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人間・キリスト  作者: John B.Rabitan
第3章 福音宣教時代
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宣教の旅へ

「えーい、どけ! 俺様を先にしろ」


 部屋の外で怒鳴り声が聞こえた。今来たものが、順番を待っているものたちを押しのけてきたようだ。

 部屋の外は、大騒ぎになっている。そして荒々しくドアが開けられ、怒号の主の中年男が入ってきた。

 身なりのいい太った男だった。そしてイェースズを見るとその前に立ちはばかり、居丈高にイェースズをにらみおろして指さした。


「昨日初めて商用でこの町に来たんだが、ここでおまえのうわさを聞いた。おまえがこの町で今、いちばん力があるという行者ぎょうじゃか?」


 あくまでもイェースズは穏やかに、笑みを浮かべて応対した。


「私は行者などではありませんが」


「嘘をつけ。おまえは悪霊をはらっているというじゃないか」


 事実、ガリラヤでは悪魔祓いの行者も多い。イェースズもそんな中の一人だと、この男は思っているらしい。


「おまえの祭儀の道具はどこだ。全部ぶち壊してやる!」


「そんなものはありませんよ」


 イェースズが言ったとおり、室内には祭儀用具など何もない。今横行している悪魔祓いは道具を使って長時間にわたる儀式を行い、それで悪霊を祓うというものだ。だから、男は道具と言ったようだが、そういうことを言い出すということは、男は悪魔祓いの行者と過去に何らかの接点があったことになる。


「どうせおまえも無知な人々の悪霊への恐怖をあおって、悪霊を祓うなどと脅しとごまかしで金を巻き上げているんだろう。結局は金儲けなんだ。この詐欺師、ペテン師!」


「私は一レプタも一ドラクマももらっていませんよ」


「今どき、そんな行者がいるか!」


「落ち着いてください。私は行者ではないと申し上げていますよ」


 落ち着けと言うイェースズの態度自体が実に落ち着いているので、男の方も少し首をかしげた。

 イェースズの顔は笑みこそ浮かべているが、その目は鋭く男を見据えていた。その目から、イェースズは霊流を男に放射していたのである。そのためか、男の態度もだんだん弱腰になってきた。そこで、イェースズは尋ねてみた。


「何か、行者でひどい目に遭ったのですか?」


 男はゆっくりとうなずきながら、近くの椅子に腰をかけた。


「あったとも。俺の親父は変な行者に引っかかって、何タラントもの金をつぎ込んで信仰していた。変な悪霊が憑いているが自分のとこに来れば救ってやると言われて、親父はほいほいと行ってしまったんだ。そうしたら、なんだかんだって名目をつけられて金を巻き上げられ、ちょっとでも嫌な顔をしたら悪霊のせいだと脅され、生活はますます苦しくなって親父とお袋はけんかばかり、家庭は崩壊していった。金もどんどん底をついて貧のどん底に落ちて、それでいて全く救われやしない。救われないのは修行が足りない、献金が足りないとさらに脅しをかけられ、辞めるといったら、辞めれば地獄へ落ちると言う始末だ」


 イェースズは、ちょっと考えた。


「確かに、ひどい行者はいるようですね」


「何を言ってやがる」


 男はまた怒鳴って立ち上がった。


「おまえもそのうちの一人だろう! 何でもかんでも悪霊のせいにして脅しをかけて、信者の心を完全に操って辞められなくして金を巻き上げる。誰だって霊がついているなんて言われたらいい気はしない、だからついていくけど、結局目的は金儲けだ!」


「あなたが、自分でそう体験したんですか?」


「俺だって、親父が信じているならと思って、最初は信じたさ。俺にも悪霊が憑いてるって言うんだものよ。しかし俺も相当金をつぎ込んだけど、救われやしない。親父はとうとう無一文になって、気が狂って崖から飛び降りて死んじまったよ。だからそれ以来俺は行者のインチキと詐欺やペテンを暴いてやろうと、商用で行った先に行者がいたら首根っこを締め上げてやることにしているんだ。もう俺に首の根つかまれて、五十人以上の行者がインチキを白状したぜ」


