【回想】東方の三博士
ヘロデ王の宮殿は王の趣味なのだろうか、壁の装飾、柱に至るまでことごとくヘレニズム建築となっていた。
王は宮殿ばかりでなくエルサレムの町もローマ化しようと、地中海の島々から多くの大理石を運ばせたりしていた。
ヘロデはユダヤの南に隣接したエドムの出身で、ユダヤ王朝ハスモン家の王ヒルカノス二世の側近であったアンティパトロスの子である。
プトレマイオス朝エジプトおよびセレウコス朝シリアの支配下にあったユダヤで反乱を起こしてユダヤ人の自主独立を勝ち取ったハスモン王家ではあったが、アレクサンドラ王の没後に王位継承をめぐって内紛が生じ、それに乗じてローマ共和国のポンペイウス将軍がユダヤに兵を出してこれを占領した。
ヒルカノス二世は王位を剥奪されて民族指導者・大祭司とされたが、その側近のアンティパトロスは親ローマ的であったために優遇され、その次男であるヘロデはガリラヤの領主となったのである。
その後、ポンペイウスがカエサルに敗れ、シリアはローマの属州となったが、その頃ヨハネ・ヒルカノス王の子のアンティゴノスがローマに反旗を翻してハスモン王朝を再興した。
その間、ヘロデはローマに逃れて、ローマでは貴賓として扱われた。
アントニウスと後に皇帝となるオクタビアヌスからユダヤにおける唯一のローマの同盟者と認められ、ユダヤの委託当地が決定されて王の称号が与えられた。
それから、ローマの将軍によってアンティゴノスが滅ぼされてハスモン王家が滅亡すると、ヘロデ王はエルサレムに戻って全ユダヤの支配権を掌握したのである。
こうしてユダヤはシリアのようなローマの属州にはならず、ローマに対する個別の服属王国として存在していた。
ヘロデ王はローマの同盟者という建前でユダヤに君臨していたわけだが、当時ローマ帝国周辺には属州のほかに、このような服属王国も数多く存在していたのである。
そしてかつてのハスモン家の王が大祭司を兼ねていた祭政一致の政治を行っていたのに対し、ヘロデ王の政権は完全に政教が分離されたものであった。
そのヘロデ王は宮殿の王座で、蒼ざめた顔をして座っていた。目の前には三人の異国の僧が額ずいている。
ギリシャ語が堪能なヘロデ王はやはりたどたどしいギリシャ語で話すその僧たちの言葉を聞くうちに、落ち着かず何度もローマ風の倚子のひじかけを指でこすっていた。
僧たちは自分らが聖者ゾロアスターの教えを奉ずる僧侶で、ユーフラテスの東のパルチア王国に住むホルタザール、メルヒオール、アスパールンというものだと名乗った。
まずはそこでヘロデ王の顔は曇った。パルチアといえば、かつてローマに反旗を翻したアンティゴノスが同盟を結んでいた国である。ヘロデがガリラヤから追われてローマへ逃げ込んだ時も、彼を追ったのはパルチアの兵だったのだ。
しかしそれだけでなく、次の僧たちの言葉がヘロデ王の顔を決定的に蒼ざめさせたのである。
「私どもは新しくお生まれになったユダヤ人の王を拝するため、はるばるやって来たのです」
「新しい王?」
新しい王といえば自分の王子のこととなるが、彼に最近になって新しく生まれた子はいない。第一夫人が生んだアンティパトロス三世、マイアムネが生んだ子ですでに父王に反乱を企てて処刑されたアレクサンドロス、アリストプロスをはじめ、ほかにアンティパス、アルケラオス、フィリポスなど多くの女に生ませた息子がいるが、生存している者はいずれもみな成人している。
だいいち、このヘロデ王自身がすでに七十歳近い老人だ。
「そなたたちは、そのような情報をどこから得たのか?」
「印を天に見たのです」
ヘロデの額に青筋が立った。自分の子たちは父の王位の継承をめぐってそれぞれ対立し、ただでさえ険悪なムードになっている。
ましてや、王位を狙うものはたとえ我が子でも許さないというのがヘロデ王の気性だ。事実、上述のアレクサンドロス、アリストプロスなどヘロデの息子たちの何人かは父に反逆して王位を狙ったということで、すでにヘロデ王自身の手によって処刑されている。
自分の子以外にユダヤ人の王が誕生しているとしたら、それは自分の政権を覆す反逆者にほかならない。
