山上の垂訓-2
「今日はね、十戒の話をしたいと思う」
一同、うなずく。
「十戒って、みんな知っているかな?」
弟子たちの中で、どっと笑いが起こった。ユダヤ人で十戒を知らないものがいるはずはないので、すぐにイェースズが冗談で言ったと分かったからだ。もちろん、当のイェースズも笑っていた。
「ところがみんな、笑い話ではすまないところがあるんだよ。トマス、第一条は?」
「私はあなたの主なる神である。私のほか、誰をも神としてはいけない」
「そうだね。しかし今日私が告げるのは律法学者のような字義解釈ではなくて、本当の意味、十戒の本義を告げたいと思う」
「本当の意味ですか?」
ペトロが首をかしげた。
「今まで私たちが聞いていたのは、本当の十戒ではないのですか?」
「ものごとには裏と表があってね、この服にも裏と表があるように、十戒にも裏と表があるんだ。おそらくこのことは、律法学者も祭司も知らないことだ」
弟子たちはあまりの突拍子もない話に、誰もが怪訝な顔をした。
「聖書でも、モーセは二枚の岩に刻まれた十戒を賜ったとある」
「たしかに」
と、ピリポが言った。イェースズはそれに応えるように、微笑んでうなずいてから続けた。
「その一枚目の岩に刻まれたのが表十戒で、これがあなたがたの知っている十戒、つまりイスラエルの民のための十戒で、もう一枚の岩に刻まれたのが裏十戒なんだ。これは全世界の全人類のための十戒なんだよ」
「へえ?」
ピリポが素っ頓狂な声を挙げたが、ほかの人たちも同じ心で驚いているようだった。
「一枚目に第一条から第五条までで、二枚目に第六条から第十条までだと思ってました」
「そうじゃあないんですか?」
ピリポの言葉をトマスが受け継いだ。イェースズは笑ってうなずいた。
「うん、そうじゃあないんだよ、実は。でもこれは、まだあなたがたにすべてをお話しする段階ではない。ただ言えることは、裏も表もどちらも無理な要求はなされていないってことなんだ。いわば、当たり前のことしか書かれていないんだよ。つまりは、霊的な法則でね、例えて言うなら、これはあくまで例えだけども、『燃えている火の中に入ってはならない』という律法があったとする。こんなのは言われなくても当たり前だね。燃えている火の中に入ったらやけどをするか、下手したら焼け死ぬ。神様の掟って、そんなふうに簡単なことなんだよ。ところが今の世の人々は心が神様から離れてしまっているからそんな掟も大それたもののように思ってしまってね、その掟を無視して火の中に飛び込んでやけどをして苦しんでいるか、逆に遵守しすぎて尾びれがついて、『朝の何時から夕方の何時までしか火をともしてはならない。火を五分以上見つめてはならない』とか。もちろん、そんな掟はないけどね」
一同で笑いが起こった。
「そんな人知で勝手に掟を変更して、人々を縛りつけたりしているのが現状だ。いいかい、真に言っておく。神様は火の中に入るとやけどをするか焼け死ぬということをご存知だからそういった掟を下された。しかし人々はそういったことも分からないから人知で屁理屈をつけて火の中に飛び込んでいっている。だから、決して裁かれて火の中に投げ入れられるんじゃないんだ」
弟子たちは息をのんで、次の師の言葉を待っていた。
「本当の十戒では、第一条は『天国の親神を拝礼せよ』となっている。宇宙創造の最高神はお一方だけど、その神様はいろんな局面をお持ちで、異教徒たちはその部分的局面のみを祭って拝んでいる。イスラエルの民は神から選ばれた民というけれど、私もあなたがたが神様から選ばれてここに集められたと言っておいた。あなたがたが私を選んだのと同時に、あなたがたが神様から選ばれたと言っただろう? だけどもっと大切なのは、あなたがたが私を選んだように、しっかりとした自覚と認識を持ってあなたがたが頼るべき本当の神様を選べということだ。選ぶとは、神様が人間にお与え下さった最大の自由なんだ。天国の親神様、つまり天地創造の宇宙最高の唯一絶対神を選ぶか、その一局面にすぎない幻影の神を選んでしまうか、恵みを祈ることだ」
