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人間・キリスト  作者: John B.Rabitan
第3章 福音宣教時代
63/146

収税人の家

 ナタナエルの父の家に戻ったイェースズは、翌日は弟子たちとともにもうカナの町をあとにした。

 次の目的地も、もう決まっていた。高原を進んで一度ガリラヤ湖畔に戻り、カペナウムは素通りして東へ行く。そこはヨルダン川が北からガリラヤ湖に流れ込む河口がある。かつてイェースズがヨハネを訪ねてまずは目指したガリラヤ湖の南のヨルダン川の河口はいわば水がガリラヤ湖から川へと流れだす流出口であるのに対し、ここは川の水がガリラヤ湖に注ぎ込む流入口である。

 その東にそこにベツサイダという漁村がある。ここから先はもう、ガリラヤではない。つまり、ガリラヤの最後の町である。

 彼が一行とともにここを訪れたのは、そこにヨハネ教団の幹部だったピリポがいると聞いたからだ。彼とは、イェースズもヨハネ教団解散以来会っていない。

 その村の湖畔にたたずみ、イェースズは既視感を覚えていた。幼児期には決してこのような場所に来たことはないはずだ。するともっと近くの記憶の中に個々の湖畔の風景はあった。

 イェースズはペトロをそばに呼んだ。


「あなたが私を小舟に乗せて家まで運んでくれたのは、この村からでしたね」


 イェースズが東の国からの旅を終えて故国の地を踏んだ時、初めてガリラヤ湖を見たのはこの湖岸だった。そしてそこにいた漁師のシモン、今はペトロと呼ぶこの弟子に初めて会ったのもここだった。


「ここは私と兄のアンドレの故郷でもあるのです」


 それは意外な話だった。アンドレとペトロの家はカペナウムのイェースズの家のすぐそばだが、カペナウムの生まれではなかったのだ。道理で、イェースズが幼少時のカペナウムには今のペトロとなっているべき少年はいなかったはずだ。


 ピリポもまた、久しぶりに会うイェースズとその一行を喜んで迎えてくれた。

 ピリポの家はそう裕福ではないようで、宴は派手ではなかったが心がこもっていた。


「今、どうしているのかね」


 と、イェースズはその席上でピリポに上機嫌で尋ねた。


「はい。ギリシャ哲学の勉強に打ち込んでいます。ヨハネ師の教えが聞けなくなってから、なんか心が空虚になりましてね。それを埋めようと思って」


「哲学もいいね。でも、もっと高尚な仕事をしてみないかい?」


「高尚な仕事とは?」


「私といっしょに行こう」


 イェースズはそう言ってから、ぶどう酒を飲み干した。


「哲学とは、わけの分からないことを人知でこねくり回しているようで、私の性分には合わないよ。勉強することはいいことだけど、頭の中を学毒で固めるだけじゃなくて、もっと実践的なことを学ぶといい。神様の教えはもっと簡単で分かりやすく、だけど次元が高いものなんだ」


「はい。私もかねがねそんな気がしていたんです」


「さすがに律法をも、全部勉強したピリポだね」


 イェースズは笑った。ピリポも微笑んで、明るく元気よく、


先生ラビについていきます」


 と言った。ほかの弟子たちも、喜んで喝采を挙げた。


「これでみんなそろいましたね」


 イェースズのとなりに座っていたペトロが、顔をイェースズの胸にもたれかけさせながらイェースズの顔を見上げるようにして言った。


「いや」


 イェースズは首を横に振った。


「因縁の魂は、もっといるよ。輪廻転生の過程で結びついた魂の友どちは、これだけではないという気がするんだ。だから、それを探すために旅は続くよ」


 イェースズは笑って言うと、またぶどう酒を飲み干した。その懐には、首から下げた御頸珠みくびたまが揺れていた。そこにはまだ十二の玉がついたままだった。


 散り散りになっていたヨハネ教団の元幹部を集めるという目的は一応達したので、一行はカペナウムに戻ることにした。

 歩いても一時間くらいしかかからない。湖畔沿いに街道は延び、ようやくカペナウムの町が見えはじめた頃にローマの関所があった。カペナウムは漁村であるだけでなく交易の中心地でもあるから、ローマはその出入り口に旅人や商人たちから通行税を取るための関所を設けていた。


「やれやれ、また税か」


 イェースズの弟のヤコブがつぶやいた。確かにガリラヤの領民たちは領主ヘロデ・アンティパスへの税、ローマへの税と二重の税金地獄に苦しんでいる。エルサレムの神殿に参拝するにも、神殿税が取られる。それに加えて、ちょっと移動するだけで通行税なのだ。

