マグダラのマリアと七体の霊
イェースズ一行は、また旅に出た。イェースズと弟のヤコブとユダ、ペトロとアンドレの兄弟、ヤコブとエレアザルの兄弟の総勢七人だ。
すでに雨季の、一年でいちばん寒い時期も過ぎていた。ローマ暦での正月も過ぎてもう一つ年をとったイェースズは、三十路の声がもうすぐ聞こえるという年齢になっていた。
今の彼の風体は赤味がかった金茶色の髪は肩まで伸び、鼻の下にもあごにも豊かな髭を蓄えているが、不思議と清潔感が漂っていた。
透き通る瞳は金属的灰色だった。
今回の旅はある目的があったのでやはり遠くへは行かず、ガリラヤ周辺を巡る旅だった。その目的とはナタナエルとピリポの召命ということにあったが、その前に癒しと説法に明け暮れながら旅を続けた。
イェースズのうわさはガリラヤ全土に広まっているようで、彼の話を聞いているのはその町の人々ばかりではなく、遠くからわざわざ来た人々も混ざっているようだった。
そして、前半生を遠い東の果ての国までの旅で費やしたイェースズは、今もまた旅人になっていた。だが、あくまで故国の中だけをめぐる旅人で、同伴者をぞろぞろとひきつれての旅だ。
そうして数日後、ナタナエルのいるカナへと向かった。カナはイェースズの婚礼が行なわれた町でもあり、そこにはイェースズの妻もいる。婚礼よりも一年たっていないのでまだ別居中だ。
カナでは自分の妻の家ではなく、イェースズは第一の目的であるナタナエルの家を訪れることにしていた。
ナタナエルは彼らがヨハネ教団にいた時に同じ幹部仲間だ。
広々と見渡せる高原の道の向こうに、カナの町が見えてきた。そこまで続く道には、芽を吹き出している草々のつぼみがいくつも足元に見られた。それを見つけるたびにイェースズは子供のようにはしゃぎ、手を差し伸べて愛でるのだったが、決して摘もうとはしなかった。
町の入り口まで、ナタナエルは出迎えていた。事前にイェースズは、自分の来訪を知らせるために末の弟のユダを走らせておいたのである。ユダはイェースズの婚礼の時にナタナエルに会っている。
久々の再会に、一同は手を取り合って喜んだ。ヤコブとエレアザルの兄弟とはイェースズの婚礼の時に会っているナタナエルだが、ペトロとアンドレの兄弟とはヨハネ師の宿営地を離れた時以来である。
そしてイェースズはナタナエルに、弟のヤコブとユダをもあらためて紹介した。婚礼の時は顔を見た程度で、あまり話はしていない。
皆ともにナタナエルの父のトロマイの屋敷に着くと、ナタナエルは、
「さあ、先生、どうぞ足をお洗いください」
と言って、イェースズを家に招き入れた。
晩餐は、羊と子牛の丸焼き、、バターにヨーグルト、パンとぶどう酒という贅沢なもので、再会を喜ぶ話で宴も盛り上がった。
「ところでナタナエル」
少し赤くなり始めた顔で、イェースズはちょうど向かい側で床にひじをついて横になっているナタナエルに声をかけた。
「酔ってしまわないうちに言っておきたいんだが」
「はい。何でしょう」
「私は一人でも多くの人に神様のみ意を伝えたいんだが、あなたもいっしょに来てくれるかい」
ナタナエルは、にこやかにうなずいた。
「もとより、そのつもりです」
これで、旅の人数は一人増え、総勢八人になった。
翌朝は、よく晴れていた。イェースズはやはりこの町に来たのなら、素通りできない場所がある。
この町には、彼の妻がいるのだ。婚礼後一年間は同居が禁じられているとはいえ、面会まで禁じられているわけではないので、イェースズは妻のイェースズの門を叩いた。
ナタナエルの父の家からこの家まで、イェースズは久しぶりに弟子たちを連れないたった一人の外出となった。彼らは、ナタナエルの家に置いてきている。
迎えに出たのは妻マリアの母で、すなわち母マリアの従妹、ヨハネの母エリザベツの妹である。突然の婿殿の来訪に両親は大喜びで、早速食事のもてなしの準備が始まった。ところが、妻マリアはいっこうに姿を見せない。
「マリアは、どうしました?」
思い切ってイェースズは、マリアの母に尋ねてみた。
「ここのところずっと、気分が悪いってふさぎこんでいるのですよ。あなたが来たことも知らせたんですけど、相変わらずの様子で」
申し訳なさそうに、母は言う。
「病気ですか?」
