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人間・キリスト  作者: John B.Rabitan
第3章 福音宣教時代
74/146

「汝の信仰、汝を救う」

「とりあえず。カペナウムに帰ろう」


 船上で、イェースズは言った。結局イェースズはなぜ湖を渡ろうと言い出したのか、弟子たちには分かっていないようだった。イェースズはそんな疑問の想念を読み取って、すぐに答えた。


「私はね、朝一日が始まる時、神様に今日一日なすべきことのお伺いを立てる。神様は、必ずすぐお答えくださるよ。どれを優先して、どれを後回しにするかということをね。そういった優先順位を間違えないっていうのは、大事なことなんだよ。それを間違えて、人生を台無しにしている人も多い。だから一日のうちに、少しでも神様と対話する時間が必要なんだよ」


「それが祈りだって、先生ラビはおっしゃいましたね」


 ペトロが艪をこぎながら、言った。


「その通り。よく覚えていたね。神様から人間に対する祈りを、全身全霊で読み取ることだね。神様は、いろんな型示しを下さる」


 そこへトマスが、口をはさんだ。


先生ラビはなぜ、あの男の霊がたたき出してくれって言った時にそうしなかったんですか?」


「ローマ人の霊なんか、たたき出して地獄へ落としてやればいいのに」


 と、イスカリオテのユダが言うと、イェースズは一瞬だけ笑みを消し、


「あなたはまだ、先ほど私が言ったことが分かっていないね。かつて、地獄について語ったこともね」


 と、ぴしゃりと言い、そしてすぐに笑みを戻した。そして、トマスやユダにだけではなく、十二人の弟子全員に優しく諭すように言った。


「人に憑いている霊というのは、それぞれ事情があるんだよ。憑依霊といっても本来は神の子だし、人格もあれば尊厳もある。事情も聞かないでたたき出すとたいへんなことになる」


 イェースズは、風になびく自分の髭をなでた。行きの嵐がうそのように、帰りの船旅は順調だった。


「昔、こんなことがあってね。これは私の失敗談なんだけど、ある異邦人の村でまだそういった霊をたたき出しちゃいけないってことを知らなかったから、無理やりそうしてしまったことがあったんだよ。そうしたら、そこは異邦人の村だからたくさんの豚を飼っていてね」


「豚?」


 豚を飼うというのが、彼らの感覚ではどうにも理解できない。


「だから、異邦人の村での話だ。それで、霊を無理やりたたき出したら、その霊は豚にかてしまってね、豚の群れは突然発狂して次々に海に飛び込んで溺れて死んでしまったんだ」


 一度苦笑して言葉を切ったイェースズは、またさらに続けた。


「だから、霊を無理やりにたたき出したら霊はものすごく苦しく痛いから、怒ってしまってまた帰ってきてもっと悪さをするし、回心して浄まっているわけではないから、幽界の修行に励むどころか別の人にとり憑くこともある。だから、やはり愛と まことで説得して、神様のみ光で浄めて天国へと救ってしまって、自分の意志で離れて頂かないとその御霊自身は救われない。そもそも、霊が離れさえすればいいというのは御利益信仰である危険な霊媒信仰で、それではとてもとても神様の御用ができるようにはならないね」


 その時、曇っていた空の一角が切れ、陽光が斜めに光条を描いて湖水へとさした。


「でも、先生ラビ。一つだけ聞いてもいいですか?」


 ピリポが首をかしげながら言った。


「なんだい?」


「あの男の霊はローマの兵だって言ってましたけど、なぜ我われと同じアラム語をしゃべっていたのですか?」


「それはね、話が難しくなるけど」


 イェースズはまだ微笑んでいた。


「霊が人をしゃべらせるその力のもとは、念なんだ。念の固まりのようなものでね、実際にしゃべるのは憑かれている人の頭の中の言語を司る部分を使って念で霊は人の口を動かす。だから、憑かれている人が普段しゃべっている言葉でしゃべるんだよ」


