ゼベダイの家で
イェースズがベタニヤに行くに当たって、ヨハネは弟子たちの前で正式に、イェースズが自分の代理であることを宣言した。
これで、今までのような暗黙の諒承ではなくなった。そして、イェースズと同行するものを、ヨハネが選んだ。
アンドレとその弟のシモン・ペトロ、ヤコブとその弟のエレアザル、そしてピリポ、ナタナエルの六人だった。
そもそもヨハネをベタニヤに招いたのはかの地で活動しているガリラヤの網元のゼベダイだそうだから、その子であるヤコブとエレアザルが加わっているのは当然だが、ほかのメンバーも普段からイェースズと懇意にしているガリラヤ人ばかりだった。
出発に際して、ヨハネはいやに力を入れてイェースズの手を握った。無言で「後は頼む」といっているようだった。
一行は早朝に出発した。早くに出れば途中で泊まる必要はなく、その日のうちにベタニヤにはつけるとヨハネが言ったからだ。
ベタニヤは方角的に西に行くことになる。最初は少しは草木も生えている平らな荒野の中をを進んだが、ガリラヤからエルサレムへの街道と合流して昼頃からは周りの景色が一変し始めた。
遠くを丘陵にに囲まれている平原であることは変わりないが、ほとんど草木もなくなって一面に白い砂の砂漠の中へと街道は入っていった。
最初は雪が積もっているのかと勘違いしたほどの白さで、その白さが陽光を反射してとてもまぶしいし、暑さも尋常ではなかった。それでも互いに励ましあうかのように、一行はいろいろと話をして時には談笑しながら歩いた。
さらに進むと、道の起伏が激しくなった。周りも平原から小さな岩の丘が無数に連なり、道はその合間を縫って蛇行するようになった。ここがいちばんつらい道で、丘の陰に潜みやすいところから盗賊にも気を付けなければならない。
イェースズの一行は結構大人数なので、盗賊も狙いにくいだろうとは思ったが一応警戒しながら進んだ。
そしてどうにかその山岳地帯を抜けて道は平たんとなり、少し緑もまた増え始めた。そしていくつかの村も点在するようになってから、ようやく目的地に近づきつつあることを知った。
やがて、村の頻度が増えていき、それが町になり、いつしかベタニヤに到着した。
町は小高い丘の上にあって、全体が緩やかな傾斜になっている。四角い石をきれいに積み上げた長方形の箱型の家が斜面の上から下へと段々に並び、その間に樹木が申し訳程度にある。
すでに日は西に傾きつつあった。
そんな町に彼らが足を踏み入れたとたん、彼らに近づいてくる一人の男がいた。しかもその若者はイェースズを見て、
「イスラエルの王よ、お待ちください」
と、言ったのである。イェースズは振り向いた。
「私は王なんかじゃありませんが、あなたは……?」
「あなたは、神の国が近づいていると言われたじゃないですか」
その時ヤコブが、イェースズに耳打ちした。
「これは収税人です。かかわらない方がいい」
確かにその身なりのよさは、収税人のようだった。そしてイェースズは、すぐに思い出した。たしかヨハネに代わって演説した時、群集の中にこの若者はいた。
「確かに、神の国は近づいていると言いました」
イェースズはヤコブの忠告は聞かずに、足を止めた。収税人といえば、人々から蛇蝎のごとく嫌われている存在である。ローマ当局はこのユダヤの人々から税金を徴収するのに自らの手は出さず、ユダヤ人によってユダヤ人からローマへの税金を徴収させた。そのローマに任命されたユダヤ人の税金徴収係が収税人である。
ローマから高給をもらって裕福に暮らしている彼らは、ユダヤ人でありながらローマの手先になっているとして嫌われていた。嫌われているだけではなく、パリサイ人などに言わせれば民族の裏切り者であり、決して救われない「罪びと」なのである。
だからヤコブはそう言ったのだし、ほかの弟子たちも少し距離を置いて立っていた。イェースズだけが一人ニコニコして、その若者の相手をしている。
「どうして神の国を説けば、それが王ということになるのですか?」
「神の国が近づいたと分かるのは、あなたがその王座に座る王だからでしょう?」
「いいえ、そうではありませんよ」