 彼らの憎悪は、ユダヤ人でありながらローマへの税を代行して徴収する収税人に向けられていた。今も関門の下の小屋で、税を取り立てている収税人がいる。ローマの手先であり、ローマのお蔭で裕福な生活をしている彼らは、憎まれても仕方がない存在だった。

 ここの収税人はまだ若者のようだったが、確かに身なりはいい。そんな収税人が、小屋の中でどうも誰かと言い争っている。ところが収税人は弟子たちに囲まれて歩いてくるイェースズの姿を見ると、


「あっ!」


 と、声を上げてた。背後の小屋の中にいて収税人と言い争っていた男も、ちらりとイェースズを見た。


「あなたは、イスラエルの王!」


 その収税人の叫びに、小屋の中の男は明らかに眉を動かした。イェースズは収税人の若者の透き通る瞳を見て、すぐに思い出した。


「ああ、あなたですか。まだそんなことを言っているんですか?」


 苦笑とともにイェースズは言うと、若者は小屋から飛び出してきた。


「ぼくのこと、覚えていらっしゃるのですか?」


「ええ、覚えてますよ。確か、同じカペナウムの人だと言っていましたからね」


「本当ですかあ?」


 若者の顔が輝いた。かつてヨハネ教団にいいた時、ベタニヤでイェースズはこの若者と会っている。ヨハネの洗礼の場でイェースズの話を聞いて感銘を受けたと、しきりにイェースズをイスラエルの王と呼んでたしなめられたあの収税人だ。


「確か、名前はレビ」


「え? 名前までも?」


「あの時私は確かにあなたとは因縁がありそうだと言ったが、本当だったね」


 イェースズの苦笑はもう笑顔に変わっていた。


「本当に、因縁があるんですかあ? じゃあ、今夜はぼくの家に泊まってください。父にお願いしておもてなししますから」


 だが、弟子たちは尻込みをしていたし、ペトロなどは露骨にいやな顔をしていた。


先生ラビ、なんでまた収税人の家なんかに」


 弟のヤコブもまた、イェースズの袖を引いて言った。


「それに、もううちはすぐそこじゃないですか」


「まあ、いいから」


 イェースズは笑ってそう言うと、うまく二人の問い詰めをかわした。


「じゃあ、今からご案内します」


 イェースズたちを先導して歩き出そうとしたレビに向かって、小屋の中の男は、


「ちょっと待て」


 と声をかけた。レビは振り向いた。


「さっきの続きはまた今度だ。あんたの言い分は分かるが、ぼくだって心の隅までローマに売り飛ばしたわけではない」


「て言うなら、なんで収税人なんかやってんだっていうんだ」


「だから、親父の仕事だからしょうがないだろうってことだよ。何度言わせるんだい」


「そんなもの、どうにでもなろうが」


 男は、小屋からさっと出てきた。そしてレビの前ではなく、イェースズの前に立ちふさがった。


「てな話は、確かにまた今度でもいい。それよりもあんた」


 男は、イェースズに向かい合う形で立った。頬がこけ、狐のような面立ちだが、頭が切れそうな男だった。いわば理知的で秀才タイプの男だ。イェースズより幾分年長のようだった。


「あんた、さっき、イスラエルの王とか呼ばれてたな」


 ペトロとエレアザルの兄の方のヤコブが、左右からイェースズを援護する形で男を威嚇して前に出た。イェースズは、その中で苦笑した。


「それは、この方が勝手に言っていることですよ」


 男は、イェースズの顔を覗き込んだ。


「あんた、もしかして今うわさになっているイェースズとかいう祈祷師じゃないか?」


 イェースズはニコニコと微笑んだ。


「祈祷師というのは違いますけど、確かに私はイェースズです」


「ほう」


 男はもう一度、じろじろとイェースズを見た。


「あんたが、どんな病でも癒してしまうと評判のイェースズか。思ったより細い体だな」


 そしてレビに向かって、


「俺もついて行っていいか。俺はこの男に興味がある」


 と言い、返事も聞かずに男は無愛想に一行のあとをついてきた。


 カペナウムにはいわば地の民と呼ばれる人々の住む貧民窟もあるが、それと対照的に丘の上の方、つまり坂を上った当たりは高級住宅街になっていた。レビの家もそんな中の一つで、目を見張るようなギリシャ風の建築だった。同じ町にありながら、石を積んだだけのイェースズの家とは大違いだ。

