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人間・キリスト  作者: John B.Rabitan
第3章 福音宣教時代
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悪霊浄化と癒しの奇跡

 イェースズはアンドレとペトロを伴って、自分の家に帰った。急に二人も見知らぬ人を連れてきて泊めると言い出したものだから、さすがに母マリアもいい顔はしなかった。


「うちは狭いのに。せめて前もって言ってくれたら」


「申し訳ないです」


 イェースズはにっこり笑った。だが、母のいうことももっともだった。家は人があふれてしまうという感じだ。それでも、ああ言ったものの母は客人には愛想よく、手料理でもてなした。

 席上、ペトロが、


先生ラビの奥さんは?」


 と聞いてきた。「ラビ」と呼ばれる以上、結婚していて当たり前というのが彼らの感覚だ。


「まだ、ここにはいないよ。一年たっていないからね」


 イェースズのこのひと言で、彼らはイェースズが新婚であることを知った。夜がふけて、イェースズの弟のヤコブとユダが、客人と一つの部屋で遅くまで語っていた。母と妹はもう、早々に寝てしまっている。

 イェースズは別室でヨシェと二人で語り合っていた。話は大工道具のことなど、他愛のないことだった。

 ヤコブとユダはは、アンドレから今日起こったばかりのその母の奇跡の話を聞いた。弟たちもカナでの婚礼での奇跡を知っているので、ペトロの話す奇跡もすんなりと信じた。


「僕らは、どえらい兄貴を持ってしまったのかもしれないぞ」


 ぽつんとつぶやくユダの顔を、ランプの炎が赤く照らした。ヤコブもそれに、相槌を打った


「そう、考えてみたら兄貴について何も知らないんだよな。僕が小さい頃にいなくなって、突然大人になってから帰ってきた」


 アンドレが、顔を上げた。


「確かに、あなたがたのお兄さんは、すごい人かもしれませんよ。その教えを説く言葉は、黄金の光が乗っているかのように魂に沁みてくるんですからね。ところで、あなたは今、お兄さんが小さいときにいなくなって大人になってから帰ってきたと言われましたが」


「僕が八つくらいでしたかね、ある日東の国の高貴な方が来て、兄を連れて行ってしまったんです。それきりでした」


 ペトロが口をはさんだ。


「じゃあ、十五、六年もの間、ラビは、どこに行かれていたんでしょう」


「さあ、詳しくは何も聞かされていないんです」


 ヤコブが申し分けなさそうに言った。

 

 翌日は週の終わりで、安息日だった。イェースズにとってはこの言葉自体が懐かしかったが、今はそんな感情におぼれているわけではない。

 そうして家族は二人の客人とともに、礼拝のために会堂シナゴーグへと出かけた。エッセネのナザレ人専用のそれではなく、ここは一般のユダヤ人のためのものだった。イェースズにとっては、帰省して初めての会堂シナゴーグだった。

 ここには幼い頃の思い出がたくさんあるはずだが、イェースズにはどうしても初めて来る場所のようにしか思えなかった。それでも微かに面影だけは、記憶の中にあった。その面影の会堂シナゴーグがとてつもなく巨大な建物だったが、今目の前にしているそれはこぢんまりとしたものに感じられた。

 会堂シナゴーグは長方形の建物で、その左半分だけが二階建てになっており、天井は左右に傾斜する屋根だった。その屋根の三角形の下、二階の部分には、アーチ状の大きな窓もあった。

 入り口に向かう階段は横向きに上る形についており、石段を登りきって少し歩くと、右側が入り口だ。中に入ると外では二階建てのように見えていた半分の部分も実は二階建てではなくい天井裏まで吹き抜けであり、二階は左右にバルコニー状になっている。そこが女性たちの席だ。

 壁はすべて石造りで、柱は円形という、明らかにギリシャ様式の建築だった。湖のほとりのこの会堂シナゴーグは湖に向かって立っているので、南を向いていることになる。南は、その先にエルサレムがある。

 中はすでに人であふれていた。だが、イェースズが見知っている人は、ほとんどいなかった。それでも、忙しそうにたち歩いている大人の何人かは、なんとなく記憶の中に残っているような気がする。マリアの方からそんな人たちを捕まえて、


「いちばん上の息子です」


 とイェースズを紹介した、その時の人々の反応はさまざまだった。


「おお、おお、懐かしい人が来た」とか、「あんな子供が、もうこんな立派な大人になったのか」とか、「言われなければ誰だか分からなかったよ」など、そんなことを言われるたびにイェースズは頭を下げた。

 まだおぼろげにも記憶にある人はいい。こちらが全く覚えていないような人から懐かしがられるのは、少し妙な気分だった。誰もが少年だったイェースズを見るのと同じ目で、今のイェースズを見ている。