イェースズの態度は彼を罪びととして差別するでもなく、あくまでも柔和だった。その若者の驚きの想念が、イェースズに伝わってきた。もうここ何年も、彼は誰からも慈愛に満ちたまなざしを持って見られたことはなかったようだ。イェースズはさらに微笑みながら、優しく諭すように話を続けた。
「確かに、神の国は近づいています。でもそれは、肉の目で見ることはできないんですよ。その王国は、目には見えないんです」
若者は、イェースズの言っていることが理解できないようで、首をかしげていた。彼らの常識では、メシアといえばローマの植民地支配からユダヤを救う民族自決の烈士にほかならない。しかも、ローマの手先であるはずの収税人にとってでさえ、そうなのだ。
「いいですか。来るべき神の国とは霊的なもので、この地上に現存する国とは違うんです。霊的な国がこの地上に顕現されるということで、その王というのは人間ではないのですよ」
今の人々には理解は無理だろうとイェースズは思いつつも、イェースズはまだ話を続けた。
「人間がこの地上で新しい国を作るときには、武器を持って戦争をして、他国を滅ぼしたりしますね。でも神様が霊的な王国のこの世に顕現される時は一滴の血も流されることなく、歓喜のうちにその大革命は行なわれるんです。神様は、地上の権力を滅ぼしたりはなさいませんよ。神様が嫌われるのは、不正や罪、穢れだけです」
「あなたは、メシアではないのですか?」
「メシアとは人間ではなくて、天地創造の神様そのものなんです。この私は肉身を持った人間にすぎません。しかし、自分の霊籍は知っています。私は紛れもない神の子で、それが肉身を持って人となっています。人となった神の子、つまり人の子なんです。いいですか、このへんを誤解しないで下さい。私は自分が神の子で特別と言っているのではないのですよ。肉身を持っていても、肉体感覚だけに振り回されてはだめです。私の中に神が宿っておる、つまり私が神の子なら、あなたも、そしてそのへんにいる人も、ひいては全世界の全人類の一人一人が、皆紛れもなく神の子です。自分の中にある神性を見つめ直してください」
「私が神の子ですって?」
「そうです。なぜなら神様は土で人を創って、そこに神の命の息吹を吹き込まれたと聖書にあるではないですか。人の肉身は土で創られましたけれど、魂は神様そのものなんです。神様の霊質を引きちぎって、一人一人の魂として神様は入れてくださっておられるんです。あなたが浄まれば、あなたの中にある神性を見出すことができるんです」
「浄まるって、どうすればいいんですか?」
思った以上に長い立ち話になっているので、イェースズと同行していたヨハネの弟子たちは、遠巻きにそれを見ながらイェースズの話を聞いていた。
「いいですか? 思い、言葉、行いで魂を浄めるのです。魂が浄まれば心と体も清まってくるんです。要は悪想念を、いかに真・善・美の想念に転換させるかということですね。それを悔い改めというのです」
「具体的には?」
「そうですね。では最初に、自分がほかの人にしてもらいたいことを、まず自分が他人してあげたらどうですか?」
「はあ、なるほど」
若い収税人は、感心したため息をついていた。
「ところで、あなたもガリラヤの人ですね」
と、イェースズの方から話題を変えた。若者がガリラヤ人であることは、言葉の訛りですぐに分かる。
「はい。アルパヨの子で、レビといいます。父アルパヨは、あなたの師のヨハネの友人ですが」
「そうですか。故郷はガリラヤのどこですか」
「カペナウムです」
「おお」
イェースズはうなった。
「私と同郷なのですね。私もカペナウムですから」
「え? 本当ですか?」
レビと名乗った若者は、目を皿のようにしていた。
「あなたとは因縁がありそうだから、またお会いする日が必ず来るでしょう。その名前、覚えておきます」
最後にイェースズはもう一度にっこりと笑って、その場を後にした。
しばらく町の中を行くと、坂道に一人の初老の男がニコニコして立っていた。
「お父さん。ほんの少し帰ってきました」
と、ヤコブが挨拶をした。つまり、この人がヤコブ達兄弟の父のゼベダイなのだ。がっちりした体格の、貫禄のある風体だった。
