げた。四人の使徒は意外な師の行動に、呆気にとられていた。だが学者は、納得していないようだった。


「あなたのお弟子は今、人知の戒律とか何とか言いましたね。確かにそういう語句が『イザヤの書』にあります。だからと言って、それが何だというのですか?」


「いえ、申し訳ありません。あとでよく言っておきますので」


先生ラビ


 ピリポは明らかに不満顔だった。イェースズはそれをも笑顔で抑え、また学者の方を向いた。


「まあ、このものが言いたかったのは、『イザヤの書』のこの箇所に出てくる『民』というのが、人知で作った戒律を優先させて、本当の神様の置き手、つまり神理の方をないがしろにしていたのだということを言いたかったのでしょう。だいたい人間ってものは神様が大昔に直接み声でもって教え導いていたのに、それにどんどん人知で尾びれをつけてわけの分からないものにしてしまうんですね。これは地上のどの宗教も、そういう道を歩んできましたからね」


 そう言ってイェースズは、呵呵大笑した。


「いや確かに、食事の前に手を洗わないのはまずい。手が汚れていたら、その汚れまでもいっしょに食べてしまうことになりますからね。ただ、手についてでも外から口に入るものはそんなに体を汚さないんですよ。それより体の中から外に出るものの方がよほど恐いと私は思っているのですが、いかがでしょうか?」


 学者たちは、互いに目を見合わせているだけだった。


「さあさあ、どうぞ。お手が止まっていますよ。まだまだご馳走はありますからね」


 イェースズは学者たちに食事をさらに勧めて、それから身を乗り出した。


「時に、ちょうどいい機会ですのでお伺いしたいんですが、自分の両親がおなかをすかしているのでやっと用意したご馳走も、神様にお供えするということになったらそちらが先ですか?」


 学者たちは、苦虫を噛みつぶしたような顔つきになりはじめた。


「それは、神様が優先に決まっているではありませんか」


「そうですか? でも、モーセは『あなた方の父と母を敬いなさい』と誡めてますけれど」


 そのイェースズの言葉が終わると、学者たちは次々に立ちあがった。


「私たちは今日、ここに泊めてもらおうと思っていましたけど、ここは私たちの寄る家ではなさそうですね。これから会堂シナゴーグへ行って、明日エルサレムに帰ります。手を洗わずに食事をするものたちと同席したことによって、我われも身を清めなければなりませんからね」


 後は食事の礼だけを言って、学者たちは出ていった。

 イェースズは別室にいた残りの使徒を呼んで、残ったご馳走をいっしょに食べようと言った。

 ピリポが、ばつが悪そうにイェースズの顔をのぞいた。


先生ラビ、申し訳ありません。私があの人たちを怒らせてしまったようですね」


 イェースズは笑っていた。


「気にすることはないよ」


「ありがとうございます。でも先生ラビって、あのような方にも下座をされるんですね」


「あの方たちだって、神の子だよ。ましてや、人々を導く立場にある方たちだ。ただ困ったことに、少々霊的なことに無知だね。霊的に無知な人々がもっと無知な民衆を導いているんだから、まるで目の見えない人の手引きを目の見えない人がしているってわけだ。私はどんな宗教をも否定したり攻撃したりはしないけれど、誤りは誤りとして正して差し上げないとまずいね」


 ペトロが、顔を上げた。


「あのう、外から入ってくるものが体を汚さないって、どういうことですか?」


「外から体の中へ口から入るものは、少しくらい毒性が混じっていてもやがては体外に排泄される。そういうふうに、神様は人体を造られているんだ。たとえ排泄されなくて体内でたまっても熱が出てそれらを溶かし、やがては排泄される。それがありがたい神仕組みだね。でも恐いのは、体の中から発生する悪想念で、怨み、ねたみ、嫉み、不平不満、人の悪口、怒り、それらを持つと体の中で毒が発生してね、体を汚すばかりか魂をも包み積み曇らせてしまうんだよ。そうなると神様の光は入ってこなくなるから邪霊にもやられるし、ますます不幸な人になる」


 感心して聞いている使徒たちに、イェースズはさらに話を進めた。


「まあ、とにかく食べなさい。今日は早めに休んで、明日出発だ」


「え? 出発って、どこへですか?」


 小ヤコブが、くりっとした目をイェースズに向けた。


「今度は北の方。異邦人の町まで行く。また、みんなでいっしょに旅だ」


 と、イェースズは言った。

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