それからいろいろと問答があって、日もだいぶ高くなった。そろそろ汗ばむようになる時刻だ。彼らは高い木の下にいて、さらに風もあったので暑さはしのげた。
「さらに十戒には『あなたは、殺してはいけない』とある。けれども今の律法では、実際に人を殺した時だけ裁かれる。でも、神様の掟はもっと厳しいんだよ。殺したいと思っただけで、つまりそれほどまでに人を憎んでしまったら、実際には殺さなくてももうそれだけで罪穢を積んでしまっている。人の世では殺したいと思っても実際に殺さなければ罪には問われないけれど、霊界はもっと厳しい」
イェースズは、怪訝そうな弟子たちの顔を見渡した。
「この世では殺そうと思っても罪にならないのは、この世では肉体というものの中に入って生活し、肉体を通して感じる世界だけがすべてだなんて誰しもが思っているからなんだ。でも神様の世界には肉体なんかなくて、魂と想念の世界だから、憎い、殺してやると思っただけでその想念が魂を曇らせて罪を積んでしまう。等しく神の子で兄弟であるすべての人に対して悪口、陰口を言ったり、批判したり、責めたり、怨んだり憎んだり妬んだり嫉んだりしたら、その想念が物質化して自分に跳ね返ってくる。例えば人を憎んだら、その想念が地獄の炎となって自分を焼く。地獄の炎は神様が人を罰するためにお創りになったものではなく、自分自身が発した恨みの想念が炎になって自分を焼いているだけだ。これが因果応報による裁きで、自分で自分を裁いているのと同じだ。神様はちょっとやそっとのことで、かわいい神の子である人間を裁いたりはなさらない」
「しかし、先生」
マタイが手を挙げた。
「とにかく表面だけでも律法を守っていれば地獄に落ちないなんて、律法学者は言っているようですけど」
「それは違うね」
微笑んでいても、きっぱりとイェースズは言い放った。
「形式だけでも律法を守っていたら心の中なんてどうでもいいなんて、そんな馬鹿な話はない。律法はイスラエルの民だけしか問題にしていない。異民族で聖書も知らない人々は、みんな地獄に落ちるとでもいうのかい?」
「律法学者はそう言っていますけど」
マタイが、弱々しくそう答えた。イェースズは笑った。
「神様がそんな無慈悲なお方なら、私は神様を信じないね」
そして、続けた。
「でも、そんなことはない。人は死ぬとまずすぐに天国や地獄へ行くのではなくって、最初に精霊界という所に行く。いわば煉獄だ。そこは律法も道徳もモラルもない。なにしろお互いに相手の考えていることが分かってしまうのだから、隠しごともできない。だからやってはいけないということもないし、自分を表面的に偽っても無駄なのでみんなどんどん自分の本性を出していく。この世で律法をかさに偽善的な生活をしていた人々も、何をやってもいいのだし、他人の目を気にする必要はないのだからどんどん自分の本質がむき出しになっていって、姿まで想念どおりの姿になる。そうして全くその人本来の魂の状態が表に出たときに、天国か地獄か、自分にふさわしい場所を自分で選んで行ってしまうんだ。つまり、霊界の法則はイスラエルの民だの異邦人だのそんなのは関係ない。全世界全人類に共通のもので、どんな宗教を信じているかも関係ないのだよ」
「あのう」
と、ナタナエルが口をはさんだ。
「この世に生きている我われの祈りでしか、煉獄の魂は救われないって本当ですか?」
イェースズはまた笑った。
「誰がそんなことを言ったのかね? 理解に苦しむね。この世に生きている我われで、煉獄の魂をどうできると言うのかね? 我われがいくら祈っても、それだけで救われるってものじゃない。要は本人の精進しだいだからね。自分の想念によって救われるかどうかが決まるんだ。想念とは怖いものだよ。儀式に形式だけ参加して心の中では『早く終わらないかなあ』なんて思っているようじゃ、」