「いえねえ、どこかからだが悪いっていう様子でもないんですのよ、それが。だから余計に心配で」
「でも、どうしても会っておきたい。夏になれば、婚礼から一年ですからね。その後のことなども話しておきたいのですが」
婚礼から一年たって妻をカペナウムの家に迎えたとしても、イェースズは弟子たちとの癒しと説法の旅を続けるつもりでいた。それならばやはり事前に話しておかねばならないと考えたからだ。
だが、イェースズが妻の部屋に行くのは、あらぬ誤解を生じさせることになる。婚礼一年間の同棲禁止期間は、当然夫婦生活も禁じられている。その禁を破って妊娠などしてしまった日には、結婚は解消、子供は私生児ということになる。親たちはそのようなことを心配するに決まっているので、イェースズは無理にでもマリアを食事の場につれてきてもらうことにした。
果たして出てきたマリアは顔色も悪く、うつむいたままで、イェースズにも簡単な挨拶をしただけだった。
ところがイェースズが優しい微笑をマリアに投げかけると、マリアは人が変わったように恐ろしい形相になり、イェースズをにらみつけた。だがイェースズは、自分をにらんでいるのがマリア本人ではないことはすぐに見抜いていた。
とりあえず、羊の肉とパンの午餐をともにしたが、その間マリアはほとんど口をきかなかった。イェースズはマリアの父、そして自分とは親戚でもあるマリアの母とばかり話をする形になった。
イェースズの噂は当然この町にも広がっているということだ。だが世間一般の人ならいざ知らず彼らもエッセネ人であり、さらにはマリアの母はあのヨハネを甥に持ち、亡くなった義兄ザカリアは祭司でもあった。
だから必要以上に特殊な感情をイェースズには持っておらず、あくまでその接する態度は親戚の一人、そして娘婿に対する範囲を出なかった。
食事が終わってからイェースズは、はじめてマリアに話しかけた。
「気分が優れないんだってね」
マリアは、黙ってうなずいた。
「もうすぐ、一年になるね。それから先のことなんだけど」
マリアは心ここにあらずで、瞳は虚空をさまよっている。そのオーラからは、どす黒い波動がイェースズを襲ってきた。
そのうち、マリアは泣き出した。そして、ぼそりと言った。
「私は、私は、罪の女……。マグダラで働いていたし」
イェースズは、ニッコリと微笑んで言った。
「本当の罪というのは、そのようなことではないのですよ」
「でも、世間は……」
確かに世間は、マグダラで働いていた女など色眼鏡の偏見でしか見ない。
マグダラといえばガリラヤ湖西岸のアルベル山のふもとで、湖畔のローマ兵の保養地である。ヘロデ・アンティパスのいるティベリアからも近い。
そこには、ローマ兵相手に商売する歓楽街がある。マグダラの女といえばその歓楽街で働くいわば水商売の女ということになり、さらに一部の女は娼婦でもある。
マグダラの女すべてが娼婦というわけではないのだが、世間の持つイメージはどうしてもそのような負の部分が膨張されてしまう。そこで働く女性といっても賄いの女、掃除の女、給仕の女などもいろいろいるはずだが、世間の目は短絡的だ。
だが、マリアが自分を罪の女と言ったのは、自らを娼婦として告白したことにはならない。娼婦ではないこれら給仕や掃除の女であっても、ユダヤを植民地支配するローマの軍勢に奉仕する保養地の女である。いわば敵に奉仕するということで、収税人がローマの手先として忌み嫌われているように、マグダラの女というだけで罪びとの代名詞にもなっていたのだ。
だから両親がエッセネ人でなかったら、娘をイェースズの嫁にと堂々と言うはずもなかった。しかし、親が気にしていないことを、本人は気にしてしまっている。
「分かった。まあ、お座りなさい」
マリアはそう言われて、イェースズと向かい合う形で床に横すわりに座った。父も母もいる部屋でだった。マリアがこのような陰の想念を持つことも、すべてが操られているとイェースズは見抜いたのだ。
イェースズは、マリアの眉間に向かって手をかざした。最大限の愛情を持って、その救われを祈って配偶者という最大の因縁の魂に霊流を注いだのである。
すぐにマリアの体は、小刻みに震えだした。
