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人間・キリスト  作者: John B.Rabitan
第3章 福音宣教時代
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奇跡の業の伝授と使徒たちの派遣

 秋もすっかり深まっていった。イェースズらはしばらく旅をやめてカペナウムに腰を据え、そこを拠点に人救いの毎日を過ごしていた。

 彼を慕ってくる人は日に日に増えていったが、たいていは御利益信仰の人が多く、なかなか定着しないのはヨハネ教団と同じだった。それでも郊外や湖畔のそれまで空き地だったところに連日のように入れ替わり立ち代りテントが並び、七十人くらいはほとんどそのままいついていた。

 人々が集まってまるで教団のような体裁になるのはイェースズの意に反することではあったが、それでも彼は来る人を拒みはしなかった。

 そして自分のことを預言者と言おうがユダヤの王と言おうが、はたまた魔術師や祈祷師のように思い、ヤマ師だ、詐欺師だ、大ほらふきだなどとさげすむものまで、すべて見る人の思い思いの心の内に任せることにしていた。

 定住者七十人は毎日嬉々として奉仕で暮らし、臨時の来訪者の数は毎日だいたい四千人くらいになった。それでも、ガリラヤの全人口から比べればほんの一握りだ。

 イェースズは朝から晩まで訪れてくる人に順番に一人一人、手のひらからの霊流で病を癒し、霊を救って離脱させていたが、夜になってもまだ大勢残っているときは一斉に両手から霊光を浴びせて救っていった。それでも、癒しの効果は変わらなかった。


 そんな朝、イェースズは十二人の弟子だけをつれて家の裏の斜面の上に登った。押し寄せてくる来訪者は、七十人あまりの定住者がおおわらわで応対しているだろう。彼らはもはや自分たちを、イェースズの弟子だと思っていた。

 しかし、最初からイェースズに従っている十二人は、別格だった。それでも、七十人ほどの人々をイェースズは信徒とは呼ばず、十二人にも「あなたがたは幹部というわけではないよ」と釘を刺していた。その十二人だけを、イェースズはつれ出したのである。

 時に冬も間近で、朝などは風が冷たくなっていた。十二人の弟子たちは、イェースズの立っている前に命じられたままだいたいかたまって座った。


「いつか山の上で約束したけど、そろそろ時が来たと思う」


 そう言われただけで、十二人は誰しも山の上での三日間のイェースズの講話の最後の、イェースズとの約束を思い出した。


先生ラビ、本当ですか?」


 小ユダなどそわそわして目を輝かせ、体を震えさせさえしていた。だが多かれ少なかれ、十二人全体がそんな心情だった。


「あなたがたに、特別な使命を与えるよ」


 イェースズはいつになく厳しい表情で、いつもの微笑がなかった。だから弟子たちも緊張して、その後は誰も言葉を発しなくなった。そして息をのんで、師の言葉を待った。


「今、多くの人々が毎日、私のもとに来ているね。でも、ガリラヤではもっともっとたくさんの人が、救いを待っている。ここに来られる人はいいけれど、ここにさえ来られない人も大勢いるんだ。だから、私がここでじっとしているわけにはいかないんだよ」


 ペトロが口を開けかけたが、イェースズはそれを制した。ペトロがまた旅に出るのかと聞こうとしたことは、イェースズには分かっている。だから先手を打って、


「別にまた、旅に出るわけじゃあない」


 と、言った。


「私一人があなたがたをつれて、あちこちを回っても限界がある。だから、あなたがたを私の代理としてガリラヤ全土の人々のもとに派遣する」


 互いに顔を見合わせて、少しざわめいた。それが収まるの待って、イェースズは言った。


「今から、あなたがた一人一人に不思議のメダーリヤというものを授ける。これを首からかければ天地創造の神様と直接結ばれて、四六時中神の光が体内に降り注いで浄められ、特別のご守護が頂ける。そして手をかざせばその光は、相手に放射される。これであなたがたは私と同じわざを使うことができるようになるんだ。奇跡を起こすこともできる」


