救いの業
イェースズたち一行は、ガリラヤのあらゆる町を巡った。
ガリラヤ湖北岸のカペナウムの東はベツサイダという町があるだけで、すぐにピリポ・アンティパスの治めるトラコニティスという地方になる。
西へ湖沿いに行くと、マグダラを経てガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスの居城のあるティベリアへたどり着く。ここは湖の西岸である。
湖から離れてまっすぐに西の方へ行くとやがて地中海へ出るが、そこまでが緑豊かなガリラヤなのである。
イェースズは一つの町に着くごとに、その町で救いを求めている人がいると必ず手を差し伸べ、癒しの業を行なった。あとから来たヤコブとエレアザルは、この旅でイェースズの業を初めて目撃することになる。
イェースズがまず目指したのはカペナウムの北の、カペナウムから歩いて二時間ほどの距離にあるコラジンだった。ガリラヤ湖をはるかに見おろす広々とした高原の上の町だ。周りは麦畑なので、視界を遮るものはない。
そこでまずイェースズが救ったのは、全身が赤くはれ上がる皮膚病で苦しんでいた男だった。イェースズは両手の手のひらからのパワーを、男の全身にくまなく浴びせた。特にうつぶせに寝かせ、背中から腰の上あたりの特に時間をかけた。そうしながら、イェースズは優しく言った。
「これは、決して悪い病気ではありませんよ。体の中の毒素が外に出ようとしているんですけどね、特に内臓を通して排泄すると内蔵がやられてしまうような猛毒を皮膚から排泄しようとしているんですよ。だから、猛毒が出きってしまえば終わります。今、私が施している神の光は、一切を浄化します。猛毒も早く溶かし、早く排泄させます。あとは、あなたの想念の持ち方ですね。つらい、苦しい、汚いと不平不満でいれば長引きますけど、猛毒を出させていただいていること、あまつさえ神の光を頂いていることに感謝していれば、すぐに楽になりますよ」
うつ伏せになりながらも、全く初めて聞く新しい理論に、男は呆然としていた。
「つらいからといって、クスリで止めない方がいいですよ。クスリをつければ確かに治るでしょうけど、それは猛毒の排泄作用をとめてしまうことでもったいないことですし、クスリ自体が新たな毒ですから二重の損ですよ」
男は一応うなずいていた。
その男が、仲間を連れてきた。
家に帰ってから急に全身の発疹が消えたというので大騒ぎをしていたら、それを聞きつけた隣の家の女が、夫をぜひその治してくれた人のところに連れて行ってほしいと頼んできたというのである。
連れてこられた男は、来てからずっと上を向いている。
「この人、今朝からずっと鼻血が止まらないって言ってるんですけど」
「そうですか」
イェースズは落ち着いて、にっこりと笑った。そして、ペトロにどこかから桶を借りてくるように言った。
ペトロが桶を持ってくると、イェースズは鼻血の男の顔が桶の上に来るように前かがみにさせた。先ほどの皮膚病の男が、慌てて言った。
「それじゃあ、鼻血はどんどん出てしまうじゃないですか」
「大丈夫ですよ」
イェースズはにっこり笑った。
「鼻血は頭の中の毒が溶けて濁血となって出るわけですから、とてもいいことです。止めないで、どんどん出してしまえばいいんです」
「そんな、体中の血がなくなって死んでしまったらどうするのですか?」
「そんなことありませんから、安心してください。濁毒がなくなりますと、ぴたっと止まりますから」
そういいながらも桶の上に顔を出して鼻血を出している男の後ろから、イェースズはそのうなじに手をかざしていた。血は、桶がいっぱいになるくらいに出て、そしてぴたっと止まった。男は顔を上げ、あたりを見回した。
「ああ、頭がすっきりしましたねえ。いつも頭が重くてボーっとしていたのに」
「よかったですねえ」
イェースズはにっこり微笑んだ。
それからイェースズが会堂で司と話していると、若者である息子をつれた老婦人がうわさを聞いたと言ってやってきた。
「先生、息子をなんとかしてください」
そう言われて若者に目をやっても、外見上はどこも悪いところはなさそうだった。ただ、力なくうつむいて座っている。
「このこの父親は大酒飲みで、とうとう冬の日に飲んだくれて行き倒れになって、それっきりになってしまったんです。でも自分は酒が飲みたくないらしく、酒の瓶に『酒は飲まない』と書いていたくらいなんです。それでもお酒を飲んでしまったというのは、悪霊の仕業でしょうか?」
イェースズは、優しく微笑んで即答した。
