波猛る湖で
カペナウムはガリラヤ湖の北岸になるから、湖に向かって立てば南を向く形になる。その方角に、エルサレムがある。事実カペナウムの会堂は南向きに、湖に向かって立てられている。そもそも会堂は、エルサレムの神殿に向かって建てられるからだ。
そこからは湖の左右の山並み、左手の丘陵もよく見えるが、正面は晴れていたら対岸がうっすらと見えたりするが、この日のように曇り空なら対岸は霞んで何も見えない。今にも雨が降りだしそうで、風もかなり強い。それでもイェースズは、行くと言った。
「こういうことで神様は、皆さんの一体化の姿を見ておられるのだよ。それぞれ意見もあろうが、師が決定したことには自分を捨ててスーッと一体化する、それがス直というものだ。一本一本の指は弱いけれど、それがぎゅっと固まってげんこつになったらすごい力を発揮するだろう。それと同じだよ」
イェースズは神をあてにした神狎れはいけないとは言ったが、その根底には神への絶対的な信頼があり、それが弟子たちにも十分に伝わったようで、もう誰も異論を挟まなくなった。
ずっとイェースズと行動をともにしてきた群衆や妻マリアも同行を願ったが、イェースズは十二人の弟子以外はそれを許さなかった。
一行はペトロの船に乗り込んだ。この船は、イェースズが東の国から初めてこの故国に帰り着いた時に、カペナウムまで乗せてもらったあの船なのだ。
船を出した時点で、船体はもうかなり揺れていた。そんな風と波の中でもアンドレとペトロの舵裁きは見事だった。だが、嵐の恐ろしさをいちばんよく知っているのもこの二人だ。ヤコブとエレアザルの兄弟も漁師とはいえ網元のせがれで、実際に漁に出たことはない。
船は沖合いに出ると左の方、つまり東岸に向かって進んでいった。案の定、その途中でものすごい突風が吹きだして、帆を張ることが不可能となった。波もひと山ほどのものが連続してうねりくるようになり、船は波の谷間に漂う木の葉のように波にもてあそばれ、しぶきは容赦なく船内へと流れ込んできた。そして滝のような雨が、横殴りに吹き付けてきた。
「先生!」
と、トマスが最初にとうとう泣き叫ぶ声を上げた。嵐の日、波たける湖で誰もが波でびっしょり濡れながら、必死に柱などにつかまっている。
「先生は大丈夫か。みんな、先生をお守りしろ」
櫂を操るペトロが叫ぶが、そのイェースズの姿がどこにあるのか、皆一瞬分からないでいた。
「先生」
と叫んだのは、小ヤコブだった。なんとイェースズは甲板に横になり、居眠りをしていたのである。小ヤコブはそんなイェースズの体を揺り起こした。
「船が沈んでしまいます」
「そうかい」
こんな時も落ち着いて微笑を絶やさずにいるイェースズに、さすが二十二人の弟子たちもいらいらしてきた。
「そうかいじゃないですよ。これ以上、進めません」
船を操る玄人であるはずのペトロからそんな悲痛な声を聞いては、素人であるほかの十人の弟子はもはや恐怖におびえていた。イェースズはゆっくりと、微笑をもって立ち上がった。
「先生、立っちゃだめです。あぶない!」
ペトロが制したが、イェースズはお構いなしに船の上に立ち、柱にしがみついて震えている弟子たちを見た。
「何を恐がっているのかね。あなたがたはここで死ぬと思っているのかい? でも神様があなたがたを必要とされている間は、あなたがたは死なない。いや、死ねないんだ。あなたがたの信仰って、一体どこにあるのかね。絶対なる神様を信頼していれば、恐いものなんてないはずじゃないか」
「でも……」
トマスは怯えきっている。イエスはそれでもにっこりと微笑んだ。
「怖いと思うのは自分を守ろうとする心があるからだ。それでも守りきれないと思った時に人は余計に恐怖を感じる。そこには神不在ではないか?」
イェースズはそう言って、手を合わせて強く念じ、ぶつぶつと何か祈りの言葉を唱えていた。そしてどんよりと曇って雨を落としている空に向かって手をかざし、大きな声で、
「静まれ!」
と叫んだ。するとみるみるうちに風はぴたっとやみ、雨もやんで波も穏やかになっていった。弟子たちは、どよめきの声を上げた。
これは霊の元つ国での修行で身につけた神業の中でも、かなり高度な業に属した。ちょっとの修行をしたから誰でもできるようになるというような簡単なのもではなかった。
イェースズは自分が嵐の中で空を仰いだとき、二体の黄金に光る龍が空を駆け巡るのを確かに見た。その龍は、すぐに消えた。
「先生はヨハネ師のことを預言者以上とおっしゃいましたけど、いったい先生ご自身はは、どんなお方なんです? 嵐でさえ、そのお言葉に従ってしまう」
そう言ったエレアザルに、イェースズは笑顔を返した。
「信仰って神様を信じることだけではなく、そのお力を信頼しきってしまうことが大切だ。神様は、ご実在されている神様なのだよ。ただし、神様が何とかしてくださるという神狎れと神様に委ねるという神様への信頼は似ているようで正反対、紙一重だから判断は非常に厳しいけどそのへんをはき違えないようにね」
弟子たちはまだ今までの恐怖が消えないらしく、まだ体中を震わせていた。そんな中でも、アンドレが口を開いた。
「先生は、嵐で船がこうなることもご存じだったのですね。だから奥様をお連れにはならなかったのでしょう」
イェースズはそれには答えず、ただ笑っていた。




