十二人の使徒
イェースズは十一人の弟子を連れて、家に帰った。狭い家は、男たちであふれた。
イェースズが帰るとすぐにまた、うわさを聞きつけてたくさんの人が救いを求めて押し寄せた。イェースズはいやな顔もせずに一人一人の病を癒し、憑いている邪霊をサトした。
新たに加わったメンバーもイェースズの奇跡の業を目の当たりにして、自分の選択が間違っていなかったことを確信したのである。
そんな中に珍しく、肉体的な救われを求めてきたのではない人もいた。
母マリアによればこの前も来たそうだが、イェースズが不在だったので出直してきたようだ。それほど年配でもないのに、頭の上が禿げ上がっている小柄な男だ。
「トマスって言います」
ギリシャ語だった。顔つきはユダヤ人だが、ギリシャ語をしゃべるということはディアスポラである。果たして男は、
「アンティオキアから来ました」
と、言った。アンティオキアはシリアの北方、地中海に面した町だ。そこはすでにローマの領土であり、ローマ帝国の一都市として栄えている。
「私はギリシャ哲学を勉強しています。もっと深く哲学を学びたくてギリシャに行こうとしたのですけど、船の出るカイザリアに行く途中にこの町に立ち寄ったら、町はあなたのうわさで持ちきりだったのです」
「そうですか。それは遠路はるばるご苦労様です」
イェースズは笑みを作って、ちょうどそこにいたピリポをちらりと見た。
「ここにもギリシャの哲学が好きなのが一人いますけど、でも私は哲学者ではないし、私の教えも哲学ではありませんよ」
「会堂であなたの言葉を聞いたという人から、あなたは素晴らしい哲学をお持ちだと聞いたのですけど」
「神の教えは、哲学のような人知の遊戯ではありませんからね」
「そうですかあ?」
男はまだ、疑わしそうな顔をしていた。
「ご謙遜されているんでしょう。私は疑わしいと思ったことは、自分が納得するまでとことんまで追究しなければ気がすまない性格なんです。私もいっしょにここにおいていただけませんか?」
「分かりました。私はずっとここにいるわけではなくてまた旅に出ますけど、よかったら一緒に行きましょう」
こうしてイェースズの集団には、ガリラヤ人ではないディアスポラまでが加わった。
その日の夕食は狭い部屋にひしめきあうかたちで、パンと魚という質素な食事をした。
その夕食の席で、イェースズは一堂の顔ぶれを見回した。十二人になった。彼の首の御頸珠が揺れた。そこにはちょうど、十二の珠がある。今、目の前にいるのも十二人。これで十二人そろった、とイェースズはひそかに思った。
神から与えられた魂の友はそろったのかもしれない。そう思うと、十二人の男たちがイェースズにはいとおしくて仕方のない存在に見えてきた。
ただ、紛らわしいのは同名がいることだった。アンドレの弟のシモンは今ではもうペトロがすっかり通称になっている。だから、熱心党のシモンとは区別する必要がなかった。あとはヤコブとユダが二人ずついることになるが、イェースズは自分の弟のヤコブをエレアザルの兄のヤコブと区別して小ヤコブ、同じくユダをイスカリオテのユダと区別するために小ユダと呼ぶことにした。
また、レビには新しい名前を与えた。神の賜物という意味の「マタイ」という名だった。
すぐにイェースズは、十二人の弟子とともに旅に出た。十二人が全部カペナウムの家にいたら家が破裂してしまうし、母もいい顔をしない。そしてヨシェの大工としての仕事にも支障をきたすと思ったからだ。
時は春で、雨季が終わって温かかくなると緑がパッと萌え、色とりどりの花が咲き、ガリラヤが一年でいちばん美しくなる季節だ。夏の乾季には、花は一斉に枯れてしまう。
そんな神の恩寵の風景の中をイェースズたちは旅をし、麦畑の中を丘のふもとの小さな町に向かっていた。間もなく日も暮れようとしている。この日は日が暮れたら週の終わりの日が始まり、安息日となる。だから、日が没する前になんとか町に着きたかった。
だが間に合わず、宵闇があたりを包んでも、町はまだ一面の麦畑の向こうにあった。一行は一列になって、麦畑の中を黙々と進む。ちょうど冬麦の収穫の頃で、腰のあたりまでふさふさとした穂に埋まりながら彼らは歩いていた。最後列の小ヤコブと小ユダの兄弟は、しきりに腹が減ったと文句を言っていた。最前列からイェースズが振り向いて、
「もう少しだ。我慢しなさい」
