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人間・キリスト  作者: John B.Rabitan
第3章 福音宣教時代
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ヨナの子シモン

 一行はガリラヤに戻った。イェースズは新しく妻となったマリアをそのままカナに残しての帰郷だった。そしてヤコブとエレアザルの兄弟は自分の家に戻り、またそれぞれの生活が始まった。

 イェースズの家では彼が加わったことで、家族にいささか不協和音が生じるのは致し方ないことであった。

 イェースズにとってこの町は故郷とはいっても長年離れていただけに、もはや異郷に等しい。家族の誰もが持っている隣近所との付き合いにも、彼は入れないでいた。ヨシェはすでに立派な大工の棟梁となっており、結婚こそまだしていないが一家の大黒柱である。弟たちもそれなりに大工仕事を手伝っており、家族の中では今さらイェースズの出る幕はなかった。

 ただ、弟たちは少しずつだがイェースズに心を開いてきているようで、昨夜もヤコブが遠い国の話をしてくれとせがみ、深夜まで話したものだった。

 だが、昼間は弟たちも仕事で忙しい。仕方がないのでイェースズは毎日町の中を散歩して暮らし、そのまま四、五日たった。町はそれほど広くはないので、歩き回る場所も多くはない。交易で栄えているだけに旅の商人やよその土地のものが多く、イェースズのような見慣れないものが歩いていても誰も気もとめない。

 それでも町の中を歩いていても仕方ないので、イェースズはガリラヤ湖が一望できる町の背後の丘の上に登ってみたりもした。

 風が心地よい。ユダヤ暦で第三の月であるシワンの月も終わろうとしているが、ローマ暦では六月ユニウスになったばかりだ。

 丘の上に腰を下して湖を見ながら、イェースズはこれからどうしたものかと考えた。ヨハネの教団に入って少しは足場ができたと思ったものの、これではまた振り出しに戻ったことになる。自分は使命を帯びて戻ってきたのだ……ここで毎日散歩などしていていいはずがない……そう思うものの何をどうしたらいいか分からない。ただ、焦ってはいなかった。あくまで落ち着いていた。だが、急がねばならないことも事実だった。

 イェースズは丘を下りて、湖畔に出てみた。やはりここは自分が生まれ育った町なのだと、自分に言い聞かせながら湖畔に出たところで、一層の漁船が漁から戻ってきたようで、沖から岸へ近づいてくるのが見えた。それをイェースズはなんとなく見つめていたが、乗っているの人がどうも見覚えがある。

 そして船が岸に近づくにつれ、乗っている二人はアンドレと自分がペトロと名づけたシモンだと分かった。イェースズは少し歩いて、漁船が着くあたりまで先回りした。それでも船の方が早く、イェースズが着いた頃には二人の漁師は網をつくろっていた。どうも収穫はなかったようだ。

 そしてイェースズが近づくと目を上げ、驚いて二人とも立ち上がった。


先生ラビではありませんか」


「おお、こうしてまた会えたのも、神様のお引き合わせだな」


 イェースズは満面に笑みをたたえて、二人の手をとった。二人の顔も喜びに満ちていた。


「あなたがたは、またここで漁師をしているのかい?」


 シモン・ペトロの相変わらず強情そうで武骨な顔は、よく日に焼けていた。イェースズよりもほんの少しだけ年齢は高いようだ。


「ええ、また何年かぶりでもとの生活に戻りましたよ。先生ラビ、いよいよ始めるんですか?」


「何かを始めねばと思っている。あなたがたも、私といっしょに来てくれるね」


「もちろんですとも」


 アンドレがうなずいた脇で、ペトロは顔から笑みを消していた。


「ついていきたい気持ちは山々なんですが、漁師の生活も楽じゃあないんです。一日働いて、今日のように魚が一匹も獲れない時もある。それで生活が左右されるんですよ。先生ラビは大工だから、注文のない日はないでしょう。先生ラビは、その大工の仕事もやってるんですか」


