山上の垂訓-3
休憩の時間は、割と長かった。空の雲も数が多くなり、日も西の方へほんの少し傾いた頃、イェースズはまた弟子たちに集合をかけた。長い休憩のせいか、弟子たちにくたびれている様子はなかった。
「どうだい? 休憩できたことに感謝できたかい?」
弟子たちは顔を見合わせ、はにかんでいた。それを見て、イェースズは声を上げて笑った。
「まあ、いいだろう。何事も段々で、一気には無理だ。階段も段々に上るだろう? それを二、三段飛ばして一気に上ろうとすれば、頭を打って気が変になる。朝も段々と明けていくね。それがいきなりパッと夜から明るくなったら、みんな気が狂ってしまう。ま、あなたがたは正直でよろしい」
明るく、弟子たちは笑った。
「正直であるってことは大切だ。十戒にもあるね。『あなたは、偽証してはいけない』って。何度も言うけど、肉体に入っている時はある程度うそを言ってもごまかしがきく。でも、ひとたび肉体を脱ぎ捨ててあの世へ行けば、うそは通用しない。昨日も確か言ったと思うけど、あの世はすべてが想念の世界で、想念はすべて伝わってしまう。つまり、お互いが何を考えているのか、すべて分かってしまうから隠し事ができないんだ。それだけじゃなくって外見すら想念どおりになってしまう」
何度聞いても弟子たちにはそれが厳しく感じるらしく、陽気な笑顔が一転して引き締まった顔になった。その時、ピリポが手を挙げた。
「先生。昔から『偽りを誓うな。誓ったことはすべて主に対して果たせ』といいますけれど、正直にというのはこういうことなんですね」
「いやあ、もうちょっと突っ込んでいうとね」
イェースズは一度言葉を切った。
「誓ってはいけない」
弟子の誰もが「え?」というような顔をした。
「一切誓ってはいけない。だって考えてみてごらん。もし何かを誓ったとしても、その誓ったことが実現できるかどうかもすべて神様のみ意次第なんだ。それを実現させるかさせないかは、神様の権限だ。それを誓うだなんて、人知の思い上がりじゃないかね? 人がいくら頭で考えたって、その頭に生えている毛を白くするのも黒くするのも神様がされる。人間の力では、自由に自分の髪の毛の色さえ変えられない。頭のてっぺんが禿げてきたって、人間の力ではどうすることもできないだろ?」
また、皆で笑った。
「いいかい。神様は実在するお方なんだ。誓っておいてしなかったらどうなるか、私でさえ誓うなんて怖くてできない。だからどうしてもの時は、『誓うことをお許し下さい』と祈ればいい。または『私はこうすることに決めました』と、誓うのではなくて宣言するんだ。これならばいい。でもね、その場合でもそんな宣言の言葉より実践の方がはるかに大事なんだよ」
「実践が大事」
小ヤコブが、ゆっくりとうなずいていた。
「正しい教えを実践することこそが、宝なんだ。中味がない人ほど、あれこれと言葉で飾りたがる。口で言うのは簡単だからね。だからあれこれ多く言わないで、そうであることはそうだ、違うことは違うって、ただそれだけを言っていればいい。それ以上のことを言っていると、いつしか悪魔に障やられる」
「先生」
と、小ユダが手を挙げた。
「話がそれますけど、悪魔って本当にいるんでうすか?」
「んー」
イェースズは少し考えてから言った。
「人にとり憑いて霊障を起こす邪霊がいるのは、あなたがたも知っているよね。私がかざす神の光を嫌がって、邪霊が霊動というかたちで暴れたのを何度も見てきただろう? でもそれは、純粋な意味では悪魔ではない。邪霊ももともと人間や動物として肉身を持って、この世で暮らしていた霊なんだ。地獄の底へ行けば、その大ボスのような悪魔がいるかもしれない。しかしそれとて神様が悪魔としてお創りになったわけではなくて、本来は光の天使だったのに勝手に神様から離れて勝手に悪魔になってしまったんだよ」
厳密にいうと実際は少し違うことはイェースズにはわかっていたが、今はっきりと彼らにそれを告げると混乱させてしまうと判断したイェースズは、この時はそれ以上は言わなかった。
