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人間・キリスト  作者: John B.Rabitan
第3章 福音宣教時代
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マグダラにて

 カペナウムを後に、イェースズの一向はガリラヤ湖に沿ってその西岸を南下した。最初は十二人とイェースズだけでの出発で、今回も行く先々の村でイェースズは病人を癒していった。

 しかしイェースズの噂を聞いて押しかけてくる人々は後を絶たずにいつも黒山の人だかりとなったが、そのほとんどは病気が治ればいいというような御利益信仰の人だったので、目的が果たされると再びイェースズのもとには来ようとはしなかった。

 だが、少数ではあるがイェースズの教えに感銘し、その後ろを付き従う人々も増えて、いつの間にか十三人の旅のはずだったのに人数は膨れ上がっていった。

 イェースズの周りは、笑いが絶えなかった。世の光となるためにはどんなに笑顔が大切か、イェースズはいつも語っていたのである。


「いつもニコニコして明るい想念をもって、明るい言葉を使っているとだね、運命も陽に開けていくんだ」


 その言葉通りに、イェースズはいつも笑顔だった。歩きながらも時折イェースズ自身の大声での笑い声が聞こえるし、何か冗談を言って弟子たちを笑わせることもしばしばだった。

 イェースズはどんなに多くの人数が自分に付き従うようになっても、それをまとめて教団化するつもりはなかった。自分はヨハネ師の後継者として、弟子たちをヨハネ師から一時預かっているという意識も、表面ではないにしろ心の片隅にはあった。

 それら弟子を組織して教団化すると、一宗一派の宗教を打ち立てたことになる。しかし彼は、宗門宗派を超越した絶対神の教えを、命じられるままに説いているのである。宇宙の普遍の法則を説いているのだから、一宗一派を打ち立てたらすべてが矛盾して消えてしまう。

 かつてのブッダ・サンガーがそうだった。いつの間にかそれは形骸化し、一宗教になってしまっていた。ゴータマ・ブッダのやり方はそれはそれでよかったのだと思うが、自分は同じようになりたくないという意識がイェースズの中にあった。

 ブッダがブッダ・サンガーで教えを説いたのを「静」とすると、イェースズらが各地を巡回して教えを説いている形態は「動」であった。


 多くの村で人々を癒し、そして教えを説きながら旅を続けるうちに、ローマ風の石の建築が目立つ大きな町が行く先の湖畔に見えてきた。マグダラである。カペナウムから普通に歩いてきたのなら二時間ほどの距離なのだが、途中あちこちの村に滞在して来たのでもう一週間たっていた。

 ここは間もなく自分の実質的に妻となるべきマリアの、ゆかりの地だ。かつて彼女はこの地で働いていたという。

 その町に向かってイェースズは進もうとするので、その袖をイスカリオテのユダが引いた。


先生ラビ、あの町に行くのですか」


 イェースズは何事もないように、微笑んでうなずいた。ユダやシモンが嫌がりそうなことは、イェースズも知っていた。ガリラヤの中の一つの町であるマグダラではあるが、州都ティベリヤ以上にローマ色の濃い町で、事実そこはユダヤに駐屯するローマ兵の保養地にもなっていて、ローマ兵相手の歓楽街もある。熱心党ゼーロタイ出身の彼らにとっては、おもしろくない町だ。


 果たしてイェースズが町に入るとともに彼らを取り囲んだのは、ここでは民衆やパリサイ人の律法学者ではなく、案の定ローマ兵だった。

 すでにイェースズの噂はここにも流れているようだが、ローマ兵たちにとってはイェースズは怪しげな祈祷師でもありがたいラビでもなく、反ローマの運動を起こしかねない集団ではないかという危惧を抱かせる存在であるようだ。

 湖畔の砂浜で兵たちがイェースズを囲むと、ついてきた群衆の大半は一目散に離散してしまった。十二人の弟子だけがイェースズをかばうように取り囲み、逃げなかったその他の群衆は遠巻きに見ているだけだった。

 ユダとシモンがイェースズの前に立って、素手でも戦おうと意気込んでいた。それをイェースズは手で制して、落ち着いた様子で微笑みとともに一歩前に出た。

 兵たちの中から、大将と思われる甲冑を着けた人物が前に出た。

 ところがその大将は居丈高にイェースズを尋問するかと思いきや、突然イェースズの前にひざまずいたのである。


「私は百人隊長ケントウリオですが、カペナウムのイェースズとはあなたですか?」


 それは彼らローマ兵が普段しゃべっているストリート・ラテン語ではなく、丁寧なギリシャ語だった。それはこの男がただの兵卒ではなく、かなりの知識人であることを物語っていた。ローマの軍団レギオンは百人単位の小隊に分けられているが、その百人隊ケントウリアを統率するのが百人隊長である。