「あのう」


 シモンが今度は手を挙げた。


先生ラビは、すべての民は等しく神の子って言われましたけど、イスラエルの民は神様から選ばれた民なんじゃあないんですか? それを否定して、ほかの民ともみんな同じなんて言うのは、律法に背くんじゃないですか?」


「うん」


 イェースズはうなずいた。


「そう思ってしまうのも無理はない。でもね、確かにイスラエルの民は神様から特別な使命を与えられた民だ。そういう意味では、選ばれた民というのは間違いじゃない。しかしだね、すべての民にもそれぞれ神様から与えられた固有の使命ってものがあるんだ。どんな民族も神様にとっては存在意味があるから、許されて存在させて頂いている。だから、イスラエルの民が特殊な使命を与えられているからといって、どちらが偉いだの偉くないだのということはないんだよ」


 船は順調に帆に風を受けて、さざなみがたつ湖水を滑って、カペナウムへと向かっていった。


 夕方、薄暗くなってから、船はカペナウムに着いた。それでもまだ岸まで距離があるのに、岸の上のざわめきは船まではっきりと聞こえてきた。そして船が港に近づいて様子が分かるくらいにまで来た時、岸の上にはおびただしい群衆がいるのをイェースズたちは見た。湖岸にテントまではって、ずっとイェースズの帰りを待っていたらしい。テントを張っているということは、明らかによその町の人々だ。カペナウムは漁業の町であるとともに商業都市で、いつも旅人は多い。しかし、こんなにも他の町からの来訪者でふくれあがったことはないだろう。


「あんなところに上陸したら、押しつぶされちまうかもな」


 イスカリオテのユダが、不機嫌そうに言った。


「でも、家に帰らないとご飯が食べられないし、おなか減った」


 この小ユダの言葉は皆の笑いをとったが、本人の顔は笑っておらず、また弟子たちの中の何人かはそれに激しく同意しているようだった。


「みんな、救われたいんだな」


 と、ぽつんとイェースズは言った。あるものは病を背負い、あるものは金銭的不幸、あるものは家庭崩壊に疲れて悩んでいる。そんな人々が御利益信仰で並んでいるが、それもよしとした。

 ざっと見ても二、三千人はいそうだが、それでも今日のこの日にここに集まっている群衆は奇特な人々で、ガリラヤだけでかなりの人口があるはずだし、カペナウムだけでも千五百人ほどの人口がある。だからこの町の大部分の人々はこの湖岸での出来事とは無関係の生活を、無関心のままに送っているはずであった。

 イェースズが上陸すると、人々は指一本でもイェースズに触ろうと押し寄せてきた。しばらくはもみ合い、へし合いになっていたが、そのうち町の方に向かってイェースズは弟子たちとともに歩き、群衆はずっとイェースズを取り囲む形で追ってきた。そしてイェースズは、歩きながら群衆に向かって、口を開いた。


「奇跡は神様のお力ですよ。ですから心を入れ替えて、神様の御用に立ち上がってください」


 その時、後ろから小ヤコブが大きな声でイェースズを呼んだ。


「何かあったのかね」


 イェースズが尋ねると、小ヤコブは群衆の後ろを指さした。


「お母さんとヨシェ兄さんが来ています」


「何だ、そんなことかね。そんなことでいちいち呼ばないように」


 イェースズは苦笑していた。


「そんな母さんだの兄さんだのと騒いだって、魂は別だよ。あちらの世界では、いつまでも家族一緒にというわけにはいかない。たとえ家族でも霊層界は違うからね」


「それじゃああんまり、悲しいじゃないですか」


 ピリポが口をはさんだ。だがイェースズはニッコリと笑った。


「親子兄弟はもちろん縁あって親子や兄弟になったのだけど、それは肉体、物質的なつながりだね。でもここで発想を変えると、すべての人は神の子なんだから、すべての人は兄弟だってことにならないかね? 私の周りに集まる人が優しくて親切なら、みんな私の兄弟だし、私の父母だ。そう思えば、悲しくなんかないじゃないか」