それでも小ユダは、もう首をかしげていた。
「どうして、悪魔は勝手に神様から離れたんですか」
「すべて我と慢心だよ。だからあなたがたにとっても、いちばん怖いのは自分の心の中の悪魔だね。心の中に邪悪な想念がわいたら、それが悪魔だと思えばいい。その悪想念が邪霊と波調が合って、邪霊を呼び込んで霊障を招くし、魂をも曇らせてしまう。魂が曇ったら、神の光は届かない。目が開いていれば世の中が明るく見えるけど、目が曇ったらこの世は真っ暗だろう?」
弟子たちは、ゆっくりうなずいた。イェースズは話を続けた。
「それと同じで、ここの一つの目」
イェースズは、自分の眉間を指さした。
「つまりこの眉間の奥約四分の一ペークスのところに人の主魂があるんだけど、その魂が曇ったら神の光は射してこないから真っ暗な人生になる。神様から頂いた水晶玉のような魂を曇らせ、包み積んで気枯れせしめしこと、これが本当の罪と穢れだ。だから魂を曇らせないように、邪霊と波調を合わせないように自分の心を点検して、毎日反省することが大切だ。神様から頂いた魂は真我の吾で、その一つの目が浄ければそれは川上に当たるから、川下になる体は全身が清いことになる。だけれどもその魂が曇ってきたら、その曇りがやがて偽りの自我、つまり偽我を造ってしまう。そしてこの偽我を本来の自分だなんて錯覚して、操られてしまうんだ。偽我さんは邪霊と仲良しだから、この偽我を払拭するには幼児記憶までさかのぼって反省し、形成されつつあった頃の偽我と対話することが大事だね。そして邪霊に操られないコツは、いつも人の幸せを願う愛の心もって、すべてのことに感謝して、明るく陽ので笑って暮らすこと」
「愛の心……」
ピリポには、その言葉が心に響いたようだ。
「そうだよ。愛といってもギリシャ語でいう愛欲や情愛《フィレオ―》ではなく神大愛だ。その愛の心が十戒のすべての条文の根底にある。愛があれば十戒で禁じていることすべてのことについて、それに背くなどということは起こりえないはずだ」
「ああ、たしかに。本当にいい話だ」
と、トマスが声を上げた、イェースズは微笑んだ。
「いい話だで終わってしまってはだめだよ。聞いた話を実践しなければ、何の意味もない。耳で聞いて頭で理解するのではなく肚に落とす、つまり魂で聞いてすぐに体で行動に移すことだ。この話は、決して哲学ではない。哲学は分析したらおしまいだ。でも私は、あえてあなたがたに実践を促す。いいかい? まず、あなたがた自身が実践するんだ」
イェースズは、全員に視線を向けた。
「毎日の生活を、もう一度点検してごらん。安息日にだけ神様を礼拝して、あとの六日間は自分の偽我や邪霊のご機嫌をとっているようでは、なかなか昇華はできない。週に一日だけ神様を信仰すればいいなんてものじゃない。誰でも二人の主人に仕えることはできないだろう? 本来あなたがたの魂は神様の分けみ魂だ。それなのに、その本来のあなたの肉体の主であるべき魂がどこかへ行ってしまっている人がいる。代わりに己心、欲心がその人の人格を支配してしまっている人も多い。さあ、どちらかを選ぶか、それは明白だ。己の損得で動くような人は己心がある人で、その己心ある人は神様に使ってもらえない。自分が仕えべきの主はどちらか、はっきりさせることだ。だから。日々の生活の中でいかに神様の教えを実践しているかということが大切になってくる。人に知られないように陰徳を積んで、神様の御用をして、愛の心で人を救わせて頂く、こうすれば天の倉に宝を積むことになる。一所懸命お金をもうけて財を蓄え、それをせっせと地の倉に積んでも、火事になったら全部燃えてしまうね。だから、天の倉に宝を積めと言いたいんだ」
「先生」
ペトロが、問いを発した。
「天の倉って、どこにあるんですか?」
イェースズは優しく笑った。