これまでに何度も王朝の興亡を目にしてきたヘロデ王だけに、そのあたりには敏感になっている。ローマの同盟者の自分への反逆者となると、それは熱心党などの反ローマ勢力あたりから出てくる可能性がある。
いずれにせよ、ただでさえ猜疑心の深いヘロデ王にとってはこの上なく恐ろしいことだ。
彼は何度となく、隣の座にいる王妃テシアの顔を見た。王妃の一人といった方が正確だが、テシアはすました顔で正面を見て座っていた。
真冬だというのに、ヘロデ王の額には汗がにじんでいた。
「い、いったい、どんな印なのだ」
「東の国で見ましたところ、毎日夕暮れから宵の口にかけて、南の空にとてつもない明るい星が輝くのです。そのまま夜半過ぎには沈んでいくのですが、私どものいる所から見まして、その星が沈む方角がちょうどこのエルサレムになるのです」
「いつごろから見えているのか」
「昨年の暮れごろからです」
昨年の暮れとはローマ暦であり、ユダヤ暦では第九の月の下旬であることを、ローマ通のヘロデ王ならよく知っている。
「いつもは絶対にない星が突然現れ、大いなる光を発しはじめたという次第でございまして」
「それがどうして新しい王の誕生となるのか」
「私どもは、星の動きによって物事の未来を予測する術を持っております。明るい星が現れましたのはうお座と呼ばれる星座で、うお座は世の終わりと油塗られしものを意味します」
この明るい星とは、うお座の中で起こった木星と土星の合と思われる。
「そこで私どもは、エルサレムにユダヤの、あるいは全世界の王ともなるべき人物が誕生したことを知り、拝みに来たわけです。王様にお尋ねすれば何か分かるかもしれないと存じまして、こうしてお伺いさせて頂いた次第でございます」
ヘロデ王は心の狼狽を抑えて、わざと平静さを装ってしばらく何かを考えていた。そして、
「誰かある!」
と、手を打って人を呼んだ。
「祭司たちを連れてこい」
やがて王の前に連れられてきたのは袖に房のついた服を着た祭司二人で、どちらも白い髭をたくわえており、そのうちの一人は頭が禿げていた。
「そなたたち。イスラエルの民を統治する油塗られたものに関する記載が、どこかにないか」
「はい」
即答したのは、頭の禿げた方だった。
「『ミカの書』によりますと、預言者ミカは『ベツレヘムはユダの氏族の中ではいちばん小さいが、イスラエルを治める支配者があなたの所から出るようになる。その出ることは永遠の昔から定められている』と言っております」
ヘロデは三人の僧の方を向いた。
「これが、予がそなたたちに与えることのできる唯一の情報だ。行って探せ。そして見つかったら、直ちに報告してほしい。予も行って拝みたい」
僧たちが退出した後ヘロデは倚子から立ち上がり、部屋の中を何度も行ったりきたりしていた。だから、王妃テシアがそっと退出したことも、彼は気がつかなかった。
僧たちは宮殿を辞する直前、一人の女官に呼び止められた。そして通された所は先ほどの謁見の場よりも狭い部屋で、かがり火が明々と照らされていた。
そこは王妃テシアの私室だった。
僧たちが額ずくと、テシアは人払いをした。そして、いったい何が始まるのかというような不安な顔つきでいる僧たちの前にゆっくり歩み寄った。
鼻が高く、頬あたりがほのかに赤いブロンズの美人である。目も透き通るようなブルーの瞳だった。
「兄弟の皆さん」
と、テシアがギリシャ語ではなく自分たちの言葉で語りかけてきたので、僧たちは三人とも顔を上げた。
「皆さんがパルチアからいらっしゃったと聞いて、私は皆さんが私たちエッセネ兄弟団のゆかりの方たちであることをすぐに察しました」
驚きのあまりに口をぽかんと開けたままで、僧たちは言葉を失ったままでいた。
「王には内緒のことなのですが、私はある家臣を通して、私たちの共同体であるエッセネ兄弟団の一員とならせて頂いております」
「おお、これはなんという巡り合わせだ」
三人の僧のうち、ホルタザールという名の僧がようやく言葉を発した。
「このような所に兄弟団がいるとは……」
