ヨルダン川の教団
そうして月日を過ごしているうちに。イェースズはどうもこの教団の中で特別待遇を受けているというような気がしてならなかった。
彼としては、ほかの弟子たちと同じように振舞っているつもりである。それでも、弟子たちの自分に対する態度が違うのだ。待遇もヨハネの新米弟子というより、明らかに幹部の一員として扱われて、小屋も一軒与えられた。
しかしことは簡単で、イェースズがヨハネの又従兄弟であることは、誰もが知っている。しかもイェースズがヨハネから洗礼を受けた直後にイェースズに御神示が下ったとき、ヨハネの目には鳩の形をした炎が空から下ってきてイェースズの頭上で輝いているように見えたようで、それを弟子たちにもう言いふらしているのだ。
だがイェースズは何も気にせず普通に生活することにしていた。それよりもイェースズは、五十人ほどいる弟子のすべては無理だとしても、めぼしい幹部の名前と顔を一致させたかった。
最初に名乗りあったアンドレとピリポのほかに、自分の弟と同じ名前のヤコブの名もすぐに覚えた。彼らもまたガリラヤ人である。アンドレは少しイェースズよりも年長のようだが、みなほぼ同世代だった。
ヤコブの父はゼベダイというガリラヤ湖の漁師の総元締めのような人で、ガリラヤ湖で採れた魚のエルサレムへの運搬と販売をすべて請け負っており、今はエルサレムに近いベタニヤにいるという。この漁師であり豪商でもあるゼベダイが、息子たちの縁でヨハネ教団の経済的支援者になっているようだ。
そうして気がついてみると、五十人ほどの弟子たちもほとんどがガリラヤ人であった。ここはガリラヤからは遠くてむしろエルサレムに近いのにガリラヤ人が多い、それだけにイェースズが溶け込むのは簡単だった。
そんなある日、バプテスマを終えて幹部たちが自分たちの小屋へと帰途についていた時である。
「イェースズ」
と、後ろから声をかけられた。呼んだのはアンドレで、そしてピリポやヤコブもいた。
「今日、あなたの小屋をお邪魔してもいいですか」
イェースズはにっこり笑った。
「かまいませんが、何か用でもおありですか?」
「いえ、別に用はないのですけど」
「そうですか。まあ、どうぞいらっしゃってください」
と、イェースズは明るく笑って言った。
「では、後ほどうかがいます」
そう言ってアンドレたちは、一度は自分たちの小屋へ帰った。
しばらくしてやってきたのは、アンドレたちのほかにもう一人別の人を連れてであった。
「弟です。昨日たまたまカペナウムから来ましてね、イェースズの話をしたらぜひ会ってみたいと」
「シモンと申します」
いかにも漁師らしい、無骨な男だった。
だがその顔を見たとたん、イェースズの記憶の中であるシーンが蘇った。それは故郷を離れて幾星霜、ようやく故国の地に帰り着いた時、カペナウムまでガリラヤ湖を漁師の小舟で送ってもらったものだった。
「そうだ、あなただ。私をカペナウムまで漁船で送ってくださった漁師の方は」
「そういえばなんか、そんなことがありましたっけねえ」
シモンの記憶の方はあやふやだった。もう数ヶ月も前の話だ。
「いやあ、やはりすごい方ですな。たったほんのちょっと舟にお乗せしただけで、私のことを覚えておいてくださっただなんて」
シモンは、しばらくヨハネ教団の中に留まるとのことだった。
こうして、次々に紹介されて、イェースズの交際の輪は広がっていった。
次の日は、やはり同じ頃ににピリポが、同じガリラヤの友人だといって別の弟子を連れてきた。その顔を見るなり、イェースズは笑って言った。
「また、すごい方を連れてきてくれましたね」
なぜ初対面ですごいなどと分かるのかといぶかる想念波動が、イェースズに伝わってくる。そこでいイェースズは言った。
「あなたは、聖書をだれよりもよく読んで、その研究に没頭していますね」
「え? なんでそんなことまで? たしかにあなたは、ピリポが言うように素晴らしいお方だ。あ、申し遅れました。私はトロマイの子で、ナタナエルと申します」