「その倉は、目には見えないよ。神様の世界にある倉だ。目に見える地上の倉よりずっと大切だと言えばあなたがたは驚くべきことのように感じるかもしれないけど、肉体は魂が入っているからこそ何十年ももつんだよ。でももしひとたび魂が抜けたら、体なんて三日で蛆虫がわいいて腐ってしまう。だから、いよいよ肉体よりも魂、霊の方が主体だということを認識しないとね。そういう人は、いずれ天の倉より求めずとも与えられるようになる。そうなるともう、貧などとは無縁の人生だ。だから、人を救えば救われるというのはこういうことなんだ」
「神様が、この罪深い我われを救ってくださるのですか?」
ペトロの問いに、イェースズは空を見た。そこには二羽ほどの雀が、空を飛んでいた。
「ごらん、あの空の鳥を」
それから、イェースズは地上に視線を下ろした。
「それから、この野に咲く白百合をね」
弟子たちも、言われるままに視線を動かしていた。
「かつて栄華を極めたソロモン王でさえ、こんなにも着飾ってはいなかった。動物や植物は自分で地に種をまいたり、作物を収穫したりなどという労働など一切していない。それなのに健やかに生きているんだ。こんなに小さな命にまで、神様は愛を降り注いでくださっているんだよ。そして自然界の微に入り細に入りの仕組み、生命の連動をジーッと見つめてごらん。鳥を、動物を、花を、虫に至るまで、ジーッと見つめてごらん。心を落ち着けて、一点にジーッと目をとめるんだ。そうすれば、それらをお創りになった神様の息吹が見えるはずだよ。神様のお力が分かるだろう? 『妙』の一言に、唖然とするだろう? ましてや私たちは神の子だ。一人ひとりが神のみ宝なんだよ。地の倉のことばかり考えて、何を着ようか何を食べようかとことさらに思い悩む必要はない。与えられたものを感謝して頂戴するという、真ス直にして慎ましい生き方を身につけていかなくてはならない。考えてもみてごらん。明日は炉に投げ入れられる草にさえ、神様は心を注いでくださっている。雀なんて、神殿へ行けばいけにえ用として五羽がわずか二アサリオンで売られているじゃないか。そんな雀の命さえ神様の権限の内にある。神様が命じなければ、雀だって空から落ちることはない。神様は、すべてをお見通しだ。我われの髪の毛の一本一本まで数えられていると思っていい。雀の命さえ神様は大切になさるのだから、ましてや尊い神の子である我われ人類を神様は不幸にされるはずがない。それなのに私は不幸ですという人は、前にも言ったように『私は神様のミチからはずれ、神様から離れています』という看板を首から下げて歩いているようなものだ。神様から離れさえしなければ、人は誰でも放っておいても幸せになるように創られているってことも、言っておいたはずだ。天の倉から無尽蔵に与えられるんだ。だから、求めずして与えられる人になっていかなくてはいけないんだよ」
もう弟子たちは誰もが無言で、イェースズの話に聞き入っていた。
「だから、地の倉に宝を積もうとしてあくせくすることなど、ばかげたことだと分かったね? 生命があって、しかもそれが繁茂繁栄するものは、神様しかお創りになれない」
イェースズは息をついた。少し口調が穏やかになった。
「あなたがたも知っての通り、私の家は大工だ。大工は家を造る。でもそれは、神様から与えられた石材や木材を積み上げ、組み立てて家を造るだろう? 何もないところからぱっと家を生じさせるなんて、どんな大工だってできない。それに大工が造った家は育たない。平屋の家を造ったのに、月日がたてば勝手に育って二階家になり、三階屋になってやがては天を突く塔にとすくすくと成長するなんて家、見たことあるかい?」
誰もが首を横に振った。
「でも、神様はできるんだよ。まったく何もないところからこのくらいの」
イェースズは親指と人差し指で小さな種の大きさを示した。
「このくらいの種をお創りになって、それが地に落ちれば芽が出て幹が伸びて枝が出て、やがては大樹になる。こんな小さな」
イェースズはまた小さな種の大きさを指で表す。