「私も驚いています。王の前では平静を装っていましたけれど……。何と言ってもゾロアスターの教えは、私たちエッセネ兄弟団の教えの源流ですから。ところで、今あなた方が探している新しい王は、紛れもなくこのユダヤの地に生まれています。メシアを待望するわれわれエッセネ兄弟団の、ここではナザレ人と呼ばれている集団の中に生まれているはずです」
「やはり。そう思ったからこそ、私どもはここまでやってきたのです」
「新しい王がどこにいるのかは分かりませんが、エルサレム在住の兄弟団の方々ならすぐに探し出せるでしょう。ただ、カルメル山のナザレの家にいたメシアの母候補の一人が男の子を最近出産し、ユダヤの律法に従ってエルサレムに聖別を受けに来ていることなどは分かっています」
「このエルサレムに?」
「そうです」
三人は顔を見合わせ、喜びの表情を見せ合った。
「ベツレヘムではなく、このエルサレムですね」
「はい。私たちが探しますので、あなた方は知らせを待っていて下さい」
「やはり帰途には、王様にご報告した方が……?」
テシアは黙って首を横に振った。
「王には気をつけて下さい。彼は自分の勢力の拡大にしか関心はありません。粗暴で、残忍で、そのような社会的制約も意にないのです。自分の息子たちに対してでさえ、自分の王位を狙っているのではないかと疑心暗鬼の目で見ています。私は妃として迎え入れられてから今に至るまで、一同も王に愛を感じたことはありません」
「やはりそうでしたか。王の『新しい王を自分も拝みたい』という言葉は、真実ではないという気はしておりました」
「新しい王を拝した後は、夜のうちにそっと国許へお帰り下さい」
と、テシアは言った。
そうしてその日の夜、すなわちヨセフたちがガリラヤのカペナウムへ帰るのを一日延ばした日の夜、三人の僧はヨセフたちの泊まっている宿屋を目立たぬ姿で訪ねた。
王妃テシアの寵臣でナザレ人である男がすぐに、エルサレムのエッセネ兄弟団・ナザレ人のまとめ役であるエリフという年老いた尼僧に事の次第を告げた。
エリフはかねてから知り合いのサロメがエルサレムに来ていることは知っていたし、その日の朝にサロメがエリフを訪ねていたから、サロメやそれと同行しているヨセフ一家の居所も知っていた。
こうしてエリフやサロメの手引きで、三人の僧は難なくヨセフとその子のイェースズを見つけたのである。
宿屋の一室で三人の僧は早速に神を拝して感謝の意を述べた後、今度は赤子のイェースズにうやうやしくあいさつをし、手土産である没薬、黄金、乳香を捧げ、テシアの忠告どおりにその夜のうちにパルチアに向かっての帰途に着いた。
何から何まで不思議なことばかり起きるので、マリアの頭はいささか困惑気味になっていた。すべてはあのナザレの家で体験したことから端を発している。あれ以来、老齢の従姉のエリザベツの妊娠と出産、イェースズの誕生と続き、そしてこのエルサレムでは女預言者に賛嘆されたり、見知らぬ異国の僧までもが遠路はるばる拝しに来たりした。
マリアにはイェースズが我が子であって自分の子ではないような気がし、いずれは手の届かない所に行ってしまうのではないかという不安にさえ襲われた。
ただ、あの異次元体験の記憶が彼女に、すべてを受け入れようという決意を促したのであった。
翌日、ヨセフ一行はカペナウムに帰る仕度に慌ただしかった。朝方はのんびりと滞在していたが、昼ごろになってようやく宿をあとにしようと腰を上げ、仕度を始めたのである。
「ガリラヤのヨセフさん。お客さんですぜ」
出発間際でそろそろ勘定を済ませようと思っていた矢先、宿の主人がヨセフにそう告げた。
「客?」
「入り口でお待ちです」
ヨセフが出てみると、みすぼらしいなりの、ほとんど乞食としか思われない奴隷女が一人で立っているだけだった。
「客って?」
「それ」
と、宿の主人は乞食女をあごでしゃくり、そさくさと中へ入ってしまった。
「あんたかね。私を訪ねてきたのは」
「はい」
その時、頭を覆っていたぼろ布から、こぼれんばかりのブルーの色彩を放つ美しい瞳がのぞいた。それと同時に、奥から昨晩より一緒に泊まっている老尼僧のエリフが出てきた。そして乞食女を一目見るなり大いに驚き、女の方に歩み寄って深々と頭を下げた。