 今は問答無用と、イェースズは思った。


「まあ、お座りなさい。とにかく、目を閉じてください」


「何だあ、なんで目なんかつぶんなきゃなんない? おまえも儀式を始める気か?」


「私は儀式など致しません。お金も全く要求しませんから」


「ふん、金をとらんだと? 終わってから悪霊がどうのこうのと脅して金を出させようたって、そうはいかないぞ。そんな話を少しでもしたら、その首をへし折ってやる!」


 そう言いながらも、男は座って目を閉じた。イェースズはさっとその男のひたいの前に、手をかざした。するとすぐに霊動が出はじめた。


「このお方におかかりの御霊様に申し上げます」


 イェースズが語りかけるのと同時に、男は今までとは全く違った弱々しい口調で、


「み、水を、水を下さい」


 と、途切れがちに言った。イェースズがヤコブに目配せをして、水を持ってこさせた。男は目を閉じたまま、その水を一気に飲み干した。


「この方と、何かご因縁のある方ですか?」


「ち、父です」


「ああ、行者に騙されて、崖から飛び降りたというあの」


 男はゆっくりと、首を大きく縦に振った。周りの者にはそう見えただろう。だが実際は、男の父の霊が男の体をそう動かしている。

 だが、イェースズには男と出てきた男の父の霊の姿が重なってはっきりと見えていた。


「どうしてお父様が、息子さんに?」


「私は最初、私を死に追いやった行者というものが憎くて、息子を使ってそいつらに復讐をしてやろうと、それで息子に憑かったのです」


「そうですか。おつらかったでしょう。そのお気持ち、分かりますよ。お気持ちは分かるんですけど、人の肉身にかかったら幽界脱出の罪になって何百倍もの期間を地獄で苦しみますから、そのようなことはとんでもないことなんですよ」


「え? 地獄?」


 しばらく男は、無言でいた。


「この世への執着、恨み、妬みの想念を持ったままですと、そのためにあなたが幽界で余計に苦しむんですよ」


「……………………」


「あなたが行者の門を叩いたというのも、救われたかったからでしょう?」


「そうです。でも、救われなかった」


「唯一の救いは、神様から来ます。神様に祈ってください。神様に波調を合わせてください。怨み、妬みなどの想念は神様の大調和の波調とは正反対のものです。それらを捨て去って、神様の大愛を感じてください。苦しくても執着をとるそのたびに、天の国に一歩ずつ近づいていくんです」


「私は死んでからも、息子にかって行者たちを懲らしめてやろうと思いました。そして、ほとんどの行者が、本当に力などないのにただ芸当を見せて霊を祓ったように見せかけ、お金をだまし取っているだけだと知りました。私もその被害者の一人だったのです。あんなので救われるわけがない。もうやりきれなくて、ますます怒りがわいてきました」


「そうですか。お気持ちはわかりますよ。でもあなたは、ますます苦しくなって、暗い世界へと落ちていったのではありませんか_」


「そう、そうなんです。だから私は必死でした。私が懲らしめた行者の中には本当に霊を祓う行者もいましたが、そんなのはその行者に狐か狸の霊が憑いていて、それが霊を祓っているのです。ああ、しかし、あなたは違う。あなたから発せられる黄金の光が暖かい。まるで故郷の景色のように、私を包む」


「そうですか。ではもっと手っ取り早く天国に行かせていただきましょう。今、天国にいらっしゃる方々と全く同じ想念と心になってしまえば、あなたもた~ちまち天国にとお許しいただけます」


「天国にいらっしゃる方の想念とは?」


「いつもも感謝に満ちて明るく、ス直で優しく、と慢心がなく、心の下座に徹し、誰にでも利他愛で親切で温かく、一切の執着がなく、態度や言葉遣いが丁寧なんですね」


 男は(男の父の霊は)ゆっくりとうなずいていた。


「よく思い出してごらんなさい。あなたは今のあなたとしてこの肉体の世界にうまれてくる前は、どこにいましたか?」


「ん? やはり霊界にいたのか……」


「そうですね。そしてさらにその前にさかのぼると、またこの世で生きていた別の人生があったでしょう?」


「ん~~、あ! あった! 知らなかった。そんな時があったのか」


 男の父の霊は、自分の過去世を思い出したようだ。


「その時の人生はどんな人生でしたか?」


「あ、ああ!」


 父の霊は男の口を使って絶叫した。


「私がやっていたのか! 私がい多くの人を騙して金を巻き上げて、そのうちの多くの人の命をも奪っていた。私が受けた仕打ちは、全部私がやっていたことなのか。それがそっくりそのまま私に返ってきたのか……」