「こんな小さな種が大樹になるんだよ。無からものを生じさせて、しかもそれが育つ。それが神様のなぜる業だ。神様って、素晴らしいじゃないか」
イェースズの言葉がまた熱を帯びてきた。
「あなたがたは背伸びをすれば少しばかりは背が伸びるけど、そうではなしに自分で自分の背丈を伸ばしたり縮めたりすことができる人はいるかい? いないだろう。人知ではまつ毛一本、芥子の種一つ作ることはできないんだ。そんな人知で地の倉に宝を積もうとすれば、またそこに争いが生じる。でも、肉体を殺せても、魂まで殺せないものを恐れる必要はない。本当に畏れ戦くべきは、魂をゲヘナの火で抹消できる権限をお持ちのお方だけだ」
「あのう」
ピリポが力なく手を挙げた。
「天の倉に宝を積むためには、何をしたらいいんですか?」
「さっき言ったように、神様の御用に立ち、他人様をお救いさせて頂く。つまり、神の国と神の義をまず求めることだ。この世のものは、もうすべて与えられているんだよ。あくまで霊を主体にして考えていけば、そして実践していけば、物質的なものは自ずから付随してくるものなんだよ」
分かっているのかどうかは分からないまでも一応弟子たちはうなずいていた。
まだ日は高かったがそれでもイェースズはこの二日目の話はここまでであることを告げ、弟子たちに休むように命じた。
三日目の朝、同じように一同で祈りを捧げたあとイェースズはまた弟子たちを自分の周りに集めた。
「みんなかなりくたびれてきただろうし、頭の中がパンのことばかりなんていう人はいないだろうね」
一同は、どっと笑った。
「今日の日が沈んでからは、みんなたらふく食べられるよ。だから忍ぶんだ。我慢をするというのは陰の気になってしまう。忍んで耐えるというのは、いつかはと言う希望があるから陽の気だね。ちょうど冬に雪の下で春が来るのを待ちながら耐え忍んでいる莟と同じで、莟は冷たい雪を我慢しているのではなくて春が来ることを知っているから耐え忍んでいるんだ。その陽の気でもって、今日一日耐え忍んでほしい。辛く苦しいのはみんな同じで、自分一人じゃあない。そういった時の想念こそを、神様はご覧になっているのだよ」
それを聞いてがんばろうというが弟子たちからひしひしと伝わってきたので、イェースズは大きくうなずいた。
「前置きはこのくらいにして、話を始めよう。今日は、三日間のうちでいちばん大切な日だ。昼過ぎくらいになったら、それが分かるようになると思う。それまでまだ、いくつか律法についての話が残っているから、そのことを話してしまおう」
イェースズは一つ、咳払いをした。
「十戒には入っていないけど、『人が自分を裁くように裁き、人が与えてくれるだけ人に与えよ』と、こんな掟があるね。でも、こんなのは人知による掟だ。いいかい。裁いてはいけない。一切裁いてはいけない。なぜなら裁きは神様にだけある権限で、その権限は人には与えられていない。だから人が人を裁いたら神様に対する越権行為となり、やがては人を裁いたのと同じような分量で神様から裁かれることになる。裁きは罪だ。いいかい、人の悪口、陰口、これも裁きだ」
誰もが、意外な顔をした。
「裁きだよ。言いたいことがあったら、必ずその人に直接言う。これは裁きにはならない。たとえ相手が怒っても、神様は真を見ておられる。親が子を裁き、子が親を裁き、兄弟を裁く。神の子を裁く、これは神の権限を犯すことなんだ。神の子としての本霊は絶対『悪』ではない。人類から裁く心がなくなったら、たいへんな愛和の世界ができる。それと、人から与えられた分だけ人に与えるというのも違っていて、本当は神様から与えられた分だけ人に分かち与えるべきだね。考えてもみてごらん。人は皆、神の子だよ。親が子供をしつけのために叱ることはあっても、子供同士が叱り合うなんてあるかい? ましてやその子供は、地上にあっては肉体の中に閉じ込められて霊的には盲目同然になっている。盲人が盲人の手引きをしたら、どういうことになるかね? 二人そろって穴に落ちてしまいかねないよね」
