【回想】エジプトへ
ヘブライ語ではミツライムというエジプトにはかつて数々の王朝が栄えてきた。ナイル川の豊かな水に支えられて、太陽神ラーを崇めつつ、ピラミッドを林立させてきた国である。
だが紀元前四十七年にカエサルの援助を得て王位に就いたクレオパトラ七世は紀元前三十年にアクティウムの海戦でローマ軍に破れて自殺した。
クレオパトラ七世はヘロデ王とも激しい戦争を繰り返した相手だ。
そのクレオパトラ七世の死によってプトレマイオス朝は滅亡、このころのエジプトはローマ帝国領となりラテン語でアエギュプトゥスと呼ばれていた。
エジプトは人口や軍団駐留などの面ではほとんどローマ帝国の属州といえたが、神政一致の王政に慣れ親しんできたエジプトの人々を統治するには政教が分離された
ローマ皇帝が派遣した知事では力不足で、ローマの皇帝をエジプト王ファラオということにしてローマ皇帝が直接統治する必要があった。そのため、皇帝はエジプト領事を皇帝代行として派遣した。従ってエジプトは純粋には属州ではなくいわば皇帝の私領であったが、ローマ帝国の直轄地であったことには変わりはなかった。
そのエジプトにヨセフたちが到着してから、はや二カ月が過ぎようとしていた。この南の国では、もはや初夏が訪れようとしている。
エジプトで彼らは、エッセネ兄弟団とともに共同生活を送っていた。ユダヤの血ではパリサイ人と サドカイ人と並んでユダヤ教の一派のような様相を呈しているエッセネ兄弟団――ナザレ人であったが、実はペルシャのゾロアスターの教えの流れを汲むもので、このエジプトの地で発祥したものである。
だからこのエジプトこそが、ナザレ人のエッセネ兄弟団の本拠地なのである。この教えがユダヤへと伝えられたのは、ヨセフたちよりも二、三代前のことでしかなかった。
そんな生活の中でも、マリアの関心はもっぱらエリザベツ母子の安否にばかり向けられていた。
この頃、エジプトの中心地はアレクサンドリアにあった。ローマ皇帝が派遣したエジプト州領事もアレクサンドリアにいる。
アレクサンドリアはナイル川の豊穣な三角州の西の端の地中海沿岸にある港町で、かなりローマ化された町並みであった。
ヨセフの一家が住み着いたのはその三角州の、ナイル川の上流にあるギリシャ語でヘリオポリスという町だった。アレクサンドリアからはさらに三日ほどかかった。
この頃より千年ほど昔のエジプトの王朝のあった土地で、五時間ほど西へ歩くと古代の王の像やピラミッド、スフィンクスが残っている。そこにはナザレ人の僧院もあって多くのユダヤ人も居住していた。
ヨセフの家族には僧院の敷地内の、ちょうど空いていた一軒家をあてがわれた。
エリフもサロメも同じ敷地内の僧院に住んでおり、毎日顔を出してくれる。いくら逃避行だからといってヨセフたちはこのエジプトの地でただ遊んで暮らしているわけにはいかない。ヨセフたちがナザレ人としての修養を積むため、教師としてエリフたちは訪れてくるのであった。
エリフたちは、時にはユダヤの律法を彼らナザレ人なりの教義で解釈した講義をしてくれたし、またほかのユダヤ教諸派は所持していない彼らだけの『エッセネの書』の注釈をもしてくれた。
またときには、アレクサンドリアの大図書館にヨセフ一家を連れて行ったりもしてくれた。
この大図書館は地中海沿岸最大の規模を誇っていたが、かつてカエサルがエジプトを攻めた時にその大部分が破壊され、多くの古文献が焼失した。それにもかかわらず、今でも威容を誇ってそびえ立っている。
そこにはエッセネ教団の教義を形成した『ゼンダ・アベスタ』や『ヴェッダー経典』なども収蔵されておりヨセフたちはそれらを自由に閲覧することができた。
またエリフはヨセフたちを、時にはマレオティス湖畔にある同じ兄弟団のテウペラタイ僧院に連れて行ってくれたりもした。
そうこうして過ごすうちに、サロメだけが状況視察のために一度ユダヤに戻ることになった。そしてそれからさらに一カ月半ほどたち、エジプトではナイル川の水かさが減る夏となった。
ナザレ人は早朝、昇り来る朝日に向かって礼拝する習慣がある。