とたしなめた。そういう時のイェースズの顔は、師ではなく兄に戻っていた。
「もう我慢できない。どうせこの麦はパンのもとだから、パンを食べるのといっしょだ」
と、小ユダが麦の穂を積んで手の中でもみ、口の中に入れながら歩いていた。その頃はもうとっぷりと日が暮れていた。
暗くなりかけた頃、町に着いた。どうやら真っ暗になるまでには間に合った。だが町の入り口にこの町のパリサイ派の律法学者らしき男が二人、彼らの行く手を阻むように立っていた。そしてイェースズたちが町に入ろうとすると、両手を広げてそれを制したのである。
「旅のお方ですか。もう日が暮れている。すでに安息日ですぞ」
そう言われてイェースズが笑顔で会釈をすると、最初に声をかけた方ではないもう一人が、イェースズをじろじろと見ていた。
「どちらから、来られた?」
「カペナウムですが」
「やはり」
その学者は、うなずいていた。
「カペナウムのイェースズの一行ではないのかね?」
「そうですが」
「あなたがたのうわさは、この町でも持ちきりだ。私の師はカペナウムにいるんだが、あなたのことは詳しく師から聞いている。ずいぶんと論争をしてくれたそうですな」
よりによってこの学者は、カペナウムでイェースズと二回も論争をしたあの学者の弟子のようだ。
「それにあなたの弟子は、安息日だというのに麦の穂を摘んでましたな。遠くからでも見えましたよ。人の畑の麦を勝手に積むのもさることながら、どうして安息日にしてはいけないことをするのです?」
もはやイェースズたち一行は、前に進めなくなった。イェースズは一つ、咳払いをした。
「人の畑の麦を取ったのは、申し訳ない。お詫びいたします。今後は気をつけさせます」
「しかしですよ」
と、ピリポが口をはさんで身を乗りだした。
「ダビデ王が自分とその従者に食べ物がなかったとき、どうしたかご存じですよね」
律法学者だから知らないわけはないだろうが、あまりにも突拍子もない突然の質問に答えに窮していた。ピリポはしたり顔で続けた。
「あれは大祭司アピアタルの時でしたね。神殿に行ってお供えのパンを自分も食べたし、従者にも与えたではないですか」
「それがどうした」
学者がいきがって問い返してきたので、イェースズはピリポを見て、
「自分の知識を、自らの非を正当化するために使ってはいけないよ。それにそれはアピアタルではなく、アキメレクの時だ」
とたしなめ、もう一度学者に顔を戻した。
「しかし、安息日だからどうのこうのというのは、どんなものでしょうね。安息日って由来はともかくとして、人が休むためにあるんじゃないですか。人が安息日のためにあるんじゃないと思うのですが。そんな形式よりも、人が生きていく糧の方がずっと大事だと思いますが、いかがでしょう。すべての人は神の子なんですから、へりくだって神とともに歩むのなら、その神の子人はいかなる文字に書かれた掟よりも尊い存在ではないですか」
「師から聞いていた通り、一筋縄ではいかない男のようだな」
それだけ言うと、二人の学者はイェースズたちに背を向けて町に入っていった。だが、これで引き下がったわけではないことは、イェースズは十分に察していた。
イェースズたちは町には入らず、その外でテントをはって野宿した。そして翌朝、礼拝のために皆でそろってこの町の会堂を目指した。会堂には、当然例の律法学者の姿もあった。
イェースズが会堂に入ると、人々は途端にざわめきはじめた。この町でもイェースズのうわさで持ちきりだという律法学者の話は、本当だったようだ。
そして会堂をぎっしり埋める人々の中でも、すぐに人をかき分けてイェースズに近づいてきた婦人がいた。
「あなたがこの町に来て下さることを、どんなに心待ちにしたことか」
婦人はほとんど涙を浮かべている。
「どうされました?」
イェースズは、優しく婦人に問いかけた。
「私の夫が、手が動かなくなったんです。ずっと両手がだらりと下がったままで、ぜんぜん動かないんです」
「そうですか。前からずっとなんですか?」
「いえ、ついこの間から急になんです。それまでは普通でしたのに」
突然の症状の悪化というのは、まずほとんどが霊障である。だがイェースズは、あえてそれは言わなかった。イエスの業は、口で言うより問答無用である。
「分かりました。ご主人はどこにおられます?」
「あそこです」
