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人間・キリスト  作者: John B.Rabitan
第3章 福音宣教時代
56/146

カナの花婿

 何もかもが美しい。

 空はよく晴れている。そんな明るい日ざしを受けて湖水は青く、大地はより緑に輝いていた。

 イェースズたち一行は、ガリラヤ湖を見下ろす丘の上にいた。この坂を下ると、カペナウムだ。

 ガリラヤ湖は塩の海と違って、魚も多い豊かな淡水湖だ。カペナウムの町の入り口を入っただけで、そこはもう魚の臭いが充満している。

 この町は、ガリラヤ湖畔でも屈指の漁業基地である。そんな町に入ったイェースズは、小さな川にかかる橋の上で足を止めた。ピリポとナタナエルは、すでに丘の上で別れていた。二人は自分たちの町へ帰るため、さらに湖畔の道を進んでいった。

 そして、ヤコブ、エレアザルの兄弟とも、たった今別れたばかりだ。今、イェースズとともにいるのはアンドレとペトロの二人だけだった。

 街道は、人通りが激しかった。商人の荷車も多い。ここで生まれ育った頃は気にもならなかったそんなことが、外から帰ってくると目に付いたりする。

 村の入り口で、アンドレ、ペトロの兄弟とも別れた。


「会おうと思えばいつでも会えますね」


 笑って言うアンドレに、イェースズも同じく笑ってうなずいた。


「もちろんだとも。たとえ同じこの町に住んでいない人でさえ、因縁の魂というのは必要な時に一カ所に吹き寄せられるものだよ」


 イェースズのその言葉を聞いて安心したかのように手を振って湖畔の木々の中へ歩いていく二人を見送って、イェースズは町中に入った。

 石造りの家が並ぶ。その一軒一軒をしっかりと見ながら歩き、イェースズは懐かしい我が家の前にたった。東の国から戻った後には数日滞在したが、エジプトへ向かう前、そしてエジプトから戻って来てヨハネの洗礼を受けに行く前にはそれぞれ一泊ずつしかしていない。

 イェースズの家は、なんら変わっていなかった。そのことが妙にイェースズを安心させた。イェースズはドアを押した、涼しい空気が全身にぶつかった。


「ただいま」


 と、彼は言った。そこにいたのはヨシェだった。彼は大工としての手作業をやめ、顔を上げた。そしてすぐにそれは驚きの表情になった。


「兄さん!」


 漁業用の道具であろう発注品を放り出し、ヨシェは立ち上がった。


「ただいま」


「兄さん、心配していたんだよ」


 ヨシェはつっ立ったまま、顔を引きつらせて兄を見ていた。


「兄さんはヨハネといっしょにいるって聞いた。そのヨハネが、王様の軍勢につかまったっていうじゃないか」


「まあ、いろいろたいへんだった」


 もう情報は届いている。イェースズは少しだけ笑顔から神妙な顔になり、室内に入ってドアを閉め、そして仕事場の石に腰を下ろした。ヨシェは奥に入って水を一杯持ってきてイェースズに飲ませ、またすぐに水の入った桶を持ってきた。


「さあ、兄さん。足を」


「ありがとう」


 ヨシェに足を洗ってもらっているうちに、中から母のマリアが出てきた。


「まあ、イェースズ! 無事だったのね」


 イェースズは立ち上がった。


「お母さん。ご心配をかけて申し訳ない」


 イェースズは笑顔を見せた。母は涙を流しながらも笑顔で我が子を見ていた。

 その日の夕食は、ヨハネの話題で持ちきりだった。マリアにとってもヨハネは、親しい従姉いとこの子である。マリアの話は、ヨハネの母であるその従姉エリザベツの嘆きに終始していた。

 食事をしながらも涙を流す母に、イェースズは、


「すべてが神様のみ意まにまに。今はただ、お任せするしかないでしょ」


 と言って優しく慰めていた。

 ヨシェのさらに下の弟のヤコブとユダ、妹のミリアムは、兄にはまだ無関心のようで、黙って食事を続けていた。

 それから数日、イェースズは毎日を近所の散歩などで時間をつぶした。なんとか幼時記憶を取り戻そうとして歩き回ったが、なかなかうまくはいかない。

 前世記憶は魂の覚醒とともに蘇っていたが、いざ肉体に入ってしまってからというもの記憶は肉の脳でなされるので、どうしても五官的制約を受けてしまう。

 カペナウムからだと湖は南に広がり、その対岸のはるか遠くにエルサレムがあることになる。湖岸の右手の遠くには、ヘロデ・アンティパスが居城を築いているティベリアがかすかに望まれる。こんな遠くでも見えるのだから、相当巨大な城なのであろう。