「自分で努力もせずに何でも安易に悪霊の仕業にするのはよくないと思いますけれど、ただご主人の場合はご自分もお酒を飲まないようにと努力したのに飲んでしまって、ましてやそれで命が奪われたというのですからねえ。まあ、断定はできませんが、心で飲みたくないと思っても飲んでしまうというのは、やはり心のもっと奥にある霊の問題ではないでしょうか。一切は霊が主で、心は従、体は属しているにすぎませんから」
「では、この子は?」
老婦人は、つれてきた我が子を示した。
「この方は、どうされたんです?」
「主人が亡くなってから私は一所懸命働いて、この子をなんとか一人前になるまで育てたんです。そして、息子は麦畑を持つ地主に雇われて、その畑をほとんど任されるくらいにまでなったのです。でもある日、農夫の頭に言われるままに麦を倉庫に収めていたら、あとでその頭の収穫隠しがばれて、言われた通りにしていただけの息子も同罪でクビになってしまいました」
老夫婦は、そこで一息ついた。イェースズは、うなずきながらも黙って聞いていた。
「それでこの子はしばらくぶらぶらしていたんですけれど、ある日収税人の家の前を通りかかったらドアがパタンと開いて、そして何気なく入ってみるとお金が積んであったのでそれを手にとって見ているうちに、泥棒としてつかまってしまったんです」
老婦人は、そこまで言って泣き出した。当の本人の息子は、無表情のまま座っている。
「先生、なんとか救ってください。どうして我が家には、こうも不幸が重なるのですか?」
「そうですか、それはたいへんでしたね」
イェースズはそれだけ言って、息子の方へ目を向けた。それはああなのだこうなのだと、ぺらぺら言うことはイェースズは決してしなかった。まずは黙って手をかざすのである。今回も息子に、
「では、しばらく目を閉じていてください」
とだけ言った。そしてイェースズは、その眉間に向かって手をかざした。すぐに息子の体は震えだし、幾分前かがみになった。
「御霊様、お話ができますか?」
イェースズが尋ねると同時に、
「許せん! 殺してやる。絶対に殺してやる!」
と、霊は自分が憑いている若者の口を使ってしゃべりだした。
「御霊様はこの方と、どのようなご因縁でいらっしゃいますか?」
すると、若者は目を閉じたまま、火であぶられて苦しんでいるようなしぐさをした。
「焦熱地獄にいらっしゃるのですか?」
若者はうなずいた。
「焼き殺されたのですか?」
また息子はうなずいて、低い声でうなるように話しだした。
「この男、この男の先祖は、地主。わしはそこの農夫だった。しかしある日、収穫隠しの濡れ衣を着せられて、火あぶりになったッ。ううッ、熱い!」
「そうですか。それはおつらかったでしょう。お気の毒に思いますよ」
「憎い。悔しい。だから、この男の父親の命はもらった。しかしそんなことでは、この恨みは消えはせぬ」
「この方が仕事をクビになったのも、泥棒としてつかまったのも、御霊様がされたのですか?」
若者は、こっくりとうなずいた。イェースズは間をおいてから、厳かに言った。
「恨みを晴らしたとて、焦熱地獄から救われると思いますか?」
息子は身動きもしなくなった。そこでイェースズは幽界脱出の罪について、こんこんとサトした。
「分かった。離れる。離れるから、外にいた犬に憑かせてくれ」
「それはできません」
イェースズはきっぱりと言った。
「そうすれば、犬が苦しみますね。私には私の命が大切であるように、犬にとってもその命は大切なんですよ。いいですか、あなたが今焼かれている地獄の業火というのは、あなた自身の怨み、憎しみの想念が物質化して、炎となってあなた自身を焼いているのです。幽界は想念の世界ですから、想念がそのまま現れますよ」
「しかし、この男の俺を苦しめたこの男の先祖はもっと悪いやつだろう? そいつこそ火あぶりにでもなんでもなって苦しむべきではないのか? なぜ、俺が苦しまなければならない?」
「そうですか。悪い人だったんですね。では、その前にこの世で暮らしていた時も、そいつはきっと悪いことをしてあなたを苦しめていたんでしょうね」
「そりゃそうだろう。そうに決まっている」
「では、ちょっとその過去世に行って見てきてください。私は肉体があるのであなたの過去世を見ることはできませんから、見てきてどんなだったか私に教えてください」
「わかった」
霊は、現界的な時間ではすぐに戻ってきた。だが、どうも力がなかった。そして小さな声でポツンと、
「逆だった」