婦人は立ち上がり、イェースズをつれて人ごみをかき分け、会堂のほぼ中央に連れて行った。そこは、普通は女性は入れない所である。そして、そこで一人の男性をイェースズに示した。
「手が動かなくなったというのは、あなたですか?」
男はうつろな目でイェースズを見あげたが、すぐにイェースズを誰だか察したようですがるような表情になった。
「ど、どうか、救ってください」
そのとき、また人ごみをかき分けて、昨夜の二人の律法学者がイェースズのそばに来た。
「今日は安息日ですぞ。安息日に癒しの業をするのが禁じられていることを、まさか知らないわけはないでしょうな」
「あのう、ひとつお伺いしたいんですが」
イェースズは律法学者を見た。
「安息日にいいことと悪いこと、どちらをした方がいいのでしょうか」
「どちらもしてはいかん」
「ではもしも、あなたが安息日に穴に落ちて、そこに人が通りかかって助けてくれようとした時にも、あなたは『今日は安息日だから、自分を助けてはいけない』と言って、一晩穴の中で我慢しますか」
「そんなのは詭弁だ!」
「詭弁か偽善か、どちらがどうなのでしょうねえ。あなたと私と。安息日は命を救うためにあるのであって、滅ぼすためではないと思うのですが、いかがでしょうか?」
イェースズはニッコリ微笑んで見せた、あとは律法学者を無視して手が動かなくなったという男に目を閉じさせた。そして眉間に手をかざすと、男はすぐに霊動が出た。イェースズの霊査によって、この男に斧で両方の前足を切断された猫の霊による怨みの霊障だと判明した。
しかも、さらに過去世をさかのぼると、猫に転生させられた人間の霊だった。
イェースズの手のひらからの霊流で憑いていた猫の霊は浄化されて人間に戻り、サトしによって離脱して幽界に帰った。
目を開けた男は、あたりを見た。会堂に集まっていた人々は、丸く人垣を作っている。その衆人監視の中で奇跡は起きた。男は腕が動く動くと大騒ぎなのだ。
「さあ、もうこれからは、あんまり残酷なことはしないほうがいいですよ。動物霊とて侮ってはいけません。今ここであなたが改心しないと、あなたの曇った魂と波調の合う霊がまたやってきて、もっと悪いことになりますよ」
「はい、ありがとうございます」
男は涙を流して立ち上がった。その妻である夫人は、もう泣きじゃくっている。そしてそれを人垣を作って見ていた人の間からは、感嘆の声とため息が漏れていた。ところが先ほどの律法学者だけは、居丈高だ。
「安息日だというのに、とうとうやったな」
その声は、しんとした会堂の中に響いていた。
「ヘロデ王の側近にも通告して、おまえを逮捕してやる」
イェースズはまた、学者を見た。
「天におられる私たちの父である神には、安息日なんてありませんよ。七日間ずっと、そして丸一日中休みなくお働きになっています。もし神様が本当に休まれたら、人間の世界には無秩序になって崩壊してしまうんじゃないですか。この神様は、調和の神様ですからね」
「今、父である神とか言ったな」
「そうですよ。我われはみんな神の子なんですから、神様は天のお父様です。そして、一切の森羅万象の運営を司っておられますからね、その神様が休まれるということは自然の運行が止まってしまうということじゃないですか。安息日だからといって、太陽が休みますか? 神様が天地を創造されて、七日目に休まれたというのはもっと深い意味があるんです。神様の一日は、我われの一日とは違うんです」
「今度は神の子か。自分が神の子だというのか。こんな神への冒涜は、今までに聞いたことがない」
「はい、私は神の子ですよ。人類は、一人残らずみんな神の子です。あなたも神の子ですよ。そして人に限らずあらゆる生きとし生けるもの、すべてが神の子なんじゃあないですか? この世のすべてのものは、神様によって創造されたのですから。だから我われの先祖をずっとずっとたぐっていけば、最終的には誰に行き当たりますか?」
「あ、アダムだろう」
「そうですか。そのアダムには人間の父と母はいましたか? いないとすれば、アダムは天から降ってきたのですか? 地からわいてきたのですか? 猿から生まれたんですか?」
「アダムは神に創られたに決まっているではないか」
「そうでしょう。親は神様ですよね。そのアダムの子孫の我われも、みんな神の子ということにはなりませんか? 肉体は親から生まれてきますが、霊魂は神様がご自分の霊質をひきちぎって一人一人に入れてくださっているのです」