 そんなことを言いながら帰宅したイェースズだったが、群衆もそのままついてきたので、母のマリアはほとんど悲鳴をあげていた。

 そして帰るやいなや、イェースズを母マリアは別室に呼んだ。


「あまり言いたくないのよ。でも、ここまで大騒ぎになったら、神様にかえって申し訳ないでしょう? 近所の人たちはとても迷惑しているみたいだし、みんなあなたのこと頭がおかしい人だって言ってるのよ」


「お母さんもそう思いますか」


 そしてイェースズは、にっこり微笑んだ。


「思いたくはない。でも、分からないのよ、あなたが。あなたのことを詐欺師だ、大ほら吹きのヤマ師だなんて言っている人もいるし」


「そうですか。昔から預言者は、故郷では受け入れられないものですからね」


「お母さんも小さいときはナザレの家で育ったのだし、あなたはメシアの母候補の子なんだから、特別なエッセネの説法者になってもほしかった。お父さんのあとを継いでほしかったのよ。だから旅にも出したのに。それがこんな変な新興宗教を作ってその教祖に納まっちゃうなんて、そんなことのためにお母さんはあなたを育てたの? エッセネの方たちもそろそろあなたの動きを注意しだしたって、サロメも心配してた」


「お母さん。違いますよ。そんなんじゃないです。私は教団など作っていないし」


 イェースズがそう言っているところへ、小ヤコブが入ってきた。


先生ラビに会いたいって人が来ています」


「あとにしてもらって」


 と、母がイェースズの代わりにきつい調子でヤコブに言ったが、ヤコブが、


「シモンっていうパリサイびとの学者さんですけど」


 というのでイェースズの眉が動いた。学者がまた論争を吹きかけにきたのかとも思ったが、なぜか会ってみようとイェースズは思った。だから、


「分かった。すぐに行く」


 と、ヤコブに言った。


 パリサイびとのシモンは、なんとイェースズを自宅に招いてともに夕食をとろうということだった。イェースズはその申し出を受けることにした。

 パリサイ人だからといって拒絶すれば相手をその立場で差別し、裁きと対立の想念を持ってしまうことになるからだ。

 弟子たちを残し、イェースズは妻マリアと二人だけで夕方の街に出た。表はまだ群衆がひしめき合っているので、裏口からこっそりと出た。そろそろ日も短くなりはじめて夕闇が迫っていたし、弟子を全部連れて行くといやでも目立つが、妻との二人きりの外出なのでまんまと脱出に成功した。

 途中、市場を抜けた。灯火が市場を煌々と照らし、夜の町は活気にあふれていた。

 シモンの家は、すぐそばだった。会堂シナゴーグの三軒隣で、中に通されると宴席はすでにできていた。一応慣習どおり女性であるマリアは別室で待機し、イェースズは床に食事が並べられた部屋に入った。

 そこにはシモンと同じようなかぶりものをかぶったパリサイ人が三人、すでに来て粗食を囲んで座っていた。パリサイ派の宴だけに、酒はない。イェースズも足を後ろに投げ出して、床に横になって座った。その間、イェースズは終始ニコニコしていた。それが、パリサイ人らの目には、かなり奇異に映ったらしい。食事が始まってシモンは、すぐにイェースズに尋ねてきた。


「この席は、あなたにとってはいわば敵地に乗り込むようなものではないのですかね? どうしてそんなにニコニコしておられるのです?」


 普段はこんなご馳走を食べたこともないので、それがうれしくてニコニコしているのだろうかなどと、彼らが勝手に想像しているのがイェースズには読み取れる。


「いえ。私は神様を信頼していますから。私はあなたがたを敵だなどとは思っておりません。お招きに預かり、ありがとうございます。いや、本当に有り難い」


 学者らの想念が手にとるように分かるイェースズに対して、彼らはどうもイェースズが分からないというふうに首をかしげていた。


「時に、あなたの目的は何なのです?」


 と、出し抜けにシモンが突拍子もない質問をイェースズに浴びせかけてきた。


「目的、とは?」


「あなたは各地で、病人を癒したりなどいろいろな奇跡を起こして回っておられるようだが。このカペナウムでも、だいぶ人を集めておらるようですな。われわれは正直言って、祈祷師の類は危険視しているのですよ」