 男は大声で伏して、背中を震わせて泣きわ叫び始めた。その鳴き声は、実際は男の父の霊の泣き声だった。


「申し訳ない! 私はそんなことをしていたのか。その報いで同じ目に遭っていたのだ」


「大丈夫ですよ」


 イェースズは慈愛に満ちた声で囁いた。


「まずはその過去世に戻って、あなたがしたことを天国にいらっしゃる方々の想念で全部やり直していらっしゃい」


 そしてイェースズは霊流を送りながらしばらく待っていた。すると男は目をつぶったままさっと体を起こした。


「楽になりました。ここはすごい、なんときれいな花園なんだ」


「もう天国に行けましたね。もう息子さんからはきっぱりと離れて、さらに上の世界に行かせていただけるよう修行を積みましょうね」


「はい、ありがとうございます。御恩は忘れません」


 そう言って男の父の霊は、男から離脱していった。

 イェースズはまだかざした手はそのままで、目を天井に向けた。霊眼を開くと、屋根の上あたりにまだ別の霊が浮いている。イェースズは叱りつけるような目でその霊に霊流を送ると、浮いていた霊は今まで憑いていた男の体にスーッと戻った。


「こいつはアホだ」


 これが開口一番、今入った霊が男の口を使って言った言葉である。


「こいつ、いろんな霊祓いの行者の所に行きやがったが、俺は入り口でこうしてぬけて屋根の上で待っていて、こいつが出てきたらまた憑いていたんだ。こいつは金だけ取られていい気味だった」


 イェースズは柔和な中にも厳しさを込めた口調で、


「なぜそのようなことをするのですか? この方の前世にお怨みがあるのですか? それとも、ご先祖にですか?」


「両方だ。俺はこの男の父親が前世で将校だった時の部下の兵だ。だが、明日はエジプトへ遠征に出発、いよいよエジプトといくさという時に、俺はエジプトに通じているというあらぬ疑いをかけられて、大勢の前で左肩を突かれて殺されたんだ」


「殺されたとは、誰にです?」


「上司の将校にだ。だまされて、殺されたんだ。しかし、その将校の子孫の中に、その将校が、将校自身が転生してきたんだ。なぜ、そんなやつがぬけぬけと転生が許されて、俺がいまだに苦しみの中にいなければならぬ。うう、許せぬ。憎い。だから、この男の親父を変な宗教に凝らせてだまし、金を巻き上げて命をも奪ってやった。だが、怨みは晴れぬ。その子であるこの男の命をも、奪ってやるつもりだったのだ」


「そうですか。お気の毒なことでしたね。エジプトとの戦いとは、どういう戦いだったのですか?」


「エジプトの総督、プトレマイオスとの戦いよ」


「そんな、もう三百年ほど前のことですね」


 アレキサンダー大王亡き後、その後継者をめぐって各地の総督が小競り合いを続けたが、その中の一人のデメトリウスはエジプト総督のプトレマイオスと今ではユダヤの地になっているガザで一大決戦を繰り広げた。今、目の前にいる男に憑かっている霊は、その時の兵士の霊だという。


「そうだ。三百年だ。三百年もの長い間、俺はじっと復讐の機会を待っていたんだ。ずっとずっと辛抱して、待っていたんだ。この気持ち、分かるか。三百年だぞ。ずっとずっと待っていたんだ。そしてやっとその時なんだ。だから、頼む。邪魔をしないでくれ」


 そう言われて同情もするが、神の置き手は厳しいものだ。


「あなたのお気持ちは分かりますが、それはそれとして、幽界には神様がお定めになった厳とした置き手ののりがあります。そこからは、誰も逃げられませんよ。あなたが生前にこの方のお父さんの前世に殺されたのだとしても、あなた自身がさらに前世で誰かに同じことをしてきていませんでしたか?」


