洗礼者ヨハネの死
秋もかなり深まってきた。
人々は相変わらず自己愛の御利益信仰で訪れてくるのだが、それでも自分が使徒に言ったように一切が種まきだと思っているから、イェースズはそれもよしとした。
それに、病者、貧者、弱者に霊的法則を告げて不幸の原因を取り除き、絶対幸福へのミチを彼らに歩んでもらいたいという神大愛から発する切実な願いと、やむにやまれぬ心情がイェースズにはあった。
決して罪を裁くのではなく、憐れみによって罪を取り除くすべを、彼は人々に伝えていたのである。
この日も生まれつき歩けなかった男が歩けるようになった。そのあとで、イェースズは男に言った。
「あなたにね、私を頼っている想念がある限り、だめですよ。自分を救えるのは自分だけです。私にではなく神様への信仰の厚さと深さ、そして想念転換で奇跡は起きます。私の業はそのための手引きであって、方便なんですよ」
大病から救われた人ほど、イェースズの言葉をス直に受け入れるというのも自然なことである。また、女性の弟子の数も増えていった。男はどうしても理詰めで考えてしまうが、女性は感覚から入るので信仰も早く強くなる。
そんなある日、一人の初老の尼僧が訪ねてきた。
「サロメ!」
イェースズは叫んで思わず飛び出していった。
「お久しぶりです。今、どちらですか? ミツライムですか?」
イェースズの幼少時代からずっと、エッセネから派遣されてイェースズの養育係のような感じで接してくれた人である。東の国への旅から帰ってきてからは、二年ほど前にエジプトに行く時にも同行してくれたが、会うのはその時以来である。
「噂の通り、毎日すごい人が押し寄せているんですね」
そう言われてイェースズは微笑をもらすと、サロメを家の中に案内して母を呼んだ。
それからイェースズの中でヨシェや母マリア、妻マリアとともに、イェースズはサロメと会食をした。
「突然のおいでだから、何もありませんけど」
母マリアがそう言って、いくつかのパンを持ってきて床に置いた。
「いいのよ、マリア。それより、本当にすごいのね」
そう言ってからサロメは、イェースズの方を向いた。
「エッセネ教団でも、あなたの話で持ちきりですよ。あなたはヨハネの志を継いで立派に活動しているって賞賛する人もいます。それに何よりあなたはメシアの母候補だったマリアの子だし、クリストスの称号も得ています」
「まさか」
と、母マリアは声を上げて笑った。
「あら、知らなかったの? 本当のことよ」
と、サロメはマリアにピシャッと言った。
「マリアは自分がメシアの母候補として、教団から選ばれて修行していたことを忘れたのかい?」
それからサロメは、またイェースズを見た。
「でもね、別の声もあってね、ミツライムを出るときに教団にはとらわれず、自由な立場で活動していいということは言われたと思いますけどね、でも、少しその独自の活動がエッセネの枠を超えているんじゃないかってことを懸念している人たちもいるんです」
「そうなのよ」
と、母マリアが口をはさんだ。
「エッセネの枠を超えたどころか、まるで新興宗教だわ」
そういうマリアには答えず、サロメはいささか硬い表情でイェースズを見据えた。
「実はそこのところをはっきり聞いてくるようにと、教団からも言われましてね。あなたの口からはっきりおっしゃってください」
イェースズは、ニッコリ微笑んだ。
「私はどの教団の教えでもない、宗門宗派などを超越した全人類への普遍の教えを説いているんです。新興宗教だとか言われるような、そんな次元じゃあないんですよ。数日滞在して、私がしている業をご覧になって、私の弟子たちへの話に耳を傾けてください。それをありのまま、教団にはご報告くださっていいと思います。この間、ヨハネからの手紙が来て、それを届けてくれた使いの人にもそう言いました」
「そう。でも、ゆっくりしていられないのです。それと私が来たのはそれだけではなくて、もうひとつお知らせがあって。それも悪いお知らせ」
サロメの表情がますます硬くなるので、イェースズも息をのんだ。
「今、ヨハネの使いって言われたけど、実はそのヨハネが死んだのです。殺されたんですよ。ヘロデ王にね」
「ええっ!?」
イェースズはしばらく、言葉を失った。あまりの衝撃に呆然としたのは、母マリアも妻マリアもいっしょだった。
「つまり、処刑されたってことですか」