「確かに、私も同感です」


 笑顔のまま人を食ったようなイェースズの返事に、学者たちは一瞬言葉を失っていた。


「祈祷師のあなたが、祈祷師を危険だとおっしゃるので?」


「私は、祈祷師なんかじゃありませんよ」


「しかし、奇跡を売り物にして人を集めてるなんて、低級な御利益信仰ではないですかね?」


「奇跡は方便でしてね、あくまで目的は奇跡の業を通して神様の実在を万人に知らしめて、人々の魂を浄め、人々を神様のご計画に参画させるためのものなんですよ」


「神の実在なんて、誰もが幼い時から毎週会堂(シナゴーグ)聖書トーラーを読んで、分かっているではないですか」


「私が説いているのは観念の神ではなく、厳として実在されている神様のミチなんです」


「ほらほらそれ」


 シモンはパンを手に身を乗り出した。


「それがいちばん危ない。祈祷師ごときが、何の権威があって神のミチを説くんです? はっきり言わせてもらいますが、われわれの善良な市民があなたのような怪しげな新興宗教にたぶらかされて、誘いに乗ってゆく様子を見ているわけにはいかないんですよ。人々を巧みに騙して金を巻き上げる詐欺宗教をね。あなたがたは低脳な社会不適合者の罪びとが集まったクズの巣窟じゃないんですか? すべてはあなたの妄想から始まって、そして人々の心を操って大きな集団になろうとしている。その目的は何なんですか?」


 イェースズはまだ落ち着いて、微笑んでいた。


「私が説いているのは宗教なんてものよりもっと次元の高い、神様の大元の教えなんですよ。別に奇跡を売り物にしているわけじゃないですけど、私に言わせれば奇跡も起こせない宗教など眉唾物ですね」


 そこにいた三人の学者が三人とも、息をのんでイェースズをにらんだ。

 その時、


「私の先生ラビを悪く言うのはやめてください」


 いつの間にかマリアが両手をついていざるようにして入ってきた。今度は、学者は露骨にいやな顔をした。マリアは、目にいっぱい涙を浮かべていた。


「なんだね、君は」


 シモンが叫ぶのと同時に、イェースズは、


「私の一番弟子です」


 とマリアを紹介した。彼女はイェースズの後ろに伸ばした足の方に座っていたので、涙のしずくがイェースズの足に落ちた。それを知ったマリアは慌てて、自分の髪の毛でそのイェースズの足の上の涙をぬぐった。そのときのシモンをはじめとする学者たちの想念が、イェースズにはすぐに分かった。


――こいつは預言者気取りだが、こんな席にまで女を連れて歩く……。


 そんな学者たちの想念をよそに、イェースズはマリアのするままにさせていた。マリアは終始無言で、イェースズの足の自分の涙をぬぐいながら、何度もイェースズの足に口づけをした。

 イェースズは顔をあげて、シモンを見た。


「あなたは今、この女が気が狂っていると思いましたね」


 心の中をずばり言われたシモンは、返す言葉もなく口を開いて蒼ざめていた。そんなシモンに、イェースズは言った。


「人は誰も神の子ですが、また人は誰もが罪びとなんです。過去世からの罪穢を背負って、皆この世に生まれてきている。この女も自分の罪を自覚し、悔い改めて許しを請い、私が伝える神の言葉で想念を転換したのです。それなのにあなたがたは、私が来る前に足を洗うための水さえ用意してくれていなかった。それは怠慢ですよ。最低限の礼儀じゃないですか」


 学者たちは口ごもってしまったので、イェースズはさらに続けた。


「罪とひと言で言っても、大きい罪と小さい罪がありますね。五百デナリの借金をしていた人と五十デナリの借金をしていた人がいたとして、ともに借金を帳消ししてくれるということになったら、どちらが感謝の度合いは大きいでしょうかねえ?」


