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人間・キリスト  作者: John B.Rabitan
第3章 福音宣教時代
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五千人の給食と水上歩行

 翌朝、晴れていることは晴れているが風が強く、雲も幾分多くなってきていた。


「もうすぐ雨季ですね」


 と、ペトロが空を見あげて言った。漁師のペトロの天気の予想はいつも正確だった。そして群衆や弟子たちがまだ起きやらぬ頃に、イェースズと使徒はペトロの船で沖に出た。ふと港を見ると、もうすでに群衆たちはイェースズの出港に気づき、騒ぎだしている。

 ペトロは帆いっぱい風を受け、船を東へと進めた。

 やがて、ベツサイダの町が見えてきた。ここはビリポの故郷だ。漁師の町といわれているが、町自体は少し湖畔から離れたところにある。その向こうはなだらかな丘陵で、一面の牧草地だ。夏ではここで羊の群れが放牧されている。

 ところが岸に近づいていみると、誰もが唖然として言葉を失った。人々の歓声が聞こえるのである。しかも大群衆だ。

 最初はベツサイダの町の人々が噂を聞いて集まったのかとも思ったが、彼らはイェースズたちが来ることを知っているわけがない。そしてその旅装を見ても、どうもカペナウムから追ってきたイェースズの弟子の人々のようだった。


「なんてことだい。これから休みに行くのに……」


 舌を打ったのはペトロで、続いてトマスも言った。


「それにしても、先回りしてくるなんて」


 カペナウムからベツサイダまで歩いても一時間ほどの距離で、容易に先回りはできる。


先生ラビ、どうします? 沖合いに引き返しますか?」


 船の帆を操っていたアンドレが、目をイェースズに向けた。イェースズは、静かに首を横に振った。


「いや、上陸しよう。見てごらん、あの人たちを。まるで飼い主を失った羊の群れのようじゃないか。素通りすることなんてできないね」


 その言葉通りにイェースズが上陸すると、人々はすぐに殺到した。イェースズは人々を順番に並ばせ、早速いつものように訴えるところを聞いてその病を癒し、人々の魂を浄めていった。そして自分だけがそうしたのではなく、もはや使徒たちにも横に一列に並ばせ、自分と同じように人々に癒しの業を施させた。

 たちまちに日は西に傾いた。それでも人々は、一向に減ろうとはしなかった。そんなイェースズに、隣にいたペトロが耳打ちした。


「もう日が暮れますから、いつもの一斉に人々に両手をかざすのをやりますか?」


 イェースズはうなずいた。


「私たちも、みんなでその一斉のをすれば早いですね」


「だめだよ」


 イェースズはいつになく厳しく、ぴしゃりと言った。


「それは私だからこそ許されているんだ。あなた方の業は、あくまで一人対一人だ」


 そうしてイェースズはおもむろに立ち上がり、人々に向かって両手をかざして一切にパワーを注入した。それから普通はイェースズの説法が始まるのだが、なにしろ今集まっている人数はざっと五千人はいそうで、いくらイェースズが声を張り上げても肉声で聞こえる数ではない。そこでイェースズは人々を十二の組に分けた。そして使徒たちを集めて、言った。


「あなた方が彼らに、命のパンを与えるんだ」


「そんな」


 会計係のイスカリオテのユダが、目をむいた。


「こんな多勢の人々にパンを与えるには、二百デナリあっても足りませんよ」


「二百デナリなんて、われわれの二十日分の食糧が賄えます」


 ピリポが叫ぶように言うと、アンドレも、


「今、ここにはパンは五つしかありません。それに干し魚が二匹」


 イェースズは笑った。


「今、命のパンといっただろう。人はパンだけで生きるのではなくて、神の口から出る言葉で生きると聖書トーラーにも書いてあるだろう?」


 ピリポがうなずいた。


「前にもおっしゃっていた『申命記デバリム』ですね」


 その答えに満足げにうなずいたイェースズは、


「さあ、あなた方で、命のパン、つまり私から聞いた神のみ教えを人々に伝えてくれ」


 使徒たちは十二に分かれている群衆の中にそれぞれ入って、自分の聞いた限りの神のミチを説いた。十二に分けても、一つのグループには四百人くらいの人がいるので、使徒たちは皆声を張り上げていた。だが、奇跡の業をもらうと、説法は聞かずにさっさと帰ってしまう人も多い。

 その間イェースズはまずヤコブに、その父ゼベダイのカペナウムの屋敷の倉庫の、魚の干物を大量に拝借したい旨を申し出た。ヤコブは二つ返事で、次にマタイにその実家の倉庫のパンを拝借する旨了承を得た。


「でも、どうやって運ぶんです? うちの下僕に運ばせても、着くのは明日ですよ」


 マタイの心配そうな問いに、イェースズはただ微笑みだけを見せた。そしてイェースズはそこから遠隔操作で、パンと魚をエクトプラズマ化して目の前に出現させたのである。


「さあ、もう日が暮れるし、朝から何も食べていないという人がいるんじゃないか。せめてものお土産だ」


 イェースズは目の前の箱に収められた魚とパンを目に見える形に復元し、そのパンと干し魚を弟子たちに命じて人々に配らせた。結局、配り終わっても十二のかごいっぱいにあまった。群衆が喜んでそれを食べている間に、イェースズは使徒たちに語った。