「こら、シモン。先生ラビになんてことを」


 アンドレが慌てて制止したが、ペトロはまだしゃべっていた。


「私には女房もおりますし、寝たきりの母親の看病もしなければならないんですよ」


 ヨハネ教団にいた頃と違ってもとの生活に戻ったら、すっかり自分の生活優先の想念にペトロはなっていた。


「どうだね、ペトロ。私ともう一度漁に出よう」


「え?」


 ペトロは怪訝な顔をした。


「申し訳ないんですが、先生ラビは漁に関しては素人じゃないですか? 今日はまる一日漁に出て、一匹も獲れなかったんですよ」


「こら、シモン。先生ラビの言われるとおりにしよう。ヨハネ師の所にいた期間に、我われの感覚も鈍っていたんだ」


「しかし、兄さん……」


「強情をはるんじゃない。素直が大切だと、ヨハネ師も言っていたではないか。あまり強情をはるから、岩のようなペトロと呼ばれるんだ」


 ペトロは仕方なく、また湖の沖へ今度はイェースズとともに引き返すこととなった。イェースズは笑みを浮かべて、船に乗り込んだ。

 沖に出るまで、ペトロはひと言もしゃべらなかった。


「さあ、そのへんでいいよ」


 イェースズが指示すると、素人に指示されたのが面白くないらしく、ペトロはしぶしぶと網を湖水に投げ入れた。水しぶきを上げて、広がった網は水の中へ消えた。

 イェースズは湖面をじっと見ていた。肉の目ではなく霊の眼でだ。その目からも、霊流が流れ出て水の中へと入っていった。それが磁石作用を起こしたのかたちまち網は重くなり、三人掛かりで船に網を引き上げた。

 ペトロは思わず船の甲板にしりもちをついた。驚きの声それ以上に魚の大群が甲板にあふれ、足の踏み場もないほど銀色の腹を見せてピチピチ跳ねる魚の山が甲板にできた。

 とたんにペトロは船の上で小さく縮こまった。


先生ラビ、お許しください。あなたがどんな方であるのかも忘れて、とんでもないことを言っちまった。これは私が罪深い証拠です。こんな私は、あなたについていく資格などない」


 イェースズは優しく,ペトロの肩に手を置いた。


「そういうふうに、まず罪を意識することが大事なんだよ」


 イェースズがそう言っているうちにも、大漁船は岸へとまた戻っていった。


「いいか、ペトロ。前に言っただろう。魚を獲る漁師ではなく、人間を獲る漁師になれとね。あなたもアンドレも、今後もう二度と漁に出ることはないだろうね。私に従うというのはそういう意味だよ。これからは人間の海に神理の網を投げ、群衆をとらえて神聖の中に入れるんだ」


「でも先生ラビ


 と、アンドレが口を挟んだ。


「私どもには寝たきりの、年老いた母がいるのですが。父を亡くしてから独りきりです」


「それは、たいへんだね。お父さんは亡くなったのかい」


「はい。父はこの辺りではけっこうなの痴れた元締めの漁師でした。カペナウムのヨナといえば、あのゼベダイも一目置いていたのです」


「そうかい。でも私についてくるというのは、そんな名声や残されたお母さんも、何もかも捨ててついてくることなのだよ」


「はい、その覚悟はできています」


 と、ペトロは胸をはって言った。


「偉い。立派だ。むしろ、それくらいの気持ちでいないといけない。では、行こう」


「はい。でも、どこへ行くのですか?」


 ペトロの問いに、イェースズは笑って言った。


「あなたがたの家だよ。お母さんがたいへんなんだろう」


 そう言ってイェースズは、もう歩き出していた。

 アンドレとペトロの家は、すぐ近くだった。湖岸の林の中にあると言ってもいいくらいだ。その家の窓の下の床に、老婆が寝ていた。イェースズの母はまだ若い面影を残しているが、彼らとイェースズとがほぼ同世代であるこにもかかわらず、その母親はかわいそうなほどの老婆であった。

 そして、部屋に入ってすぐに感じられるほど、婆はすごい熱を発してうなっていた。その部屋に、もう一人太った女性がいた。


「私のラビを連れてきた」


 と、ペトロはその女にイェースズを紹介した。


「え? ラビって、ラビはヨハネ師じゃないの?」


「新しいラビだ」


 女は急にイェースズに向かって、相好を崩した。


「まあ、これはようこそ。シモンの家内です。夫はヨハネ師に心酔して家を出て行ってしまいましたけど、こうして戻ってきたというのもあなた様という新しい師を持ったお蔭なんですね」