そして同時に、ヤコブは自分の弟のエレアザルを連れてきていた。そんな人々がイェースズの狭い小屋の中でひしめき合った。
「あなたこそ、救世主だ」
と、唐突にシモンが言った。
イェースズは声を上げて笑ってから、シモンの顔を見た。
「どうでもいいですが、そのユニークな顔はなんとかしてくださいよ」
「これだけは持って生まれたものですし、なんせ漁師ですから」
言われたシモンも、怒るでもなく笑っていた。
「あなたもなかなか頑固そうですね。まるで岩のような顔ですよ。思わず、ペトロと呼びたくなりますね」
「何ですか? そのペトロって」
「ギリシャ語で岩のことですよ」
一同、大笑いだった。
「本当は、岩のような硬い信仰心を持ってもらいたいと思いましてね。あなたは漁師だということですが、これからは魚ではなく人間を獲る漁師にしてあげましょう」
「人間を獲る漁師?」
しばらくしてから、ペトロと名づけれられたシモンは、
「師」
とイェースズに向かって叫んだ。イェースズは、それは手で制した。
「ここで師というのは、ヨハネだけです。私もそのヨハネの弟子なんですから、きちんとけじめをつけなくてはなりませんよ」
「はい」
シモン・ペトロは静かにうなずいた。
「分かりました。でも、私はあなたについていきたい」
「ついてきて、どうするのです?」
「救われたいからです。いえ、自分がではなくて、この国を救うためです」
あまり学問のなさそうな様子の漁師のペトロだが、その言葉には力が入っていた。
「では聞きますが、どういう状況になったら救われたといえるんですか?」
「それはもちろん」
そこへ、ヤコブが口をはさんだ。
「このローマの圧政から、イスラエルの民が解放される時です。そのための支配者こそがメシアではないですか」
イェースズは苦笑しながら、もう一度自分がペトロと名づけた男を見た。
「私についてくるって言いましたけれど、ついてくるって言うのは、一切の欲望も、自分さえも捨てるということなんですよ」
顔も笑顔だし、口調も優しかったが、いつしかイェースズの目は厳しい眼光を放っていた。
「私はすべての人を救いたい。でもですね、私は救われたいっていう人の手を引いたりおんぶしたりして、救いの道に入れて差し上げることはできません」
誰もが言葉を忘れて、イェースズに見入った。
「そういう意味では、ヨハネ師よりも私の方が厳しいかもしれませんね。それに、私の言う救いというのはローマがどうのこうの、イスラエルの民がどうのこうのというような物質的なものではなくて、もっと全人類的な、もっと霊的なものなんです。地上の王なんて、私は興味はありませんから」
「おっしゃることがよく分かりません」
はじめてヤコブが、口を挟んだ。
「全人類って、イスラエルの民とローマ人を合わせてということですか?」
それを聞いて、イェースズは思わず失笑してしまった。
「あなたがそう思うのも無理はありませんが、全世界には何億という民がいるんです。イスラエルの民もローマ人も、その中の一つに過ぎないんですよ。世界には肌の黒い人、黄色い人とか、それこそいろんな民がいます。私はそれらをこの目で見てきましたからね、間違いないんです」
「黒い肌?」
エジプトにさえ行ったことがない彼らが、驚くのも無理はないとイェースズは思った。自分でさえ、初めて肌の黒い人々を見た時は度肝を抜かれたものだった。
「あなたはやっぱり素晴らしい。あなたについていきたい」
そう言ったペトロを、ヤコブはまだ押しのけていた。
「霊的な救いって、何でしょうか。あなたについて行けば、そのイスラエルの独立よりも素晴らしい霊的な救いというのに行き着けるんですか?」
「その、私について行けば、というのが曲者なんですよ。ついていくというのを、ただ崇拝して崇め奉って、その前でひれ伏すことだと思ったら大間違いです。ただ、いっしょにいて行動を共にすることが、ついていくということとも違います」
「では、どうすればいいんですか?」
一途な岩のペトロの目が、ますます一途になっていた。