また、皆でドバッと笑った。
「そんな形式だけでは救われるものじゃあない。だから、この世に生きていたときの想念もとても大事だね。誰かとけんかしているなら、まずは仲直りをしなければならない。煉獄の魂のために祈っている暇があったら、そっちの方がもっと大事だ。たとえ神殿にお参りに行く途中に、誰かが自分を怨んでいることを思い出したら、礼拝は後回しでもいいから戻って和解することだ。悪想念を持ったまま礼拝してもその悪想念が神様に通じてしまって御無礼になるし、祈りは逆訴になる。怒りの状態で夜に床に就くなんてことはないように、いや、ないよね」
また、みんなで笑った。
「寝る時は、ニッコリ笑った状態のまま眠りについてごらん。それが訓練だよ」
皆の気もだいぶほぐれてきた。だがイェースズの言葉は微笑んでいるその顔とは裏腹にとても厳しく、眼光も鋭かった。
「あなたがたは『目には目を、歯には歯を』などと教えられているけど、これを今の人々は非常に誤解している。これはだね、目による被害には目で復讐するだけにとどめて、それ以上のひどい復讐はしてはならないということを誡めるものだともういけど、本当は目で悪いことをしたら必ず目でアガナヒをしなければならず、歯で悪いことをしたら必ず歯でアガナヒをしなければならなくなるという霊界の法則が述べられているんだ。それは相手に対してだけじゃなくて、神様に対して罪穢を積んでいる。いわば神様へのお借金だ。アガナヒとはそのお借金を返済することで、一タラントのお借金があってそれをほとんど返済したとしても、最後の一ドラクマが残っている状態ではだめなんだよ。神様の掟は、それほど厳しい。ああ、それなのに、このアガナヒの法を説いているのを復讐を奨励して教えのように勘違いしている人がいる。目でひどい目に遭わされたら、目によって復讐してもよい、いやするべきだなんてね」
「え? 違うんですか?」
と、ペトロが口をはさんだ。
「やはりそう思っていただろう。しかしだね、私はさらに言うよ。人が人を殺したいと思っただけで霊的にはすごい曇りになるのに、ましてや実際に殺したりしたらどうなるだろう。すべての人は神様から頂いた霊魂を肉身に内蔵する神の子なんだ。それを殺すなんて、つまり存在を否定するなんて、神様を否定することだね」
何人かは無言でうなずいた。
「動物たちを見てごらん。ライオンは確かに草を食べる動物を殺すね。でもそれは食べるためであって、お腹がいっぱいだったらそばをウサギが跳ねていようが知らん顔をして見ている。憎しみとか怨みで殺し合うのは、悲しいかな人間だけなんだよ。ライオンがほかのライオンを怨んで殺したなんて話は、聞いたことがない。神様は食用とするための殺生なら大目に見られるけれど、そうでないものは決してお許しにならない」
弟子たちの間で、ため息が漏れた。
「話がそれたけど、さっきの『歯には歯を』の話に戻ると、私が言いたいのは、例えば目に対してひどいことをされても、それは自分が過去世において目で人を傷つけた罪穢を目でアガナって、神様がその罪穢を消そうとしてしてくださっているのだからまずそれに感謝し、自分の罪穢を消してくださったその相手にも感謝して、その人の救われのために祈らなければいけないのに、その相手を怨んで復讐するようだとせっかく消してくださろうとしている罪穢が消えないばかりかますます罪穢を積んでしまうことになる。だから、復讐どころか右の頬を打たれたら左の頬を出すくらいでないとだめだ。上着を盗られたら、下着をも与えるんだ」
このイェースズの言葉は、弟子たちに驚愕を与えるのに十分だった。何から何まで彼らがこれまで培ってきた常識を覆すのが、今日のイェースズの話だったのである。