この日も木々の少ない乾燥した台地の上で、ヨセフたちを含むナザレ人たちは早朝参拝のために整列していた。
だがその間も、脇においてある手編み籠の中のイェースズがぐずりはしないかと、マリアはそればかりを気にしていた。
しかし実際そうなったのはこれまで二回だけで、たいていイェースズは静かに眠っていた。イェースズはようやく座るようになってはいたがまだ這い出したりはしないので、一応安心していていい時期だった。
礼拝も終わり、人々は朝食をとるために僧院へと続く細い道を歩みだした。目の前には巨大なピラミッドが三基、夏の青空にそびえていた。この日も暑くなりそうだった。
「太陽そのものが神様なのではないけれど、なぜ太陽を礼拝するのかご存じですか?」
不意にエリフが、マリアの耳元に歩きながらささやいてきた。毎朝こういった調子でエッセネの教義に関する小さな問答が、エリフとマリアの間で交わされるのがすでに日課になっていた。
「いいえ。でも、小さいときからそうするものだと教えられていましたし、またずっとそうしてきましたから、これまで考えたこともありませんでした」
「せっかくこのミツライムにいらっしゃったのだから、いろいろあなた方には知っておいて頂きたいことがありますから、今日はまずそのことについてお話しましょう」
「ええ」
マリアは少しだけ歩みを遅くして、年老いたしわだらけの年老いた尼僧の顔を見た。
「『ゼンダ・アベスタ』では、神様は太陽の神様です。そのことはご存じでしょう」
「はい」
「それにピラミッドが単なる王の墓ではなく、太陽神を祀った神殿だということも」
「はい。お聞きしました。昔からアエギュプトゥスの人々は太陽神ラーを崇めてきたのでしたよね、確か」
「そう。一日一日の話を忘れずに、よくおいでです」
はにかんだように少し笑んで、マリアは目を伏せて歩いた。そしてまた目を上げて、エリフを見た。
「アエギュプトゥスの人のその習慣と私たちの早朝太陽礼拝と、何か関係があるのでしょうか?」
「このミツライムの地でモーセに神様が御出現になったのは、柴を燃やし尽くすことのない霊的な炎の中からだということは聖書にも書いていりますよね」
「はい」
「本当の話では、実はモーセは日の神の神殿、日来神堂より神のみ声を聞いたのです」
「そうなのですか?」
マリアは驚きの声を発し、視線を目の前のピラミッドに移してそれを凝視した。表向きにはエジプトの王家の墓ということになっているピラミッドが実は神殿で、それも太陽神を祀る神殿であることはナザレ人たちの間ではひそかに言われていたし、彼らの本山ともいうべき神殿はやはりピラミッドだった。
「太陽は神様の御存在が物質化したものであり、神の愛の具現なのです。父である神は太陽の神であり、それゆえに私たちは太陽を礼拝するのです。『エッセネの書』の中の『戦いの書』にも、来るべき光の子と闇の子の戦いのことが書かれているでしょう。
「はい」
「たとえ今は闇の子の時代であったとしても、我々はどこまでも光の子でなくてはなりません」
そうこうしているうちに、僧院にたどり着いた。
その直後のことである。
ユダヤへ行っていたサロメが、ひょっこりと戻ってきた。
庭に大きく開かれた入り口からサロメの姿を見たマリアは、同時にその背後に乳児を抱いた初老の女がいるのも見た。
エリザベツだ。すると、その腕の中の赤子はヨハネに違いない。
マリアは思わず庭に躍り出てエリザベツに駆け寄り、その両肩に手を置いた。
「お姉さま。無事でしたの? よかった。よかった。ヨハネも無事で」
マリアはエリザベツからヨハネをそっと抱き取り、奥に向かって夫のヨセフを呼んだ。
「あなた! お姉さまがいらしたのよ。ヨハネも一緒よ」
「おお、おお、おお、おお」
ヨセフも小走りに出てきて、喜びの表情を弾ませた。
「いやあ、よくご無事で」
「ええ。サロメが探して下さったので」
「今まで、どちらに?」
「塩の海の近くの洞窟に、しばらく隠れていたんです。王様がすべての赤ちゃんを殺そうとしているって情報を、ナザレの兄弟の皆さまにお聞きしましたから」
「ああ、大変なことですよね。自分の実の子までも処刑するような王だから、今回のこともやりそうなことです」