「イェースズ師ですね。息子からの手紙であなたのことはよく存じ上げております。さ、どうぞ」
気さくな男だった。ベタニヤでは、もちろんこのゼベダイの家に泊めてもらうことになっていた。ヤコブとエレアザルにとっては父の家だが、彼らはガリラヤ育ちなので、父の家に入るのは初めてだった。それは家というより、屋敷だった。ガリラヤ湖の魚をエルサレムに運ぶことで、この網元は大きな富を得ていた。
「いやあ、この間は素晴らしいお話をなさったそうではないですか」
「いや、お恥ずかしい」
イェースズたち一行は、その豪邸の中へと招き入れられた。廊下を歩きながら、ゼベダイはイェースズを見た。
「みんなの前で話をされるということは、相当前から内容を考えているのでしょう?」
「いいえ」
イェースズは意外な答えをした。
「頭では何も考えないんです。私の話は、頭で考えたことではありませんから。何も考えないで、頭を空っぽにしてみんなの前に立つと、その時に神様が話すべき内容を与えてくれて、気がついたらもうしゃべっているんです」
「いやあ、それこそ御稜威というものでしょうな」
感心した声を上げたあと、ゼベダイはふと我に返ったように、よく日焼けした手をイェースズに差し出した。
「ともあれ、今後ともよろしくお願いします」
「私も、この出会いを大切にしたいです」
二人はしっかりと手を握り合った。
その晩は、歓迎の宴となった。ゼベダイはイェースズに赤く美しいぶどう酒を勧めながら言った。
「あなたは、お酒は飲まれますか?」
「はい、戴きます」
「ヨハネ師は飲みませんからねえ。うちに来られた時も『酒は肉の体を喜ばせるが、魂は悲しませる』と聖書に書かれてあるといって、一滴も口にされませんでしたけど」
「それはまあ人それぞれですが、私は嫌いではありません」
そう言ってイェースズは大きな声で笑い、杯を受けて干した。ほかの弟子たちはヨハネに倣ってか誰も飲もうとしないので、イェースズは彼らにも促した。
「さあ、皆さんもいかがです?」
「しかし……」
ためらう弟子たちに、イェースズはしきりに酒を勧めた。
「まあ、いいから」
最初に杯に手を出したのは、ペトロだった。それからは、皆本来は酒が好きであったようで、次々に杯を干していった。
「世間一般の人々は、お酒が好きな方が多いですね。皆さんが飲むんだから、私も飲む。そういうふうに、人々のレベルにまで自分の方から降りていかないと、人々を救うということはできませんしね」
また、イェースズは大声で笑った。まじめに言えば嫌味ともとれる内容を、笑って言うことで冗談半分という印象を与え、誰からも悪くはとられなかった。
その日からイェースズは近くを散歩したり、ゼベダイと語り合ったりして毎日を過ごした。
ここからはエルサレムは目と鼻の先で、小一時間も歩けば着ける。だが、今のイェースズには、エルサレムまで行ってみようという気にはなぜかなれなかった。そして弟子たちはいぶかって、ペトロが代表でイェースズに言った。
「なぜヨハネ師は、我われをここによこしたんでしょうかね。来たからといって、これといった用事もなかったような気がしますし」
だがイェースズにはヨハネの悲壮な覚悟が分かってはいたし、故意に弟子たちの中でも選りすぐりのメンバーを本拠地から去らせたのだったであろうが、あえてイェースズは弟子たちには言わなかった。
そんなある日、イェースズが散歩から戻ると、いつも陽気なゼベダイが悲痛な顔つきで座っていた。
「どうかしましたか?」
イェースズもただならぬ波動を感じて、ゼベダイのそばに駆け寄った。
「たいへんなことになりましたよ。ヨハネ師が……」
「え?」
その後の、
「ローマの兵に捕らえられたと……知らせが……」
という言葉は、イェースズの予想通りだった。それでも、イェースズはひとかたならず驚いた。そして、
「ほかのみんなは、知っていますか?」
と聞くと、ゼベダイは首を横に振った。
「まだ、誰にも話してはいません。特にうちのヤコブやエレアザルに話したら、ただでさえ気性の激しいやつらだから、何をしでかすか分からない」