ゆっくりと、たどたどしくイェースズは言った。サロメはがゆっくりうなずいた。イェースズの放心状態は、しばらく続いた。ヨルダン川での、在りし日のヨハネの姿が目に浮かぶ。
イェースズは立ち上がった。そして。ふらふらと外へ出て行こうとした。その時、一度だけ振り返って、母マリアを見た。
「お母さんがいつか話してくれたこと、お母さん自身で思い出してくださいね。お父さんと結婚する前に、ある体験をしたはずです」
ヨハネの死とイェースズの今の言葉に、マリアの顔色が見るみる変わった。本当に忘れかけていた、あの異次元体験を思いだしたのだろう。もう三十年近くも前のことなのである。
イェースズは外に出た。そこにはイェースズを待っていた人々がまだいて、彼の姿に喜びの声を上げた。
「申し訳ない」
と、人々にひと言だけ言って、イェースズは走りだした。林をぬけ、湖畔へと出た。そして湖畔に立って、はるか南の水平線を見た。その向こうでヨハネは殺された。つまり、処刑されたということだろう。
ヨハネの魂はエリアの再生だから、そう低い世界に行くはずもないし、またいずれ再会することもあろう。
ただ、今まで投獄されていただけのヨハネが、なぜ今ごろになって処刑されたのかとも思う。ヨハネを処刑すればヘロデ・アンティパスのローマへの汚点になるから、処刑はされないだろうと誰もが思っていた。それが処刑されたことで、イェースズは自分の将来にも立ちはばかるであろうものの強大なることを自覚せずにはいられなかった。
そして、今伝道の旅に出ている使徒たちのうち、元ヨハネ教団の幹部だった者たちには、その死を告げないわけにはいかないだろう。彼らを動揺させることは避けられまい。
そんなことをぼんやり考えていると、いつの間にかイェースズの脇に、一人の若い律法学者が来ていた。だが、その男からはほかの学者のような対立の波動は感じられなかったので、イェースズは優しい目で彼と向き合った。すると学者は、自分のかぶりものをさっと地面に捨てた。
「私はあなたの話を聞き、感銘しました。そして、自らを悔い改めました。どうか、お供させてください」
いつになくイェースズは、悲しそうな表情で学者に言った。
「それは拒みませんけど、もし私のそばにいれば安全だと思ったのなら、それは違いますよ。神の国の到来を伝えていた一人の男が殺されたことを、ついさっき知りました。ですから、私も危ない。別に、自分の身を案じているわけではありませんけど、私といっしょにいる人々に害が及ぶのは、私としては耐えられない。今の世の中に神理を告げるのは、命懸けなんです。野に住む狐には穴があって、鳥には巣がありますけど、私には安全な場所などないのです。それでもいっしょに来たいというのなら、ともに歩みましょう」
イェースズはやっと、いつもの微笑を見せた。
サロメはすぐに帰っていった。彼女が伝えたエッセネが抱いているという危惧というのはそれほど重大なものではないようで、来意の第一はヨハネの死を告げることにあったらしい。
また母マリアも、それからというものイェースズを批判するのをやめ、むしろ協力的になった。彼女の中で例の体験が、鮮烈に蘇ったのだろう。弟子たちを整備する妻マリアを、手伝ったりもするようになったのだ。
そんな頃、今年も仮庵祭が近づいてきた。秋も深まった頃、農業に携わる人々は収穫感謝として畑に八日間、この世は仮のものであるということを示す天幕をはってそこで生活する。そして八日目が最大に盛り上がり、過ぎ越しの祭りと並ぶ二大大祭となる。
イェースズは去年もヨシェに誘われたが、エルサレム行きを断った。今年もまた、ヨシェは誘ってきた。
「私がエルサレムに上るということは、たいへんなことなんだよ。ヨハネを殺した人の一派もそこにいるし、私はそんな人々をも神理へと導かなければならないからね。まだ、時じゃない」
今、使徒たちがいないこの時期に自分だけエルサレムへなど行かれるはずもなかったし、留守の間に使徒たちが帰ってくる可能性もある。
地方ではこの日、エルサレムに上れない人々のためにそれぞれ各地の会堂でも祭儀が執り行われる。祭りの八日目は聖書朗読の年間計画の最後の日ともなり、シムハト・トーラーともいわれ、「伝道の書」が朗読されると決まっていた。
イェースズも会堂に出かけた。