 背後を振り返れば、なだらかな上りスロープとなって、麦畑が広がる平らな土地である高原が広がっていた。


 そんなある日、当のエリザベツがカペナウムのマリアのもとを尋ねてきた。幼児期にはともにエジプトで過ごしたはずのその婦人の顔はすでに老齢に達していたが、イェースズの記憶の中では定かではなかった。

 だが、いかにも憔悴しきっている様子は見られた。

 イェースズはあえてエリザベツとはあまり接せずに、母のマリアと二人きりにしておいた。母がやけにニコニコして、イェースズに話があるといったのは、二、三日逗留していたエリザベツが帰ったその日の晩だった。しかも、いい話だという。


「あなた、結婚しなさい」


 イェースズはあまりにも予想外の話に、何と答えていいか分からないでした。


「とにかく座りなさい」


 マリアが言うのでイェースズは部屋の中央に座り、母もその向かい側に座った。


「エリザベツから初めて聞いたのだけど、あなた、ミツライムではすごい称号を受けたというではありませんか。あなたには今まであえて言わなかったけど、もうミツライムで聞いてきているでしょう。いよいよあなたのお父さんの遺志を継ぐ時ね。だから私もヨハネのもとに行かせたのよ」


「それは重々心得ていますけど、それと結婚とどう関係があるのですか?」


「あなたはこれからラビと呼ばれなければならない」


 実はペトロたちからはもうそう呼ばれたことを、母はまだ知らない。


ラビと呼ばれるためには、独身ではねえ」


 これは確かに、習慣からいっても独身のラビなどはいない。結婚していることが、人々からラビと呼ばれえる最低条件であることはイェースズも知っていたが、そのようなことにこだわるイェースズではないからラビと呼ばせてきた。ヨハネも独身なのにラビと呼ばれていた。


「でもお母さん、そのためだけに結婚するなど、相手の方に失礼じゃないですか」


「それはあなたの心の持ち様よ。実はナザレの家でも、あなたの結婚を強く勧めていると、エリザベツも言っていたわ」


「で、だれと?」


「エリザベツの姪御さんで、私と同じマリアという名前の人。私も会ったことあるけど、かわいらしい人よ。エリザベツの妹の娘さん」


 そうなるとイェースズとはまた従姉妹いとことなり、何よりもヨハネの従妹いとことなる。


「でも、ヨハネがこんな時に……」


「ヨハネのことでは、エリザベツも落ち込んでいるわ。だからこそ明るい話題がないとね」


「しばらく考えさせてください」


 今のイェースズにはそれしか言いようがなかった。

 夕食の席でもその話が出て、弟たちの知るところとなった。


「そのマリアという人は、どこに住んでいるんだい?」


 ヨシェが興味津々だ。


「お生まれはカナなんだけど、今はマグダラで働いているって」


 母マリアの説明に、ヨシェは身を乗り出した。


「マグダラの女か」


 イェースズは、ヨシェがなぜそのこまで血相を変えるのか分からなかった。


「マグダラだと、何かあるのかい?l


 イェースズは優しく尋ねた。確かにイェースズは幼少期しかここで生活しておらず、大人になった目でこの国を見るのは初めてなのだ。

 ヨシェはマグダラがどういう町なのか、簡単にイェースズに話した。それによるとマグダラはローマの兵士たちの保養地で、そこで働いているということは少なくとも水商売の女だ。中には、そのままローマ兵と肉体関係を持って愛人になってしまう人も多い。当然のこと、マグダラで働いているというだけで、そのような女たちは罪びととされ、被差別階級に貶められていた。

 それを聞いて、イェースズの心は動いた。普通なら、最悪の場合娼婦である可能性もあるマグダラの女を、進んで妻にしようという人はいない。だがイェースズは、罪びとであるだけに親しみを感じていた。