 中には、「おや、ヨシェにこんなお兄さんがいたなんて、存じ上げませんでした」とか、「ヨシェにそっくりだ」とか言う人もずいぶんいた。「顔を見ただけで、ヨシェの家の人だとすぐに分かったよ」という人もいた。

 やがて礼拝が始まり、人々のざわめきはさーっと静まり返った。

 その時ヨシェがイェースズに近づき、耳元でささやいた。


「兄さん、せっかく久しぶりに来たのだから、朗読をさせてもらわない?」


「うん」


 イェースズは何も考えずに、承諾の返事をしていた。


「じゃ、つかさに言ってきます。朗読箇所も聞いてきますから」


 人ごみに消えたヨシェは、間もなく戻ってきた。


「了解、取れましたよ。今日は『イザヤの書』の六十一章の一節から三節までですって」


「分かった」


 普通、朗読は祭司がするもので、一般の人々には許されないものだった。それがすんなり許されたというのは、どうしても神の後押しを感じずにはいられない。

 まず、一般の人は、ヘブライ語が読めない。だが、イェースズはそれが読める。そのことをヨシェは司に告げたので、特例として許されたのだろう。

 やがて、礼拝が始まった。イェースズは表面上は敬虔に参加しながらも、どこか違和感を感じてしまうのを否めなかった。

 彼はもとつ国で、本物の御神霊と邂逅しているのである。だから、神を直接知らない人々の分かったようなふりでの祈りが絵空事に感じてしまう。

 だからといって、そんな人々を見下すような傲慢な想念は、イェースズにはかけらもなかった。むしろイェースズは人々に少しでも真実の神に接してもらいたいと、ひそかに下手で手をかざして霊流を放ち、会堂シナゴーグをパワーで満たしていた。

 朗読の時間が来た。立ち上がって前に進み出たイェースズは、祭司から羊皮紙の巻物を手渡された。そして朗読台に立つと、一つ咳払いをしてからイェースズは読みはじめた。


「イザヤの預言」


 朗々とした声が、静まり返った会衆の頭上を飛来する。


「主である神のみたまは、私の上にある。貧しい人々に福音を述べ伝えるようにと、主が私をお立てくださった。主は私を遣わして、霊的病人を癒し、霊的囚人を解放し、主の恵みと我われの時が始まったことを告げ、すべての悲しむものたちを慰め、エルサレムの悲しむものたちに喜びと賛美の歌声を上げさせるためである。彼らは主の栄光を表すために義人となり、樫木のようにいつも命のあふれたものとなる。神に感謝」


 引き続き、イェースズが説教をする。朗読をしたものがつかさに代わって、その解説をするのが近頃では一般的のようだ。民衆の中には、ヘブライ語が分からないものさえいるからだ。


「兄弟の皆さん」


 イェースズの第一声が、会衆を包み込んだ。


「今日読んだのは、イザヤの預言です。この預言には来るべきメシア、すなわち救世主の来臨を伝えています」


 威厳あるイェースズの声に、一同はますます静まりかえった。


「主は彼の頭上に油を注がれる――つまりメシアのときはもう来てしまったのです。この預言は今、成就しようとしています」


 人々の間に、少しだけざわめきが起こった。


「ただし皆さん、勘違いしないで下さい。主が油を注がれた真の救世主とは、決して今のユダヤをローマから自主独立させ、ユダヤ人の王となる人物ではありません。地上の王ではないんです。それは魂の救済であり、導きのぬしなんです」


 人々は圧倒され、目を細めて聞いていた。その説教の内容よりも、その言霊に乗っているアウル、黄金の霊流のエネルギー・パワーに魂を打たれてしまったようだ。ものすごい波動が、会衆を包んでいる。

 しかし会衆の中には感銘を受けている人々ばかりではなく、敵意の波動をイェースズに送り返してくるものもいた。イェースズはそんな人々の、内面の声もよく聞こえる。


――あいつは、大工のヨシェじゃないのか?


――いや、遠い国に行っている兄がいると、ヨシェはいつも言っていた。


――しかし、今までの律法学者の話とは、ずいぶん違うな。この人は別に祭司でもなんでもないただの人のようだけど、いったいどこで学んで、こんなに権威に満ち溢れたように語れるようになったのだろう。


 そんな想念を読みとりながら、イェースズは自分が生まれ育った場所で教えを説く難しさを実感していた。

 ここには自分の過去があり、自分の昔を知っているものもいる。そんな彼らは、先入観を持ってイェースズの話を聞いてしまう。神理の前に先入観は最大の敵なのにと、イェースズはそこが悲しかった。