イェースズは周りを囲んでいる人々の垣根をさっと見た。
「皆さんもお聞き下さい。皆さんの額の奥には、神様が下さった霊魂が入っているんですね。私は入っていないという人、いますか? いませんね」
人々はどっと笑った。
「だからみんな神の子なんです。神様のみ意をこの地上に顕現するために降ろされた、いわば光の天使なんです。皆さん、そうなんですよ。あなたがた一人一人が、みんな天使なんですよ」
人々は、少しざわめきだした。
「皆さんは私の力のことをうわさしていますが、このように魂を浄め、邪霊を浄化し、病を癒す力は、本来は皆さんにもあるはずなんです。でも、我と慢心で神から離れ、魂を曇らせてしまったことが、ちょっとばかり邪魔をしているんですね。ランプだって表面がすすで汚れたら、光が鈍くなるでしょう」
人々は、静まりかえった。
「本来、人の霊力は山一つ動かすくらいの力があるんです。でも今は肉体という殻の中に入っているので、なかなかそれができないんです。しかし、その肉体がすべてではないのです。霊こそが主体であると自覚した時に皆さんの本然の霊力は発揮され、神の子の力が甦るんです。なぜなら人は地上における神の代行者なんですね。あらゆる物質を司れと、神様から任されているんです。皆さんの中に、一人とて例外という人はいないんですよ。皆さんがそうなんですよ。いや、私は違う、私はそんなの嫌だって言ったって、だめなんですね。なぜなら、神様はそういった目的で人をお創りになったのですから、嫌だって言っても目的通りしないのなら、そんな人はいらないよということになってしまうではありませんか。ですから、すべての人が神の子なんです。そうなると、神様を愛するってどういうことでしょうか? それは、神様を愛するがゆえに、等しく神の子であるすべての人を愛するってことになりませんか? あなたの隣の人、そして敵である人でさえみんな神の子ですから、神様を愛するというのならそういった人々をも全部愛さなければうそです。本来、神と人とは一体なんですよ」
人々の間から、どっと歓声が上がった。律法学者はもうどうすることもできず、苦虫を噛み潰したような顔でひそかにその場を後にしていた。
その時、イェースズの衣の袖を引いたものがいた。見ると、まだあどけない少女だった。
「ねえ、おじちゃん」
イェースズは苦笑した。
「おじちゃんじゃないよ。お兄ちゃんだよ」
「おひげのおじちゃんだよう。あのねえ、おうちに来てほしいの。お父さんがたいへんなの」
「どうしたんだい」
「とにかく、来て」
そう言われてイェースズは会堂のざわめきをあとにし、少女に案内されるままペトロとヤコブだけをつれて少女の家へと向かった。
その道すがら少女から詳しい事情を聞いたが、それによると少女の父は大酒飲みで、少女の母が一日中働いてお金を持ってきてもすべて酒に費やしてしまい、母娘は食べるものにも窮しているという。父親は一日中酒を飲んでは暴れ、近所の人にも乱暴し、母親がいつもその尻拭いで謝ってまわっているということだ。
「お母さん、いつも泣いてる。お願い、助けて」
少女は歩きながらも、何度もイェースズにそう訴えていた。
家は壁の石灰もはがれかけ、屋根も今にも穴が開きそうなひどいものだった。少女の母は安息日だというのに会堂にも行かず、一人で泣いていた。
「お父さんは?」
窓もなく壁があるだけの洞窟のような狭い家に入るなり、少女は母に尋ねた。母が指さしたのはすぐそばの扉の裏側で暗くなって見えなくなっている所で、暗闇に目が慣れるにつれ、そこに毛布にくるまった父親が飲んだくれて寝ているのが見えてきた。部屋中、酒の臭いが蔓延している。
少女に続いて入ってきたイェースズを見ると、母親はふと顔を上げた。
「あなたが、うわさのカペナウムのイェースズですか?」
「はい。呼ばれてやってきました」
イェースズは優しい表情で少女の母親を見た。
「あなたはどんな病気をも治し、悪霊をも退散させるって聞いてます。そのあなたがちょうどこの町に来ていて、そして今会堂にいると近所の人が教えてくれたので、娘を走らせたのです」
母親は泣きながらそこまで言うと、イェースズの方にいざりよって来た。
「お願いです。救ってください。このままではこの家は滅茶苦茶です」