 イェースズの言葉通り、翌日からイェースズは、一日中そのことだけを考え続けた。なにしろ結婚など、今まで考えたこともなかったのである。だから、一人で湖畔に座って考えた。

 まずは、その結婚がエッセネ教団の勧めであること。当然、その女はエッセネの信徒ということになる。次に、相手は「罪びと」である可能性を持つマグダラの女である。だから、イェースズの関心を引いた。ただ、本当に「罪びと」なら、エッセネ教団が勧めてくるかどうかということもある。

 それともう一つは、結婚したからとてすぐにともに住むわけではなく、最低一年間は婚約期間がある。まずは婚礼があって二人は夫婦となり、1年後にもう一度婚礼を挙げる。

 その間は婚約期間とはいってももはや許婚いいなづけではなく妻なのであるが、実質上の夫婦生活に入るのは一年後で、その間は同居もしないし夫婦交渉も禁じられている。その間に十分に時間が稼げると、イェースズは思った。

 恋愛や結婚は神がお与えくださる最高のプレゼントで、火と水を十字に組んで愛和の天国を家庭にて作る義務がある。八十島やそしまかけて火水カミ結びにすび給うた神の万物創造のわざの象徴である結婚を、神のミチを説くものが実践していないというのはまずかろう。

 それよりも何よりも、母の言葉には逆らえない。母が恐いからとかいう次元ではなく、魂の川上である母を立てる道をイェースズは知っていたからだ。しかも相手は、ヨハネの身内である。すべてが神仕組みなのかもしれない。そう思ったイェースズはとりあえず結婚をし、それからのことは神様にお任せを決めた。

 

 話はどんどん進み、夏の乾季に妻となるマリアの家のあるカナで、最初の結婚式が挙げられることになった。

 カナはカペナウムからだと西南西の方へ、ガリラヤ湖から離れて内陸に向かった所だ。そう遠くはなく、朝に出ればその日のうちに着ける距離である。

 カナはほぼ平らな高原にあり、遠くの方を低い丘に囲まれている。緑に覆われたこの地方ではいちばん美しい季節で、色とりどりの花が咲き、エルサレム近郊の荒野を思えばまるで別世界であった。

 町は広くはないが、カペナウムよりは大きかった。その中でもいちばんにぎやかに明かりをともし、人の出入りがいちばん多いのがその日のマリアの家だった。

 カナに到着した花婿のイェースズがその家に入ろうとしたとき、いきなり声をかけてきた人がいた。


先生ラビ!」


 振り返ると、数日前に別れたナタナエルが驚いた顔で立っていた。


「ナタナエル!」


「どうして先生ラビがここに? 先生ラビのお宅はカペナウムでしょ?」


「ちょっとこの家で用があってね」


 イェースズはにこやかに笑って見せた。


「この家は今日、結婚式ですよ。やはり、それに参列するんですか?」


「やはりとは?」


「花嫁さんは、ヨハネ師の従妹ですからねえ。花婿は……」


「私だよ」


 イェースズは照れたように含み笑いを見せた。ナタナエルはただ呆気にとられていたが、しばらくして口を開いた。


「ヤコブとエレアザルも来ています。でも花婿が先生ラビだと知ったら、驚くぞ、彼ら」


 イェースズはそれには答えずに笑っただけで、ナタナエルとともに門に入った。その中庭で、確かにヤコブとエレアザルの兄弟が立ち話をしていた。二人はイェースズが入ってくるのを見て振り返り、大きく口を開いたままでいた。そして、


「「ラ、先生ラビ! 先生ラビがどうしてここに?」」


 と、二人で同時に同じことを言った。


「あなたがたこそ、なぜ?」


「父の言いつけで、ヨハネ師の従妹の婚礼だから出るようにと。先生ラビもそうなのですか?」


「そうですよね。ヨハネ師の親戚なら先生ラビの親戚でもあるわけだし」


 二人の兄弟は口々にそう言っていたが、イェースズはただ黙って笑っているだけだった。そして、


「縁とは、不思議なものだね」


 とだけ言った。

 イェースズはそのまま彼らと別れて、家の中央の広間に入って婚礼の時刻を待った。

 