イェースズはもっともだと思った。
「みんなには、まだ話さないで下さい」
イェースズは、それだけをゼベダイに言った。
イェースズは、ここへ来る前にヨハネが悲壮な顔で何かを自分に伝えようとしていたことを思い出した。何かを覚悟し、何かを決意していた。しかもイェースズはそれが何なのかをすでに見通していたが、あえてヨハネの言いつけ通りにヨハネのいる場所を後にしてここへ来た。
その晩、ほかの弟子たちが寝静まってから、イェースズはそっとゼベダイの寝室を訪ねた。最初から、その打ち合わせだった。
寝室にはゼベダイの娘たち、すなわちヤコブやエレアザルの二人の姉のマルタとマリアも来ていた。マリアはイェースズの母と同じ名だが、それは女性の名としては実にありふれた非常に多い名前なのである。四人はなるべく声を立てぬよう、寄り添って静に話した。
「で、師が捕らえられたいきさつは?」
イェースズの問いに、ゼベダイは引きつった顔でイェースズを見た。
「ヘロデ王に諌状を書いたそうだ」
「ヘロデ王の離婚と後妻のことですね」
「あなたは知っておらるのか」
思わずゼベダイは大きな声を上げ、イェースズはそれを抑えた。ヘロデ・アンティパスは亡き弟の妻であったヘロデヤを手に入れるために、妻を離縁した。しかしそれは離縁というより、ほとんど追放だった。
そのことに対してヨハネは、聖書のレビ記の一節を引用して諫状を書いてヘロデ・アンティパスに突きつけたのだという。
それを見たヘロデ王が怒り狂うであろうことは、容易に想像がつく。しかも、ヨハネの集団は、ヘロデ・アンティパスからもローマ当局からも危険視されていたのだ。だが、容易に想像といえば、ヨハネの性格からいってそのようなことをしでかすであろうこともまた容易に想像がつくことであった。
「ヨハネ師はお酒を一滴も口にされなかったというほどの潔癖症だから、ヘロデ王が許せなかったのでしょう。とめても無駄だったでしょうね」
イェースズはそう言ってから、しばらく黙った。ゼベダイも同じように黙った。マルタとマリアは、それを黙って聞いているだけだった。
「で、ヘロデ王の兵が、直接師を捕らえたんでしょうか」
「いえ。その諫状をローマの知事にまわして、ローマ当局に捕縛を依頼したようです。実際に師を捕らえたのは、わざわざカエサリアから駆けつけたローマ兵だったようですから」
この事実は、ヨハネ教団が危険思想団体としてローマ当局のブラックリストにも載っていたということを物語るものであった。ローマ当局の目にはヨハネ教団が現存する反ローマの過激派、特に熱心党などと同種のものとして映っていたのだ。さもなければ、いくらヘロデ王の要請があったからとてローマは簡単に兵を出したりはしない。
ヘロデ・アンティパスが表面上の理由である自分への諫状だけなら、ローマにとっては異邦人のお家騒動にすぎない。だが、ローマにとってはヨハネを捕らえる絶好の口実となった。
「それでヨハネ師は今どこに?」
「塩の海の東の、マケラスに繋がれてるということです」
イェースズの問いに対するゼベダイのこの答えによっても、ヨハネを捉えたのはローマであることは確実となった。マケラスは、ヘロデ・アンティパスの領地ではないからだ。つまり、ヨハネの身柄はまだ、ヘロデ・アンティパスには引き渡されていないということにもなる。
ゼベダイはまた悲壮な顔をして、うなだれたまま言った。
「今、さしあたっての問題は、このことをうちのせがれたちやほかのお弟子に、どうやって告げるかですな」
「これは難しい」
イェースズもため息をついた。そして意を決したように、顔を上げた。
「いずれにしても、夜が明けたら言わないわけにはいかないでしょう。私から言います」
「そうして下さいますか」
ゼベダイの顔に、ほんの少しだけ安堵の表情が浮かんだ。
夜が明けてから、イェースズは六人のヨハネの弟子を、ゼベダイの家の大広間に集めた。ゼベダイや娘たちは、あえて席をはずしていた。
「落ち着いて聞いて下さい。ヨハネ師が捕らえられたんですよ」
誰も目を見開いたまましばらく言葉が出ないようで、口をぽかんと開けたまま蒼ざめた顔になっていた。