「知らぬ。そのようなことは、覚えておらぬ」


「覚えておいででも覚えておられなくても、原因がないところに結果は生じないのです。殺せば殺される、人を傷つければ傷つけられる、財産を奪えば財産をなくす、これが厳とした幽界の仕組みの置き手です。自分の身に起こったことは、全部自分に原因があるのですよ。そこには、同情は入り込む余地はないのです。非情なようですが、実はその奥には神様の大愛の仕組みがあるのです。それを考えれば、自分がしてきたことの結果なのだと思えば、人を憎んだり、怨んだりできないはずでしょう? 自分がまいた種は自分で刈り取らねばならないというのが、神様の置き手です」


 男は、急に黙ってうなだれていた。


「憎しみを捨て、執着を捨て、神様に心からお詫びをして、おすがりしてごらんなさい。神様はお許しくださいます。必ずあなたは救われますよ。幽界はサトリの世界ですから、スーッと上の世界に上がれて、幸福な人生を送れるような家に再生が許されますよ。なぜなら、あなたも本来は神の子だからなんです。あなたのその魂も、神様から頂いたものなんですよ」


「うう」


 男はまた、うなり声を上げた。そして、腹のそこから出るような低い声で続けた。


「三百年! 三百年越しの怨みだ。そう簡単には捨てられぬ。ましてや最近は、俺が命をとったこの男の父親が、この男に憑かって俺の邪魔をしやがる」


「そのお父さんでしたらもう救われて、この方から離れて幽界にお帰りになりました」


「そうか、じゃあ俺は、これで好き勝手にこの男を操れるわけだ」


「それは違いますよ」


 イェースズの言葉に、厳しさが加わった。


「いつまでもそんなことをしていたら、いつか許されなくなる時がきますよ。あなたが過去世であなたがされたことと同じことをしてきたということを、あなた自身で見てきてごらんなさい」