「たしかに」
と、ペトロが口をはさんだ。イェースズはうなずいた。
「そうだろう。だけどね、人は神の子なんだから霊的修行をして、魂を磨いて曇りをとっていけば、前にも言ったけど必ず神性化できる。ところが、だいたい人ってものは他人のことはよく見えるくせに、自分のことはてんで分かっていない。他人の目の中に小さなゴミがあったらすぐに分かるんだけど、自分の目の中に丸太がささっていても分からないものだよね」
この丸太が受けて、弟子たちは笑った。
「最初に自分の目の丸太をとってからでないと、他人の目のゴミをどうのこうの言う資格なんてないだろう? だからまず自分自身の魂の曇りをとって浄まってからでないと、とてもとても他人様の目のゴミを取らせてください何て言えたものじゃない。まず自分の罪穢を消して、自分が浄まることだよ」
「浄まれば、神様のお恵みも頂けるのですか?」
と、アンドレが口を開いた。
「さっきも言ったように、すべての恵みはすでにもう与えられている。まず、そのことに感謝することだ。そしてその神様からのご恩に報い、その恵みを人に分かち与えることだ。門は叩けば開かれるし、求めれば与えられる。そして与えられたものをどんどん隣人に分かち与えていけば、またさらにどんどん与えられて、最終的には求めずして与えられる人と化することもできる。与えよ、そうすれば与えられる。言い換えれば、救え、そうすれば救われるということだ」
トマスが、手を挙げた。
「与えられてる恵みって、具体的に何なのですか?」
「さまざまな恵みがあるはずだ。今、生かされているということ自体が最大の恵みだし、五体が満足で、家族がいて、家がある、これだけでもすごい恵みだよね。今、一回息を吸えた、これもまた恵みだ。何事もなく無事平穏に日々を過ごさせていただいている、これが最大の恵みだろう? 世の中には偶然などというものは一切なく、すべてが神様のご意志によって動いているのだからね」
「本当にそれらは、神様から来た恵みなんですか」
トマスはまだ、納得していないようだ。
「自分の子供がパンをほしがっているのに石を与えて、そのパンを犬にやってしまう親なんているかい? 魚をほしがっている子供に蛇を与え、豚に真珠なんか与えるそんな人いるかな?」
笑いがどっと起こった。
「神様は天の御父で、私たちはは皆その子供なんだ。神様が人類に、よいお恵みを下さらないはずがない。だから、まず先に自分がしてほしいと思うことを、自分から他人にしてあげることだ。決して自分がそうされるためにするんじゃなくて、本当に愛と慈しみの心に徹して人のためになにかしてあげたとき、神様は十倍にもして返してくださる。情けを人にかけてあげるのはその人のためだけではなくて、自分のためでもあるんだね。神様の愛は十倍返しだ」
「それって、難しいですね」
ヤコブが、首を挙げて言った。
「自分がそうしてもらいたいから人にもそうする。でも自分がそうしてもらいたいってことを考えてはいけないなんて、ほとんど芸当に近いような気がするんですけど」
イェースズは優しくうなずいた。
「確かに難しいね。でも神の国の門は、とても狭い。人々を導くには霊的な眼を開かなくてはならないし、その霊的な眼でないと狭い門は見えない。肉の目でも見える門は広くて入りやすいのだけれど、それは利益と欲望追求の門で、その門の中は不幸へと続いている。そのどちらの門を選ぶのかは人類に与えられた自由なんだけれど、せっかく神の国の門を入って神様の屋敷の入り口までたどり着いたのなら、中へ入れてもらって庭をも見せて頂ける魂へとなりたいね。門からちょっとのぞいて、『ああ、素晴らしい。立派なお屋敷だ。いいものを見せて頂いた。では、さようなら』と言って『回れ右。前へ進め』で『はい、地獄行き』という人がほとんどじゃないかな?」
弟子たちの笑い声が、青空に響く。