「あなたの噂は、このマグダラでも持ちきりだ。あなたはどんな病でも癒してしまうそうな」


「どうかなさいましたか?」


 と、イェースズもギリシャ語で尋ねた。


「私ではなく、部下の兵士の一人が熱病で苦しんでいるのです。どうかお言葉を下さい」


 ローマ皇帝に仕えるはずの百人隊長が、彼らから見れば辺境の被征服民族の異邦人の前にひざまずいているのである。本来なら、ありべからざる光景で、その行為はイェースズよりもむしろ百人隊長にとって危険な行為であったはずだ。

 それをあえてしている百人隊長の中に、厚い信仰心をイェースズは読み取った。おそらく、ユダヤの地への赴任が永きにわたっているのであろう。それで純粋な信仰心が、この男の中で芽生えたようだ。

 しかし、そんな男の心を読み取ることなどできるはずのない弟子たちは、意外なことの成り行きに呆気に取られていた。ユダなどは、まだ警戒心を緩めていない。


「言葉ですか?」


 と、イェースズは穏やかに尋ねた。


「あなたの言葉には、力があるでしょう。こんな私ごときでさえ、言葉で命令するだけで部下は思いの通りに動くのです。今、その男をここに連れてくるわけにはいきませんから、どうかお言葉だけでも」


「では、私の方からまいりましょうか」


「いえ、私はあなたをお迎えするのにふさわしいものではありません。お言葉をいただくだけで救われます」


「わかりました」


 イェースズは優しく微笑みを投げた。


「確かに、言葉には霊力、即ち言霊ことたまがあります」


 イェースズはそれだけ言うと、天を仰いで手を合わせ、額に汗が出るくらい強く神に念じた。そしてかなり長い時間そうしてから、大きな声で、


「百人隊長の部下よ、浄まれ!」


 と激しい言葉の霊力パワーを送った。それから、百人隊長を見て厳しい表情からもとの笑顔になった。


「まだまだ今の世は、しるしや奇跡がないと神様のことや霊的なことが分からない時代なんですねえ」


 イェースズは大声で笑った。


 それからイェースズは、湖畔で人々に教えはじめた。だが、この町ではイェースズの話に耳を傾ける人々は少なかった。

 そうしてその夕方、イェースズの話を聞く群衆の後ろに、甲冑を脱いだ昼間の百人隊長が立っていた。


「あなたが念じたその同じ時刻に、部下の熱病は癒されました」


「そうですか。それはよかった」


 イェースズは、本当にうれしそうな笑顔を見せた。


「本当に、有り難うございます。ラビのお念じのお蔭です」


「いえいえ」


 イェースズはあくまでも、下座の心を失わなかった。


「一つは、神様のお力です。そしてもう一つはあなたの信仰が、部下を救ったのですよ。それは信じたから癒されたというのではなく、信仰の厚さによって救われていくのだということです。すなわち信仰の厚さと深さが人を救っていくのですよ」


「とにかく、せめてものお礼です」


 百人隊長が差し出した手の中には、皇帝シーザーの肖像のある金貨が数枚乗っていた。イェースズは、それを押し返した。


「私はけっこうですから、もし感謝の心があるのなら、このお金は神様にお捧げして下さい」


「神様?」


「別にユダヤの神殿の神様でなくても、あなたが信じている神様でけっこうです。今の世の人々が奇跡を見ないと信じないように、神様も人間が感謝する心を、形で表さないと信じては下さらないんですよ。形に表してこそ、神様はそれをまこととして受け取ってくださいますから」


 そうしてイェースズはまた、慈愛のまなざしを向けた。


 イェースズはマグダラの町では、湖をはるか見下ろすアルベル山の上に宿営した。正面は絶壁のある岩山だが南麓は幾分なだらかで、そこに登山道があった。山といっても本格的な山岳ではなくあくまで湖を取り囲む大地の淵だ。登るのもたいして苦労はしなかった。