イェースズが問いかけると、それはマリアと父の三代前の先祖で、自分の悪業ゆえに幽界で苦しめられていることを訴えてきた。愛と真でイェースズがサトしたことによって霊は改心し、マリアの体から離れていった。だが、マリアの様子は依然変わらず、どす黒い波動もそのままだった。
イェースズはさらに手をかざし続けた。
今度はマリアは激しく首を左右に振り、指で床の上に何やら文字を書き始めた。それはマリアの祖母の霊で、マリアを心配して憑いているとのことだった。イェースズはそれをも優しく説得してマリアから離れてもらった。
だが、マリアの様子はまだ変わらない。
さらに手をかざし続けると、次に出てきたのは犬の霊だった。
そして戦争で死んだ兵士の霊、マリアの父の先祖に殺されたという女の霊、マリアが通りがかりに憑いたという無差別憑依の飢餓で死んだ少年の霊などが次々に浮霊し、イェースズのサトしで改心し、霊流によって浄められて離脱するかあるいは離脱を約束して鎮まっていった。
ところが、そのあとはいつまでもマリアの体は微動だにしなかった。しかし問題が解決いていないことはその蒼白い顔や、どす黒い波動から容易に察せられた。
ようやく、マリアは低いうめき声を発しはじめた。
「うう、やめよ、やめよ」
地獄の底から聞こえてくるような、不気味な声であった。マリア本人は、白目をむいていた。
「させぬぞ。させぬぞ」
イェースズはしばらく黙っていたが、ゆっくりと、
「何をさせないのですか?」
と、尋ねてみた。
「火の神、岩戸に閉じ込めたりしを、我らが目を盗んでそなたを遣わすなど、困るのじゃ。うまくいかなくなるのじゃ」
どうやらこれは大物らしいと、イェースズは思った。
「あなた様は、どなたですか?」
「お前ごときに聞かれても名乗れるものか」
「龍神様ですね。それも赤い龍神様ですね」
突然マリアは絶叫を上げ、床を転げまわって暴れだした。イェースズはそれを押さえたが、額にかざした手は離さなかった。だがすごい力で、一度はイェースズも弾き飛ばされた。そのままマリアは狂った状態で家ら飛び出そうとしたので、マリアの父がそれを抑えた。母はただおびえて、震えながらその状況を見ていた。
「おまえを邪魔するため、おまえの妻となるべきこの女に憑かったのじゃ」
「あなたは、何がしたいのですか」
「この世を、モノと金が支配する世の中にして、その中で権勢を張るのじゃ。誰にも邪魔はさせぬ。火の神は岩戸に押し込めしなり」
イェースズはしばらく黙って、手をかざし続けた。
「熱いぞ。なんじゃ、この火のごとき力は。これは陽の光じゃ。熱い」
マリアは地面を転がって、のた打ち回った。そのうち、こぶしで床をどんどんと叩きはじめた。
だいぶたってから、マリアは目を閉じたままゆっくりと顔を上げた。
「うう、そうであったか、知らなんだ」
イェースズは、何も言っていない。人の目には見えないところで、高次元の神霊が憑依している神か霊かに直接サトしをしたようだ。
「それにしても何とまばゆい。恐いだけが火の神ではなかったのか。しかも、そのような計画があったなどとは……」
マリアはおとなしくなり、うなだれていた。そのうちまた大きな絶叫を上げると、両手を頭上に高く振り上げた。しばらくそれは揺れていたが、急にマリアは全身の力をなくして前につんのめってたおれた。
駆け寄ろうとする両親を制して、イェースズはマリアをゆっくりと抱き起こした。そっと目を開けたマリアは別人のような穏やかな表情で、イェースズを見た。顔は赤味がさし、目も生き生きとしていた。そして、
「ご主人様」
と、ひと言だけ言った。イェースズは微笑んで、ゆっくりとうなずいた。
「こんなことって……。娘に悪霊が憑いていたなんて。しかも、七体も」
へなへなと座りこんだマリアの母は、そう言ってつぶやいた。イェースズは、その母親の方へ首を回し、笑顔を送った。
「もう、大丈夫です。お嬢さん、いえ、私の妻は救われました」
「私の夫が、私を救ってくれたんです」
マリアは立ち上がると、元気になった様子で両親を見た。イェースズも立って、その妻の手をとった。
「夏になったら迎えに来るよ」
イェースズはそれだけを言った。
夕食は、午餐とはうってかわってにぎやかな談笑の場となった。そして夜も更けてから、イェースズはマリアのイェースズを辞した。マリアは一人だけ、門までイェースズを見送った。