「いいですか? 『私を崇めなさい。そうすれば救われる』なんていう師がいたら、それは偽者だと思った方がいいですね。救われの道って、そんなに甘くないんです。この人にただついていけば救われる、おんぶに抱っこで救いの道に入れてもらえる、そんな心はすぐに悪魔に隙を与えます。本物のメシアは、人々に魂の覚醒を促すんです。だって、自分を救えるのは、自分しかないんですよ」
一同、波を打ったように静まり返った。
「ヨハネ師をご覧なさい。決して自分についてくれば救われるなんておっしゃらない。いいですか。魂の覚醒を促すというのは、普遍なる神の置き手の法、神理のミチを人々に教えるために、神様から遣わされる方です。ですから、甘くはないんです。甘チョロじゃないんです。厳しいんですよ。なぜならその教えを聞いても、生活の中で実践するかしないかはその本人にかかっているんです。神様は人間に自由を与えておいでです。ですから、教えを聞いて実践しないのも自由だけど、その結果としてその人が地獄に落ちるのもその人が自分で自由に選んだということになる。それは神様が悪いのでも導く人が悪いのでもなく、その人自身の責任です。地獄へ落ちるのは裁かれて落ちるんじゃない。自分で地獄を選ぶんです」
しばらく沈黙があった。どうも、皆よく分かっていないようで、この人は何を言っているんだろうという波動が伝わってくる。やがて、ペトロが顔を上げた。
「じゃあ、メシアについていってはいけないんですか?」
「いや、そういうことではありませんよ」
イェースズはあくまで笑顔を絶やさず、口調も穏やかだ。
「私がいけないと言ったのは、メシアを人物信仰で祀り上げて、崇拝の対称にしてしまうことなんです。本当のメシアなら救われる法則を説いてくれるはずですから、皆さん一人一人がそれを実生活の中で実践するんです、それが救われのミチなんです。メシアを拝んでも、救われるというものではないんですよ。救われのミチは自分の足で歩いて、自分から入っていかないといけないんです。地獄が裁かれていくところじゃなくて自分で選んでいくものだと言いましたけれどね、天国も同じです。誰かに救われて連れて行ってもらうところじゃなくて、自分の自由な意志で選んで、自分の足で入っていかないといけないんです。メシアは、その案内人にすぎないんですよ」
「分かりました」
と、ペトロがうなずいた。だが本当に分かっているのかどうか怪しいものだとイェースズには思われたが、すべては段々であるとイェースズは自分に言い聞かせていた。
雨季も終わり、春が近づいてきた。だが春は短く、すぐに夏が来る。
この頃になると、ヨハネはイェースズにもともにヨルダン川での洗礼をさせていた。二人が並んで人々に洗礼を授けるので、今までは一列だった行列も、今では二列になっていた。ヨハネといっしょに洗礼を授けることが許された弟子は、幹部といえども一人もいない。そこで、イェースズがこの教団のナンバーツーになっていることは、誰もが暗黙のうちに認めるところだった。
イェースズの授ける洗礼は独自のものではなく、ヨハネがしている水の洗礼をそのまま踏襲しただけのものだった。ただ違うのは、受洗者に水をかける短い瞬間に、額に手をかざして高次元の霊流を与えていたことだ。
その時イェースズは、その相手を愛しきっていた。すべての人が愛しても愛し尽くせない天の親神様の被造物で、いわばすべての人が神の子なのである。親神様を愛するあまりに、その子まで愛するのは当然のことだった。
ここに来た人すべてが救われてほしいとイェースズは心から願い、愛と慈しみの心で、一人一人の幸せを願ってその眉間に手をかざしたのであった。
ヨハネから洗礼を受けるかイェースズから受けるかは、人々は自分がどちらに並んだかによる偶然の結果だと思っている。しかし、実際はその人の魂の状態、前世の因縁などによって神様に篩い分けられているということをイェースズは感じていた。