会堂の中はごったがえしていたが、この日は祭礼とあって、そこにいたのは必ずしもイェースズを求めて集まった群衆ばかりではない。会堂に一歩入った途端、イェースズは自分に対する敵意の波動を強烈に感じた。その波動を出した人々の多くは、イェースズが人々を惑わしていると思い、とにかく新興宗教という先入観で反感を持っている人々だった。中にはイェースズの子供時代を知っている人々もけっこういて、話は複雑だ。しかし 会堂 を埋めている人々の中にはイェースズの弟子も多いので、それを恐れて批判派も思っていることを口にできずにいるようだった。
やがて朗読の時間になった。この会堂の司である祭司のヤイロは、かつてイェースズに自分の娘の命を助けられた人でもあるので、イェースズが来たのを知るとすぐに朗読をイェースズに任せた。イェースズは朗読台に立った。
「若いうちに、あなたの創り主を覚えなさい。悪い日が来ないうちに、年を取って『何の楽しみもない』などと言うようになる前に。太陽の光や月と星が暗くならないうちに。雨が降ったあとに、再び雲が広がる前に。そのときになると、家の番人は震え、力あるものもかがみこみ、窓の太陽は陰って、臼を引く女は仕事が減っていなくなり、窓からのぞくものの目は霞む――神に感謝」
イェースズは羊皮紙の巻物を、係りのものに返した。慣例どおりそのまま説教台の上で、イェースズは祭司に代わって朗読箇所の解説をする。
イェースズは、口を開いた。
「兄弟の皆さん。ここに書かれた『その時』は、必ず来ます。まだ、皆さんは若いといえるでしょう。それは皆さんお一人お一人の年齢のことを言っているのではなく、人類全体のことを言っているのです。人類は、まだ若い。しかし時が来れば必ず年老いていきます。同じ『伝道の書』の、今日の朗読箇所の少し前には、『すべてのものには時がある』と書かれています。神様にも時があります。ご計画があり、それは日々進展しています。いつまでも、同じと思ったら間違えます。その御経綸の進展に乗り遅れないように、ずれを修正して悔い改めなければなりません。神の国の到来の前には、今読んだ箇所にあるように、相当な大嵐が来ます」
歓声は会堂の群衆の半分から上がった。すると、歓声をあげなかった部分の前の方にいた頭の禿げた男が、大声で叫んだ。
「あんたは確かに聖書についてよくご存知のようだ。しかし、どこでそれを学んだ。今話したことは、どこで教わった? そんなにも断定的にものを言う権威が、あんたにはあるのかね。そりゃ、あんたの考えだろう。それを断定して言うのはよくないぞ」
「いいですか」
イェースズは即答した。
「真に言っておきます。先入観や固定観念ほど、神理の妨げとなるものはありません。神のみ光は、赤ん坊のようなス直な人の上にだけ輝くんですよ。私が教えているのは私の教えではなく、私を遣わした方の教えなんです。私はただその中継ぎの伝達者にすぎませんからねえ。私が語ったことは決して私が考えたことではないし、私が作った話でもないんですよ。教えを私に伝えさせている御方のみ意を、そのまま実践してごらんなさい。私の言葉が神の教えか私が作ったものか、すぐに分かりますよ。すぐに結果が出るんです。もし今私が語ったことが私の考えなら、私は自分の栄光を求めていることになりますけど、神の教えをお伝えしているわけだから、神の栄光を求めることになりますね」
人々はざわめいた。気が狂っている、悪霊に盗り憑かれている、神への冒涜だなどという叫びが、矢のようにイェースズに襲いかかった。
やがて使徒たちは二人ずつ、ぽつりぽつりと戻りはじめた。最初に戻ったのはイスカリオテのユダ、シモンの組だった。そして十二人がそろったところでイェースズは一席設け、その報告を聞くことにした。
「みんな、ご苦労だったね。で、どうだったかね?」
「はい」
最初にペトロが顔を上げた。
「すごいんですよ。ばんばん奇跡が出ましてね」
「ええ。先生と同じように、下半身不随だった人が立って歩き回ったり、喘息が突然消えたり」
ペトロに同行していたアンドレも、普段のおとなしさを破って興奮して言った。マタイも上機嫌だった。
「みんなの病気がどんどん癒されて、ついでにびっこひいてた犬まで治りましたよ。人救いやんないで、犬救いやってごめんなさい」
これには、一同も大笑いした。イェースズもニコニコして聞いている。小ヤコブも、口を開いた。
「憑いている霊がしゃべりだした時は、びっくりしましたよ、体中が震えてしまって」
シモンも顔を上げた。