「そんなあ」


 エレアザルが真っ先に、声を上げた。


「そんな夢みたいなことが……なあ」


 と、彼はほかの仲間に顔を向け、ほかの弟子たちも互いに顔を見合わせていた。


「いいかい。これをあなたがたに授けるのは、あなたがたのためだけではないんだ。多くの人々を救うために、そのわざを与えるのだよ。そのことを忘れてはいけない。私は幼い頃から特別の力があったけど、普通の人が同じような業を身に付けようとしたら、山中で三十年間は修行しないと無理だろうね。そんな 奥義おうぎ中の奥義の業をなぜいとも簡単にあなたがたに授けるのかというと、それだけ神様はお急ぎなんだ。そうしないと、間に合わないんだ。それだけ切羽詰っているんだよ」


 そう言ってイェースズは、岩の上の小さな箱を開いた。そこには鎖がついた金色の、円形のペンダントのようなものが入っていた。それはイェースズが霊の元つ国でミコから授かった御頸珠みくびたまに連なっていた十二の玉に、一つ一つ鎖をつけたものだった。


「まずはペトロ」


 イェースズは前に出たペトロの首に、その玉の鎖をかけた。


「次、エレアザル」


 こうして次々に弟子たちは名前を呼ばれ、十二人の首に玉を掛け終わった。そしてイェースズは、はじめていつもの微笑を取り戻した。


「どうだい、感想は?」


 張り詰めていた空気は、一気に緩んだようだった。マタイが顔を上げた。


「なんだか、体中がぽかぽかして来ました」


「そう、寒くない」


 そう言ったピリポに続いて、ナタナエルも言った。


「なんだか、力がわいてきたようです」


 イェースズはそれを聞いて、ニッコリと笑った。


「これは神様と直接霊線がつながれているものだから、決して粗末にしないように。私はこれを、十二個しか与えることが許されていない。だから、ほかの人に貸してはいけない。足の着くところに落としてもいけないし、水にぬらしてもいけない。あなたがたは今、神の子の力が蘇って人々を救うことが許されるようになったんだ。人の命までをもお救いさせて頂けるものなんだから、命よりも大切にお取り扱いするようにね。これであなたがたは悪霊をも浄めて離脱させることができるし、手をかざせば病人は癒される。そして何よりも、その人の魂を浄めて救うことのできる火と聖霊の洗礼バプテスマの業を施す権威が与えられたんだよ。この尊いメダーリヤを無駄にすることなく、人々の救済に精進してほしい」


「本当に、私たちに先生ラビと同じ業ができるんですか?」


 トマスが顔を上げた。


「実際にやってみてごらん」


「そういえば、昨日から肩が痛くてしょうがなかったんだ」


 そうつぶやきながら、トマスは自分の肩に手のひらをかざした。


「手が熱いなあ」


 最初はそんなことを言っていたトマスだったが、やがてあっと声を上げた。


「治った! あんなに痛かった肩が、治った!」


 何度も腕を回しながらトマスはうなった。


「何かが体の中でストーンと落ちるような気がしたけど、そんで治っちまった」


 何度も何度も、トマスは腕を回していた。イェースズは、声を上げて笑った。

 熱心党ゼーロタイのシモンも自分のおなかに手をかざしていたが、やはり、同じようにうなった。


「これは便利だ」


 そういうシモンに釘を刺すように、笑いながらイェースズは言った。


「言っておくけど、決してこの力を自分の力だって思っちゃいけないよ。あくまで、神様のみ力なんだ。自分はただ媒体になって、神のみ光を人々に与えていくんだ。だからすべてを神様にお任せして、どうぞお使い下さいという想念で、あとは神様のお手並み拝見でいいんだよ」


 弟子の何人かもイェースズといっしょに笑った。


「だから、手をかざす時も極力腕の力を抜いて、ふわっとした感じで、風が吹いたら揺れるくらいでいい。相手と手のひらとの距離は、約三分の二アンマー(三十センチ)。そして余計なことは考えない。あくまで貫く想念で、力を与えてくださる神様への感謝と相手の救われのみを念じて、あとは全くの無心でひたすら手をかざすんだ。治してやろう、霊を浮き出させようなんては出さないこと。背筋さえ伸ばして、お尻の穴をぎゅっと締めていれば、あとはぽかんと口を開けて馬鹿みたいな顔で手をかざしていればいいんだ」