「分かりました。では、ご主人を起こしてください」
「はい」
母親はその夫の体を揺さぶった。夫は眠ったあととはいえまだ酒が残っているようで、真っ赤な顔で不機嫌そうに起き上がった。そして床に座り、目をこすってからイェースズに気付いてすぐににらみつけてきた。
「何だあ、こいつは」
「あなたの酒飲みを、治してくださるそうよ」
「何だ、またお祓い師か」
イェースズはちらりと、母親を見た。母親は目を伏せて言った。
「今まで律法学者の師にも相談しましたけど、ただ断食をして祈れ、いけにえを捧げろでかたづけられてしまって、それで思い余って霊祓い師に何人もお願いしたんです。でも、結局はお金ばかりとられて、全然効き目はありませんでした」
「そうでしたか」
イェースズは穏やかに、酒飲み男に向かい合って床に座った。男はまだ、イェースズをにらみつけている。
「何だ、てめえ。また祈れとか、酒を飲むなとか説教に来やがったのか」
「今まで、そんなふうに言われてきたののですか」
「ああ、こいつが」
男は、自分の妻を指さした。
「変な拝み屋をつれてくるたびにまじないされて、酒を飲まないという強い意志を持てとか何とかごたごたと、ふん、ばかばかしい」
イェースズは優しくうなずいた。
「お酒、おいしいですか」
「ああ、うまいよ」
「じゃあ、好きなだけお飲みになっていいですよ」
そばで聞いていた男の妻は、少し怪訝な顔をした。話が違うというような顔つきだ。
「ほう、あんたも拝み屋なら、こりゃ話せる神様だ」
「その代わり」
目は笑ってはいたが、イェースズはぴしゃりと言った。
「今から、私の言う通りにして下さい」
「酒を飲んでいいって言うんなら、何でも言う通りにするぜ」
「では、そこでしばらく目を閉じていてください」
「こうかい?」
「全身の力を抜いて」
イェースズは目を閉じた男の眉間に向かっていつものように手をかざし、高次元エネルギーパワーを注入した。パワーはスーッと通って、男の額の奥の霊魂にと集中された。
すぐに男の頭部が小刻みに震えだした。それは、意識的にやろうと思ってもできるような震え方ではなった。しばらくそうしてから、イェースズは問いかけてみた。
「御霊様はこの方に、ご因縁の方ですか?」
「祖父だ」
男は口を開いた。男に憑いていた霊が、男の口を使ってしゃべりだしたのである。
「おじい様がなぜ?」
「酒が飲みたくてしょうがないんだ。だからこいつの体に憑いて、飲んでおった」
「御霊様はいつごろ、そちらに行かれたのですか?」
「四十二年前だ」
死んでから四十二年たっているというのなら、普通はもう霊層界にいる頃だ。この御霊は執着が強く、まだ精霊界から出られずにいるらしい。四十二年という現界の年数をさらりと言えるのも、そのせいだろう。
「いや、しかしのう、その後も一度だけ現界に来たぞ」
「再生したことがあるのですか?」
男の首は、こっくりと前にたれた。四十二年のうちに一度再生してくるとは、あまりない話だ。
「わしゃ、蛇になっちまった。そして息子夫婦を守ってやろうと天井にいたら、その頃まだ子供だったこいつに見つかって殺されちまっただよ」
執着の深さゆえの蛇への転生らしい。霊層界にも行っていないのに、精霊界から直接転生したケースのようだ。そこでイェースズは、
「あなたのお気持ちはよく分かります」
と言ってから、幽界脱出の罪の重さを懇々とサトした。
「そうか。そりゃまずかった。でも、酒が飲みたいんだ」
「今あなたがいるのは、本当の幽界ではありません。幽界誕生から三十年ほど、現界への執着を取るために修行する世界で、いわば待合室のようなところです。そこでごまかしのきかない本当の自分になると、幽界に行くのです。でも御霊様の場合は執着が強いからいつまでもそこをさまよい、行くべき幽界に行かれずにいるのですよ。この世への執着を断たないと、終いには地獄へ落ちていきますよ。苦しいでしょうけれど、執着を一つずつ取るたびに天国に近づいていきます。執着ほど恐ろしい地獄の道はありませんからね。御霊様が幽界でのご修行にお励みになりますことが、いとしいお孫さんであるこの方やそのお嬢さんなど、遺された方々のお家が栄える道が開けるのですよ」
男は首をたれて嗚咽を始めた。しばらくそうしてから、目を閉じたまま顔を上げた。男の口は霊の言葉をまたしゃべりだした。