「いったい、どういうことなんですか?」
ようやくヤコブが、怒鳴るように口を開いた。すでに肩で息をしている。
イェースズはゼベダイから聞いた情報に自分の状況判断を若干加えて、手短に説明した。すぐに立ち上がったのは、ヤコブとエレアザルの兄弟だった。
「早く行きましょう!」
そんな二人を、イェースズはゆっくりと見上げた。そんな落ち着いているイェースズが、二人には歯痒かったようだ。
「早く!」
「早くって、どこへ?」
「決まっているでしょ! 師を助けに行くんですよ!」
「助けるって言ったって、ローマ兵の守りは堅い。それをたった七人でどうやって?」
「何をのんきなことを言っているんです? それでもあなたは、師のお代理ですか?」
「まあ、ちょっと待て」
と言って立ち上がったのは、ペトロだった。
「とりあえず、戻ろうじゃないか」
両手で一同を抑えるように、ペトロはゆっくりと言う。
「どうするかは、それからだ。ここはエルサレムにも近いから、我われがここにいることが分かったら我われも危ない」
「しかし戻ったら、師から遠ざかる。マケラスなら、ここからの方が近いではないか。一度戻って引き返しているうちに、師にもしものことがあったらどうする」
エレアザルがそう言って反論し、ヤコブもそれに同調した。
「そうだ、シモン。あんたはこんな時も、師のことより自分の身の安全を考えているのか!」
たが、ほかのピリポやアンドレがペトロに同意し、イェースズも、
「ヨルダン川に戻ろう」
と言ったので、ヤコブもエレアザルもしぶしぶという形でそれに従うことにし、一行は慌しくベタニヤの町を後にした。
とにかく、残された弟子たちは路頭に迷っていることだろうと、彼らは道を急いだ。情報によると捕らえられたのは師のヨハネ一人で、教団のメンバーが根こそぎ捕縛されたのではないらしい。
しかしまる一日の道のりを半日でたどり着いた時は、岩山の麓の教団の本拠地は無人の廃墟と化していた。小屋などはそのままだったが、誰一人としていない。ただ、ついこの間までここで人が生活していたという跡だけが、乱雑に残っていた。
「こんなものだろう」
と、ペトロがつぶやいた。ひとたび師が捕らえられたとなると、五十人ほどいた幹部や弟子たちは、蜘蛛の子を散らすように逃亡してしまった。自らの身にも災難が降り注ぐことを危惧してのことだろう。
洗礼を受けただけで去っていく人たちの中でも、去らずにヨハネのもとに残った篤志の人々であったはずが、このざまである。人間の真心など、所詮はこのようなものかとさえ思ってしまう。
そこで、残された七人はヨハネの小屋だった所に入って、まるくなって座り込んだ。しばらくは、皆無言でいた。
しばらくして、ヤコブがまた立ち上がった。
「すぐに行きましょう。ここにいる全員が討ち死にしたとしても、師を助け出しに行くべきだ。すたすたと逃げたやつらと我われは違う」
また、エレアザルが言葉を受けた。
「そうだ。師への真心を示すんだ」
この兄弟は、どうも気性が激しい面でも気が合っている。
「まあ、二人ともお座りなさい」
イェースズが、なんとかその二人を静めようとした。
「あなたがた二人はゼベダイの子といいますが、ゼベダイの子というよりも雷の子ですね」
あくまでイェースズは落ち着いて、着実にものごとに当たっていた。
「それよりも皆さん。我われもとりあえず、それぞれ自分の家に戻りませんか?」
このイェースズのひと言は皆にとって意外だったようで、誰もが驚いて顔を上げた。
「しかし……」
おどおどしながら上目遣いに、ピリポがイェースズを見た。
「ここにいるみんな、ガリラヤに家がある。ヘロデ王の治めるガリラヤにいたら危険ではないですか?」
イェースズは少しだけ、微笑んで見せた。
「私は心配していない。私は神様からお与え頂いた命を、まだ全うしていません。命は使命でもあります。それを果たすまでは、たとえ死を願っても神様はそれをお許しにはならないでしょう。すべては、神様のお許しがってのことですからね。私のなすべき仕事は、これから始まるんです」
皆再びうなだれて、イェースズの話を聞いた。