 そしてイェースズは小声で、


「神様。この方に、この方の過去世を鮮明に見せてあげてください」


と、小声で唱えた。


「本当だ」


 しばらくしてから、霊はぽつんと言った。そして、震えだした。それは目の前の男の体の震えとなってはっきり見えた。


「俺がしてきたことが俺に返ってきたのか……」


 その反応は、男の父の霊の時と同じだった。


「では、あなたもその過去世を全部天国にいらっしゃる方々の想念でやり直してきてごらんなさい」


 実際は長い人生を全部いり直してきているのだから相当な時間がかかっているのだが、霊界には時間というものが存在しないので、現界的にはほんの一瞬で霊は戻ってきた。


「まだ、怨みはありますか?」


「いえ。もう救われました。天国に入れました」


「そうですか。でも、まずこの方に障ってきたことを全部元に戻してからこの方から離れてくださいね」


 そうしてイェースズはまたしばらく無言で、霊流を放射し続けた。男は下を向いて、静かに涙を流していた。

 ほんの少し時間がたってから、イェースズは放射をやめた。霊が浄化の光を浴びてサトリ、離脱したことを認めたからだ。


「静かに目を開けてください」


 ここに来た時とはまるで別人のような穏やかな表情で、男は顔を上げた。そして、


「うそみたいだ。今までずーっと、何年もつらくてたまらなかった左肩の痛みが、きれいに消えている」


 と言って、今度は霊ではなく男自身が涙を流した。


「あなたは本物だ。有り難う、有り難うございます」


 男はイェースズの手をとって何度も頭を下げて礼を言った。そして懐からディドラクマ銀貨を三枚出し、イェースズに渡そうとした。


「多くは払えませんが」


「ですから、金銭は一切受け取らないといったでしょう」


 イェースズは断乎としてそれを受け取らなかった。


「あなたもこれからは正しく神様を信仰し、正しい生活をしてください」


 イェースズはそう言って、男を返した。

 ほかにもまだ押しかけている人はいたが、もう夜も遅くなったので、母マリアが強引に引き取らせた。やっと静かになった家の中で、ペトロが言った。


先生ラビ、お疲れになったでしょう」


 イェースズはにっこりと微笑んだ。


「ありがとう。でもね、この力は使えば使うほど、私自身も元気になっていくのだよ」


 そう言ってまた声を上げてイェースズは明るく大笑いをした。そしてペトロだけでなくアンドレや弟たちに向かって言った。


「これで目に見えない世界が厳として実在し、またこの世に生きている我われの生活にいかに密接にかかわりあっているかがよく分かっただろう」


 イェースズはにこやかに言った。


 翌朝早くから、もうイェースズの家の扉を叩くものがあった。寝ぼけまなこでヨシェが出ると、うわさを聞きつけて押し寄せてきた人々だった。


「こんな朝早くから、勘弁してください。申し訳ありませんが兄は昨日の夜遅くまで皆さんのお相手をしていたのですよ、今はまだ休んでいます」


「ええ? そんなあ。わしらも昨夜はかなりの人だったからあきらめて、一度帰って出直してきたんですぜ」


「でも、とにかくもうちょっとしてから来てくださいませんか?」


「じゃあ、ここで待たせてもらいます」


 座り込みをはじめた人々は、十人ばかりになった。ヨシェは仕方なく扉を閉めて、とりあえず兄の様子を見に行った。

 ところが、イェースズはいなかった。寝床の上はもぬけの殻だ。

 慌ててヨシェはヤコブとユダを起こし、その声でペトロとアンドレも起きてきた。


「なんだって? 先生ラビがいないって?」


 一同は手分けして捜そうと、座り込みをしている人々に気付かれないようにと裏口から外へ出た。だが出てすぐに、手分けする必要がないことを彼らは知った。

 家から少し離れた町を見下ろす小高い斜面の上に、よくはれた青い空を背景にぽつんと白い衣のようなものが見えた。それがイェースズだと、皆すぐに直勘した。そこで一目散に町を出て、坂を皆で駆け上がった。

 イェースズは丘の斜面に腰をおろし、よく見渡せるガリラヤ湖を見ていた。


「兄さん!」


 まず、ヨシェが声をかけた。足元から彼らが昇ってくるのをイェースズはすでに見ていたから、別に驚きもせずに目線を彼らに向けた。斜面には所々に木が思い出したようにあるだけで、大部分が緑の草に覆われているだけだった。


「兄さん、こんな所で何をしているの?」


 ヤコブが、まず問い詰めるように尋ねた。


「祈っていたよ」


「祈っていたって、いつから祈っていたのですか」


 ペトロが息を切らしながら、口を開いた。


「まだ日も昇る前からだ。さっき終わったところだよ」


「何を祈っていたの?」


 ヨシェもまた、肩で息をしていた。


「これから先どうするか、神様にご相談申し上げていた」


 誰でも冗談でなら言いそうなことだが、イェースズが言うと真実味があって、一同は息をのんだ。これから自分がなすべきことも、神に祈り、神の声を聞いて決定しようとしているイェースズの態度に圧倒されたのである。


「祈れば、神様は必ず答えを下さる」


「で、神様は何て?」


 もう一度、ヨシェが聞いた。


「この町には、いない方がいい」


「いないほうがいいって。またどこかへ行ってしまうの?」


 ヨシェが心配そうな顔をしたがイェースズは微笑んで、立ったままの五人に草の上に座るように言った。


「ちょっと旅に出るだけだ。でも、今までのようなそんな遠くには行かないよ。ガリラヤの中を回るだけだ」


 ヨシェは、少しだけ安心した顔になった。


「でも、また人々が押し寄せてますよ」


「それは分かっている。ここからも見える」


 たしかにこの丘の上からはそれほど広くはないカペナウムの町の全貌が一望でき、イェースズの家もはっきりと分かる。そしてそこに人々が押し寄せている様子も、手にとるように分かった。


「この町にも、救われたい人は多いだろう。しかし、私が治療師か祈祷師、行者であるかのように思われるのが、いちばん困るんだ」


 その点に関しては、イェースズには苦い経験がある。


「私には断乎として伝えなければならない神ののりがあるんだよ。この町だけではなくて、ガリラヤ全土に神の教えを伝えたい。だから、旅に出るんだ」


「分かりました」


 ペトロが声を張り上げた。


「私と兄は先生ラビについて行くって決めたんだから、いっしょに行きます。なあ、兄貴も行くだろう?」


 アンドレもうなずいた。イェースズはにっこり笑った。


「いっしょに行ってくれるのか」


「もちろんですとも」


「僕らも行く」


「僕も」


 と、口々に言ったのは、イェースズの弟たち三人だった。


「おもえたちもか」


「うん、兄さんについていく」


「分かった。私に従ってきなさい。ただし、そうするからには、今後は兄さんではなくラビと呼ぶこと。何も偉そうにそう言うわけはなく、神様の世界はたて分けが厳しい世界だから、けじめをつけてほしい。立場には敬意を表してほしい。それから」