「みんな、うまくいっているようだな。俺はまだス直じゃないからすいぶんと断られたし、嫌味を言われたりもした」
それを聞いて、ペトロがうなずいた。
「そりゃあ私たちだって、全部が全部うまくいったわけじゃない。水をかけられそうになったこともあった」
「私らは」
エレアザルが口をはさんだ。
「いい若者が何が悲しくて新興宗教なんかに走るのかって、逆に説教されてしまいましたよ」
そしてヤコブが、
「間に合ってます。ビシャッ」
と、ドアを閉められた時の様子を演技で再現したので、またそれが一同の爆笑を買った。ピリポも言う。
「本当に『新興宗教、お断り』という感じの家が多いですね。そんじょそこいらの新興宗教と十把一絡げにされて、いくらそんなんじゃないって説明しても聞く耳を持ってくれません」
「先生は前に、『笛吹けど踊らず』っておっしゃったけど、全くその通りですね」
イェースズはそんな使徒たちを一通り見渡すと、ニッコリ笑って口を開いた。
「みんな、よくやった。今すぐに人々が聞いてくれなくても、くよくよすることはない。前にも言ったけど、これは種まきなんだ」
「でも、先生」
と、ペトロが口をはさんだ。
「生きている人間よりも悪霊に効きますね。悪霊がもだえ苦しんだ時は、本当にすごいと思いました」
イェースズは微笑んだまま、ペトロを見た。
「悪霊が服従したからとて、喜んではいけないよ。それでは霊媒信仰になってしまう。御霊も何かやむにやまれぬ事情や訴えたいことがあって、人に憑いているのだからね。悪霊とて本来は神の子だしね。愛と真で救わせて頂くという想念が大切だ。今までの自分の罪を考えたら、とても他人様に頭が上がる私たちじゃないはずだ。だからあくまでへりくだり、下座の心で救わせて頂くんだ。救ってあげるんじゃない、救わせて頂くんだよ。こんな罪深い自分でも神様にお使い頂いている、そんなことに感謝し、御奉仕をさせて頂くんだ。もしかしたらこの中で、いちばん罪深いのは私なんだろうな」
「そんなあ」
ペトロがと突拍子もない声を上げたけれど、イェースズは笑っていた。
「あなたがたを導く役をしなければいけないんだから、かつては逆にあなたがたを神様から引き離してきた張本人かもしれない」
そして、さらに言った。
「みんな、疲れただろう。今回はあなたがたをガリラヤに派遣しただけだったけど、やがては全世界に派遣する時がくる。その時は一人一人が私の代行者にならなくてはいけない。本来は救いを求めてくる人を救わせて頂くというのが本当の救いで、救いの押し売りは本物の救いじゃないんだけど、今回の派遣はやがてあなたがた一人一人が私の代行者となるべき時のための訓練だったのだよ。今は疲れたなら、私のもとで休むがいい。私は休ませてあげよう。しかしそれはただ単に『休息』という意味ではなく、再び立って歩いていく力を与えてあげるってことだ。今まで多くの預言者や王でさえ目にすることができなかったことが、今あなたがたの目の前で起こっている。これからも、どんどん奇跡の体験を積んでほしい。話を聞いただけでは半信半疑でも、実際に手をかざしてはじめていろんなことが分かってくるものだ。あなたがたも、どんどん奇跡の体験を積んでほしい。神様の世界の奥義は、実際に手をかざしてみなければ永遠に分からない。実践あるのみだ。今の世でこの業が許されたのはあなたがた十二人だけなんだということも、肝に銘じていきなさい」
確かにイェースズは使徒たちを休ませてあげられる。しかし、イェースズ自身には安息はない。彼自身の言葉で言えば枕するところがないのである。しかしイェースズは、それを憂しとはしなかった。すべては神様にお任せしているからである。
ただその前に、イェースズは彼らに告げなければならないことがあった。ヨハネの死を、やはり使徒たちに告げないわけにはいかない。
ペトロはただ、大声で泣いた。ヤコブは合点がいかぬとしきりに叫んだ。そしてアンドレやピリポ、ナタナエル、エレアザルなどヨハネ教団の幹部だったものたちは誰もが泣き、そして憤った。
親戚であって、幼い頃のヨハネをよく知っている小ヤコブや小ユダも同じだった。ヨハネの演説を聞いたことのあるマタイも、衝撃を隠せないようだった。
彼らをひとしきり泣かせたあと、
「とにかく今日は休みなさい、明日、みんなで人里離れた静かな所に行こう。旅の疲れを癒すためにね。私も、そうしたい」
と、イェースズは言った。