 まずは、家の中央の広間に通された。そこに、初老の男がいた。家に着いた時点でレビはイェースズたちの来訪を告げるため、召使を一人父のもとへ走らせていた。


「おうおう、ようこそ。私がレビの父、アルパヨです」


 アルパヨと名乗ったその太った男は、相好を崩してイェースズを迎えた。


「まあ、どうぞおかけなさい」


 イェースズたちは床ではなくギリシャ風のいすに座った。


「あなたがたは、ヨハネ師のお弟子だったそうですね」


「はい。そうではなかったものもおりますが」


 イェースズもニコニコしてアルパヨと話した。


「私もヨハネ師とは親しかったのですよ」


 イェースズは内面的な力で、それがうそであることは分かっていた。アルパヨは、ヨハネとはただ一度会って話をしたことがあるだけだ。


「そうですか」


 だがイェースズは、あえて気付かないふりをしていた。その時アルパヨは、「おや?」というような顔をした。イェースズの弟のヤコブとユダを見てからだ。


「あなたがたは、亡くなった大工のヨセフの息子さんたちでは? ヨシェの弟さんだろう」


「え?」


 と顔をあげたヤコブとユダは、しばらく首をかしげてアルパヨを見ていた。


「いやあ、覚えていないのも無理はない。ヨセフが生きていた頃は、あなたがたはまだ小さかったからね。よく遊んであげたんだが」


 パリサイ人などと違って、エッセネ人なら収税人も罪びとなどと呼んで差別したりはしない。だから、父ヨセフが同じ町に住むアルパヨと親しかったとしても不思議ではない。


「あなたがたも、ヨハネ師の弟子になっていたのか。確かに、ヨハネ師とヨセフは親戚だからね」


「いえ、違うんです」


 ヤコブは慌てて言うと、イェースズを示した。


「こちらが私の師、そして兄です」


「兄? 兄って……」


「ヨシェの上の兄です」


「あ、そう? そうですか」


 アルパヨは、今まで以上に相好を崩した。


「いやあ、それはそれは」


 イェースズは、長くこの国を離れていたことを簡単に告げた。


「世の中、広いようで狭いですな。私がヨセフと知り合ったのは、ヨセフが亡くなるすぐ前だったから、あなたはちょうど旅に出ていた時ですな。そういえば、修行の旅に出ている息子がもう一人いると、ヨセフは言ってた。私はエッセネのことはよく分からないが、あなたがたのお母さんもエッセネの中では特別な立場にあったお方だったとか」


 アルパヨがそう言っている時に、召使が入ってきてアルパヨに耳打ちした。


「宴の支度ができたそうです。お隣のお部屋へどうぞ」


 アルパヨは、一同を見渡した。その時、レビと言い争っていて、ここに勝手についてきた男を見て、アルパヨは、


「君がここに来るなんて、珍しいな」


 と少し眉をしかめて言った。

 宴が始まり、酒も出て、いろいろな話題で盛り上がったが、アルパヨはもっぱらヨハネのことばかり話していた。


「それにしてもヤコブもユダも大きくなった」


 アルパヨが上機嫌で、話題を変えた。イェースズもかなり杯を重ねている。


「ヤコブなんか、かわいかったんだ。あんまりかわいいから『おじさんの子になるかい?』って聞いたら、『うん』と答えていたんだよ」


 一同は、どっと笑った。


「そうか、じゃあヤコブは、本当はアルパヨの子だったんだ」


 イェースズも笑いながら冗談で返すと、また笑いの渦となった。そうして話も進み、皆に酒も入ってかなり時間がたってから、玄関の方が騒がしくなった。そして召使がしきりに止めるのを振り払って入ってきたのは、かつてイェースズの家でイェースズに毒づいたあの律法学者だった。今日は一人である。


「あの、何か?」


 アルパヨはびっくりして、ぶどう酒の杯を床に置いた。自分たち収税人を目のかたきにしているパリサイ派の律法学者が家に入ってくるなど、普通なら考えられないことだったからだ。

 その学者は、アルパヨは無視してイェースズのそばに立ち、イェースズを指さした。


「あんたがさっきこの家に入っていくのを、通りがかりで見てしまったんだ。あんたは何かね。あの時は律法がどうのこうのとあんな偉そうなことを言っていたが、そんなあんたが罪びとの家で罪びとと食事をしているではないか」