「分かった、しかしわしにも頼みがある」
「なんでしょう?」
「わしの墓に酒を供えてくれ。二十日間だけでいい」
「分かりました。そうお伝えしておきます」
「酒は土間のかまどの奥の、茶色い瓶の中にある」
それだけ言うと男は両手をゆっくりと高く上げ、さらに上に引っ張られる形となったと思うと急に脱力して、前につんのめった。
イェースズはゆっくりと男の肩を持って、体を起こした。
「あ、何だ、今のは。口が勝手に動いて、勝手にぺらぺらしゃべって」
「あなたに憑いていた霊です。あなたのおじい様でした。あなたがお酒ばかり飲んでいたのは、おじい様があなたに憑かって飲ませていたんですね」
男は妻を見た。すると妻は思い出したように、
「夫の祖父も確かに大酒飲みで、酔っ払って池にはまって死んだって、義父から聞いたことがあります」
「奥さん、では早速二十日間だけ、おじい様のお墓にお酒をお供えしてください。ただお墓の前に置くだけじゃなくて、『おじいさん、どうぞお飲み下さい』と言葉に出して言うことが大切ですよ」
「酒っつったて」
男が口をはさんだ。
「うちには酒はねえぜ。こいつがみんな隠しちまった。だからおいら、隣のおやじの酒をかっぱらって、さっき飲んでいたんだ」
ニッコリと笑って、イェースズは男を見た。
「さっきあなたの口を使って、おじい様の霊が教えて下さいましたよ」
そしてイェースズが男の妻の方を見ると、妻は、
「はい、確かに台所のかまどの奥に、茶色の瓶に入れて隠してあります。この人に見つからないように」
「何イ、そんなところに隠していたのか」
男が立っていってみると、確かに茶色の瓶に入った酒があった。
「こんな所に隠していたなんて」
「あなた、知っていたんでしょう? さっき自分の口で、お酒はここにあるって言ってたじゃない」
「ああ、確かに俺の口が勝手に動いてそう言ってた。でも、本当に俺は知らなかった。知っていたらわざわざ隣のおやじの酒なんかかっぱらうわけねえじゃねえか」
イェースズはそのやり取りを見て、ニコニコ笑っている。
「御霊様はご存じだったんですね。では言われたとおり、ちゃんと二十日間お供えしてください。霊との約束を破ると、もっととんでもないことになりますから。これは脅しでもなんでもなく、本当にそうですから申し上げているんですけど」
「分かった。そうする」
と、男は言ったが、急に不安そうな顔になった。
「また霊に取り憑かれたらどうすればいいんだ」
「自分の魂を浄めて想念を感謝と利他愛の善で満たしていれば、霊は憑かりたくても憑かれませんよ。邪霊は不平不満、人の悪口や陰口、怒りや妬みなど人の悪想念と波調が合ったときに憑かってきますからね。だから、自分を常に高めていればいいんです」
「分かりました」
そう言いながらも男は、手元に残っていたわずかな酒の杯を口に運んだ。その妻があっと言った時には遅かった。もう酒を口に運ぶ習性になってしまっている。妻はぜんぜん効かないというような想念で、横目でチラッとイェースズを見た。
だがその時、男は口に入れた酒をぷーッと吹き出した。
「なんだあ? あんなにうまかった酒が、こんなにまずい。飲みたくもない。やはり、霊の仕業だというのは本当だったんだ」
男は杯を置いて大笑いをした。イェースズもまた笑った。男の妻だけが、笑いながらもそっと涙をぬぐっていた。
イェースズはカペナウムに戻った。するともう連日のようにイェースズの家には人々が押し寄せ、イェースズは食事をとる暇すらない状態になった。季節は静かに春爛漫となり、やがてこの国での三つの大祭である過ぎ越しのみ祭りの季節となった。
大祭ともいえる大きなみ祭りは年に三回あって、春の過ぎ越しのみ祭り、初夏の五旬節、秋の仮庵のみ祭りである。それぞれの地方でも行事はあるが、何といってもメインはエルサレムの神殿であり、ガリラヤを含む全ユダヤの人々がエルサレム目がけて大移動する時期でもある。
「お兄さんは、過ぎ越しのみ祭りにはいかないのかい?」
弟の中で唯一イェースズを兄と呼べるヨシェは、何気なくイェースズに聞いてみた。イェースズが東の国への旅から戻って二度目の春であるが、昨年はちょうどヨハネ教団の中で活動していたので、家で過ごす最初の春なのだ。
「お兄さんがやろうとしていること、まだ僕にはよく分からないけど、やはりこんな田舎じゃなくてエルサレムの方がいいんじゃないか?」
