律法学者との問答
その時、人々を割って押し入ってきた三人の男がいた。服装を見れば一目で分かることだが、三人ともパリサイ人の律法学者のようだった。年の頃は、中年にさしかかったくらいだ。
「あんたがイェースズかね。このあたりの町々ですごい噂になっているが、あんたと話がしたいことがあるのだがね」
既成宗教の権化のような彼らは、居丈高にイェースズの前に立ちはだかった。
そのとき、イェースズの頭上の天井のあたりが、みしみしと音がした。土ぼこりが落ちてくる。そしてすぐに天井に穴が開き、夕暮れの淡い光が直接室内に差し込んできた。
やがて音はミシミシから、バリバリという激しいものに変わった。穴はどんどん大きくなっていく。屋根といってもこのあたりの家の屋根には瓦はなく、石造りの家の壁の上に横たえられた棟木の上を葦と浅屑を粘土で固めたもので覆ったものだ。だから、手で崩して穴を開けるのは容易なことだった。
穴がある大きさになると、寝床に寝かされた男が寝台とともにロープで吊り下げられ、イェースズの目の前にゆっくりと下ろされてきた。寝台といってもギリシャやローマのようなものではなく、肩までかかるタルトと呼ばれる毛布が寝具なのだ。皆、これにくるまって床に直接寝る。
普通タルトには四隅には房がついていて、天井から吊り下げられたロープはこの房に結んであった。音を聴いて隣の部屋から駆け込んできたマリアは、腰を抜かさんばかりに金切り声を上げた。
「な、何です、あなたがたは! 人の家を壊して!」
「申し訳ありません」
穴から、一人の若者が顔をのぞかせた。
「うちの親父です。中風で歩けないんです。こちらのイェースズという方に癒して頂けると言う話でしたのでつれてきたんですけど、とにかくものすごい人なので天井から失礼します」
「冗談じゃあありませんわ。そんなことで人の家を壊されたんじゃ、たまりませんよ。ちゃんと順番を待ちなさい」
「お母さん、まあいいじゃないですか」
イェースズはニコニコ笑って、母をたしなめた。
「こうやって天井がはがされていくのを下から見ているのも、はじめて見るんで面白いものですよ」
イェースズはまるで子供のようにはしゃいでいる。
「そんなこと言っても、あなた」
「あのう」
天井の男が、また顔を出す。
「屋根の修理代は、あとで弁償しますから」
「まあ、うちは大工ですから、こんなのはすぐ直せますけど」
マリアは苦笑しながらも、まだ割り切れない表情だった。そんな母を、イェースズは見た。
「順番を待たなければいけないのは確かですけど、天井を破ってまで私のもとに近づきたいっていう強い思いを、私は受け取りたいですね。神様への強い信仰によって、病も癒されるのです」
それを聞いていた律法学者の眉が、ぴくりと動いた。
「あんたは、本当にこのものの病が癒せるのか」
「さあ。だって、癒すのは私ではありませんから。私の力ではない。神様が癒されるんです。私を使って」
イェースズはそれだけ言うと、やっと天井から地面に下ろされた寝床の上の老人のそばに寄って、顔をのぞきこんだ。
「足がおつらいのですか?」
老人は、寝たままうなずいた。
「お気の毒ですね。どなたかお身内で中風で亡くなった方はおいでですか?」
「わしの父も兄も、中風で死んだ」
「そうですか」
イェースズはにっこり微笑んで見せると、真剣な表情になって、寝たままの老人の眉間に上から手をかざした。顔は真剣だが腕には力が入っておらず、まるで細い木の枝のように風が吹くと揺れそうであった。
やはり亡くなった父親の霊が憑依していて、そのための中風だったが、憑依されていること自体にはこの老人の過去世の罪穢も関係しているようだった。
激しい霊動は出なかったのでほかの人にはただ老人は黙って目を閉じてパワーを受けているように見えたが、イェースズの霊眼にはそれらのすべてがお見通しだったのである。
しかしパワーによって霊は浄められて改心し、またこの老人自身の魂も浄まって、過去世の罪穢も浄化されていった。パワーはいまや、老人の全身にみなぎっていた。
「さあ、あなたの罪穢も浄められましたよ。でも救われた、ありがとうございましたではなくて、神様に対して何らかの報恩の行をしなければ、本当の魂の救いにはなりません。自分を救うのはあなた自身ですよ」
イェースズが霊ではなく目を開けた老人本人に優しく語りかけた時、律法学者の眉がますます動いた。
――なんだこの男、頭がおかしいんじゃないのか?