「あのう、罪びととは誰のことですか」


 イェースズは、あくまで穏やかに尋ねた。


「決まっているじゃないか。こいつら収税人だ」


「なぜ、収税人が罪びとなんです? それに他人ひとの家に足も洗わずに勝手にずかずかと入り込んでくるのはどうなんでしょうか」


「人の家? 収税人ごとき罪びとは、人なんかではないわい」


 いいかげんアルパヨもレビもむっとした顔をしたが、イェースズは優しくそれをなだめてから、また学者の方を見上げた。


「すべての人は、神の子だと思いますよ。神の子を人ではないなどという理屈を言う人のお口から神様のことを語ってほしくないのですが」


 イェースズは顔こそ微笑んではいたが、目は鋭く学者をにらみつけていた。


「なんだと!」


「あのう、それに、若輩者の私が言うのも申し上げにくいことなんですが、少し礼儀をわきまえられたらいかがでしょうか。私どもはここで、楽しく宴会をしていたのですが」


「そんなことはどうでもいい。罪びとと食事をするものこそ、神を語る資格などない!」


「律法に固執して、それに当てはまらないのは罪だというのは違うんじゃないですかって、この間も申し上げたじゃないですか。罪とは、神様と波調がずれていることだと思います。でも、たとえそういう意味での罪びととでも、私はいっしょに食事はしますよ」


「いいか。教えてやろう。罪びとと食事をすること自体が、これも罪なんだ」


「そうですか? 健康な人に医者はいらないでしょう? 医者を必要とするのは、病人ではないですか。だから、医者は病人のところに行かないと、医者としての仕事ができないではありませんか。私も同じように、義人とはいえずに罪の状態にある人の所に出向いて、食事も喜んでいっしょにとります、そういう人々をこそ、救わなければならないんです」


 学者は何か言いたそうだったが、言葉が出ずにうなっていた。しばらくしてから、ようやく口を開いた。


「だいたいここにいる多くは、あのヨハネの弟子だったものなのだろう。ヨハネは断食していたのではないのか? それくらいだったら、私も知っている。それなのにおまえたちはこんなに贅沢な飲み食いをして。イェースズ! その真っ赤な顔はなんだ! この大飯食らいの大酒飲みが!」


 そう言う学者の顔こそが、酒も飲んでいないのに怒りと興奮で真っ赤になっていた。だがそれは単なる状況を形容しているのではなく、聖書によれば異教徒に対する罵声の言葉なのだ。


聖書トーラーに、『私は慈しみを喜び、犠牲を喜ばない。いけにえよりもむしろ、神を知ることを喜ぶ』とあるではありませんか。あなたがたは律法、律法とまるで金科玉条のように言いますけれど、律法なんて人知でまとめられた人間の教えじゃあないんですか?」


「何を言うか。律法はれっきとした神の教えではないかッ」


「そうですか? なにしろ律法は、難しすぎてよく分からないんですけどね。それに対して、本当の神様の教えはもっと簡単で、分かりやすいものですよ。そういった神様の教えを人知でこねくりまわして勝手に解釈し、尾びれをつけて、わけの分からないものにしてしまったのがその律法なんじゃないんでしょうか」


「おまえはどこまでも、神を冒涜するのか!」


「そんなあ」


 イェースズは少し笑った。


「神様は絶対ですよ。その置き手ののりも絶対です。でも今の律法はそれに余計なものをつけすぎているって、私は思うんですけど。いいですか? 古い革袋を新しい革でつぎはぎしても、いつかは破れてしまうんですよ。お酒だって新しいいいお酒を飲んでしまったら、もう古いお酒なんて飲みたくないじゃないですか。私が説いているのは、あなたがたのようにパリサイ派がどうのサドカイ派がどうのなどというちっぽけな宗門宗派の枠を超えた、普遍的な根本の大元を説いているんです。だいたい、宗門宗派で分かれて争っているなんて、おかしいと思えいませんか? 宗門宗派の数だけ、神様がおられるのですか?」


「馬鹿な。神は唯一の神、絶対なる神だ」


「そうでしょう。 おひと方の神様に創られた全世界の兄弟が。宗門宗派に分かれて争っているなんて、神様からご覧になれば兄弟げんかを見ている親の気持ちですよ」


 イェースズは話しながらも横になっているからだの脇からそっと、気付かれないように律法学者に向かって手をかざしていた。


「なんだか頭が痛くなってきた。またあらためて説き伏せてやる」


 捨て台詞を残して、学者は出て行った。すでに宴はあの律法学者の乱入のせいで、すっかりしらけてしまっている。ただ、レビだけが目を輝かせて、イェースズを見ていた。

 ところがもう一人、イェースズをじっと見ている目があった。レビと小屋で論争していたあの男だ。同じ部屋にいながらも少し後ろに横になって座り、男は食事には加わっていなかった。だが、鋭い視線は微動だにもせず、じっとイェースズを見据えていた。