イェースズはそれにはニッコリと微笑んで、
「まだその時期じゃないさ」
とだけ言った。
「時期じゃないって、今出発すればちょうど間に合うよ」
「そういう意味ではなくて、私自身にとっての時期ではないのだよ」
そう言ったイェースズだが、やはり家にいると人々が押し寄せてヨシェや母マリアにも迷惑がかかる。ちょうど多くの人々が過ぎ越しのみ祭りでエルサレムに行ってしまい、ガリラヤの人口が若干減った頃を見計らってイェースズは弟子たちとともに家を出た。
それでも町が無人になることはなく、ほんの少し人が少ないかなというくらいで、どんなに多勢の群集がエルサレムに押し寄せたとしても、そのまま自分の住む村で過ぎ越しを迎える人々の方がはるかに多いのだ。
今度は、イェースズは遠くへ旅に出る様子ではなかった。まず目指したのは、カペナウムから程近い麦畑の中の小高い丘だった。そこはカペナウムの西で、家を出てからまだほんの三十分も歩いていない。
「今回の目的はあの丘だ。あの丘に登ろう」
ペトロが怪訝な顔をした。また旅に行くと考えていた皆は、これでは旅どころかつい近所への散歩にすぎないと思っていると、イェースズは一人でさっさと丘へと登って行き、頂上で弟子たちを待っていた。
丘といっても、湖岸のカペナウムの方から見ると丘のように見えるが、実は湖畔を囲む斜面の上に広がる高原の端とも言っていい。湖を眼下に見おろしているが、反対側は同じ高さに高原がはるか遠くまで広がっている。
ここから見る湖は絶景だった。パノラマのようにその全景が一望できる。東岸も西岸もその向こうの湖を囲む山並みまでもがはっきりと見えた。湖は広く、あのトー・ワタラーの三倍ほどはありそうだ
やがて弟子たちが登ってくると、イェースズはそんな一同を見渡した。
「あなたがたは、よく今まで私とともに歩んでくれたね」
いつもの陽光のごときイェースズの笑顔である。
「それでそろそろまとめて、私の考えや神様についてゆっくりと話がしたいと思うんだ。今まで落ち着いて話す機会もなかったからね」
弟子たちの顔は喜びに満ちていた。だがその中から、イスカリオテのユダが一歩前に出た。
「その前に、私も先生に確認しておきたいといいますか、先生のお気持ちをしかと承っておきたいことがあるんですが」
イェースズはユダが何を聞こうとしているのかすでに分かっていたので、ゆっくりと微笑んでうなずき、
「その話も、この丘の上で追々触れることにしよう」
と言った。ユダはとりあえず納得したようだった。
「しかし先生」
まだ食い下がっているのは、熱心党のシモンだった。
「なぜこんな丘の上で? やはり危険が伴う話なのですか? 万が一にそなえて丘の上なんですか?」
シモンはイェースズの話がどんどん自分に都合がいい方向に行くものと期待している様子がまる見えだった。だが。イェースズはあえて何も言わなかった。
「話しは少し長くなるかもしれない。今日と明日の夜は、この丘の上で野宿だよ」
朝晩はまだ冷え込むが、春とはいっても日中はもはや汗ばむ季節だ。だがこの丘の上は風が吹いて、けっこう涼しかった。
湖と反対側に広がる大地は麦畑で、ところどころに背の低い灌木がある。だが今イェースズたちがいる見晴らしのいい辺りには、数本の背の高い木々に囲まれていた。
イェースズは弟子たちに円陣を組んで草の上に座るように指示した。空は晴れて、白い雲が固まりとなっていくつか浮かんでいた。
この日のイェースズは、いつになくニコニコとしていた。
「あなたがたは皆、私についてきてくれるといった。だから私は、いっしょに歩いて行こうと言ったはずだ」
ガリラヤの風かおる丘で、イェースズの話がいよいよ始まった。
「今日は私が神様から頂いている教えをあなたがたに少しばかり告げたくて、こうしてここに登ってきたんだ」
「その前に」
と、イスカリオテのユダが口をはさんだ。
「私とシモンの質問に答えて頂けますか?」
イェースズは柔和な顔をそのままに、ユダを見た。
「何でしょう?」
聞かずともイェースズにはユダが聞きたいことの内容は分かりすぎるくらいに分かっていたが、あえて知らないふりをした。
「ご存じの通り私とシモンは熱心党として活動してきた。ガリラヤはかつて私と同じ名のユダが蜂起してからずっと、反ローマの民族自決の機運が高まっている。先生はこうして奇跡の業で信奉者を集めておられるけど、その人々とともにローマに対して立ち上がるおつもりはあられるのか」