 シモンが答えないので、ほかの学者が、


「五百デナリだろう」


 と、言った。


「そうでしょう。シモンは先ほど、私に従ってきている人たちを罪びと呼ばわりしましたが、その罪が許されたらみんな神様をより一層愛しますよ。罪びとだからといって失望する必要はなく、自分の罪深さをサトって、それでも許されて生かされているということへの感謝の心を持つことこそ、神様に近づく原動力だと思いますけどね」


「お説は分かるが」


 もう一人いた初老の学者も、口をはさんだ。


「神に近づく原動力として我われは聖書トーラーと律法を持っているわけですから、あなたのお説には何の説得力も根拠も感じられないのですがね」


「神様の御経綸は、ずっと同じじゃないんですよ。日々進展しているんです。律法はもとは神様の教えでも、神様のお考えの方が日々進展しているんです。私が伝えているのは新しい神の置き手なんですね。いいですか。古い革袋に新しいぶどう酒を入れえたら、破れてしまいますよ。ユダヤの律法という古い革袋ではなく、新しい酒のための新しい入れ物を、一人一人が心の中に用意するべきだと思います。神様の教えは万古から実在し、今も進展を続けているんです。だから私が伝えている神のミチは最も古い教えであると同時に、永遠に新しい教えなんです。そして全部が御神示で、私が考えたことじゃないんですよ」


 それでも学者たちは、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。彼らの目的の方こそ明白で、これは食事の宴会ではなく、明らかにイェースズの異端裁判だったのである。

 その時、玄関の方で声がした。


「ヨシェのところのイェースズ師は、こちらだって聞いてきましたが」


 イェースズは立ち上がった。


「どうやら、私が救わせて頂くべき人が、また一人現れたようです。失礼します」


 イェースズは、玄関へと向かった。

 

 外に出ると、そこには会堂シナゴーグの司である祭司のヤイロがいた。


「お願いだ。娘を何とかしてくれ」


 会堂シナゴーグの司である祭司がイェースズにすがりつく光景は、まさに信仰の深さと厚さを具現化したものだった。この祭司はかつてイェースズがこの町の会堂シナゴーグで悪霊に憑かれた男の霊を離脱させたところを目撃している人でもあり、それでイェースズを頼ってきたようだ。


「うちの十二歳になる娘が今、危篤状態なんだ」


「分かりました、すぐに行きましょう、まずは落ち着いて下さい。」


 と、イェースズは明るくうなずき、ヤイロに案内され、マリアとともに夜の町の人ごみを掻き分けて歩き出した。

 そこへばったりと、三人の弟子が現れた。ペトロ、そしてヤコブとエレアザルの兄弟だった。


「あ、先生ラビ先生ラビがパリサイ人の家なんかに行ったから、心配で迎えに行こうとしたんですよ」


 ヤコブが本当に心配そうに言うと、イェースズは笑った。


「何を心配することがあるというのかね。それよりいっしょに行こう、人救いだ」


 マリアと三人の弟子は、イェースズのあとに従った。

 ヤイロの家は、会堂シナゴーグの前の広場を横切らねばならない。そこには人がたくさんいる。イェースズを求めて地方から来た人々も、その中にはかなりいるはずだ。だが、イェースズはそのまま人ごみの中に入っていった。暗いので、誰もそれがイェースズとは気づいていないようだった。

 その時、イェースズの上衣の端をつかんだものがいた。同時に、これで自分は救われるという想念が伝わってきた。そしてイェースズは自分の霊体から霊流が、上衣をつかんだ手の方へとどっと流れていくのを感じた。

 振り向いた時はもう手は離れていて、今上衣をつかんだのは誰だかは分からなくなっていた。


「誰か今、私の衣に触ったねえ」


 イェースズがペトロにそんなことを言っていると、すぐ近くの人ごみの中から大声で泣く女の声が聞こえた。泣き声の主は人ごみを割ってイェースズに近づき、イェースズの足元で泣き崩れた。