 しばらくして、イェースズはアルパヨの家を辞することにした。その出際に、レビがイェースズのそばに走り寄ってひざまずいた。


「先ほどの話を聞いて私は決めました。私もいっしょに連れて行ってください」


「私の弟子になりたいということなのですか?」


「はい」


 イェースズはニッコリと微笑んでいたが、ほかの弟子たちは曇らせた顔を互いに見合っていた。イェースズはレビに立ち上がるよう促し、優しく言った。


「お仕事はどうしますか」


「辞めます」


 と、きっぱりとレビは言った。


「お父様は、お許しになりますかね」


「父にはもうさっき、打ち明けました。賛成してくれました。あなたについていきたい。あなたはイスラエルの王どころか、世界の王だ。王の中の王だ」


 イェースズはまた苦笑した。


「一つ条件があります。私を王、王と言うのをやめていただければ、いっしょに行きましょう。これからは魂の税を納めるべき本当のところについて、いっしょに勉強していきましょう」


「ちょっと待った」


 弟子たちのいちばん後ろから、イェースズの前に人を掻き分けて出たのは、レビと論争していたあの男だった。レビはむっとした顔で、その男をにらんだ。


「また、邪魔するのか。あんたの誘いを断って仕事を続けてきたぼくが、いとも簡単に仕事を辞めるなんて言ったから、おもしろくないんだろう。でもこの方についていくことと、あんたの誘いに乗ることとでは次元が全く違う」


「まあ、落ち着け」


 男は苦笑した、そしてイェースズに向かって言った。


「俺もいっしょに連れてってくれ。いや、下さい」


 男は薄ら笑いを浮かべ、レビを見た。


「おまえとは、とりあえず休戦だ」


 そう言われたレビは、呆気にとられてただ口をあけていた。男がまた、イェースズを見た。


「いいでしょう。いっしょに行きましょう」


 イェースズはもう霊眼を開き、この男のこと、この男との因縁などもすべて見通していたので、あっさりと同行を許した。そして二人に向かって、


「あなたがたの方から私についてきてくれると言ってくれたのは、ありがたいことだ。本当にありがとう」


 イェースズは心の底からの笑みを見せ、大きくうなずいた。


「あ、それから、先生ラビ


 レビは早速イェースズのことを、師と呼んだ。


「言い忘れましたけど、さっき父に先生ラビといっしょに行くことを話したら、今後先生ラビの旅の費用は父が全部持ってくれるそうです」


 ちょうどヤコブとエレアザルの兄弟の父のゼベダイがヨハネ教団の金銭的援助者、スポンサーだったと同じように、自分にはこのアルパヨが同じような立場になってくれるというのである。