イェースズは微笑んだまま、黙っていた。
「先生は人を救うといつもおっしゃっているけど、救世主として、ユダヤを救うおつもりがおありだろうか」
イェースズはユダから目をはずし、一同を見回した。
「みんなも、同じことが聞きたいかい?」
誰もそれには答えずに、皆固唾を呑んでいた。しかしここはガリラヤである。ただでさえ「救う」と言う言葉は、ユダヤ民族のローマの圧制からの解放と同義になっている土地柄だ。
イェースズはうなずいた。
「分かった。その質問に答えよう。その前に長くなるけれど、まずは私の話を聞いてほしい。それが終わった時点で、もう一度同じ質問をするならば、答える。それでいいかな?」
ユダもシモンも、じぶしぶという感じではあったが一応うなずいた。
「そこで」
イェースズの口調が変わって十二人全員に呼びかけた。
「信仰でいちばん大切なものは、何だろう」
「祈りです」
と、ペトロが即答した。
「では、祈りって何だろう」
弟子たちはお互いに顔を見合わせてささやきあっていたが、やがて沈黙して立っているイェースズを皆で見あげた。その視線はイェースズ自身による回答を求めていた。
「祈りとは。神様と心を一つにすること。神様との対話だ。そんなことはみんなも昔から聞いているだろう。でも、もっと突き詰めて言うと、対話である以上、人間の方から神様へのああして下さい、こうして下さいという一方的な願かけではないはずだ。そんなものが対話って言えるだろうか。普通祈りと言えば、人間の方から神様に祈ると思うだろう」
弟子たちはうなずいた。
「しかしね、実は神様の方から人間に対する祈りというのもあるんだよ」
初めて聞くことに、弟子たちは首をかしげた。
「人間の祈りよりももっともっと切実な人間に対する祈りが神様にはある」
「それって、何ですか?」
ピリポが、質問をはさんだ。
「それは一人一人違う。神様からピリポへの祈り、エレアザルへの祈り、ヤコブへの祈り、みんな違うんだ。だから、その声なき声を聞く耳を持たないといけない。それなのに、そっちはちっともお聞き申し上げないで、人間自体が果たすべき本当の努力はしない人間ナマケ放題で祈っている」
分かったのか分かっていないのか、とにかく弟子たちはまたうなずいた。
「祈りとは、神様と意を乗り合わせること、波調を合わせることだと私は思う。神様と同じ心になってしまうことだね。だから祈る時は自分と神様との関係なのだから、誰もいない部屋で戸を締め切って祈ればいいんだ。わざと人目につくところで、これ見よがしに祈る必要はない。あの偽善者さんたち、誰とは言わないけれど、某律法学者さんたちが、ああ、いや、こういうことを言ってはいけないね。いや、言ってしまったけど」
弟子たちは、どっと笑った。
「まあとにかく、偽善者さんたちのように、ほら、私は祈ってますと人々に見せて信仰者らしく思われたがる心は、持たないほうがいいんじゃないかね? どう思う?」
それぞれにうなずいた。
「祈りの言葉は、簡単でいいんだ。くどくど言う必要はない。神様は人間が何を祈ろうとしているのか、祈る前からもうご存じなのだからね。ただ、それを祈りという形に表すのを待っておられるだけなんだ。だから祈るためのきらびやかな祭服は必要ない。形式だけの儀式も、神様からご覧になればうるさいだけだ。ましてやその祈る人たちが宗門宗派に分かれて争い、さらには祈ることを生存の具としているとなると、それはもう祈りというより逆訴だね」
「先生、それは」
小ユダが顔を上げた。
「ずいぶん危険な発言じゃないですか?」
「危険だよ、危険だとも。今の世は頑なだからね、だからこそ、人の耳のないこんな丘の上に上ってきたんじゃないか」
イェースズはニッコリと笑みを漏らした。
「じゃあ、何と言って祈ればいいんですか?」
エレアザルが目を輝かせて、尋ねた。
「まずは祭司だのレビ人だの律法学者だのという化衣人造位階を脱ぎ捨てて、神様の前に一列揃いにすることだ」
そのときイェースズは、頭がクラッとするのを感じた。何かが自分にぶつかったという衝撃だった。それは光の固まりのようでもあった。遠い昔の忘れかけていた記憶が、見えざる手によって強引に引きずり出された気がした。