「これは、お妃さまではありませんか」
「しッ!」
ヘロデ王の妃テシアは指を口に当て、それからエリフとヨセフに小声で言った。
「大変なことが起ころうとしているんです」
「大変なこと?」
「わけはあと。とにかく、中へ入ってから」
テシアはそれだけ言って、自分から宿の中のヨセフが借りている部屋に入っていった。ヨセフは何がなんだかわけが分からず、ただ呆然としていた。
テシアがヨセフたちに告げた次第はこうであった。
ヘロデはまる一日たっても異国の僧が戻らないのにいらだち、ついに人を遣って探させた。すると、僧たちはすでにらくだに騎って故国への帰途に着いているとの情報を入手した。
「謀りおったな!」
激怒した王は家臣一同を集め、興奮しきった様子で高らかに命を下した。
「エルサレム全域とベツレヘムのダビデ王の血統であるユダ族の、二歳以下の子供をことごとく殺し尽くせ!」
この命令には誰もがたじろいだ。かねてからの王の残虐さに愛想を尽かしていた家臣で、この命令を機に王のもとを逃亡したものもかなりの数にのぼった。
そして王妃テシアさえ王とともにいることに限界を感じ、二度と戻らぬという腹で宮殿を脱出してきたのだという。
まずは乞食のなりで宮殿の庭をふらふら歩いていたら、番兵に見つかってつまみ出された。すべてがテシアの策略通りだった。
「こうしては、いられないわね」
それを聞いたエリフは、すぐに立ち上がった。それから、
「絶対にここから出ないで下さい」
と、ヨセフたちに言い置いて、エリフは宿から出て行った。
程なくして戻ってきたエリフは、小声でヨセフに告げた。
「エルサレムにいる兄弟団の指導者会議で決定しました。あなた方はこれからすぐ、ミツライムに行って下さい。ミツライムはローマ帝国の直轄地で皇帝の私領ですが、ほぼ属州に匹敵する地です。ですから、ヘロデ王の力は及びません」
「え? ミツライムへ? 今から? こんな小さな子供を連れて?」
ヘブライ語でいうミツライムとはすなわちラテン語のアエギュプトゥス、ギリシャ語でいうところのエジプトゥス、つまりエジプトのことである。
「ためらっている暇はありません。さもなくば、イェースズはヘロデ王の手のものに殺されてしまいます」
日はもはや西の山に傾きかけている。
「今から出発です。私たちもともに行きます」
そうしてエリフとサロメもヨセフ一家に同行し、一行は夕暮れのエルサレムをあとに西のエマオへと道をとった。普通エジプトに行く人々は南下してベツレヘムを通るのだが、ベツレヘムがメシア出生の地と預言書に出ていることにヘロデ王が着目していることを一行はテシアから聞いていたので、わざとそこを避けたのである。
一行は夜を徹して歩き、一夜にして地中海沿岸までたどり着いた。イェースズを抱くマリアがろばで、ほかは皆歩きだ。
そしてその夜のうちに、エルサレムでは何千という赤子の命が絶たれた。ヘロデが派遣した兵士は戸籍上子供がいるとなっている家をすべて回り、その家系を調べた。そしてかつてのユダヤ十二支族のうちの現存する二氏族の中でも、ユダ族のものだけがことごとく男児の乳幼児を取り上げられて路上で斬首されたのである。
現存二氏族のうちのもう一つのベンヤミン族の子は惨殺を免れたが、それでも冬の夜の都では満天の星空の下に子供の泣き声、兵士の勇み声、親たちの絶叫が響き、路上にはおびただしい血が流された。
さらには、あくまで我が子をかばおうとして兵士に抵抗し、ともに斬り殺された親も無数にいた。
エルサレムのそのような状況をよそに、ヨセフ一行は昼に睡眠をとって夜だけ闇に紛れて地中海沿いを進んでいった。そして彼らがシナイ半島の付け根にさしかかった頃には、殺戮はエルサレム全域に及んでいた。
マリアは闇の中を歩みながらろばの上でイェースズをしっかりと抱きしめながらも、自分たちの身を案ずるよりもこの我が子一人のために多くの罪なき子供たちの血が流されているであろうことに思いを向け、その事実を深く胸に刻んだ。
そしてさらに気がかりなことは、従姉のエリザベツとその子のヨハネのことであった。