 イェースズはヨシェだけを見た。


「おまえは残れ」


「え?」


 ヨシェは、目を見開いた。


「おまえまでいっしょに来てしまったら、お母さんはどうなるんだ。大工の棟梁としての仕事はどうなるんだ」


「でも」


「頼む、残ってくれ。おまえの気持ちは分かるし、有り難いと思う。しかし、その気持ちで十分だ。おまえがお母さんに気兼ねして私に従うのをためらうような男だったら、そんな男はいらない。しかし、おまえは違う。だからこそ戻って、母さんのことを頼む」


「確かにそうだけど……」


「おまえは小さいころ、いじめられっ子に泣かされていた私のために、よく私の身代わりになってくれたよなあ。私がいない間も私の身代わりとしてこの家を守り、お母さんを守り、大工の仕事を守ってくれた。本来なら私が長男としてなすべきことを全部肩代わりしてくれた。だから、これからも頼む」


「うん。分かった。僕はいつでも兄さんの身代わりだから」


 しぶしぶという感じではあったが、ヨシェは一応引き下がった。


「で、先生ラビ


 ヤコブが照れながら、初めて兄をそう呼んだ。


「いつ、出発するの? じゃない、出発するのですか?」


「本当なら今ここで出発したいところだが、今日の夕方までは私はここにいなければならない」


「なぜです?」


 と、ペトロは愚問を発した。彼はまだ、イェースズの本当の力が分かっていないようだ。

 だがイェースズは、とがめもせずに微笑んで、


「夕方になったら分かるよ」


 と、だけ言った。


「それまでは?」


 ペトロに聞かれて、イェースズは町の中の自分の家を顔で示した。


「あんなに人が来ている、みんな救いを求めている。私を頼ってきた人だ。大切にしなければいけない。まずは出発前に、一人でも多くの人を救わせて頂こう」


 そう言ってイェースズは、もう斜面を下りははじめていた。


 湖は斜面に囲まれたその下にある。あのトー・ワタラーのような崖ではなくなだらかな斜面だが、斜面の下と湖までの間のわずかな平らな土地にカペナウムの町はある。斜面の上はずっつ果てしなく緑の高原が広がっている。

 そんなカペナウムの町の我が家でその日一日イェースズは来た人にどんどん手をかざし、そのたびに降る星のごとき奇跡が起きた。

 ある人は霊が離脱し、ある人は体内の毒素が排泄される清浄化現象、一般にいう病気が快癒した。

 そうして夕方になって、イェースズが言っていた意味はこれだったのかとようやくペトロは知った。ゼベダイの子のヤコブとエレアザルの兄弟が、イェースズを訪ねて来たのである。


「父はベタニヤだし、留守の家に兄弟二人でいてもやることもないし、それにどうしても先生ラビに会わなければならないような気がして、やってきました」


 そう言う二人に、ペトロが詰め寄った。


「なんでもう一日早く来なかったんです? すごい奇跡が起こって、それを目の前で見られたのに」


「そんなこと言ったって、昨日着くはずだったのが安息日で足止めだったんだから」


「まあまあ」


 イェースズは二人を制して、旅に出るという心情を語った。


「たまたま今日来て、よかったんですね」


 聡明そうな若いエレアザルは、顔を上気させながら言った。


「本当にそうだね。もし来るのが明日だったら、会えないところだった。でも、たまたま、じゃないよ。世の中にはたまたまなどという偶然のことは一切ないんだ。すべては神様のお仕組みの中で生かされているのが私たちで、ヤコブとエレアザルは今日ここに到着することを神様にお許し頂いたんだよ。感謝しなくちゃね、まことに」


 イェースズが話の腰を折った。

 こうしてヨシェには母とミリアムを託して実家に残し、イェースズとアンドレ・ペトロの兄弟、イェースズの弟のヤコブとユダの兄弟、そしてゼベダイの子のヤコブとエレアザルの兄弟の計七人は、翌朝暗いうちに出発することにした。

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