 弟子たちの間に、少し笑いが起きた。だが、イェースズはそのまま続けた。


「くれぐれも、医者にでもなったようなつもりで『あなたの病気を治す』なんて絶対に言っちゃいけない。治るか治らないかは、神様だけがご存じのご計画の内にあるわけだからね。『治りますよ』とは言わないで、『楽になりますよ』とか、『変化が出ますよ』などと言っておけばいい。ましてや診断したり、医学を否定したりしないこと。ただ、霊的に盲目になっている今の医学だけではなく、より真実を人々にサトらせればいいんだ。あくまで、病気の治療、つまり病気治しが目的ではないということは、きちんと言っておくようにね。その人の魂を浄化させ、また悪霊をも浄めて離脱させて霊障を解消した上でその人に想念転換させ、その人に神様のもとへ立ち返らせるのが目的だ。体が楽になるのもそのための行きがけの駄賃で、病気を治すんじゃなくって病気をしない体にしてしまうんだ。どうかあなたがたも奇跡の体験をうんと積んで、それを通して実在神をサトってほしい。いいかい、トマス」


「はい」


 とトマスはうなずいてから、さらに質問を続けた。


「このメダーリヤを首に掛けないと、奇跡の業はできないんですか?」


「そうだね。本来の、つまり超太古の大昔の半神半人といわれたような人たちなら、誰でも持っているパワーだったんだ。でも今の世の人たちは再生転生を繰り返すうちに魂を曇らせ、本来ある力も発揮できなくなっている。だから天からの神様の光を集めてぎゅっと凝縮するためにこのメダーリヤが必要なんだ。あなたがたはちょうど十二人だが、さっきも言った通り私には十二個しかメダーリヤを与えることが許されていない。でも、やがて時が来たら、求める人には万人にこの業が許される時代が来る。さあ、みんな立って」


 一同は、言われた通りにすぐに立ちあがった。


「これからあなたがたには私の代理として、全ガリラヤをまわって、人々を救ってもらいたい。二人ずつ組みになって、今から出発だ」


 弟子たちの間には動揺があった。


「そんな、私に先生ラビの代理なんて」


 ヤコブが少し弱々しく言うと、イェースズは慈愛のまなざしで微笑んだ。


「私はあなたがた十二人だけ、私の弟子にするつもりだったけど、今では人が増えすぎた。一回のみで帰ってしまう人は別として、ずっとともに旅をしてくれた七十人ばかりを、もう弟子と呼んであげなければ気の毒だ。そこで、あなたがたは別格の『使徒』と呼ぶことにする。いいかい、さっきも言ったけど、決して幹部ではないよ。ほかの弟子たちより偉いということもない。強いて言えば、使徒とはほかの弟子の皆さんの下僕だと心得なさい。さあ、皆さんを派遣する、今はその時が来た」


先生ラビ、私は口下手ですから、先生ラビのように雄弁に語ることなんかできませんよ」


 温厚なアンドレが、ほとんど半べそで言った。


「大丈夫。できる。自分の力でやるじゃないんだから、肩の力を抜いていけば神様は御守護を下さる。何も雄弁である必要はないんだ。口数で説明するより、まずは体験してもらうということで、問答無用、手をかざすこと、すべてはそこから始まる。そうして村々で病める人がいたらまずそれを癒し、しかる後に福音を述べ伝えなさい。ここが大事だよ」


「福音?」


 弟子たち誰もが、首をかしげていた。


「福音とはだね、神の国は近づいたといういい知らせのことだ。神の国は待っているだけでは来ないよ。地上の人々がそれを顕現させようと念じ、行じた時にはじめて顕現する。だから奇跡の業を通して神様の御実在を問答無用で分からせないと、今の人たちはなにしろ目も耳も硬いからね」