 その時、イェースズの背後で声がした。


「ちょっとお待ちなさい」


 厳かに言って、祭壇の椅子の上からこの会堂シナゴーグの司である祭司が立ち上がった。温和そうな顔をしている祭司は、優しくイェースズに言った。


「私はこの 会堂の祭司でヤイロというが、あなたは今この預言が成就されると言いましたな」


 あくまで穏やかな、諭すような口ぶりだ。足が悪いらしく、ゆっくりとイェースズのいる朗読台の方へ近づいてきた。


「そりゃ、危険な思想だ。確かに預言はいつかは成就する。しかしそれが今の時代のことを指した預言だと言って、いたずらに騒ぐのはよくない。人々の心をかき乱すことになる」


 イェースズはその老人の方を振り向いて、丁寧に笑顔で挨拶をした。


「ご忠告、有り難うございます。しかし私は、そんなのんきなことを言っていられない時代だと思うのですが、いかがでしょうか? 神の国は近づいていると思うんです。いや、思うじゃなくて、近づいているんです。神様の御経綸は、日々進展しているのではないでしょうか?」


「なぜ、あなたにそんなことが分かるのかね? 何の証拠があって、そんなことを言うのかね」


 祭司はゆっくりと、イェースズを指差した。


「それとも、何か、あなたがそのメシアだと言いたいのかね」


「私がメシアであるかどうか、そんなことを判断する権利を、誰があなたに与えたのですか? そんな権利は誰にもない。私にもない。そのようなことが決められるのは神様だけだと思うんですが、いかがでしょうか」


 イェースズは、会衆の方へと向き直った。


「皆さん、預言者はその故郷では受け入れられないと書いてあります。エリアもエリシアも、大飢饉の時に遣わされたのは故郷ではなく、シドンのサレブタやシリアのナアマンだったでしょう」


 その時、会衆の中の一角で、絶叫が上がった。周りの人々が、さっと退く。そのわずかにできた空地で、絶叫を上げた男はのたうち回っていた。


「悪魔憑きだ!」


 人々のざわめきも、一気に立ち上った。そして。男から退く人々の輪が、次第に大きくなっていった。男は口から泡を吹き、白目をむきながら全身を痙攣させて転がって暴れまわっている。

 イェースズは急いで人ごみを掻き分け、その男のそばに駆け寄った。


「申し訳ありませんが、この方を後ろから押さえて頂けませんか」


 イェースズが近くにいた人々に叫んだが、誰もがしり込みをしていた。


「早く!」


 イェースズの一喝で、仕方なく一人の若者が暴れている男を後ろから羽交い絞めにした、しかし男はすごい力で、若者はたちまち弾き飛ばされた。


「もっと多勢で!」


 イェースズに怒鳴られ、今度は数人の男が暴れている男をやっと取り押さえた。イェースズはその前にしゃがみこみ、男の眉間に手をかざして霊流を放射した。男の体は小刻みに揺れ動き、やがては押さえていた数人の男さえも弾き飛ばした。しかし男はもはや暴れず、全身を震わせながらも座っていた。

 やがてパッと両腕で自分の顔を覆い、首を左右に振りはじめた。イェースズの手は、その額をずっと追いかけていた。


「ウ、ウ、ウ、ウ、ウ、熱い!」


 男はうなるような声を、発しはじめた。


「熱い! まぶしい! 苦しい!」


 男は尻で地を這って、後ずさりしようとした。イェースズは平然と、落ち着いて男の額に手を向けている。周りの人はただ息をのんで、そんな光景を見ていた。


「ううっ!」


 男は目を閉じたまま、重々しい声でたどたどしく話しはじめた。


「おまえは誰だ。我われと何のかかわりがあるというのだ。我われを滅ぼしに来たのか」


 イェースズはあくまで落ち着いて、


「私はあなたを滅ぼそうなどとは、思っていませんよ」


 と、優しく慈愛に満ちた口調で語りかけた。


「じゃあなぜ、こんなまぶしい光で俺を苦しめる? やめてくれ。苦しい! まぶしいんだ!」


 男は怒鳴って、顔の前の両腕をさらにきつく結んだ。


「私は決してあなたを苦しめるために、こんなことをしているのではないのですよ。これは天国の光、一切の浄化の光です。このお方におかりの御霊ごれい様。どのようなご事情でこの方にお憑きかは存じませんが、今ご自分がなさっていることがどういうことだか、ご存じですか」


 イェースズが語りかけているのは目の前で苦しんでいる男その人ではなく、この男にとり憑いて暴れさせている憑依霊に対してだった。


「おまえは何ものなのだ。さっきおまえがしゃべっている時、おまえの全身からも、しゃべっているひと言ひと言の言葉からも黄金の光が発せられていた。それがまぶしくて、苦しくて、じっとしていることができなくなって、とうとう俺は出てきたのだ」