――罪を許すと言ったって、何の権限があってこの男はそのようなことをいうのだ。それは神様だけの権限のはずだ。
――いけにえの動物の血を贖罪所で流すこともせず、またその司式の資格もないこの男がこんなことを言うのは、神への冒涜だ。
その時イェースズは微笑んだまま、さっと律法学者たちを見渡した。
「あなたがたはさっきから、何をお考えですか?」
そう言いながらイェースズは、先ほど読みとった律法学者の想念を、ものの見事にそれらを全部口に出して言った。学者たちは見るみる蒼ざめ、一歩引いて呆然と立っていた。イェースズはだからといってとがめる様子もなく、ニッコリと笑っていた。
「いいですか? お伺いしますけど、『あなたの罪穢は祓い浄められて消えましたよ』と言うのと、『あなたの体は癒されましたよ』と言うのと、どっちが簡単でしょうかねえ」
律法学者たちは答えるすべもなく、ただ黙ってイェースズを見つめていた。イェースズはさらに続けた。
「たぶん皆さんは、口で『罪穢が消えた』と言う方がたやすいと思っているでしょう。結果が目に見えませんからね。でも、違うんですね、これが」
「ち、違うとは、どういうことかね」
やっと一人の学者が、口を開いた。イェースズはまたニッコリ笑った。
「つまりですね、罪が消えたということと、体が癒されるということは同じことなんです。世間一般に病気といわれている現象とか、そのほかのあらゆる不幸現象も、例えそれが邪霊の仕業であったとしてももともとの原因は自分にあるんです。自分の罪穢の結果なのです」
「では、この男は、どんな罪を犯したというのだ」
「さあ、それは分かりません。前世の罪穢である場合も多いですしね」
「そんな前世だの生まれ変わりだの、そんなもの我われは認めない。そんなのはエッセネ人だけの主張だろう。だいいち、聖書のどこにも書いていないではないか」
「これはですね、エッセネ人がどうのこのうのというような、宗門宗派にこだわったちっぽけな問題じゃないんです。認める認めないは皆さんの自由ですけど、私はその事実が厳として実在していることを知っている。だからこそ、お話し申し上げているんです」
イェースズの顔こそさわやかにニコニコ笑っていたが、目は鋭かった。
「神様が人を創られた時は全智全能を振り絞って創られたと、聖書にはそう書いてありますよね」
「ああ、そうだ」
「すると、人は神様の最高芸術品、神宝ということになりますよね」
「ん、ま、まあ、そうだが」
「そんな神様の全智全能によって創られた神の子である人が、不幸になるってこと自体が本来的におかしいと思いませんか? それなのに、現実問題として不幸な人がいるということは、どういうことでしょう? まあ、中には神様がその人の魂を鍛えるために特別にされている場合も無きにしも非ずなので一概には言えませんが、普通に考えれば神様の最高芸術品の人間が不幸であるというのは、『私は神様から勝手に離れています』って書いた看板を首から下げて歩いているのと同じではないかと私は思うのですが、いかがですか? その、神様から勝手に離れた状態というのを、『罪』というのではないのですか? 皆さんはたいへんご立派な学者さんですから、ご存じだと思います。どうか、そのへんをお教え願えませんか」
「どうして、そのように考えるのだ」
「だって、神様から勝手に離れるということは、神様の置き手の法からずれているということでしょう? そうでない限りは、人は放っておいても健康で、平和で、貧しくない、そんなふうになるはずでしょう? 神様の御本願は万象の弥栄えですから、人は放っておいても幸せになるはずだと思うのです。だって、聖書によれば、神様はこの世とすべての動植物と、そして人間を創られたあとにそれをご覧になって『よし』とされたとあるじゃないですか」
「ちょっと待て。その神の掟の法とは、律法のことか? おまえは我われ律法学者に向かって、律法の講義をするつもりなのか」
学者の口調がかなり激しくなった、顔も真っ赤になっている。
「私の言う神の置き手と律法とは、ちょっと違うような気がするんですけど」
「どう違うんだ!」
学者はついに怒鳴った。その質問にまともに答えたら、彼らはますます怒るとイェースズには分かっていた。だから、答えなかった。彼らを怒らせたら、その波動からこの部屋にも彼らの体内にも毒を発生させてしまうからだ。そしてイェースズはわざと話題を変えた。
「ところで先ほどもお尋ねしましたけど、『罪』というのが神様から離れた状態であるというのは間違っていますか? 教えて頂きたいのですけど」
「うん、まあ、ある意味は正しい」
学者は自分が立てられたので、少し落ち着いてわざと居丈高に答えた。