「お衣に触ったのは私です。申し訳ありません。ただ、あなた様のお衣にでも触れば、私が長年苦しんでいたやまいも癒されるのではないかと思ったのです」


 イェースズは優しいまなざしを、女に向けた。


「そんなに長いこと苦しんでいたのですか?」


「はい。何年も出血が止まらずにいたのです。あっちこっちの医者にかかりましたけどよくならず、そのために財産も使い果たしまして、結局は医者からも見離されたんです」


 女は涙でぐしょぐしょの顔を上げた。


「どうして私が来たことが、分かったのですか?」


「昼間、あなた様の家の前の大勢の人の中におりました。そしてあなた様が帰ってこられると、ただでさえ暑いのに、ものすごい暖かさがあなた様の方から感じられたのです。それは、包み込むような優しい波動の暖かさでした。そして今、広場をうろついていたら昼間と同じ暖かさを感じて、今はもう涼しいのにあなた様のいる方の体だけが熱くさえ感じたのです。そして夢中でお衣におすがりしましたその瞬間に、あんなに苦しんでいた出血がぴたっと止まったのです」


「おお、そうですか?」


 イェースズも、驚きの声を上げていた。


「それはよかったですね」


「あなた様は、何もかもご存知でした。ありがとうございます。本当にありがとうございます。お救い頂いて、何とお礼を申していいか」


「あなたの信仰が、あなたを救ったのですよ。信じたから癒されたというのではなく、信仰の厚さと深さによって救われていくんです。信じる信じないではなく、その信仰の厚さと深さが大切なんですよ」


「はい、ありがとうございます」


 まだ泣いている女をあとに、イェースズは歩き出した。ともに歩きながら、エレアザルが首をかしげた。


先生ラビはあの女を癒そうと意識したわけでもないのに、あの女は癒されてしまった。こういうこともあるんですね」


「エレアザル。そしてほかのみんなも、たった今、奇跡が起こったんだよ」


「はい、見ました」


 と、即答したマリアに続き、ほかのものもうなずいた。


「では、なぜ驚かないのかね。奇跡って、実際には起こるはずもないことが起こることなんだよ。普通ではあり得ないことが起こるんだよ。それを見てびっくり仰天しなければならないのに、あなたがたは平然と見ていたね。みんな、奇跡が奇跡でなく、当たり前のもののように思いはじめていないかい?」


 そのことを、イェースズはいちばん危惧しているのだ。


「いいかい。奇跡に狎れることは、絶対に禁物だ。感謝と感動と感激の中で、奇跡は降る星のごとく生まれていくんだ。あの女に奇跡が起きたのは、あの女の信仰を神様がお認めになったからだよ」


 そんな話をしている時に、ヤイロの家が近づいてきた。


「何度も言うようだけど、私が奇跡を起こすんじゃなくて、奇跡を起こすのは神様だ。私はお手伝いをしているのにすぎないんだ。神様が私を使って、奇跡を起こされる。あの女を救ったのも神様の御意志で、そこに私の意志が介在する必要はないんだ。一切は神様にお任せだからね」


 すると、ヤイロの家の扉が開いて、下僕のような若い男が走り出てきた。そしてヤイロを見つけると、その前にかがんだ。


「これからお探しに行くところでした。実は……、実は、遅うございました」


 ヤイロの顔が、見る見る変わった。


「お嬢様が、お嬢様が……遅かったです」


 下僕は力を落として、かがみこんだ。ヤイロは娘の名を呼びながら血相を変えて、門の中へと駆け込んだ。イェースズたちも、それに従った。

 部屋の中央に、ヤイロの娘の遺体は横たわり、その母親がすがって泣き崩れていた。娘と言っても、まだ小さい女の子だったのである。ヤイロもまた娘の名を何度も呼び、ひとしきり泣いたあと、背後に立っていたイェースズの方を振り向いた。


「申し訳ありません。遅うございました。娘は死にました。もう、あなた様のお手を煩わせる必要はなくなってしまったのです」


「それはお気の毒に」


 イェースズも、神妙な顔をしてうなだれた。しばらくはそうして、娘の両親をひとしきり泣かせたあと、イェースズは遺体の脇にかがみこんだ。


「死んだということは肉体がなくなるだけで、お嬢さんの霊魂はまだ生きておりますよ。肉体という着物を脱ぎ捨てただけなのです」


 そう言ってイェースズは、遺体の眉間に上から手をかざし、霊流を送った。


「そんな、娘はもう死んでしまったのですから、そのようなことをなさっても……」


「死んでもまる一日くらいは霊魂と遺体の間は霊波線がつながっていますから、こうして神様のみ光を与えることで魂の救いにもなるんです。その霊波線が切れてから、はじめて霊の世界に旅立つんです。ですから死というものは、あちらの幽界では誕生なんですね」