 宴席には羊の蒸し焼きとパン、婚礼の宴独特の薬草が皿に盛られ、ぶどう酒の香りが漂っていた。

 そこへ花嫁とともに新郎としてイェースズが現れたのだから、エレアザルやヤコブの驚きようといったらイェースズがそれを見て思わず大声で笑い出してしまったほどだった。

 宴が始まった。イェースズは終始、隣にいる花嫁のマリアに気を使っていた。今までにも何度か会ったが、あまりろくに話しもしていない。そして自分が結婚などというものをするなどとは今まで夢にも考えたことがなかったので、夢を見ているような、それでいて冷めたような複雑で不思議な気分だった。

 しかし今隣にいるこの女性が自分の伴侶になることは神が決めたことであるはずだし、今はス直にその仕組みに従うまでだと思っていた。一人の女性も愛せなくて、人類を愛せるはずがないとイェースズは思っていたのである。


先生ラビも人が悪い。自分が花婿ならそうおっしゃってくださればいいのに」


 かなり酒もまわっているようで、宴のたけなわにナタナエルがイェースズに詰め寄った。イェースズはただ笑っていた。みな、それぞれに歓談し、縁は盛り上がっている。イェースズもだいぶ飲んでいた。

 そんなイェースズに母のマリアが耳打ちをして、ひと言何か話すようにと促した。イェースズは立ち上がった。それまで大騒ぎして飲み食いしていた人々も、さっと静まって視線をイェースズに集めた。


「皆さん、本日はご多端のところ、私どもの婚礼にご出席頂き真に有り難うございます」


 まずは、型どおりの挨拶だった。


「私が新郎のカペナウムのイェースズです」


 人々の間で、ちょっとしたざわめきが上がった。


「お兄さんの方だね。それにしても弟さんのヨシェとは瓜二つじゃないか」


「わたしゃてっきり、ヨシェの婚礼かと思っていた」


 人々は、そんなことを口々に言っている。


「ところで、今日は結婚式です」


 当たり前のことをイェースズが言い出したので、人々はまた静まった。


「結婚と申しますものは、いうまでもなく男性と女性が結ばれるものです。でも、それは何のためでしょうか? 結ばれるというのは、肉体的なことだけを言っているのではありません。精神も、そしてもっと高次元の魂も結びつくのです。それは、そこに神の栄光が現れるためです。そういった結婚は、この上なく幸せなものです。しかしそうではない婚礼ほど不幸なものはありません」


 イェースズは一息つき、ぶどう酒で口を湿らせて続けた。


「夫婦とは縦と横、火と水が従に結ばれることです。あい反するものが十字に組まれることによって、愛和の天国を作っていく責任があります。二人が情愛エロースのみで結ばれたのなら、それはにせものの夫婦です。それは姦淫に等しい。でも、魂と魂が神大愛アガペーで結ばれたのなら、それは天国にて結ばれたのです。人間の力で、それを切ることはできません。神の栄光と祝福が、皆さんの上にありますように」


 参列者の誰もが、イェースズのその高らかな声とともに会場がまばゆい黄金の光に一瞬だけ満たされたような気がしたらしく、おおっという声があちこちで上がった。

 次の瞬間、満場の歓声と拍手が上がった。イェースズはにこりと笑って席に着いた。

 そこでイェースズは感謝の想念とともに母を見ようとした。だが、母の姿はなかった。接待役として、表を飛び回っているようだ。

 夜も更けて、宴席は庭へと移された。すでに夏の盛りで昼間はかなり暑いが、夜ともなるとひやりとしている。庭には篝火かがりびが焚かれ、庭の周辺の色とりどりの花の絨毯を一層鮮やかに浮かび上がらせている。

 やがて音楽が始まった。参列者たちは幾重もの円い輪になって、手をつないで音楽とともに踊りだした。それがこのあたりの民族フォークダンスだ。小刻みに皆、ステップを踏んでそろえ、輪が回転する。その輪が掛け声とともに小さくなり、また膨らむ。そして皆が手を打つ。また輪が回転するといった単調なダンスだ。

 イェースズは輪の外にいた。その手のグラスに、いろんな人がどんどんぶどう酒をついでいった。満月は、すでに中天近くまで昇っていた。

 