と、言った。
「はい?」
「俺があんなことをしていたのか……。俺がその男を罪に陥れて焼き殺していたんだ……」
例は若者の体を使って、その頭を抱え込んだ。
「そうですか。ではその時に戻って、すべてをやり直してきてごらんなさい」
すぐにまた例は戻ってきた。
「ではあなたが焼き殺されたときに戻ってごらんなさい」
「あれ、焼き殺されなんかしていない。この物の先祖とはずっと仲良く、そして俺は天寿を全うした」
霊の言葉をしゃべる若者の口調が明るくなった。イェースズはにっこりと笑った。
「よかったですね。結局自分を救えるのは、自分しかないのです。ではこの方に障っていたことを全部元に戻してきっぱりと離れましょう」
「ありがとうございます」
そして霊が離脱したことを認めたイェースズは、若者に言った。
「はい、静かに目を開けてください」
目を開けた息子の目は、別人のように明るく輝いていた。
それを見ていた会堂の司は、ただ呆気にとられて口をあけて立っていた。イェースズは立ち上がって司の方へ行くと、その手をとった。
「神理のために、手を取り合いましょう。仲たがいしたら共倒れ、邪霊の思う壺です」
言葉だけではなく、高次元からの霊流がイェースズの手を通って司の魂になだれ込んだ。
コラジンを後にしたイェースズ一行は、方向を変えて南下した。まっすぐに南下するとカペナウムに帰ってしまうので方向を少しだけ右手の西の方へととり、タブハという町で再びガリラヤ湖の湖畔へ出た。
その町の入り口の所で、イェースズは街道にひれ伏している一人の男に気がついた。もうすっかり、秋の気配が漂っている頃だ。
男はそっと顔を上げた。イェースズを取り囲むように歩いていた弟子たちは、思わず一歩下がった。そのただれた顔は、明らかに病人だった。それもただの病人ではなく、本来なら人里離れた山奥に隔離されて、このような街中に来ることは許されない病気だ。体中が腐敗して死に至る不治の病で、後世でいうハンセン病である。
イェースズは、その男に近づこうとした。しかし完全に足を止めている弟子たちの中から、ペトロがイェースズに叫んだ。
「先生、その男に近づいてはいけません」
その病気が伝染病であることを知っている彼らは、イェースズの身を案じたのである。しかしイェースズは振り向くと、微笑みながら言った。
「なあにを心配しているのだね。伝染病なんてものは存在しない。そんなの迷信だよ」
そうして男のそばにしゃがみ、顔をのぞき込んだ。
「お噂を聞いて、山奥を抜け出してお待ちしていました。み意にかなうのなら、どうか私の穢れた体を浄めてください」
やっと聞き取れるような声で、男はぽつんと言った。
「浄めるのは私ではなく、神様なんですよ。神様のみ光を頂いてください」
それだけ言うとイェースズはいつものように男に目を閉じさせ、手のひらからの霊流を男の眉間に向けた。しばらくそうしていたが、別に霊動は出なかった。
だが、さらに時間が経過すると男は勝手にすくっと立ち上がり、自分の体を見下ろしていた。
「歩ける! 治った。 救われた!」
男は目からぽろぽろと涙を流し、イェースズに向かってひざまずいた。感謝の言葉を述べたいようだが、涙でのどが詰まって声が出ずにいるようだった。
「あのう、あまり言いふらさないで下さいね。ただ、会堂に行って、祭司にだけは体をお見せなさい」
この病気は祭司が完治したということを証明してはじめて、患者は再び市民権を得ることができることになっているからだ。男は何度も頭を下げて、立ち去っていった。
歩きながら、イェースズの弟の方のヤコブが、
「あの人は、先生の業でもなんらしゃべったり動いたりしませんでしたから、悪霊が憑いていたというわけではないのですか?」
「いや、そうとは一概に言えない。霊動がなくても霊障はあるんだ。霊動と霊障は違うものなんだよ。霊が憑いているのに霊動が出ない人の方が、実はよっぽど注意した方がいい場合もあるんだ」
周りを歩く弟子たちは、誰もが注意深く師の言葉を聞きながら歩いた。
「そもそも霊が憑くっていうことは、前世で何か怨まれるようなことをしたということばかりではないんだ。その人の自身の前世や前々世での罪の結果でもある。その人の魂が曇っていれば、邪霊と波調が合って憑いてしまう。逆に、霊に怨まれている人でも、その人が想念転換して明るい波動、感謝の波動を出していれば霊と波調が合わない。そうなると霊も憑けないし、よしんば憑けたとしても何も活動はできないと、こういうことになっている」