「はい」


 使徒たちは、一斉に答えた。


「使徒だなんて、なんか偉くなったみたいだなあ」


 無邪気な小ヤコブの発言に、イェースズはまた笑った。


「偉くなったみたいはいいけど、これからあなたがたが行く先では、決してお金を受け取ってはいけないよ。お金を受け取ったら、そのへんの祈祷師や霊媒師と同じになってしまうからね。あなたがたはただでもらったんだから、ただで与えるんだ」


「しかし、先生ラビ、旅の途中はどうやって食べていったらいいんですかね」


 顔を上げたのは、会計係のイスカリオテのユダだった。


「みんながばらばらに旅ができるようなお金は、とてもありませんが」


「心配しなくていい。お金はもらってはいけないけれど、食べ物を頂いたらありがたく頂戴しなさい。あなたがたは神の使徒なのだから、神様にお任せしていればいい。いらない荷物も、余計な着替えも持っていく必要はない」


 日はかなり高く昇っていた。風が強かったが、震えているものは一人もいなかった。


「人を救うことが、あなたがたの救いにもなるんだよ。これからあなたがたが行く旅は、人救いの旅だ。まず病人を癒してあげなさい。福音を伝えるのは、そのあとだよ。足が痛くて泣いている人をつかまえて、いきなり『神の国は近づいた』なんて言ってもね、とにかく『わたしゃ足を治してもらいたいんだよ』って、神の国のことなんか全く耳に入らないからね」


 使徒たちはやっと緊張がほぐれて、いつもの笑いを取り戻した。


「その福音を告げるにしても、私が話したことをそのまま口移しに人々に伝えるんだ。決して自分流の解釈や、話に尾びれをつけてはいけない」


 また、使徒たちの顔は引き締まった。


「これから行く村では、必ずしもあなたがたを歓迎する人たちばかりではないだろうね。邪険にされて、足蹴にされることの方が多いかもしれない。でも、あなたがたを受け入れて話を聞いてくれた人は、私を受け入れた人々だし、神様を受け入れた人々ってことになる。でも決して、私のもとへ勧誘して来いと言っているのではないよ。勧誘ではなく、あくまで人救いだ。病気を治すことを救いだと勘違いしないようにね。神様は、病気治しで救いをせよとはおっしゃらない。砂糖に群がるアリのように、人が寄ってきても意味はないんだ。病気治しは方便で、あくまで魂の救いが主だ。たった一人に手かざしするだけで施光者と受光者が救われ、互いの先祖、御霊たちが数多く救われていく。そして、ありがとう、ありがとう、ありがとう、の波動が飛び交っていく。すばらしいね。それが人救いなんだよ。そして、救わせて頂いた人の中から、因縁の魂を掘り起こしてくるんだ」


「因縁の魂?」


 アンドレが問いかけたので、イェースズは少しだけそちらへ顔を向けた。


「前にも言ったと思うけど、神様との御縁、つまり御神縁が深い人だ。過去世で神様に、何らかの功績を立てたことのある魂だね。そんな人が野に山に里に埋もれている。それを探し出すんだ。あなたがたも御神縁が深い、つまり因縁の魂だ。神様は、因縁の魂で因縁の魂の救いをせよとおっしゃる。だから、家を一軒一軒まわって、その家に入る前にまず神様に自分の至らないところを補ってくださいとよく祈って、問題があればその方に代わって神様にお詫びをさせて頂いて、そしてその方が幸せになるように祈らせて頂くんだ。それができないと、神様の御用にはならないよ。因縁の魂を探すのを、簡単に考えないようにね。右から左へサッサッとできるものじゃあない。相手には霊が憑いていることも忘れないように。邪霊は神の光を嫌うから、頭から断られたり、否定されたりすることも当然ある。話も聞いてくれずに邪険に追い出されたり、敵意を持って罵声を浴びせかけられたりしても、そんな時は言い争ったりせず、この人は因縁がないのか、あってもまだ時じゃないんだとさっさと足のちりを払ってその村を立ち去ればいい。かわいそうだなとは思っても決して深追いせず、しつこく食い下がったりしないようにね。ましてやその人を裁いたり対立の想念を持つなど、悪想念を発することは禁物だ。もしその人に御神縁があれば、いつか神様が仕組まれる。人それぞれ時期というものもあって、その判断は神様がされる。一切が種まきで、いつどんな時に芽が出るか分からない。冷たくしたり、批判したりする人にもニッコリと微笑んで感謝をして、そして次の村へ行けばいい。断られるたびに、あなたがたの罪穢が一つずつ消えていくんだ。断られたその家の隣で、救いを待っている人がいるかもしれない。救いを求めている人は、まだまだたくさんいるからね」