 イェースズのオーラから発せられる霊流と言霊に乗っている霊流に耐えられなくなって、男に憑いている霊が浮き出た、つまり男は浮霊状態になってしまったのだ。


「この光が苦しいというのは、あなたの魂の曇りと、と慢心、執着があるからではないですか? それがあなた様を天国から遠ざけている。だから、天国の光が苦しいんです」


 男は首をうなだれた、その目からは涙があふれてきた。


「あなたはこの世で生きていた時に、人は肉体だけがすべてで死ねば一切が終わりだなんて、そう思っていたのではありませんか? 神様から勝手に離れて自己愛に生き、あらゆるものに執着を抱いていたのではありませんか?  今あなたがいる世界は、暗くて寒い所でしょう?」


 男はこっくりとうなずいた。


「あなたも、救われたいと思っているんでしょう?」


 もう一度、男はうなずいた。正確には、男に憑いている霊が男をうなずかせたのだ。


「あなたも本来は、神の子なんですよ。この光を受け入れて浄化されて、本来行くべき幽界での修行をして下さい。最初は熱くても、だんだんに心地よくなりますよ。まずは神様に、感謝の想念を持ちましょう。『神様、まことにありがとうございます』と何度も祈ってこらんなさい」


 イェースズの言霊は、霊を叱りつけるのではなくあくまで慈愛に満ちていた。男はだいぶ穏やかな表情になってきた。


「だいぶ楽になってきたでしょう?」


 男はうなずいた。


「もっと楽になって、天国に行かせていただくためには、今天国にいらっしゃる方と全く同じ想念と心になってしまえばいいのです。それなにの、地獄の心で霊界を勝手に抜け出て現界に生きている人の肉身にかかると、幽界脱出の罪といって二百倍も地獄で苦しむことになりますよ。これが霊界の、厳としたのりなんです」


「え? そんなあ、しまった!」


 男は、目をつぶったまま顔を上げた。


「しまったと思ったのなら、よくよく神様にお詫びをすることですね。心からお詫びをすれば、神様もきっとお許しくださいます。どうか、神様にお詫びをしてみてください。そしてあなたの過去世を鮮明に思い出して、そのすべてをやり直してごらんなさい」」


 それからイェースズは、しばらくは黙って手をかざしていた。男はうなだれていた。だいぶたってから男がゆっくりと顔を上げたので、イェースズはまた話しはじめた。


「お詫びはできましたか? そして、生きていたときの自分の想念を、一つ一つ点検して下さい。天国にいる人ならこうはしないだろう、天国にいる人ならあの時はどのようになさっただろうか、と」


「天国にいる人たちは、何を考えている人たちですか? どんな人たちなんですか?」


「いつも感謝に満ちて明るく、素直で、優しく、心の下座に徹し、誰にでも利他愛で親切で温かく、一切の執着がなく、態度や言葉遣いが丁寧なんですね」


 また、しばらくイェースズは黙って手をかざしていた。しばらくたってから、イェースズはまた言った。


「では、早くこの方からきっぱりと離れ、霊界での修行をして下さい。この方から離れるお許しを、神様にお願いしてみてください。霊界はサトりの世界です。我と慢心や執着を断てば、スーッと上の世界に上がれますよ。救われるんですよ」


「ありがとうございます。なんだか、苦しくなくなってきました。暖かい。包み込まれるような気分です。あ、この人から、今離れます」


 男は目を閉じたまま、両手を上に上げた。座ったままではあるが、全身が天へと引っ張り上げられる形だった。やがてすとんと男の力が抜け、男はその場にうずくまった。イェースズはゆっくりと、その体を起こした。


「静かに目を開けてみてください」


 イェースズは男の肩に手を置き、今までの口調とは違う口調で男の顔をのぞきこむようにして話しかけた。もはや霊ではなく、この男自身に語りかけているからだ。それでもあくまでも優しく慈愛に満ちた口調だった。男は目を開けた。


「はっきりしていますか?」


 男はうなずいた。そして、あたりをキョロキョロと見回した。穏やかな表情だった。そして立ち上がると、別人のような軽快な口調でイェースズに話しかけた。


「今のは、いったい何だったんです? 意識ははっきりしているのに、まるで私のその意識とは関係なしに体が動いたり、口が勝手に動いていろいろしゃべったり」


「あなたに憑いていた霊が浮き出て、あなたの口を借りてしゃべっていたんですよ。もう大丈夫です。霊はあなたから離れました」


 それまで言葉を失していた会衆が、再びざわめきだした。


「この人の教えは、権威ある新しい教えだ」


「今までの律法学者や祭司とはぜんぜん違うぞ」


「言葉だけでなく、離れろと命じただけで悪霊さえ出て行く、この権威と力は何だ」


 人々がざわめいている中で、イェースズは早くその場を立ち去りたかった。

 あの東の国のプジの山のふもとの村でのように、病気治しの生き神様にされてしまっても困る。ここではさすがに生き神様とは言わないだろうが、預言者だとか何だとか人々は言い出すに決まっている。