「ヤコブやエレアザルの気持ちも分かりますし、ピリポの心配ももっともだと思いますよ。だけど、師がヘロデ王にというよりもローマ兵に捕らえられたのだから、ガリラヤにいた方がむしろ安全かもしれませんね」
もう誰も、反論するものはいなかった。
「とりあえず今夜はここで寝て、明日の朝にそれぞれの家に帰ることにしましょう」
と、イェースズは言った。
翌朝、一行はまた旅支度だった。そして小屋を後にした一行は、誰が言い出したのかヨハネがいつも洗礼を施していたヨルダン川の川原に行ってみることにした。今までは毎日おびただしい数の人々が押しかけていた川原だったが、ヨハネが捕らえられた情報は人々の間にも伝わっているようで、今は人っ子一人いなかった。
どうしても、一種の寂寞感を覚えてしまう。
「水の洗礼の時代は終わる」
イェースズは、ぽつんとそうつぶやいた。
そして一行は、ガリラヤ目指して北上した。空は透き通るように青く晴れていた。
それぞれの家に戻ると言っても、しばらくは皆同じ方向に進むことになる。歩きながら誰もが、これからどうするのかということを考えているようだった。皆、口数少なく黙々と歩いている。
イェースズにとっていえることは、自分はヨハネのような人里離れた原野で教えを広めるより、人々のいる都市の方が性に合っているのではないかということだった。
やがて二日後、ようやくガリラヤ湖が見えるところまで行きつき、一行は休憩した。炎天下とはいっても南の方の砂漠の中を進むのではなく、ガリラヤの緑豊かな大地の旅なので、幾分気が楽だった。涼しい風が、一行の頭の上を通り過ぎていく。
「あなたは、これからどうするのですか?」
みんなが考えていることを、ペトロがイェースズに切りだした。
「とりあえず母のいる家に帰るが、そのあとのことは神様にお任せですね」
イェースズはにっこりと笑った。
「皆さんもそれぞれ家は近いから、何かがあったらすぐに集まれますよ」
「いいえ」
ペトロは、イェースズの座っているそばに近づいて、目を見ながら言った。
「これは昨日の夜にみんなで話し合って決めたんです。あなたをあらためて、師と呼ばせてください」
前にも申し出た時は、イェースズはそれをやんわりと拒絶した。しかし今日は、涼しい眼を六人に向けた。
「あなたがたがそう望むなら、いいでしょう。私はヨハネ師から『後のことは頼む』と託されました。あなたがたのことも、その中に入っているのかもしれませんね」
六人の顔が、パッと輝いた。ここでは師と弟子の集団というのはよく見かけるもので、サドカイ人やパリサイ人の間でも一人の師に数人の弟子がつくというのは普通のことだった。イェースズの感覚は、その普通のことを越えてはいなかった。
「私は、ヨハネ師のようにはしないよ」
と言ったからである。
「どういうことですか?」
ペトロの問いに、微笑とともにイェースズは優しい目を向けた。
「教団は作らないということだ」
師と呼ばれる以上、敬語がない言語ではあっても少しイェースズは言葉つきを改めた。それが立て分けというものであると心得ていたからだ。
一人の師に数人の弟子がつくというのは普通のことであっても、群集が信者となって教団を形成するというのはあまりなく、それだけにヨハネ教団は異色の存在だったのである。しかしペトロたちはその真意が分からず、怪訝な顔をしていた。
ここガリラヤでは少ないにしても、世界では教団という形の集団が無数にある。しかし、自分がここで一教団を打ち立てるのが、果たして神のみ意なのだろうかとイェースズは考えたのだ。
パリサイ人やサドカイ人など、宗門宗派に分かれて争ってさえいる。イェースズ自身もかつてブッダ・サンガーという一つの教団に属したこともあったが、ゴータマ・ブッダの死後にその教団は形骸化し、ブッダがかつて反発したというバラモン教と同じような一宗教になってしまっていた。そのことを悔いても悔やみきれないとブッダの御神霊がかつて直接イェースズに訴えてきたその言葉は、今もイェースズの心の中にはっきりと刻まれていた。