「神の教えはパンに勝る命のパンだよ。私は神の教えを自分の血とし、肉としているからね。だから私の教えを受け入れるということは、私の体を食べ、私の血の杯を干すことになる。神の教えは頭で理解するものではない。自らの血とし実践に移すよう。そうしてこそはじめて、神の子といえるんだ。さあ、このことをあなた方が担当する人々に伝えてほしい。あなた方が行かないと始まらない」


 使徒たちは一斉に返事をして、人々の方へ走っていった。

 そうして使徒たちがそれぞれにイェースズの教えを群衆に告げ、それが終わって群衆に解散を命じてイェースズのもとに戻ってきた時、四、五人の若い男たちがゆっくりとイェースズの方に近づいてきた。そして、イェースズの前にひざまずいた。


「お願いがあって、参上致しました」


 それを見てイスカリオテのユダの眉がぴくりと動き、シモンと顔を見合わせていた。


「あなたこそ、神が遣わしたメシアとお見受け致した。どうか、我われの王になって頂きたい」


「お願いです」


 男たちは口々に、イェースズに訴えた。そこへイスカリオテのユダが、一歩前に出た。だがユダが何も言う前にイェースズはそれを制し、またひざまずく男たちの言葉をも手でさえぎって、使徒たちに言った。


「あなた方は先に、カペナウムに帰っていなさい」


「え? 今日はここに泊まるのでは?」


 ピリポが驚くと、ペトロも前に出た。


先生ラビはどうされるのですか?」


「私も、あとから行く」


「あとから行くって、もうとっぷりと日が暮れてますよ。それに私たちが船で帰ってしまったら、先生ラビはどうやってカペナウムに?」


「まだ、ス直ということが分かっていないかな?」


 イェースズは笑顔で穏やかに言ったのだが、ペトロたち十二人は厳しくたしなめられたような表情で船に乗り込んだ。だが、ユダとシモンは後ろ髪を引かれるというような感じで、何度もイェースズの前にひざまずいている男たちを見ていた。


 使徒たちが去ってから、イェースズは目の目にひざまずいている男たちを立たせた。


「あなた方は熱心党ゼーロタイだね」


 男たちは、無言でうなずいた。そして、その中の一人が、イェースズを見据えた。


「あなたこそ、ローマの支配を覆して、我われイスラエルの民の自主独立を勝ち取るための王にふさわしいと見込んだ。あなたは救世主メシアだ」


 そこでイェースズは、


救世主メシアって何でしょうか?」


 と、穏やかに反問した。


「今申し上げましたように、ローマの支配からイスラエルの民を救う王です。我われはずっとずっと、そんな救世主メシアの出現を待ち焦がれてきたではないですか。そして、あなたこそそれだ」


「あなたの言う救世主メシアは、本当の意味の救世主メシアではありませんね」


 男の顔が、引きつった。イェースズは穏やかなまま続けた。


「真の救世主とは、地上の王ではないのですよ」


「でもあなたは、神の国は近づいたといわれた。神の国とは神が直接支配する選ばれた民の国、つまりイスラエルの再建にほかならないでしょう」


 イェースズは笑みを見せて、首を静かに横に振った。


「神の国とは、地上の政治的な王国ではないのですよ。イスラエルだの異邦人だのも、関係のない国です。一人ひとりが自覚して魂を活性化した時に、神の国は到来します。確かに神の国近づいてきていますけど、待っていれば来るってものではない。一人ひとりの魂の次元上昇が必要なんです。分かりますか?」


「分かりません。とにかく闘って、ローマ人をこのイスラエルの地から追い出す人、それが救世主です。そしてあなたには、その力がある!」


 イェースズはひとつ咳払いをした。


「よく聞いてください。この世で富を得たものは、地上の王になればいい。だけど、真に霊的力を持つ人は、そんな地上の地位は放棄するものです」


 これ以上話しても、らちは明きそうもなかった。イェースズは微笑だけ残して、その場をあとにした。だが、男たちは執拗にイェースズについてくる。もうすっかりあたりは暗くなっていた。やがて、湖の岸にたどり着いた。沖を見ると、使徒たち十二人を乗せた船が帆を張ろうとしていた。

 イェースズは足元にあった木の枝を二つ拾い、それを湖に投げた。そして、すぐにひらりとそれに飛び乗った。そのままイェースズは水上を歩行して船の方へと向かった。岸に残された男たちは、ぽかんと口をあけてその成り行きを見ていた。

 水上歩行は、霊の元つ国で得た霊術のひとつである。この時イェースズの体は、すでにエクトプラズマ化されていた。

 やがて船に追いついた。船の上で使徒たちは、水の上を歩くイェースズの姿を見て大騒ぎだった。中には、「幽霊だ!」と叫んだものもいた。イェースズは船べりを下から見あげ、


「私だ。恐がる必要はない」


 と、言って、ようやくイェースズは船の上に引き上げられた。


先生ラビ、どうして水の上を歩いて?」


 ヤコブがそう言ったのを、ペトロが受け継いだ。


先生ラビにおできにならないにことがあるものか」


 そしてペトロは、すぐにイェースズを見た。


「そうですよね。だから、私に命じて私が水の上を歩くこともできますよね」


「私が命じてと言ったけど、これは各人の信仰の問題だよ。水の上を歩くのは、この誘惑多い俗世間で強い信仰を保持していくのと同じだ。ちょっとでも疑ったり、不安を持つとたちまち水に溺れてしまう。まあ、やめといたほうが無難だ」


 使徒たちは笑った。こうしてイェースズを乗せた船は、一路カペナウムを目指して進んだ。

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