 イェースズの目には、手のひらから放たれた霊光が娘の遺体を包み、さらに霊波線を通してすでに離脱している霊体へも流れ込んでいるのが見える。

 離脱した娘の霊は空中に浮遊し、いったい何が起こったのか分けがわからずにパニックになっていて、それを守護霊が死んだということを説明して説得していたが、やがて霊光に包まれて穏やかな気持ちになっていっていた。そんな光景も、イェースズの霊眼にははっきりと見えた。

 その時、娘の両親がかすかに驚きの声を上げた。


「なんだか娘の顔が、生き生きと赤くなってきましたね。まるで眠っているみたいだ」


 確かに先ほどまでは苦しみの表情の中で目を閉じていた遺体だったが、みるみる頬には赤みがさし、穏やかな表情になっていった。そしてこちこちに硬直していた体が、柔らかく伸びてしまったのである。


「人は、亡くなった時の顔つきで、どういう世界に旅立つのかが分かるんです。苦悶にもだえるような蒼白な死に顔の方はお気の毒ですが苦しい世界に行くんです。でもご覧なさい。お嬢さんはこんなに穏やかな表情だ。これは天国に行く方の特徴ですよ」


「ありがとうございます」


 と、ヤイロはかすかな声で言った。

 その時、イェースズの心に響く声がした。


――この娘に、神の栄光を現さん。本来は人の生死、神の権限なれど、今は汝にそを許すなり。


 神示が下ったのである。そして周りにいた娘の両親も弟子たちも、雷に打たれたような衝撃で後ろに下がった。

 イェースズは御神示の内容をかみしめた。

 人の生と死は神様がすべて司っておるわけで、それを人間がどうこうするのは本来なら神への反逆である。だが、特別に今回だけ許すと、イェースズは御神示を受けたのである。

 そして、一度肉体から離脱した霊を呼び戻す秘法も、実は彼は霊の元つ国で伝授されていた。しかし、それを行使したら神への反逆になるので一度も使ったことなかったし、これからも使うつもりはなかった。だが今回は、特別に神よりお許しが出たのである。

 イェースズは娘の体の方へも霊光を放射し、まずは肉体的な癒しで、彼女を死に追いやった肉体的な点は癒された。もう、死ぬ意味がないのである。そしてイェースズは天井あたりに飛んでいる娘の霊体に向かって、


「あなたが脱ぎ捨てた遺体は浄まって、あなたが死ななければならなかった理由は全部取り除きました。もう脱ぎ捨てる必要もないから、お戻りなさい」


 そして大声で、


起きなさい(タリタ・クミ)!」


 と叫んだ。すると娘はすくっと上半身を起こし、あたりをきょろきょろ見回した。ヤイロはしばらく口をぽかんと開け、こちらが硬直してしまっていた。そして、先ほどとは別の涙で、両親そろって泣きくずれた。


「この子に、何か食べ物を与えてあげてください」


 と、イェースズは両親に言った。


 帰りの道で、ペトロがイェースズに、


「もし今あの娘の命を救っても、どうせいつかは年老いて死ぬんだから同じことじゃあないんですか?」


 と、聞いてきた。イェースズは、やっと微笑んだ。


「まずは、神様の叡智を地上にも知らしめるためだね。そして、確かにあの娘もいつかは死ぬけど、遺体に手をかざすだけで魂が浄って高い霊層界に行かれるようになる。つまり、魂のためだよ。肉体は死ねば終わりだけど、霊魂は生き続けるんだ。肉体の救いではなくって、あくまで目的は魂の救いだからね」


 そのイェースズの言葉に、ペトロは一応納得したようにうなずいていた。

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