神の教え、神理のミチ、天地創造の時に定められた万世弥栄えの仕組みの置き手は、決して宗教ではない。宗教とは、あくまで人造のものである。人間が人知でこしらえたものだ。現に、イェースズが実際に探訪してきた神界・神霊界に宗教などというものはなかった。だからイェースズが数人の弟子をもって、また多くの人々に説こうとしている教えは、宗教という垣根を破った全人類的な普遍なる神の法なのである。
だが同時に、今世の人々がそのようなことを理解し得ないことも分かっていた。特に自分の同胞は、ユダヤ教という宗教にとっぷりと浸かっている。それも無理はないことで、世界を見てきたイェースズと違って、彼らにとってはユダヤだけが全世界なのである。外の世界といってもせいぜいギリシャやローマくらいしか、その意識の範疇にない。
いずれにせよ、イェースズは宗教の教祖になるつもりはなかった。だが、ついてくるものにはついてこさせようとも思った。それが神のみ意である以上、そうするしかないと思うのである。
イェースズはそのようなことを考えながら沈黙した後、かつてはヨハネの弟子で今は自分の弟子になった六人を再び見た。
「ここにいる私を含めた七人は、何かしらの因縁があるんだな。ガリラヤに着いたら、それぞれの家の近くで、同じような因縁の魂を探そう。そういう人たちは、必ずわれわれの周りに吹き寄せられてくる。そうしたら、また集まろうじゃないか」
弟子たちは、一応うなずいていた。
一行はまた、歩き始めた。湖と反対側の高台の上は、一面の麦畑が続く。だが今は麦はない。
「あのう、先生」
ピリポが半歩前を歩きながら、振り返る形でイェースズに問いかけた。「お伺いしたいんですけれど、先生はこの間、すべてのことは神様のお許しがないとあり得ないとおっしゃいましたけど、なぜ神様はヨハネ師が捕らえられて投獄されることをお許しになったのですか?」
イェースズは即答した。
「神様のなさることは、人知では判断がつかないものなんだ。神様は人間をはるかに超越されたお方だから、その計り知れないご計画は、人知であれこれ論じることのできるものではない」
一応弟子たちは、うなずきながら歩いている。そんな彼らに、
「ほら、あの麦畑を見てごらん」
そこにはすでに収穫された後のわらが残っているだけだった。
「穂が実って収穫されたら、茎はあの通り倒れているだけだ」
「用が済んだから、土に戻るのですね」
口数少ないナタナエルが、真っ先に答えた。
「そうだね。ヨハネ師は茎とはいっても、黄金の茎だった。どんな教団でも、神様が必要あって下ろされたものだ。でも、神様のご計画はどんどん進んでいるから、役目を終えたという教団が出てくるのも自然だ」
「では、ヨハネ師の役割はも終わったのですか?」
「それは神様がお決めになることで、人間である我われが判断できるものではないんだよ」
「では先生の役割もいつかは終わるんですか?」
心配そうな顔をしたのは、エレアザルだった。
「私には分からないね。神様がお決めになることだからね」
「先生も、ヨハネ師のように捉えられて投獄されてそいしまうんですか?」
「それは分からないけれど、でも、神様から頂いたみ役はここで終わりという日が来るかもしれないね」
ヤコブがイェースズの少し先で立ち止まって、激しく振り向いた。
「あり得るということですか?」
「分からないね」
イェースズはニコニコ笑ったままだった。
「私が教えを説くに当たって、このままではと神様はお考えになったのかもしれない。神様は、地ならしの教団を下ろすこともある。すべては神のご計画のままにだ。だからヨハネ師が捕らえられたことも、嘆く必要はない。今は善が悪にしいたげらてしまう世の中だけど、いつか勝つのは神のみ意にかなったものだよ。いつかは悪はアバカれて信賞必罰の世がくる。やることをきちんとやったら、後はすべて神様にお任せするんだ。それくらいに、神様に対する絶対的信頼感を持つべきなんだよ」
やがて誰もが、故郷に包まれていることを実感した。故郷は懐かしい。故郷は暖かい。その故郷で、イェースズは活動を始める。
何が待っているのか、何か起こるのか、イェースズはガリラヤ湖の湖畔を見ながら、そんなことを考えながら歩いていた。