「神から離れる、つまり神の律法を守らないのを『罪』という」
「では、事情があって律法を守れない人は?」
「もちろん罪人だ」
「では、その罪の許しは?」
「分かりきったことを聞くな。神殿でいけにえの動物を買って、その血を贖罪所で流すことだなんて子供でも知っているだろう」
「では、貧しくていけにえの動物を買えない人は?」
「罪は許されない」
「じゃあ、神様って、ずいぶん無慈悲なお方なんですね」
「何ッ!」
学者たちがまた顔に青筋を立てたので、イェースズは笑って、
「まあまあ」
と両手で制した。
「もちろん私は、神様が本当に無慈悲なお方だってわけではないことは知っていますよ。『罪』の状態が不幸を招くというのは、神様が罰してそうするのではないと思うんですけど。神様はかわいい神の子に、ばちなんか当てませんよ。不幸になる人は、自分の意志でそうなることを選んでいるんじゃないですか。自分から勝手に神様から離れて、勝手に不幸になることを勝手に自分で選んでいるんですね。石も重くなればなるほど、水の中にどんどん沈んでいきますよね。でも軽い木片だったら、ひとりでに浮きますよね。あれと同じでしょう? だから誰でも罪をサトって神様にお詫びをし、それなりの償いの行をすれば、神様は許して下さるでしょう。神様の世界は想念の世界、サトリの世界ですからね」
学者たちは何か反論したそうだったが、言葉が見つからずにもごもごしていた。イェースズは続けた。
「人の本質は霊でしょう? ところがひとたびこの世に生まれて肉体という着物を着てしまうと、五官に振り回されて本当の霊的なものが分からなくなってしまうんです。目で見えるもの、手で触れるものだけがすべてになって、それにとらわれてしまうんです。でも、神様は肉体を超越されたお方ですから、神様が罪を許されたら目に見える形で現れるんじゃないでしょうか?」
「目に見える形とは?」
「先ほど私が行った業は、一切の罪を浄化する業です。人の霊は本来、水晶の玉のように透き通ったものだったんですけど、転生再生を繰り返しているうちに神様から離れて、どんどん魂に曇りを積んできてしまったんですね」
これ以上のことは、今話しているアラム語ではうまく説明できないと思ったので、イェースズはそこで言葉をいったん止めた。つまり、魂霊を包み積んだものが「罪」、そして魂のが枯れてしまったのを「枯れ」というのである。だが、律法学者たちだけでなく居合わせた人たちみんなが、静まりかえってイェースズの言葉を聞いていた。
「霊魂は川でいえば川上、肉体は川下です。川上が濁れば、川下の水はどうなりますか?」
「そりゃ、濁るだろう」
学者たちもだんだんばつが悪くなってきたようで、もぞもぞしはじめた。
「そうでしょう。川上の水の濁りが『罪』、川下の水の濁りが『不幸現象』なんですよ。別に川上が濁っているからけしからんと言って、わざわざ川下の水を濁らせに行く人はいないでしょう? 川下は自然に濁るでしょう? これが神様の仕組みの置き手ですよね? 不幸現象によって人々は、消極的に魂の曇りを消して罪を浄めていくんです。病気を含めた不幸現象というのも、罪で曇った人々の魂を浄いものにしてあげようという、神様の愛の現れなんですね。そして私は人々の魂のランプの曇りをぬぐう塩の役割を、神様から仰せつかったんです。その業が先ほどの業で、火と聖霊の洗礼なんです」
「そうか。おまえはヨハネとかいう新興宗教の教祖の弟子だったんだな。おまえはまだ、自分に罪を許す権限があるなどとほざくのか」
「ではお聞きしますけど、贖罪所で動物の血を流した人が急に病気が癒されたとか不幸現象が解消したとかいう話、ありますか?」
学者たちは口をつぐんだが、その中の一人が弱々しく言った。
「病気なんか、医者に治してもらえばいい」
イェースズはまだ、ずっとニコニコしながら話を続けた。
「お医者さんですか。お医者さんって、川下だけに明礬をまいているようなものでしょう? だって、今のお医者さんの中で、病気といわれる現象のうちの八割までもが邪霊による霊障だって分かっている人、いったいどのくらいいるでしょうね」
「そんなのは、おまえがそう信じているだけではないのか。自分が信じていることを、人にも押し付けるな」
「さあ、果たしてそうでしょうか。私はそれらの事実を『信じている』のではなくて『知っている』のですけど。要は、体験ですよ。体験もないのに霊障なんてないって決め付けるのは、どうかと思いますけれど」
「今、八割は霊障と言ったが、ではあとの二割は?」