 しかし、この人ごみを掻き分けて出て行くのは、不可能なようだった。人々はもう、熱狂しだしている。

 そこでイェースズは全身に霊流を満たし、一気に肉体をエクトプラズマ化させた。次に肉体が物質化したのは、会堂シナゴーグの外でだった。

 

 イェースズは自宅に戻り、一人静かに座っていた。

 昼前には家族もペトロたちも戻ってきた。この日は安息日だから、あとは皆このまま日没までは家にいなければならない。

 戻ると、ペトロやアンドレは、イェースズの弟たちとともに早速イェースズを取り囲んだ。


先生ラビ、さっきのはいったいなんだったんですか?」


「教えてください」


 ペトロなど、好奇心丸出しだ。イェースズはニコニコ笑って座り、


「ん? あの男の人についていた霊が、離脱しただけだよ」


 と、簡単に言った。


「やはり悪魔憑きだったんですか?」


「ま、一応そういうことにしておこうか」


 彼らの理解の程度に合わせて、今のうちはとりあえずそう言った方がいいとイェースズは判断した。何もかも霊的なことを真正面からぶつけても彼らには理解できないだろうし、またかえって害になると思ったからだ。まだ、時は至ってないのである。

 しかし実際は、あの男に憑いていたのは悪魔でもなんでもなく、人霊だった。今は地獄などにいる邪霊であることには変わりはないが、本質的な悪ではない。


「一つだけ言えることは」


 イェースズは、ペトロを見た。


「前に、病気というものは存在しないといっただろう。そんなもの迷信だって」


「はい」


 ペトロがうなずく。


「その時、病気といわれている現象の二割くらいは、体内の毒素が溶けて排泄される作用だと言ったよね」


「はい、おっしゃいました」


 イェースズは微笑んだまま、視線をゆっくりと全員に回した。


「ではあとの八割はというと、さっき見たような邪霊の仕組みなんだよ。病気だけじゃない。事故や争いなど、あらゆる不幸現象のほとんどがそうだと言って差し支えない。そして、俗に言う『悪魔憑き』のように、ほかから見てそうだと分かるものは逆に少ないんだ。実際に邪霊に操られている人ははたから見れば普通の人だし、本人も自分で考えてやっていると思っているから始末が悪い。まあ、普通に生活している人でも、ほとんどすべての人に邪霊は憑いていると言っても過言ではない。ただ、表面に出ていないだけなんだ」


「私もですか?」


 ペトロが身を乗り出した。


「憑いてないと断言はできないね」


 イェースズは笑って言ったのだが、ペトロは深刻だった。弟のヤコブなど、震えだしていた。


「いたずらに恐がることはない。むしろ、そういった事実を知らずにいるほうが、ずっと恐いことだ。まあ、邪霊にかられるというのは、その人自身の罪とも相応してくるけど、体の故障という意味での病気というのは存在しないんだ」


 外はその後も、ずっと静まり返っていた。


 やがて日が沈んだ。日が沈むと安息日も終わる。彼らは日没が一日の始まりと考えていたから、日没とともに安息日の翌日の週の初めの日が始まるのだ。だから急に、表通りが騒がしくなった。

 しかしこの日の騒ぎは、いつものそれとはだいぶ違っていた。人々が大挙して、イェースズの家に押しかけたのである。

 ドアが激しくノックされ、母のマリアが出てみると人々は一斉に室内になだれ込んだ。真っ先に飛び込んできたのは、中風と思われる足のなえた人だ。


「まあまあ、何ですか、あなたたち。人の家に勝手に」


 慌てて制するマリアだったが、人々はお構いなしだ。


「このうちのヨシェの、遠くから帰ってきたばかりのお兄さんは、すごい力を持っているというじゃないか」


「頼む。おいらの病気を治してくれ」


「まあ。そんなこと、どこで聞いたんです?」


 マリアの問いに、人々は口々に叫んだ。


「今日の会堂シナゴーグでのこと、みんな見てたぜ」


「ほら、そこにいるシモンの家でも、すごい奇跡が起こったっていうじゃないか」


「もう、カペナウム中の評判だ」


「だから、安息日が終わるのを待ってたんだ」


「とにかく!」


 マリアがまた人々を押し返そうとした時、その背後にイェースズが立った。


「あ、この方だ!」


 誰かが指さして叫んだ。


「まあまあ、皆さん。そんないっぺんに来られても困りますから、お一人ずつ中に入ってください」


 イェースズは慈愛に満ちた穏やかな笑顔でそう言うと、先に奥に入った。追いかけるように中風の男が、足を引きずりながらそれを追った。ヨシェの大工としての仕事場はあふれんばかりの人で、さながら待合室のようになってしまった。