「いいかい。右の頬を打たれるということは、打たれなければならない罪穢があるってことだ。罪穢があることをサトッたら積極的に左の頬も打ってもらって罪穢を消してもらう方が得だろう。消してもらったら感謝だ。何もなければ打たれることはない。赤ん坊を見てごらん。赤ん坊が笑って走ってきたのを見て、その頬を打つ人なんかいるかい?」
皆、首を横に降った。
「そうだろう。それが本当の無抵抗というものだ。それともう一つ、あなたがたは友を愛して敵を憎めと教えられているね。でも、敵だからといって憎んでいいはずはない。私はあえて言うけれど、敵を愛し、あなたがたを罵る人々に親切にし、あなたがたを憎いと思う相手のために祈るんだ」
「あのう、先生」
またトマスが手を挙げた。
「敵は憎んでいるからこそ敵なのであって、愛してしまったら敵ではなくなってしまうのではないですか?」
イェースズはその問いにも、笑顔で答えた。
「確かに、世間一般ではそうだけど、私は今そんな世間の話ではなく霊的世界の次元で話をさせて頂いているのだよ。いいかい、哲学的思考は一切捨てるんだ。私は決して道徳やモラルを話すんじゃないと、さっき言っておいたはずだよ」
「分かりました」
トマスはすでに引き下がったが、同時にイスカリオテのユダが憮然として手を挙げた。
「我われイスラエルの民にとって、最大の敵はローマでしょう。そのローマをも愛せよとおっしゃるんですか?」
「ローマ人も神の子だ。ローマからの圧制から解放されるのが本当の幸せだって言った人もこの中にいたけど、それを勝ち取るためには血を流す戦いをしなければならないね。そうなると、我われが勝っても負けた方の傷つき殺された人々の怨みの念は、必ず霊界から集団で復讐してくる。そうなると本当の幸せを得たとは言えない」
イェースズはそれだけ言うと、次の話を始めていた。
「憎いっていうのは、悪いって決め付けることだけど、神様はそんな決め付けをするかな? もし我われが誰かを『おまえは悪い』と決め付けても相手はウンでもスンでもないけれど、もし神様が同じようにそう決め付けたらその人は生存することができなくなってしまう。魂もろとも木っ端微塵になるね。みんな、罪があろうと神様から許されて、生かされているんだ。考えてもごらん。神様は太陽の光を下さるにしても、あなたはいい人だからたくさん、おまえは悪人だから少しだけなんて、そんなことあるかい? 雨を降らせるにしても善人は倍、悪人には半分なんてないだろう? 善人にも悪人にも神様は等しく太陽の光を下さり、雨を降らせて下さる。これが、神様の愛だよ。たとえ罪のアガナヒとして不幸で苦しんでいる人がいたとしても、それでも生きているのは神様に許されて生かされているからだ。今の時点で不幸に陥っていたとしても、それは罪から魂を浄めてくださるためで、一切がよくなるための変化なんだ。決して神様の裁きではない」
弟子たちは、静まり返っていた。
「だから、あなたに敵対する人をこそ愛さなければならない。恩をあだで返すものに対してでさえ、そのもののために祈るんだ。すべて、あなたの魂の罪穢の消し役、魂の磨き役だ。そう思えば感謝こそすれ、腹など立たなくなってくる」
「先生のおっしゃること、分かります、その通りだと思います」
本当に分かっているのかどうかは別にして、ペトロがやたら大きな声で言った。
「少しだけでも分かってくれたらいい。ものごとは段々で、最初から分かろうなんて無理だからね。世間一般は敵を憎むけど、あなたがたは光の子として人よりも一歩も二歩も先を進んで、みんなが神様に近づけるように引っ張っていかなくてはならない。あなたがたには、そのような使命がある。あなたがたは神様との因縁が深い。でも、罪穢も深い。だから使命も重いんだ」