「邪霊と波調があうとは、どういうことなのですか?」
と、今度はエレアザルの兄の方のヤコブが聞いた。
「邪霊というのは怨みや憎しみの塊だからね、今生きている我われが同じような怨み、妬み、憎しみ、怒りの想念などを持って人の悪口・陰口を言い、不平不満ばかり言っていると、邪霊と波調が合って、スーッと呼んでしまうんだ。幽界はサトリの世界であるのと同時に、想念の世界でもあるからね。先ほどの病気も、罪による魂の曇りが肉体化したものだ。だから、神の光で魂の曇りを削ぎとってしまえば、体は放っておいても自然によくなる」
同行者たちは皆半信半疑のようで首を傾げてイェースズの話を聞いていた。
やがて、町が近づいた。ところが先ほどの男が言いふらしたのだろう。多くの人々がイェースズたちを待ち受けていた。
「これはまずい」
今、イェースズが町に入ったら、大パニックになりそうだった。青いガリラヤ湖の湖水を左に見ながら、イェースズは、
「あの町は中止だ」
とだけ言った。
せっかくここまで来たので、イェースズは弟子たちを連れたまま一度カペナウムに帰ることにした。歩いて三十分ほどだ。
もうすぐ冬になる。自分がもう一つ年をとって二十六になる日を、十四年ぶりに故郷で迎えようかともイェースズは思った。
また、今回の旅は遠くへではなくガリラヤ内をめぐるにしても、なにしろあまりにも突然出てきてしまったのだ。母への気兼ねもある。
山々や草原の草も、黄色く色づき始めていた。イェースズが我が家の扉をくぐると、母は優しく温かく、包み込むようにイェースズを迎えてくれた。イェースズとその弟たちのためばかりではなく、母にとってはよそ者の弟子たちのためにもすごいご馳走の晩餐を用意してくれた。
ところが、そんな安らぎのひと時も束の間、どこで噂が流れたのか翌日にはもう大勢の人々がイェースズの家の前に押し寄せていた。ほとぼりは冷めていなかったのだ。
しかしイェースズは旅の疲れもどことやら、嫌な顔一つせずに笑顔で、一人一人に癒しの業を施した。
昼ごろになって現れたのは、若いのに頭の禿げた男だった。男にはその妻が介添えとしてついてきた。聞けば、この男は突然耳が聞こえなくなったのだという。
「何でもなかったのが突然というのは、たいてい霊的なものですね」
イェースズはそう言ってから男に目をつぶらせ、いつものように眉間に霊流を放射した。すると浮霊してきたのは、木にかかって修行をしていた霊だということだった。しかも、耳が聞こえないはずの男がイェースズの問いかけには一つ一つうなずいたり正確に答えるのだから、これはもう物質界の業ではなかった。
「御霊様はなぜ、木にかかって修行などしていたのですか?」
「われは人間などの霊にはあらず。龍よ。龍神なり」
耳が不自由だと言語にも障害が出るもので、確かにここに来てから男はほとんどしゃべらなかった。だが、今は霊がしゃべらせているだけに、言葉も明瞭だった。
「あなたは、木龍さんですね」
耳が聞こえないはずの男は、イェースズの言葉にこっくりとうなずいた。
「このもの、我の寄りたる木を、何の断りもなく切り倒したるぞ。許せぬことよ」
木龍という龍神は、耳がないことをイェースズは知っている。だから木龍がかかったら、耳が聞こえなくなるのだ。
「そうですか。分かりました。この方を説得致しますので、どうかお邪魔はやめて鎮まって下さい?」
その言葉に、男はうなだれた。やがてイェースズが静かに目を開けるように言ったが、男はうつむいたままだった。男には聞こえていないらしく、介添えの妻が男の手のひらに文字を書いて、男はやっと顔を上げた。その妻に、イェースズは、
「ご主人のお仕事は?」
と、聞いてみた。
「樵です」
イェースズは大きくうなずいて、木片に文字を書いて男に示した。
「あなたは、霊がかかって修行をしていた木を切りました。あなたの耳が聞こえないのは、そのためです。ですから、この前切った木の近くに若木を植えて、切った木にかかっていた御霊様によくお詫び申し上げ、その若木に移ってもらいなさい。今度から古い大木を切る時は、同じように若木を植えて移ってもらうなど、よくお断りしてから切るようにね」
男はそれを読んで、なんとか口を動かして礼を言おうとした。先ほど流暢にしゃべったのとは裏腹に、ほとんど言葉を発音できずにいた。
だがその男が夕刻に再び来た時は、言われたことをス直に実行したら耳が聞こえるようになったと嬉しそうにぺらぺらしゃべって礼を言った。外ではまだ、癒しの順番を待つ人々が並んでいた。