 マリアが困惑しきった顔で、そんな人々を眺めていた。

 

 奥の部屋にはイェースズのほかにアンドレとペトロの兄弟、そしてイェースズの弟のヤコブとユダがいた。そんな中でイェースズはまず中風の人の人と対座した。


「どなたかお身内で、中風のまま亡くなった方はいらっしゃいませんか」


 イェースズはそう中風の男に聞いた。


「いえ、誰も」


「そうですか。分かりました」


 イェースズは微笑んでうなずくと、男を向こう側に向けて座らせ、首筋に後ろから手をかざしてパワーを当てた。しばらくそうしてから、


「どこが動くようになりたいですか?」


 と聞くと、男は


「手も足も動かないんだが、まずは足」


 と、言う。そこでイェースズは、今度は足に向かって手をかざした。そうしながら、


「今度来た時は、また動くようになってほしいところをさせて頂きましょう。この病気は、根気よく続けて受けることが大切です」


「いやあ、有り難うございます」


 男はイェースズの方に向きを変え、イェースズを拝みだしたのでイェースズは慌ててやめさせた。


「あなたの足が動くようになったのは、私の力じゃないんですよ。神様のみ意です。よくよく神様にお礼を申し上げてください。そしてその、感謝の心を忘れないようにね。今日帰ったら下痢をしたり、もしかしたら鼻血が出るかもしれないけれど、止めてはいけませんよ。ましてや、クスリなどで止めないように。体の中の毒素が、排泄されただけなのですから」


 その後、元気に歩いて部屋を出る男の姿を見て、人々は一気に歓声を上げた。

 続いて入ってきたのは、がっしりとした体格の、髭の濃い初老の男だった。あまり上品とはいえない雰囲気で、


「あんた、何でも治せるんだってね」


 と、イェースズに対してもそのような口をきく。それでもイェースズは、微笑を絶やさなかった。


「見たところ、お元気そうじゃないですか」


「いやあ、おいら、いつも肩がこってしょうがねえんだ。何とかしてくれ」


「はい。では向こうを向いて座ってください」


「あんた、医者みたいだね」


 そう言いながらも、初老の男は言われた通りにした。イェースズはその肩に後ろから手を置き、手のひらを二、三ヶ所ほど移動させた。そして、一ヶ所にやおら親指を立てた。


「いてーェッ!」


 男は飛び上がらんばかりにして叫んだ。その場所に向かって、イェースズは手のひらを少し離して霊流を放射した。男の肩が、ピクッと動いた。


「今、ストーンと何かが背中の方に落ちた。おりゃ? 肩が楽んなったぞ! うそみてえだ」


 男は立ち上がると、イェースズの方を振り向いて、


「有り難よ」


 と言って、ローマ貨幣のいちばん小額の一レプタ銅貨を二枚、ぽんとイェースズの前の床に投げて出て行った。完全にマッサージ師か何かと間違えている。それでもイェースズはニコニコして、怒るそぶりは全くなかった。

 同室していたペトロたちも、男のそんな無礼な動作よりもイェースズの力に呆気に取られ、ただ無言ですべてを見ていた。ただイェースズは弟のユダに命じて、男が投げたレプタ硬貨を丁重にお返しするようにと追いかけさせた。

 

 次に入ってきたのは、中年女だった。どこが悪いということもなさそうだったが、本人が言うには、


「気が重くて、毎日が暗くてしょうがないんです」


 ということだった。何か気を病んでいるらしい。イェースズはこれまでと同じように後ろ向きに座らせ、女の長い髪をかき上げて首筋に触れてみた。そこはパンパンにはっていた。


「これじゃあ、苦しいでしょう。人間の体は、本来はこんなに硬くはないんですよ。ここが硬いと、火の気が頭に行かないから暗くなるんですね」


 イェースズは優しくそう言って、中風の男の時と同じように女の首筋に後ろから手をかざした。しばらくそうしてからもう一度イェースズは、女の首筋に片手の親指で触ってみた。


「あ、だいぶ、軟らかくなりましたね」


 そうして今度は女を正面に向かせた。


「全身の力を抜いて、目を閉じていてください」


 イェースズは、女の眉間にパワーを放射した。パワーは、眉間の奥深くにまでを貫いていた。

 沈黙の時間が、少し続いた。やがて女の体が、小刻みに震えだした。パッと顔を真左に向け、イェースズの手がそれを追い、すぐに反対の右を向く。それでもイェースズの手のひらは、どこまでも追いかけて眉間からそれることはなかった。