 使徒の何人かは重責ゆえか、ため息をついている、それを見てイェースズはまた笑った。


「重荷に考えることはないよ。自分ひとりがやるんじゃない。まあ、二人ずつ組みで行ってもらうけど、それだけではなくて、福音宣教は神様との共同作業だ。神様がされることへの手助けなんだ。それを、自分の力でやろうと思うと間違う。と慢心が入ったら、神様はお力を貸してくださらない。自分の力を過信せず、また卑下もしないこと。至りませぬながらもどうかお使いくださいという祈りと行があってはじめて、神様は足らないところを補ってくださる。あなたがたは私から神様の教えをたくさん聞いてきたと思うけど、本当は神様の教えは耳で聞いただけでは分からないものなんだ。実際の行為と行、つまり人救いと福音宣教によってはじめてそれは血にもなり肉にもなるから、ためらう必要はない。でも、口だけで説得しようとはしないことだね。せっかくメダーリヤを頂いたのだから、神様の光で相手の霊眼ひがんを開かせ、神魂かむたまを揺り動かして神の子であることを褒め称えるんだ。神の子は、互いにおろがみ合う想念が大切だね。神の光と教えは、車の両輪のようなものだから、どちらが欠けてもいけない。変な色気は捨てて、馬鹿になって、いつでもどこでも何にでも敢然と神の光を放射すること。これなくして、福音宣教は絶対にできない」


 そしてイェースズは立ち上がって、使徒たちの前を離れて湖の方を向いて立った。


「みんな、来てごらん」


 イェースズは湖が一望できる所から、町を見下ろしていた。その左右に、使徒たちが集まってきた。


「あの町に多くの人がいる」


 使徒たちもイェースズの背後から、湖とその岸辺の町を見下ろした。


「そしてあの町だけではなくて、ガリラヤにはもっともっと多くの人々がいる。どこかで誰かが、あなたがたの来るのを待っている。でも、今は夜の世なんだ。そんな物欲の固まりのような人々ばかりのところにあなたがたを遣わすのは、まるで狼の群れの中に羊を送り出すようなものなんだよ。だから、蛇のように賢くなくてはいけない。徹底的に噛み付いてくる人も多いだろう。だから相手をよく見て、それに合わせて教えを伝えるんだ。世間には頑固な人とか、皮肉屋とか、優柔不断な人とか、お天気屋とか、無口な人とか、おしゃべりな人とか、とにかくいろんな人がいるだろう。でも、どんな人と出会ったとしても、まず相手が何を望んでいるのかを的確に見抜くことだね。そして相手の心を大切にして、暖かく包んであげることだ。教えを押し付けるのは、絶対にいけない。そして屁理屈を言わずに、ハトのようにス直に行きなさい。神様にス直になっていれば、何も困ることはないはずだ」


 そう言っているイェースズ自身が、使徒たちに合わせて話していた。使徒の九割がたがガリラヤ人である。だからガリラヤ人特有の、何々のようにという比喩を多用したのである。


「でも、先生ラビ


 背後からと小ユダが声をかけた。


「私はやっぱり恐いです」


「何を恐がっているのかね」


 イェースズは使徒たちの方を向き、湖の風景を背にして微笑んで見せた。


「村には律法学者も多いでしょう? そんなのに捕まってまた論争でも吹っかけられたら」


「逃げればいい」


 イェースズはまだ笑っている。


「決して言い争ったりしないこと。そうならないためにも、逃げるのがいちばんいい。論争をしたって時間の無駄、そんなところから何も生まれはしない。神様の教えは、人知の倫理や哲学じゃないんだからね」