「そんなのはもったいないよね。もっともっと奥へ入ればもっと奥の深い素晴らしい世界が待っているのに。だいたい門から入ってそのまま門から出てくるのは、押し売りか泥棒だけだよ。せっかく御神縁があればこそ救ってあげたのになあと、神様は思われるだろうね。神様はもう人類に、恵みを与えたくって与えたくってしょうがないんだ。人類は一人残らず、かわいい神の子なんだからね。それなのに、人類の方でそれを拒絶している。例えば自分の子供がいつもねだっていたもの、ある日父親が手に入れたとする。早速子供の喜ぶ顔を想像して、早くこれをあげようと思って父親が家に帰ると子供は庭で遊んでいて、ちょっと家の中に来なさいと言っても子供は遊びに夢中で父親の言葉を聞こうともしない。無理に家の中につれて入ろうとすると、『遊びの邪魔する』って父親に食ってかかる始末。これじゃあ何も与えられないよね」
「その通りです」
トマスはやっと理解したようだ。イェースズは満足げに微笑んでうなずき、話を続けた。
「さっき、裁きは神様だけの権限だって言ったけど、神様とて容易に人を裁いたりはなさらない。まずは大愛でもって恵みを与える。これは種まきといっしょだ。よい木はよい実をつけるだろう? 悪い木がよい実を結んだり、よい木が悪い実を結んだりすることは普通はない。すべて因果応報という、厳とした霊的法則にのっとって動いている。だから、どんな実ができたかですべてが判断される。神様は辛抱心が桁外れに強いお方で、実に長い目で人類をご覧になってくださっているんだよ」
「ああ、先生。我われは何と素晴らしい師を戴いたんだ」
アンドレの言葉に続いて、エレアザルもそれに同調した。
「これこそが最大の恵みですね」
「また、よく言う」
イェースズは照れたように笑っていた。ペトロが仲間を見渡した。
「なあ、みんな。もう先生と呼ぶのさえはばかられる師だから、主とお呼び申し上げるのがふさわしいじゃないか。みんな、これからはこぞって『主』とお称え申し上げようではないか」
ペトロの言葉を、笑いながらもイェースズは遮るように言った。
「何を言うかね。いいかい、私に向かって『主よ、主よ』なんて崇め奉っても、それで神の国に入れるわけじゃあないよ。ただ、神様のみ意にかなうものだけが入れるんだ。つまり、神様のみ教えを実生活の中で実践する人が、神の国に入れるんだよ。私を崇めるだけで、私がお伝えさせて頂いた教えを実践もせずにあとですがってきたって、『私はあんたなんか知らない』って言うよ。私はヨハネ師のように教団を立てるつもりはないし、その教祖になろうなんて思わない。私は教祖じゃないよ。私を崇めないでくれよ。強いて教祖といえば、それは天の神様だ。ましてや私は、神様じゃあない。みんなと同じ神の子だ。ただ、特別な使命を受けて神様から遣わされた、神の言葉の代弁者だ。だから、信仰の主体は、あくまで私じゃなくって神様だよ。そこのところは、特に間違いないでほしい」
「はい」
と大きく返事をしたのは、小ヤコブだけだった。ペトロなどは、まだ首をかしげている。エレアザルもまだ納得いかない顔で、イェースズを見た。
「いや、あなたの言葉は、まさしく神の言葉だ。まるで神の言葉が、肉体を受けて生まれてきたようだ」
イェースズはただただ苦笑していた。
「そうおだてられるのはうれしいしありがたいけど、私がいちばんうれしいのは、あなたがたやあなたがたが教えた人々が神様のミチを実践に移してくれることだ。それも道徳や倫理として表面上だけ実践するんじゃなくって、霊的意味をかみ締めて実践させてほしい。同じ実践でもその時の想念によって霊的意義がかなり違ってくるから、想念は大事だ。やりゃあいいってものじゃない。何度も言うけど、私の教えは倫理や規範でもないし、人生訓でもない。この三日にわたってあなたがたが聞いた話を、『いい話だった』で内容を暗記したとてだめだ。それを自分の血とし肉として、日常生活の中で生かすことが大切だ。話だけ聞いて、その話を覚えて、でも実践しない人は、砂の上に家を建てるようなものだ。砂の上に家を建てたらどうなる?」