 すると女は両手を合わせたままそれを頭上高く上げて、くねくねと体をくねらせはじめた。イェースズは何も言わず、問答無用で手かざしに徹していた。

 女はしばらく同じ動作をしていたが、やがて両手を一段と高く上げると、すとんと力が抜けた。うつむいている女に、イェースズは優しく声をかけた。


「静かに目を開けてください」


 女はゆっくりと顔を上げ、目を開けた。


「はっきりしていますか?」


「はい」


 女はびっくりしたような表情で、一応うなずいた。


「はっきりしていますけど、今のは何だったんですか? 体が勝手に動いて、止めようといてもとまらなくて」


「今のはあなたに憑いていた霊が浮き出してきて、あなたの体を動かしていたんですよ」


「霊だなんて、そんな恐ろしい。やっぱり私には、悪魔が憑いていたんですね。今までいつも気持ちが暗くて、時々暴れだしたくなる衝動に駆られたもんですから」


「ええ、そうですね」


「でももう、悪魔は離れたんですか? あなた様が、悪魔を祓って下さったんですか?」


「私はそんな悪魔祓いの祈祷師じゃありませんよ」


 イェースズは大声で笑った。


「それにあなたに憑いていたのは悪魔なんかじゃなくって、ただの蛇の霊でしたよ」


「蛇?」


「蛇に関して、何かお心当たりがありますか?」


「そういえば」


 女は話しはじめた。


「今の家を新築する時に庭に大量の蛇が出て、私はまだ若かったもんですから、蛇が恐くて恐くて、全部油をかけて焼き殺したんです。確かに、気分が重くなったのはそれからでした」


「食べるため以外の目的で生き物を殺すのは、まずいですよ。今後はお気をつけになった方がいいんじゃないでしょうか?」


「はい、分かりました」


 その顔は、さっきまでの重苦しい気分のものではなく、明るく微笑みさえ浮かべていた。女は丁重に礼を言って出ていった。霊動をまともに見たペトロたちとイェースズの弟を含めた四人は、ただ恐ろしさに震えていた。


「本当に、悪魔憑きといわれているような人ではない普通の人もで、霊は憑いているんですね」


 と、ヤコブが口を開いた。


「普段は霊が憑いていても人それぞれ自分の魂があるから、表面には出ない。自分の霊力があるからだ。だから自分でも分からないし、人が見ても普通の人に見えてしまうんだよ。それがこの力」


 イェースズは手のひらを四人に見せた。


「この力を浴びると霊は苦しくなって浮き出てしまう。でも世の中には、ずっと霊が浮きっぱなしの人もいる。そういう人のことを、人々は『悪魔憑き』というんだよ。でもそういう人は例外でね、普通の人の場合、霊は巧みに、気付かれないようにその人を操る。自分で考えてやっているつもりのことでも、案外操られていることが多いんだよ」


先生ラビの力は、そんな霊をも追い出すなんてすごい」


 そう言ったペトロに、イェースズは微笑んだ目を向けた。


「この力は決して霊を苦しめて追い出すんじゃない。神の愛に満ちた、浄化の光なんだ。それで霊は浄められて、自分の非をサトって自ら離脱していく。それと、その人の本霊をも浄めるから、罪の許しともなる新しい火と聖霊の洗礼バプテスマだよ」


「あ!」


 ペトロとアンドレは、息をのんだ。かつてヨハネが、やがて水ではなく火で洗礼を授ける人が後から来ると、何度も言っていたのを思い出したからだ。そこでペトロが何か言いかけたとき、次の人が部屋に入ってきた。

 

 今度も女だが、若い女だった。入ってくるなり女は慌しく咳込んだ。もう何も、言葉も言えないほどだった。

 イェースズにはすぐにぴんと来たので、まずは女を後ろ向きに座らせ、その背中の左右肩甲骨の内側辺りに霊流を手のひらから注入した。それからまた正面を向かせて、眉間に手をかざした。

 イェースズの手から高次元エネルギーが、目に見えないパワーとなって女の眉間にスーッと入っていく。やがて女は手を震わせ、うなりながら何かを言おうとしていた。そのうち右手を自分の膝の上に乗せ、人差し指でしきりに膝の上に何か文字を書きはじめた。