「そんな」
弱々しく小ヤコブがいった。
「今わは私たちが先生に引っ張って行ってもらっているのに、私たちがひっぱるなんてそんなことができるんですか?」
「私の教えをス直に受け入れれば、必ずできる。そしてやがては、あなたがた一人一人が私の代行者にならないといけない。そのためにあなたがたを召命した。私は決して無理は言っていない。むちゃくちゃなことも言っていない。例えば、自分で自分のおでこをつねったら罪になるなんて、そんなとんでもないこと、まるで律法学者が言いそうなことは何一つ言ってない」
少し緊張がほどけて、弟子たちの中から笑いがあがった。笑いながらも、今イェースズに言われた使命のことで、少しだけ張り詰めた表情をしていた。
「でもおでこではなくて、自分で自分の鼻をつまんで口も閉じていたら、息ができなくなって死んでしまいますよってことを言っているんだ」
また、弟子たちは笑った。
「これは無理なことでも、無茶なことでもないだろう? そんなことをしたらどんな結果になるか知っているから、だから言うんだ。決して倫理や道徳じゃあない。私が説いているのは法則なんだよ」
そのへんは弟子たちも少し納得したようだ。
「でも、あえて言わせてもらえば、神様が完全なお方であるように、あなたがたも完全になりなさい。これは決して無理なことではない。無理なことだったら、私は決して言わない。無理だと思ったらやるというような意気込みも必要だ。人の魂は、みんな神様から戴いたもの。神様がご自分の霊質をひきちぎって一人一人に入れてくれた。だから、人間のもとは神であって、人の本質は神なんだ。人は神の子で、神様は親だ。子供がいつか育てば親になるように、あなたがたも育てば神になる。人はみんな神様が本質だから、罪穢を消し、み魂を磨き、浄まれば誰でも神になれるんだ。それを神性化といって、一歩一歩神様に近づいていくんだよ。さあ、ここまでで、とりあえず休憩しよう」
それを聞き、安堵の表情になった弟子たちが多かった。
「あなたがたはそれぞれ、今の話をよく思い出して、自分の生活を点検して反省してほしい」
人々は立ち上がり、お尻の痛さをほぐした。
昼も過ぎた頃、弟子たちはまたイェースズの話を聞こうと集まってきた。休憩の間中、弟子たちは皆昼寝をしていたのをイェースズは知っていたが、それもよしとする笑顔でイェースズは話しはじめた。
「次は『あなたは、姦淫してはいけない』ということについてだ」
弟子たちの表情が、幾分硬くなった。弟子のうちの半数以上が未婚だったので、これは避けて通れない切実な問題だ。
「これは『あなたは、人の妻を望んではいけない』というのも同じことだ。律法によれば、結婚は祭司の承認のもとに行われるね。でも、本当の意味で魂と魂の結婚をお許しになる方は、神様だけだ。双方の魂の釣り合い状態を見て、神様がふさわしい相手を決める。でも霊界では、その二つの魂はすでに結び付けられることが決まっていてね」
イェースズは急にペトロを見た。
「ペトロ。あなたが自分の奥さんと初めて会った時のこと、覚えているかね?」
いきなり話をふられて戸惑っていたペトロだったが、しっかりと顔を上げた。
「初めて顔を見た時、あ、この人と結婚するのかなあと、おぼろげながらに思いましたね」
イェースズは満足げにうなずいた。
「そうだろう。魂の段階ですでに結ばれることが決まっているのを、魂が感じたからだ」
イェースズがにこっとすると、ほかの弟子たちもニヤニヤしてペトロを突っついたりしていた。そこで小ヤコブがため息などついたから、それが受けてどっと笑いが沸いた。イェースズも笑った。そして言った。