 ペトロの妻は、イェースズにすがりつかんばかりの歓迎ぶりだった。夫が戻ってきたのが、よほどうれしいことだったのだろう。どうもヨハネの逮捕と教団の解散といういきさつを、ペトロは妻には詳しく話していないようだ。


「いえいえ奥さん、申し訳ないが、実はもう少しご主人をお借りしなければならない」


「え?」


 ペトロの妻の顔が、一瞬曇った。


「でも、ただではお借りしませんよ」


 イェースズは笑いながらそう言って、言われなくてもペトロの母だと分かる老婆の床の脇に寄った。熱にうなされて、あまり意識もはききりしていないようだ。


「さあ、お母さん、布を替えたらお薬飲みましょうね」


 そう言ってペトロの妻が、老婆の額の濡れた布を取り換えようとした。


「奥さん、ちょっと待って」


 イェースズは手を出して、新しい布をペトロの妻が老婆の額に当てるのを制止した。


「その布は?」


「はい? 熱が出ているから冷やしているだけですけど」


「冷やさない方がいいですよ」


「え? 冷やすなって? 普通、熱が出たら冷やしません?」


 不思議そうな顔つきで、ペトロの妻はイェースズを見た。そこへ、ペトロが割って入った。


「いいから、ラビの言う通りにしなさい」


 イェースズは優しいまなざしを、ペトロの妻に向けた。


「お母さんはこのお年ですから、きっとたくさんの毒物を体内に少しずつ入れてこられたのでしょうね」


「毒なんて。私、お母様に毒なんて飲ませておりませんわ」


 ペトロの妻の言い方が、少しきつくなった。それでもイェースズは微笑んでいた。


「いえ、あなたが毒を飲ませたと言っているのではないんですよ。どんな食物にも、この人間界の食べ物には少しずつ毒が入っています。それがいつしか体内にたまって、固まってしまうんです。その固まった毒を溶かすための熱なんです。だから、冷やしたら、せっかく神様がそう創って下さった体の仕組みを邪魔することになってしまうんですね」


「はあ」


 ペトロの妻は、半信半疑でぽかんとした表情で聞いていた。


「そうして体の中で固まった毒を熱を出すことによって溶かして、それが溶けたら鼻水、たん、汗、下痢となって体外に出るんです。それを人々は病気だというんです。そうして冷やしてせっかく溶けているのをまた固めたり、クスリを飲ませてその溶かす働きを止めてしまう。クスリを飲めば病気が治るというのは、迷信です。確かに治ったように見えますけど、それは熱を出して体内の毒を排泄させるための作用を封じ込めただけで、そうなると毒はいつまでも排泄されずに体内に残ってさらに固まって、取り返しの付かない業病を招きますよ」


 生まれて初めて聞く論理に、ペトロもその妻も唖然としていた。


「だいたい、体の外に出るものって、みんな汚いでしょ。鼻水も、痰も、下痢も。そんな汚いものが、大切なんですか? クスリを飲んで出す作用を止めて、体の中から出ないようにして、大事にとっておくほどのものなですか? 汚いものは、どんどん出させていただいた方がいいじゃないですか。それにですね、クスリというのが、またこれ毒なんです」


「それじゃあ、毒漬けの生活じゃないですか」


 ペトロが口を開いた。


「そうなんです。でも、食べ物や薬の毒よりも、もっと恐い毒があるんです。それは、人間の体内で発生する毒ですよ。人間は悪いことを考えたり、怒ったり、人を恨んだりすると、体の中で毒が発生するんです」


「そういえば母さんは、ずいぶん怒りっぽかったなあ」


「今後は、せいぜい怒らせないようにすることですね」


 イェースズは笑って、老婆の方を見た。


「おつらいですか。お気の毒に。でも、楽になりますよ」


 そう言ってイェースズは老婆のひたいの上に手を伸ばした。そして眉間に向けて手をかざした。高次元の霊流が、どんどん手のひらから放射される。イェースズは力を抜いて、心をも無にして霊流を送った。眉間の奥に霊流を当てると、それが全身に行く。