「でも、もし捕らえられたりしたら」


 と、トマスが口をはさんだ。


「そんな時はまず落ち着いて、着実に微笑をもって、そして余計なことは考えないで頭を空っぽにして神様にお任せしていればいい。どんな言葉で反論しようかなんて、考える必要はないよ。もし言うべきことがあれば、神様が自然とあなたがたの口を動かしてくださる。それがメダーリヤを頂いた使徒の御稜威みいづというものだ。あなたがたにはもう、一切の権威を与えたのだよ。だから、何も恐いものはないはずだ。あなたがたの手の業は、悪霊をも浄めてサトらせることができる。邪霊が浮き出てきてあれこれしゃべったり暴れたりしても、あなたがたは敢然と手をかざしていればいい。くれぐれも言っておくけど、祈祷師のように霊を無理やりたたき出さないこと。これは前にも言ったよね。それと注意しなければいけないことがもう一つ。邪霊が浮き出てきてしゃべりだしても、変な興味を持って霊界のことを根掘り葉掘り聞き出そうとしないこと。霊には、必要以上の興味を持たないこと。これを守らないで霊の言うことを信じたりしたら、霊に振り回されて、悲惨な結果になる。下手をすると、霊媒信仰に陥ってしまうからね。あくまでも主体は神の光で浄めるということで、霊のしゃべることは参考程度に聞いておくように。たいてい、本当のことは言わないから。邪霊ももとは神の子だから、対立の想念は持たないで暖かい愛で接してあげることだ。まずは徹底して神様中心の想念を、自分の中に確立することが大切だね」


 イェースズの言葉にはとにかくこれだけは伝えておきたいという気概があり、それが十分使徒たちにも伝わったので、誰もが神妙に聞いていた。それからイェースズは、一段と声をあ張り上げた。


「さあ、みんな出発だ」


 そしてペトロとアンドレ、ヤコブとエレアザル、小ヤコブと小ユダと、兄弟はそのままペアにした。ほかにイスカリオテのユダとシモン、ピリポとナタナエル、トマスとマタイが組みになった。


「もう一度、くれぐれも言っておく。あなたがたはまず病める者を癒せ、しかる後に福音を伝えよ。病気を癒してそれだけで『はい、さようなら』とならないように。それではますます相手に御利益侵攻を植え付けてしまう。それに、その人が病気という現象を受けているということは、それだけの理由がある。その人が積んできた罪穢というものの結果の場合もある。あなたがたがその人と出会って神のわざで癒すというのも、その人の魂を神様が救おうとしてされることだ。病気を癒すのは方便だ。それを、病気を癒しただけで福音を告げなかったら、ただの祈祷師かまじない師になってしまう。そうなると、逆にその人を病気にさせた神様のご都合の邪魔をすることになってしまうから、あなたがたがその人の罪穢を肩代わりして背負ってしまうことになるよ。その人があなたがたの言葉を受け入れるか受け入れないかは二の次で、まずは告げ知らせるということが大事なんだ」


 皆がうなずいたのを確認してから、イェースズは高らかに宣言した。


「さあ、行くんだ」


 イェースズに促されて、二人ずつ組みになった使徒たちは、イェースズに挨拶をして湖の方へと降りていった。イェースズはその後姿を、丘の上からじっと見ていた。

 彼らは、さほど成果を挙げられまい……イェースズはそう思いながら、使徒たちの小さくなっていく背中を見ていた。しかし、それでもいいとイェースズは思っている。

 使徒たちを使わしたのは神の御用に立たせることで彼らの罪穢消しもあるし、またいずれ彼らは一人一人が自分の代理としてひとり立ちしなければならない時が来る。これはそのときのための訓練でもある。イェースズが使徒たちを遣わしたのは、そういう側面もあったのである。

 

 使徒たちが宣教に去ったあとも、イェースズは相変わらず多忙を極めた。なにしろ相変わらずおびただしい数の人が、毎日押し寄せてくるのだ。それをうまく整理するのを今までは使徒がやっていたが、今度はイェースズと妻のマリアだけでやらなければならないのでたいへんだった。

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