「人は誰も知り合いになったというだけで、目に見えない銀色の糸で結ばれる。もっとも知り合いになるということはすでに縁があってのことなんだけど、その銀の糸の中でいちばん太いのは親子、そして兄弟だ。夫婦は最初は他人だからその糸も細いけど、やがてどんどん太くなってしまいには親子以上になってしまう。そして友人などとのその糸は切ることもできるけど、親子や夫婦の糸は人間の方で勝手に切ることは許されていない」
「では、いかなるときでも離縁はしてはいけないのですか?」
ナタナエルの問いに、イェースズはうなずいた。
「人知の律法では条件付に離縁を許しているけど、それは男の身勝手で一方的に男から離縁を言い渡すようなことがないように、離縁に際しては理由書を書けと言っているだけで、本当は離縁はよくない。霊的な神様の掟は、離縁は許されない。そしてまだ結婚していない皆さんのために言っておくがね、結婚するまで女性をいとしいと思う気持ちがあるのは致し方ない。これは神様からの最大の贈り物で、人間としても子孫を残すためにはどうしても必要な感情だ。でもね、素晴らしい反面、怖い面もある」
弟子たちは、首をかしげた。
「どういうことですか?」
小ユダが、顔を上げた。イェースズは全員を見渡した。
「そういった感情は、一歩間違えれば地獄の底まで落ちかねない。悪霊がいちばん利用しやすいのも、この異性を思う人間の心だ。だから、恋愛は魔性なんだ。今まであなたがたが見て来た邪霊の霊障も、男女間の怨みがいちばん多かっただろう? 気をつけなければいけないのは、皆さん男だから女をというが、女を見る時その魂は見ないで肉体だけを見て情欲にかられると、いちばん邪霊に操られやすくなる。邪霊と波調が合ってしまうんだ。だから女性を好きになったらまずは一線を越えないように努力し、許しを得て堂々と結婚して、それから男女の営みに入ればいい。つまり、パリサイ派の学者さん連中がいうような禁欲は必要ないのだけど、制欲は必要だ」
「先生」
と、トマスが手を挙げた。
「一線ってどこに引けばいいんですか? どこまでが許されて、どこまでが許されないんですか?」
「それは、その人その人の魂の状態によって違う。神様の掟は決して押し付けではないから、自分がここが一線だと思うところを守ればいいんだ」
トマスはうなずいた。
「それで、何よりも大事なのが、神様と恋愛をすること」
初めて聞く論理に、弟子たちはただぽかんとしていた。
「人は恋をしたら、相手のために何でもしてあげたいと思うだろう。その気持ちを、まずは神様に向けることが大切だ。信仰とは、神様との恋愛だ。神様を信じるのは大切だが、そこで止まっていてはいけない。要はいかにして自分が『神様に信じてもらえるか』ということだよ」
次の質問は、ピリポからだった。
「やはり聖書にあるように、自分ひとりでの行為もまずいのですか?」
「まあこれは、男なら」
弟子の誰もがひそひそと笑っていた。
「絶対にいけないってことじゃないんですか?」
トマスが、急にテンションを高くしてきた。
「さっきも言ったけど、神様の教えというのはあれしちゃだめこれしちゃだめ、あれしろこれしろというような押し付けになっては困る。神様の教えは霊的法則なんだ。どちらを選ぶかは、人間の自由意志に任されているからだ。だから愛もなく交わると、せっかく神様から頂いているある霊的な力をどぶに捨ててしまうことになる。それにその時の想念って、決してよくないだろう。人を殺したいと思っただけで霊的には曇りを積んでしまうのと同じでね、実際に姦淫をしなくても、情欲の目で女性を見ただけで霊的には魂を曇らせてしまうんだ。霊界は想念の世界だからね。肉体でごまかすことはできないから、余計に厳しい」
イェースズの優しい笑顔との裏腹の厳しい話の内容に、弟子たちは皆唖然としていた。