「雨が降れば流されて、つぶされてしまいます」
そう答えたのも小ヤコブだった。
「だから、家は岩の上に立てるべきだ。そうだろう? ペトロ」
ペトロというニックネームの由来を知っている人は、そこで笑った。
「土台がしっかりとしていないといけない。教えを聞いてそれを実践に移すということは、しっかりとした土台を築くということだ。今を土台にして、その上に未来という立派な家を立ててくれ。この未来とはあなたがた一人一人の個人的な未来だけでなく、人類の未来もまた入っている。さあ、昼前の話はこれで終わり。休憩」
休憩といっても昼食をとるわけでもないので、弟子たちは寝そべったり、二、三人で今までの話について議論したりしていた。ただ、午後が重要とイェースズは言っていたので、誰もがそれを気にしているようだった。
やがて、イェースズの集合がかかった。集まってきた弟子たちにイェースズは、今までのような円陣ではなく四人ずつ三列に縦に並ぶように指示した。
「今からあなたがたに、洗礼を施す」
誰もが怪訝な顔をした。中央の最前列にいたヤコブが、顔を挙げた。
「ここには川も水もないじゃないですか」
イェースズはヤコブに、微笑んだ目を向けた。
「ヨハネ師が何とおっしゃっていたか、覚えているかい?」
ヨハネは十二人の中でも古参の六人には、いまだに大きな存在である。
「と、言っても、ヨハネ師を知らない人もいるのだから、もう一度言っておこう。ヨハネ師は水で洗礼を授けていた。ヨハネ師を直接知らない人も、その名前を聞いたことがないという人はいないだろう。その時ヨハネ師は、自分は水で洗礼を授けているけど、後から来る人は火と聖霊で洗礼を授けるとおっしゃっていた。その火と聖霊の洗礼は、あなたがたも今まで見てきたはずだ」
「もしかして」
向かって右前方のペトロが声を上げた。
「今ままで先生が悪霊を追い出していたあの業が……?」
「そう。あれが火と聖霊の洗礼だ。この業は奥義中の奥義でね、この目に見えない火は一切を浄化する炎なんだ。即ち霊界の太陽から流れ出る霊的な光で、これをひとの眉間の奥にある魂に手のひらから放射するとその人の魂が浄まって、川上である魂が浄まれば川下の肉体も清まる。つまり、一切の罪を許す業であって、それだけに肉体的な病も癒されてしまう。そして邪霊が憑依していた場合はその邪霊をも浄化するから邪霊はサトって離脱し、もとの善良な霊となって天国に入れるし、それで霊障も解消するってわけだ。ただし、この業の目的は肉体的な病気を治すことではなくて、魂の浄化にある。人は長い輪廻転生の過程において魂を曇らせてきてしまっているし、人々がこぞって神様に反逆してきたという人類共通の罪もある。そんな魂の曇りを削ぎとってくれるのも、この業だ」
「先生の業が、そんな大それたものだったなんて」
ペトロの後ろのアンドレが、驚嘆の声を上げた。イェースズは微笑んで、全員を見回した。
「この業を、あなたがたにも授けよう」
「え?」
驚きの声は、弟子たちから一斉に上がった。
「私にも、先生と同じ業ができるようになるんですか?」
右列最後尾のトマスが、頓狂な声を上げた。イェースズはゆっくりうなずいた。
「でも、今ではない。もう少しして、時が来てからだ」
輝いていた弟子たちの目に、ほんの少し落胆が見えた。
「先生」
と、マタイが手を挙げた。
「罪を許すなんて、そんな大それた、神様みたいなことができる業なんですか?」
「罪を許すのは、あなたがたではない。神様が許される。あなたがたは神の光を放射することによって、そのお手伝いをさせて頂くだけだ。詳しくは、業を授ける時に話そう」
すると、ナタナエルも手を挙げた。
「その業を受けないと、罪は許されないんですか? ヨハネ師の洗礼でも、罪が許されるってことでしたけど」