「はい。体内の毒素のクリーニング現象ですね。それなのに、それをもお医者さんたちは病気だって大騒ぎして、クスリで止めてしまう。すべてが、よくなるための変化なんです。病気も不幸現象も、肉体だけでなくて魂の浄化でもあるんです。神様は人が罪の状態にいることをお望みではありませんから、そういう仕組みをされているんです。神様の愛ですね。それなのに今世の人々は不幸を呪い、病気も医者が治す、クスリが治すという迷信に陥って対処療法ばかりをあてにしています。そうしてますます体を毒化させて、悪想念をつのらせているといえるんじゃないですか? だから、神様は私を遣わされたんです」
「神に遣わされただと? おまえは自分が預言者のつもりか」
学者たちの顔は、再びこわばってきた。
「う~ん、預言者とはちょっと違いますけれど。まあ、人々がこれ以上神様から離れすぎないように歯止めをかけろって言われて、遣わされたってところですかね。だから、有無を言わさずに川上の霊魂を浄めてしまう業を、私は許されたんだと思っています。魂霊の曇りを消極的に不幸現象でアガナうか、火と聖霊の洗礼で霊の曇りを削ぎとってしまうか、どっちが得だと思いますか?」
学者たちは、苦虫を噛み潰したような顔で沈黙していた。
「私が罪を許すんじゃあないんです。罪を許すのは、あくまで神様です。神様のみ力によって、罪穢を浄めていくんです。だから、もし神様が急に私に対してみ力をお貸しくださるのを止められたら、私は何もできません。私は神様のみ力で人々の川上である霊を浄めているんですけど、川上が浄まれば川下も清まるんです。病気も治るし、不幸現象も解消します。でもそれが、本当の目的じゃないんです。私は決して病気治しのまじない師でもないし、霊祓い師でもありません。病気が治るなんてことは、方便なんですね。本当の目的は霊の曇りを祓い浄める、つまり罪の許しと魂の浄化によって人々を救うために私は遣わされたんです」
「それほどまでに自信たっぷりに語るなら、証拠を見せろ」
このひと言で、沈黙していたほかの律法学者も急に勢いづいた。
「そうだ。証拠を見せろ!」
「先ほども申し上げましたが、贖罪所で動物の血を流しても病気は癒されたり不幸現象は解消しないということでしたね。肉体をも救えないのに、魂の救いができるでしょうかねえ」
そのとき、天井の上からまた声がした。
「あのう、お取り込み中のようですけど、うちの親父の方はどうなったんですかあ?」
例の天井を壊した張本人の男だ。イェースズは慈愛に満ちた目で、床の上で寝ている老人に目をやった。先ほどイェースズが、さんざん手のひらからのパワーを注入した老人だ。老人はイェースズと律法学者たちとのやり取りを耳にしながらも、手を合わせて一心に祈り続けていた。
「罪が許されたということと床を取って歩けということが同じことなのだということを、お見せしましょう。本当は見ないで信じるのがいちばんですけれど、見ないと信じない今世の人々の心を神様もよくご存じです」
イェースズは律法学者たちにそう言ったあと、床の老人に向かって優しく、
「どうぞ、もう大丈夫ですから、寝具をたたんでお持ちになってお帰りください」
と言った。そのイェースズの言葉が終わるか終わらないかのうちに老人はすくっと立ち上がると、たたんだ寝具を持って歩き出したのである。そしてそのうち再び足を折って体を崩したが、それは感動のあまりに泣き崩れたからであった。
そしてイェースズの方に向かって何度も何度も涙声で礼を言うと、寝具を肩にかついでしっかりとした足取りで歩いて出ていった。学者たちはもう、ぽかんと口をあけているだけだった。
「この業は私の力ではありませんから、神様がご自分の栄光を現すために奇跡を見せてくださるということもありますが、大事なのは受ける方の想念です。本人の回心ですね。業と想念転換は、車の両輪のようなものです。あの方も、いわばご自分の信仰がご自分を救ったのです」
イェースズがそこまで言った時、律法学者の中でも一番若く年がイェースズに近い人が絶叫して床にひざまずいた。
「ああ、今日はなんというものを見てしまったんだ。常識では考えられない。我われの理解を絶するものだ」
イェースズはその肩に、優しく手を置いた。
「今の世の中で常識となっていることが神様の世界では非常識で、非常識だと決め付けられていることが神様の世界では案外常識だったりするんです。人間のものさしを捨てて、神様のものさしを持つことですね」
そう言いながらもイェースズの手からの霊流が、若い律法学者の体にどんどん流れ込んでいた。その学者は、ますますすすり泣きを続けていた。そばにいた二人の年配の律法学者はあきれた顔をし、そして鬼のような形相でイェースズをにらみつけると、
「おまえの理論は聖書のどこにも書いていない、全くのでたらめだ」
と、言い残して足早にその場を去っていった。
その晩イェースズは弟子たちに、再び旅に出ようかとふと漏らした。