 それでも頂上から見る湖は大パノラマで、かつて弟子たちに三日間教えを伝えたあのカペナウムのそばの小さな丘の比ではなかった。

 弟子たちは、野宿用のテントを持って移動するようになっていた。その周りを、ついてきた群衆が思いのままにイェースズたちを取り囲むように野宿している。

 ただ、イェースズは自分たちのテントの余りを、一部の群衆には提供した。それは、女性たちであった。イェースズの集団の驚くべきことは、そんな女性たちをも全く分け隔てなく同行させていたことであり、一般の習慣からいうと考えられないことであった。

 会堂シナゴーグでさえ、男性と女性は席がはっきりと分けられている。ましてや、イェースズのように人々からラビと呼ばれて弟子たちを連れ歩く集団は、すべてが男のみで構成されているのが普通だ。


「一般的に、男は知識から信仰を求め、女は感情と情緒から入るけど、そういった情緒から信仰を求める人の方が信仰の厚さや深さに早く到達するんだよ」


 イェースズは女たちの同行を拒まない理由を、そういうふうに弟子たちには説明していた。だからこのマグダラ郊外に着いた頃は女の数の方が男を圧倒するくらいで、テントが足りないこともあった。

 女性を分け隔てしないという点では、ヨハネ師もそうだった。だがヨハネ教団でもさすがに、教団幹部は男だけのものだった。女性たちはここでは、男では目の行き届かない細かなイェースズや十二人の弟子の身の回りの世話をしてくれた。

 そしてイェースズが説法に立つと男と全く席を同じくして、彼女らもイェースズの話に聞き入っていたものである。


 マグダラに着いてから三日目、イェースズはいつものように説法をしていると、聞いている群衆の、しかも女の方から暖かな包み込むような波動を感じた。それは女という集団ではなく、一点から来る。イェースズはその方に意識を向けた。そしてその波動の主を温かい目で一瞬だけ見たが、すぐに平静を装って話を続けた。

 話が終わってから、その波動の主は果たして一目散にイェースズのそばに来た。


「マリア」


 カナにいるはずの妻のマリアであった。


「ごめんなさい。来てしまいました」


 と、マリアは言った。あの婚礼の日からちょうど一年で、そろそろ正式な婚礼をもう一度行って同居する夫婦となる頃だ。だからマリアはそのことの催促に来たのだと、普通なら思うだろう。

 イェースズももちろんそのことは意識していたし、このマグダラでの説法を終えたらカナに向かうつもりだった。だが、それはあくまで私事であり、今は神のミチを述べ伝えるというおおやけを優先すべきだというのが彼の考えだった。

 すべてにおいて神優先というのがイェースズの心情だ。

 それでもマグダラはマリアがかつて働いていた地でもあるから、いやでも意識していたイェースズだった。そしてマリアにはカペナウムの家に入ってもらい、自分の留守を預かってもらうように頼むつもりだったのだ。

 若くしてイェースズを生んだ母マリアだからまだ壮健であるが、いつまでもそうだとは限らない。その母マリアを、妻マリアには助けてもらおうとイェースズは思っていた。

 だが、今目の前にいるマリアの心は、イェースズにはすべて見えていた。


ラビとお呼びしてもいいですか?」


 マリアは、イェースズが読んだ通りの心でそう言った。


「こちらこそ申し訳ない。カペナウムに行ってもらうつもりだったけど、これからも私といっしょに来てくれるかい?」


 マリアは、燃えるような瞳でうなずいた。なにしろ、彼女もイェースズによって救われた一人なのである。七体の霊が彼女を苦しめていたが、それをイェースズがすべてサトシて離脱させたのだ。


「婚礼はいりません。婚礼よりも入門を」


「あなたの入門はもう済んでいる。あなたはもう、火と聖霊の洗礼バプテスマを受けたじゃないか」


 マリアは、にっこりと微笑んだ。


「お父さんとお母さんは?」


「賛成してくれました」


 両親もやはりエッセネびとである。こうしてマリアは、イェースズの妻であって、妻ではなく弟子ということになり、その日から彼女は十二人の弟子よりもイェースズの身近にいてともに行動することになった。

 ただ寝泊りだけは、イェースズは十二人といっしょだった。弟子の中でも何人かは婚礼にさえ出ているのだからマリアのことをよく知っていたし、マリアがイェースズの妻であることも承知していた。

 ましてやマリアは、旧ヨハネ教団の幹部だったものにとってのかつての師のヨハネの従妹いとこでもあり、同時にイェースズの又従妹またいとこでもあるので、下にも置かない扱いだった。こうしてこの日から、昼間のイェースズのそばにはいつもマリアの姿が見られるようになった。

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