「霊界は決して甘い所ではない。むしろこの世の方が、肉体があるだけにごまかしがきく。何を考えていてもそれを隠して、ごまかせる。しかし霊界は厳しいので、霊界ではどうなのかと考える癖をつけることだね。これを『霊的に考える』というんだけど、あなたがたはぜひ霊的生き方を身につけてほしい。この世のものも大元はすべて霊で、一切が霊的なものが主体となっている。霊といっても、幽霊のことばかり考えていてはだめだ。自分の行動を霊的に見てどうなんだろうと考える癖をつけるんだ。そして、霊的にまずいと思ったらやめる。ちょっとでも霊界の法則にはずれていると思ったら、断乎として遠ざけること。例えば目がつまずきとなるなら、どうすればいい? どうすればいいかというと、その目をえぐって捨てる」
一同は、また笑った。
「そうしないと、全身がゲヘナの火に焼かれてしまう。そうなったらたいへんだ。そしてもし右手が悪いなら、右手を切り落とす」
また、笑いが起こった。
「あなたがたは笑ってるけどね、右手一本なくすのと体全体がゲヘナの火に焼かれるのとでは、どっちを選ぶ?」
ゲヘナの火に全身が焼かれるのも困るが、だからといって右手とも簡単に答えられずに弟子たちは返事に窮していた。イェースズは声を上げて笑った。
「いいかい? これはもののたとえだよ。それくらいの覚悟を持ってほしいということだ。くれぐれも、間違っても、本当に目をえぐり捨てたり、右手を切り落としたりしないこと」
弟子たちは、また笑った。イェースズも笑っていた。昨日から話の内容はまじめで厳しいものなのに、なぜかずっと彼らは笑いっぱなしだ。それだけに丘の上は、明るい陽の気で満ちていた。
「そして十戒にはほかに『あなたは、盗んではいけない』というのと、『あなたは、人の持ち物をみだりに望んではいけない』というのがあるけど、どちらも同じことだ。人のものを盗んだり、ただ単にほしいと思っただけでも、その欲望は地獄の炎となって自分を焼くことになる。ほしいというのは、むさぼる心だろう? 今の自分の持っているものでは足りないという不平不満だね。神様は、不平不満が何よりもお嫌いだ。まず、今自分の与えられているもので足りる心を知り、それがどれほどすばらしいものかを思うという発想の転換が大事なんじゃないかと思うが、どうだろうか。与えられているもので足りる心、感謝の心が大切で、とにかくことごと一切徹底感謝から神のミチは始まる。『これじゃ足りない。もっとほしい』ではなくて、『こんなにも戴いている~~~。有り難い~~~』って思うことだ。考えてもみてごらん。まず今日もこうして無事に生きている。息ができる。有り難いだろう。座る場所がある。肉体も健全だ。有り難いね。一切が神様から拝借しているもので、自分で作り出せるものなど何一つないだろう? 人間の力ではまつ毛一本、ケシの種一つ作れない。すべては神様がお創りになったもので、その神様から我われはこんな立派な体を戴いている。それだけでも感謝しかないはずだ。それなのにもっとほしいとむさぼる心は砂漠だ。いや、地獄だね。感謝を忘れていた人は、今日を機に一切に徹底して感謝するんだ。大体うれしいことがあれば自然と感謝するだろうけど、不幸なこと、いやなこと、そういうことがあっても一切が感謝だ」
何人かが、いぶかしげに首をかしげた。かまわずイェースズは続けた。
「さっきか昨日かも言ったけど、不幸というのは、一切がよくなるための変化だ。自分にこれだけの罪穢があったのだをサトって、その不幸現象によって罪穢が消えていく。消させて頂いている、そのことにも感謝だ。不幸に対して不平不満を持つから、不幸は長引くんだよ。感謝していればすぐ終わる。今、生かされている、これも感謝だ。何事もないというのが、神様からの最大の贈り物なんだよ。感謝の反対語は当たり前だと思うことだ。でも、今ひとつ息を吸えたというのも、当たり前のことじゃないんだよ。じゃあ、少し休もう、これも当たり前じゃないんだよ。感謝して休もう」
そのイェースズの言葉に、みんなはまた笑った。