「何かのおまじないかい?」


 ペトロの妻がそう言ったのを、ペトロは


「シーッ」


 と制し、そのまま三人はしばらく無言でイェースズのすることを見ていた。

 それからイェースズは老婆をうつぶせに寝かせ、首筋や背中の下、腰にかけて手からの霊流を放射した。小一時間ほどそうしてから、イェースズは老婆の手をとって引き上げた。老婆は床から降り、すくっと立ち上がった。そして急に走り出した。走っていった先は、便所であった。

 しばらくしてから戻ってきた老婆は、ニコニコと笑っていた。


「あれまあ、なんともないよ、嘘みたいだ。気分がいい」


 誰もが、言葉を失っていた。


「今、すごい下痢をしたんだが、それがとまったら急に気分がよくなったんじゃ」


 老婆本人も、しきりと首をかしげていた。


「お母さん。こちら、私のラビです。師がお母さんのやまいを癒してくださったんですよ」


「これはこれは」


 老婆はイェースズに体を向け直した。


「どうも、お蔭さまで、まあ」


「よかったですねえ。でも、これからは怒ってはいけませんよ」


 イェースズはそういうと、声を上げて明るく大笑いをした。


「何とお礼を言ったらいいか……」


「私にお礼はいりません。なぜなら、これは、私の力じゃないんです。私を通して、神様がされたことなんです。お礼は神様になさってください」


 老婆の目から、涙があふれているのをイェースズは見た。イェースズもまた笑いながらもその目を潤ませ、そしてともに涙を流して喜んだ。感謝の波動を受けるのは実にうれしい、また、救われた人の姿を見ることもこの上ない幸せだ。イェースズはひたすら神に感謝していた。

 外へ出たイェースズに、アンドレもペトロも口々に絶賛の声をかけた。


「いやあ、まさか先生ラビが、母の病気を癒してくださるなんて」


「驚きました」


「さっきも言ったようにね、私の力じゃないんだよ」


「はい。神の力が現れたのですね。その神様に、どうやってお礼の心を見せればいいんでしょうか? エルサレムまで行っていけにえの子羊を買うには、うちはあまりにも貧乏でして」


「そんなものはいらない。これからあなたがた二人が私とともにあって、今度はあなたがたが悩める人や病んでいる人などを救って歩くんだ。それがいちばんの、ご恩返しだよ」


 歩きながらも、イェースズは笑みを絶やさなかった。


「でも、病気が実はそんな毒の蓄積で起こるなんて」


 アンドレが率直な驚きを言った。


「いや、実は病気なんてものは存在しないんだよ」


 意外なイェースズの言葉に、二人は歩きながら、左右からイェースズの横顔を同時に見た。イェースズはにこやかに微笑みながら、話を続けた。


「病気なんてものは、ないんだ。考えてもみてごらん。神様は全智全能をふり絞られて、最高の叡智で人類をお創りになったんだ。そんな神様が、人間の体が時々故障するように創るなんて、そんなへまなことをされるわけがない」


「でも現実に、たくさんの人が病気になっていますけど」


 ペトロは、なかなか引き下がらない。アンドレはおっとりと、二人の会話に耳を傾けていた。


「人々が病気と言っているのはだね、十のうち二までがあなたのお母さんのように、体内の濁毒を外に排泄させる働きなんだ。体内に毒がたまったら、ちゃんと熱を出してとかし、体外に排泄されるように神様が人間を創っておられる」


「では、あとの八は?」


 ペトロのその問いには、イェースズは、


「そのうち、分かる」


 と、だけ言った。三人は林の中に入った。


「何度も言うけどね、今日、あなたのお母さんが癒されたのは、私の力じゃない。すべて、神様のお力だ。ペトロは寝たきりのお母さんをも捨てて、私についてくると言ってくれた。その心は必要だが、その通りに病気の親を見捨ててまで私に従うのは、神様がお喜びになることではない。そこで神様は、ペトロが心置きなく私についてこられるように、お母さんに奇跡を下さった。この奇跡は神様の力と栄光を表すために見せられた奇跡であって、またペトロが私に従うための行きがけの駄賃だよ。そのことを忘れてはいけないよ」


 林をぬけると、そこは町の中心だった。


先生ラビ、どこにでもついていきますが、まずはどこへ行くんですか?」


「まずは、私の家に行こうか」


 そう言って、イェースズは笑った。

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