「それでその後は、ナザレの家が匿って下さっていたのです」
「それはよかった」
「ところで、ご主人のザカリアは?」
一瞬、エリザベツに沈黙があった。その隣でサロメが悲痛な顔つきで、黙って首を横に振った。
ヨセフはすぐにはっとした顔をしたが、マリアはまだ状況をのみこめないでいた。
だが、すぐにエリザベツは重い口を開いた。
「夫はヘロデ王の兵に殺されました」
「え? 殺されたって?」
マリアが目を見開き、ほんの少しの間だけまた沈黙が流れた後、エリザベツは言った。
「夫はナザレ人ではないから、一緒に山には逃げなかったんです。そして祭司だから至聖所にいたら、そこへ兵隊が来ていろいろ詰問して、それでも夫は口を割らなかったからそれで……」
再び、沈黙が流れた。誰もが、なんと言っていいのか分からずにいた。そのとき、その沈黙を破るかのようにヨハネがけたたましく泣きだした。エリザベツは慌てて我が子をマリアから受け取った。
その時、
「無事で何よりでしたね」
と言って、エリフがそばにやって来た。やっと泣きやんだヨハネを抱いて、エリザベツはエリフを見た。
「何から何まで、お世話になりました。今こうして私やヨハネが無事でマリアとも再会できたなんて夢のような話で、不思議な気分です。全部、ナザレの兄弟の皆さんのお蔭です」
エリフは優しく笑んだ。
「本当、偶然にしては不思議ですね。でもすべては神様のみ意のまにまに仕組まれたことで、この世には偶然というものは一切ありません。神様の置き手(掟)がすべてを支配します。人間にとって偶然に見えることでも、神様からご覧になればそれは必然なんです」
落ち着いた雰囲気を持つ老尼僧のエリフを、エリザベツもマリアもヨセフも、そしてサロメも静かに見つめた。
「お二人の子供がヘロデ王の手を逃れることができたのも神様のみ意なら、ここでこれから私どもと神様のミチを学ぶことも一切が神様のお仕組みなのですよ」
「ええ。私もそんな気がします」
そう言ってからマリアはエリザベツに、今まで自分がこの地でエリフから聞いたさまざまな教示のことを話した。エリフはそれが終わるのを待って、三人に優しく問いかけた。
「あなた方はもう二、三年はこの地に留まって、神様のミチを学ぶ気持ちがありますか?」
マリアもヨセフもエリザベツも、静かにうなずいた。エリフはまた、にっこりと微笑んだ。
「今から僧院の皆さんに、私からのお話があります。どうか一緒にいらっしゃってお聞きなさい。ヨセフとマリアはもう何階か聞いた話でしょうけれど、エリザベツは初めてでしょうからね」
「ぜひ、お願いします」
エリザベツはもう微笑んでいた。
エリフの講話は、常に僧院に程近い林の中の広場で行われた。そこに円くなって腰を下ろし、立って話すエリフの講話を聴くのである。
その場所へ移動中に、先頭を歩きながらエリフは振り向かずに言った。
「人は皆誰でも、神様から使命を受けてこの世に生まれ出てくるものです。イェースズもヨハネも、何かしら神様がこの世に下ろされた御倚さしがあるはずです」
「どのような倚さしなのでしょう?」
ヨセフがエリフの背中に向かって、恐るおそる尋ねた。
「それは、人間である私には分かりません。でも、大いなる時代を切り開く先駆者になりそうな気はします」
マリアは、腕の中の我が子を見た。エリフの背中は語り続けていた。
「このようなお仕組みで生を受けたお子たちですから、特別な御倚さしがあるはずです。でも今は世ではまだ、いくら神様のお言葉が投げかけられても、それを受け入れる準備はなされておりません。やがて時が来れば、世の中も神様のみ言葉を受け入れる準備ができて、神様はみ使いを送って下さるでしょう。その時にはすべての人々が自分の国の言葉で生命の書を読み、光を見て光とともに歩み、また自らも光となって、神と人とが一体化できるはずです。そんな時が必ず来ると、私は信じています」
「それは、いつのことなのですか?」
ヨセフの問いに、少し間をおいてからエリフははじめて振り向き、
「さあ、私には分かりません」
と、言った。そのうち、林の中の広場に着いた。