「このお方におかりの御霊ごれい様に申し上げます」


 イェースズは手をかざしたまま、優しく女に、いや女に憑いている憑依霊に語りかけた。


「何か、お話したいことがありますか?」


「う、うッ! ママ、ママ」


 子供の霊のようだ。霊がその口を借りて語らせている女の口調が、幼児そのものになったからだ。とても大人の女がしゃべっていることとは思えない。


「ママ、ママ。ボク、ボク、苦しい。さみしい」


「君は子供なの?」


 イェースズもまた、幼児に語りかけるように口調を変えた。


「うん。ボク、苦しいの。お咳が出るの。ママ、ボクを殺した。ボクの咳で眠れないって、お尻ぶたれた。そして、首しめた」


「そう、咳が出るの?」


「暗い。ここ、真っ暗なとこ。ボク、さみしい。独りぼっちだから」


「この女の人が、君のママなの?」


「うん。ボク、ママのそばにいたかった。だから、ママといっしょにいるの」


「でも、ママも今は咳が出て苦しんでいるよ」


「ボク、知らない。ボクのせいじゃあないよ。ボクが今まで通り咳をしたら、ママも咳をするんだ」


 しかし、生前に持病をもったまま死んだ人が他人に憑くと、憑かれた人にも同じ症状が出ることをイェースズは知っていた。


「ボク、大きくなったら何になったんだろう。漁師かな? 先生ラビかな? 偉い祭司になってたかなあ。でも、ママはボクを殺しちゃった」


 ゆっくりとたどたどしく、女は子供の霊の言葉をしゃべる。


「かわいそうだね。お兄さんねえ、ママに代わって謝るよ」


 そう言うイェースズの頬に、涙がふた筋流れていた。


「ごめんね。本当にごめんね。でもね、幽界の置き手っていうのがあって、人の体に憑くのは、とてもいけないことなんだよ」


「ボク、子供だからよくわかんない。ママといっしょにいちゃいけないの?」


「でも、よーく考えたら分かるよ。だって、生まれる前の君は大人だったんだから」


「ボクが大人だった?」


「そうだよ。だから、分かるはずだよ」


「うん。でも、今すごくまぶしいんだ」


「神様の光だよ。この光を浴びて、そして神様にごめんなさいって謝るんだ」


「どうしてボクが、あやまるの?」


「まず、人の体に憑いちゃったことをね。それとね、君がママに殺されたってことは、君も前に生きていたときに、何か同じような悪いことをしたからかもしれないよ。だからそのことを、覚えていなくてもごめんなさいって謝るんだ」


「覚えていないのに?」


「そう。覚えていなくてもごめんなさいって謝れば、神様は許してくれるよ。しばらく神様の光の中で、神様にごめんなさいって言って、神様と心を一つにしてごらん」


 知らない人が見たら、大の大人が二人向き合って幼児言葉で会話をしているのだから、かなり奇妙な光景に写っただろう。それからかなり長い時間、イェースズは黙って女の眉間に霊流を放射し続けていた。

 女はゆっくりと上半身をかがめ、深々と頭を下げていた。イェースズは顔の下から、眉間に向かって手をかざし続けた。長い髪がたれて、イェースズの腕に当たった。

 だいぶたってから、急に女の口から再び声が出た。


「うわっ! あれ? なんだこれ?」


「どうしたの?」


「あのう、僕、急に大人になってしまったんです」


「ああ、よかったですね」


「なんだか変な感じです。でも、救われたんですね」


 女のしゃべる口調はもう幼児のそれではなく、若者らしい凛々《りり》しいしゃべり方になっていた。そして女は閉じている両目から、涙を流しはじめた。それは女の涙であって、女の涙ではなく、憑いている霊の涙だった。イェースズもまた、一度は止まっていた涙を再び流しはじめた。


「あなたが、神様と波調を合わせた結果ですよ」


「はい、ありがとうございます。神様からは、母から離れるお許しも頂きました。あなたは素晴らしい、もしかしてあなたは……」


「それ以上は言ってはいけません。さあ、早く離脱された方がいいですよ」


 イェースズの霊眼ひがんには、霊がスーッと離れたのが見えた。


「静かに目を開けてください」


 目を開けた途端、女は堰を切ったように泣きだした。


「そんなことって、そんなことって」


 その号泣には、手もつけられないほどだった。


「あの子が、今ごろ出てくるなんて。あの出来事は消えていない。私の罪が恐ろしい。何てことをしてしまったんだろう、私」


 イェースズは、優しく女の肩に手を置いた。女はまだ、泣きじゃくっている。


「咳はまだ、出ますか?」


 ハッと気がついて、女は泣きはらした目のまま泣くのをやめた。


「あ、出ない。こんなに泣いているのに、咳が出ない。とまった!」


「もう、あなたの罪は許されたんですよ。お子さんもこれで天国に行けるでしょう。もう二度と同じ過ちはしないように心を入れ替えて、罪を許して頂いた感謝の心で、これからの人生を神様のため、他人ひと様のために使いなさいよ」


「はい。ありがとうございます」


 女はまだ泣きながら、出て行った。

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