「神様は人間の魂が曇ったままでいるのはお望みではないから、浄めようとしてくださる。前にも言ったけど、不幸現象とはそういった魂の曇りを取るためのアガナヒの現象で、決して懲らしめや罰ではない。いわば人の魂の製造元の神様による、魂のお掃除だね。洗濯ジャブジャブだよ。でもそうした魂の曇りを、ただ不幸現象を待ってとるという消極的アガナヒと、自ら進んで人のために尽くし、神様の御用をして曇りをとる積極的アガナヒとでは、後のほうが得だね。でもこの火と聖霊の洗礼は、もっと手っ取り早く有無を言わさずに魂の曇りを削いで、魂を陽に開いていくれる業だ。だからといって、これで罪は許されるなんて安心してはだめで、心の行も必要だし、神様の御用をするという実践行も大切だ。要は、この業によって魂が浄まれば心も清まって、それができやすくなるということでね、想念転換はしやすくなるけれど、それは自分の意志でなさなければならない。救われるためには、自分で精進努力することだ。自分を救うのは自分しかないというのは、そういうことだよ。精進努力なんかしなくても私が救って上げる何て言う人は危ないし、たいていそんな人は邪神に操られている」
風が一段と強くなってきていた。
「これから目を閉じていなさい。私はその間に、あなたがたに洗礼を授ける。今までもう何度も見てきただろうけど、今度はあなたがた自身が受ける番だ。あなたがたの魂は、神様から頂いたときは水晶玉のように透明だった。それがどんどん曇りを積んできてしまっている。その神様から頂いた魂を汚してきたことをお詫びし、千載一遇のチャンスでこの業を受けられることをひたすら感謝していなさい。この神の光を魂に受けるのは霊的な修行で、お詫びと感謝は心の修行だ。霊的な修行のない心の修行は無意味だけど、霊的な修行をすれば心の修行はいらないってわけじゃない。また、人を救って歩き、神の教えを説いて歩くという体の行も必要になってくる。この霊・心・体の三位一体の行があってはじめて、人々は許しを得られるんだ。では、みんな目を閉じて」
弟子たちが目を閉じると、イェースズは両手を挙げてその左右の手のひらを弟子たちに向けて一斉に霊流を浴びせた。両腕はゆっくりと動かし、時には交差をさせて、満遍なく光を配っていった。
ペトロが、目を閉じたまま口を開く。
「ああ、なんだか額のあたりが熱い」
「しゃべらないで」
と、ぴしゃりとイェースズは言った。そのあとは、イェースズも無言だった。イェースズの霊眼には、弟子たち全員が黄金の光に包まれているのがはっきり見えた。そしてさらにイェースズの目には、過去世において自分を取り囲んでいた彼らの姿が、ありありと見えたのだ。
栄光あるムーの子ら……霊の元つ国で自分が皇子だったとき仕えてくれた十二人の魂の友がここにいる。輪廻転生の過程を超えて結びついた友は、縁生をたぐって今こうしてこの世でまた集い来た。探して探してようやく再会した光の天使たち、この絆は何万年たっても切れるはずはない。
手をかざしたイェースズの目から、いつしか涙がこぼれていた。その高く掲げてかざす両手で、十二人もろとも抱きしめたいしょうどうにかられるイェースズであった。
一行は、夕方に山を降りた。まずはカペナウムを目指したが、小ヤコブは一足先に、イェースズの帰宅を母に知らせに駆けて行った。
その夜は、ちょっとした宴会となった。断食の後のご馳走ほどうまいものはない。そんな席で、イェースズの妹のミリアムが母マリアの袖を引いた。
「この人たち、前に来たときと違う。ヤコブ兄さんやユダ兄さんも含めて、みんなまぶしく輝いている」
それは、母マリアも感じていたようだった。
翌朝早く、イェースズは十二人とともに家を出た。ほんの束の間の帰宅だった。だが出発前に、母のマリアはイェースズに耳打ちした。
「そろそろ一年よ。カナのマリアをこちらに迎えなければね」
それにはイェースズは、生返事だけをしておいた。
また、イェースズは旅に出た。今度は十二人を連れて、ガリラヤ全土を巡る。弟子教育が一段落した今、いよいよ本格的な使命に基づく伝道の旅が始まろうとしていた。