 イェースズはエレアザルとともに、喧騒をよそに静かな家の裏側を歩いていた。月があるのでなんとなく歩ける。

 そのイェースズの陰になっているところで、イェースズを呼び止める女の声がした。


「あの、もし、どうしましょう、ぶどう酒がなくなりかけています」


「私にそのようなこと言われましても」


 そう言ってイェースズがよく見ると、それは母マリアだった。


「あら、花婿さんでしたの」


 マリアもおどけて言った。


「ぶどう酒がなくなりかけているのですか?」


「そうそう、どうしましょう。買いに行くって言ったってもう店は開いていないでしょうし、開いていたって運べないし」


「そんなこと、私に言われてもねえ。母さん。とにかく、給仕の人を呼んできてください」


 イェースズがそう言うので、訝しく思いながらもマリアは三人の給仕を呼んできた。イェースズはその給仕に、


「水瓶があるでしょう」


 と、言った。


「そりゃあ、ありますが」


 どこの家にも浄めの水を入れる水瓶があって、かなりの量の水が入る。


「それに水をいっぱい入れて、持ってきてください」


「はあ?」


 給仕たちは、ただただ不審そうな顔をしていた。この花婿はまさか水をぶどう酒だと偽って客に出すつもりなのだろうか……そんなふうに疑っている想念が伝わってくる。ただ、いっしょにいたエレアザルは、妙に安心した顔で師の言動を見ていた。ただ、母マリアはもしかしてと思うところがあるようで、


「とにかく、息子の言う通りにしてください」


 と、給仕たちに言っていた。

 給仕たちは三人がかりで一つの瓶に水を満たし、それを合計六つは運んできた。

 それを目の前に置いて、イェースズは目を閉じた。しかしそれは肉の目を閉じたのであって、同時にカッと霊の眼を開いていた。そして水瓶の中の水の、物質としての水ではなくその霊質を凝視した。

 そうしておいてから神に強く念じ、力添えを願った。そして自分の全身を高次元のエネルギーで満たし、黄金の霊流がどんどんとそのメンタルボディーに満ちてくるのを感じた。それをアウルに乗せ、手のひらから思い切り瓶の中の水に向かって放射した。

 水は一気にエクトプラズマ化し、エーテルが揺り動かされ、そして水からぶどう酒へというイェースズの強い想念を波動として受けて意力に動かされ、イェースズの想念が物質化現象を起こしはじめた。水がみるみる赤みを帯び、香りを放ちはじめたのである。

 その水瓶を、給仕たちは客のいる中庭へと運んだ。


 宴が終わってから、イェースズは別室で花嫁と向かい合った。当分は話ができることもない。目の前の女は確かに今日自分の妻となったのだが、まだ一年間はそれぞれの家に戻って、今までと同じ生活をすることになる。


「すべてが縁あってのことです。決して悪いようにはならないでしょう。どうか、よろしくお願いいたします」


 イェースズは、、あくまで優しく言った。だが母と同じ名の妻となったマリアは、浮かない顔で小声で返事をしただけで、うつむいてしまった。今にも泣きだしそうな顔だ。

 イェースズはこの女の過去や今の苦しみを、すべて見ぬいていた。それだけでなく、なにやら彼女の中でうごめく黒い影までをも、しっかりと霊の眼はとらえていたのである。


「何も心配することはない。私を信じて、私についてきてください」


「はい」


 女の返事は、またもや力がなかった。

 婚礼が終わったからとて、慣習によって今夜が新婚初夜ではない。それは普通は一年後になるのだが、自分にはそんな日は来ないとイェースズには分かっていた。だからといってこの妻とは、強い縁でずっと結ばれ続けていくであろうことも知っていた。

 その時ドアが叩かれ、何人かの客が入ってきた。


「おお、花婿殿。あなたは素晴らしい。普通は最初にいいぶどう酒を出し、みんなが酔っ払ってわけが分からなくなった頃にわざととっておいたどうでもいいぶどう酒を出すものなのに、あなたはいちばん上等のを最後の最後までとっておきましたね」


 イェースズはただ笑っていた。そして、ひとことだけ、


「それは私の力ではないのですよ。神様のお力です」


 客はその話がどうも分かっていないようだった。ただ母マリアは幼い頃から我が子の不思議な力を見せつけられていたにしろ、久しぶりのことだったので、恐ろしいものを見たかのように呆然と立ちすくんでいた。

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