「そうですか。いや、それはありがたい」


 イェースズは目を閉じて、祈っていた。神の仕組みをス直に神に感謝し、そしてレビの家の玄関の中に向かって深々と頭を下げた。


「ではユダ。あなたがそのお金を管理してください」


 イェースズの弟のユダがパッとイェースズを見たが、イェースズの視線の先には弟ではなく先ほどの男があった。男もレビも、大きく目を見開いていた。


「ラ、先生ラビ。確かまだ、こいつの名前は言っていなかったのに……いつの間に……」


 レビが驚きの声を上げた。イェースズは、いたずらっぽくニッコリ笑った。男も、しどろもどろで、


「確かに俺は、俺は、ユダです。カリオテの出身(イスカリオテ)でユダといいます。なぜ、俺の名前を……」


 イェースズは笑って答えなかった。ペトロがしゃしゃり出た。


先生ラビのされる奇跡の業を見たら、こんなことくらいでは驚かなくなりますぞ。我われはもう慣れっこだ」


「こら、ペトロ」


 いつになく厳しい口調で、イェースズはペトロの言葉をぴしゃりと制した。


「そのようなことは、言うもんじゃない。奇跡にれてはいけない。狎れるというのが、いちばん恐いことなんだよ」


 厳しい顔になったのはほんの一瞬で、次の瞬間にはイェースズはもういつもの笑顔に戻っていた。


「ところで、先生ラビ


 カリオテの人(イスカリオテ)のユダも、早速イェースズを師と呼んでいた。


先生ラビに、もう一人お会わせしたい人がいるんだ。今、つれてきてもいいですか?」


 イェースズがうなずくと、ユダはすぐに走って言った。

 待っている間、一行はガリラヤ湖畔に出た。イェースズとレビがともに語りながら歩いていたが、ほかの弟子たちはまだ一歩下がってついてくる。イェースズはレビに、


「さっき関所で会った時、ユダとは何を言い争っていたのかね」


 と、聞いた。イェースズもレビに対して、打ち解けた口調で話すようになった。


「実はあの男は私が小さい時に塩の海の南の方から越してきたんですが、いわば私の幼なじみで、昔は私はよくお兄ちゃん、お兄ちゃんと言ってあとをくっついていっていたのですけどね、今では変わってしまった。あの男、今では実は」


 レビがそこまで言った時、ユダがもう一人の男を連れて走ってきた。ユダと同年代、つまりイェースズよりは少し年長の男だ。それでも、若者の域はまだ出ていない。


「あ、あいつ、あの男まで連れてきた」


 レビが驚きの声を上げた。息を切らせながらユダは、もう一人の男をイェースズに紹介した。


「シモンです。幼なじみです」


「シモンです」


 シモンと紹介された男は、ニコリともせずにイェースズに挨拶をした。


「このシモンは先生ラビのうわさを聞くにつけ、一度会ってみたい。できれば弟子になりたいとずっと言っていたんだ」


 話がどうもうそ臭いが、イェースズは不問にして笑顔でシモンを見た。


「ちょっと待ってください」


 レビが、イェースズの前に出た。


「さっき言いかけたことですけど、この二人とも熱心党ゼーロタイなんですよ」


 イェースズの霊眼はすでにそのことを読み取っていたので全く驚かなかったが、ほかの弟子たちはざわめき立っていた。エレアザルの兄のヤコブが、一歩前に出た。


「おい、まさか私たちをまとめて熱心党ゼーロタイに入れようっていう魂胆じゃないでしょうね」


「いえ、決してそんな。いつも会いたいと思っていた人がカペナウムに戻ってきたとユダから聞いて、飛んできたんです」


  熱心党ゼーロタイとは、武力革命でローマの植民地支配を終わらせ、イスラエルの民の民族自決を勝ち取ろうという政治的集団である。


「シモン、あなたもいっしょに言ってくれますか。ただし言っておきますけれど、私は武力でローマに反抗することによるイスラエルの民族独立を願ったりはしていませんよ。私が考えているのは追々お話ししていきますが、全世界に神の国を実現させるために人々を救うことなんです。それでもいいですか?」


 ユダもシモンも何か腹に一物ありそうなうなずき方をした。


「それでレビとユダは言い争っていたのですね」


「そうです。幼なじみのユダなのに自分はさっさと熱心党ゼーロタイに入って、そして私の仕事をいつもなじりに関所に現れていたんです。ローマの手先の仕事はやめろ、熱心党ゼーロタイに入れとうるさくてね」


「それにしても、収税人と熱心党ゼーロタイが幼なじみだなんて、そしてその両方が私のもとに来た。なんと不思議なお仕組みだね」


 イェースズは穏やかに言った。そして高らかに笑った。

 イェースズの弟たちを別にすれば、初めてヨハネ教団には属していなかった弟子がついたことになる。だが、それがただの人ではなかったのだ。それについてひそひそと何かを言い合っていた弟子たちが、ペトロを先頭にイェースズを取り囲んだ。


先生ラビ。どういうご料簡です? 収税人を弟子にしただけでも信じられないのに、今度は熱心党ゼーロタイ。その犬猿の仲を一つ屋根の下に住まわせるんですか。それに熱心党ゼーロタイが加わったとなると、完全にローマを敵に回すことになりますよ。」


「まあ、落ち着いて」


 イェースズは今度は優しくペトロをたしなめた。


「この仲間は、過去世においてもきっといっしょに活動していた仲間なんだよ。深い因縁があるんだよ。その因縁の糸を手繰り寄せて、今生でもこうして吹き寄せられてくるんだ。今はいろんな立場になっていてもだね、たとえ収税人になっていても熱心党ゼーロタイになっていたとしても、魂はみんな因縁の魂なんだ。だから、神様は私のもとへ吹き集められる。今ここにいるだけじゃない。これからもまだ、因縁の魂が吹き寄せられてくるよ。宿縁の絆で結ばれた友どちは、やがて必ず一堂に会する。これから来る人は、ガリラヤ人とも限らない」


 弟子たちの上に、さっと風が吹いた。

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