それにしても相変わらず毎日おびただしい数の人が押し寄せるが、ヨハネの弟子としてここに残る人がほんの一握りであることも相変わらずだった。ヨハネは今でも洗礼の前に説教をするが、たいていの人は聞いていない。皆、早く罪の許しが得たくてむずむずしている。
たしかにエルサレムの神殿で贖罪の子羊をいけにえにして罪の許しを得るときは、その前に説教など聞く必要はない。だから、人々は慣れていないのだ。
それでもイェースズは毎日押し寄せる人々の群れを見て、こんなにも多くの人が救いを求めているのだと痛感していた。早くなんとか救わせて頂きたいと思うと、もうじっとしていられなくなる。
そんなある日、ヨハネがイェースズに説教を代行するように言った。それも、
「今日は、君がやってくれ」
という簡単なひと言でだった。ヨハネは疲れているというのをイェースズは感じていたし、師の言葉に逆らうようなイェースズではない。
「分かりました。有り難うございます。させて頂きます」
イェースズは微笑んでそう答えたが、イェースズにとってこの簡単なやり取りに、霊的にはものすごい意味が含まれている気がしてならなかった。
イェースズがナンバーツーであることはほかの弟子たちも暗黙のうちに認めているので、イェースズが説教台に立っても誰も不思議には思わないはずだ。最初はただイェースズがヨハネの又従弟だからだという理由しか考えていなかった人々も、イェースズの人格に打たれるようになってきていた。イェースズが来ただけで太陽が昇ったように雰囲気が明るくなり、またそばにいると実際熱く感じられたりもする。
そのいつも絶やされることのない笑顔と、口にする神の教えの魅力から、イェースズのナンバーツーという立場にはもっと奥深いものがあると誰もが感じ始めていた。
時が来て、イェースズは説教台の上に立った。群衆はどよめいた。説教はヨハネがするものと思っていたからだ。イェースズとともに、ペトロもいた。ペトロがまずイェースズを人々に示した。
「皆さん、今日はこの方がお話をされます。師の代理の方です」
それだけ言うと、ペトロは下がった。イェースズは、群衆の前に立った。人々はもの珍しさも手伝って、静まり返っていた。故国に戻ってから、こんなにも多くの人の前で話するのは、イェースズにとっても初めてだ。
「皆さん、よくお聞きください」
イェースズの第一声が、群衆の頭の上を飛んだ。歯切れのよい、よく透き通る声だ。しかもイェースズは太陽のような満面の笑顔で話をしていたので、その場に明るさが充満しているような気を誰もが感じていたようだった。その言霊にも、高次元のエネルギー・パワーが乗っているようだった。
「天の国は近づいています」
人々が、少しざわめいた。この言葉は、いつもヨハネが言っている言葉である。所詮は同じことを繰り返すだけかと、落胆の色が人々の間にもれた。ところが、
「天国の鍵を握るであろう人が、ここにいるんです。その人は、エリアの再来ですから」
そうなると、ヨハネのいつもの話とは勝手が違ってきた。そこで人々はやっとまた静まり返った。
「さあ、その人が、天国の門の鍵を開きました。さあ、皆さんどうぞ。誰でも入れますよ」
イェースズはニコニコして、両手を広げて見せた。イェースズの笑顔にいつしか人々の心も和んでいたが、それでも今日ばかりは真剣に聞いている。ところが笑顔はそのままでも、イェースズの口調は厳しいものとなった。
「さて、私は誰でもどうぞと言ったけど、入る前に自分で足がすくんで入れなくなっていしまう人もいるんですね。例えば、悪想念を持ったままの人、自己中心の我欲いっぱいの人、とかですね。だから門に近づくと、道ばかりひろくてもしっかり天国に向かって歩いている人はとても少なくなる。だって、物質的な欲望を持ったままみんなが天国に入ったら、天国はそんな人々の欲望の重みで傾いてしまいますよ。つまり、道は広くても門は狭いんですね」
イェースズは一息ついた。そして笑顔の量をさらに増やした。群衆といっしょにヨハネの弟子たちも、ひと塊となってイェースズの話を聞いていた。
イェースズはさらに話を続けた。
「皆さんが求めてやってきた罪の許しを下さるヨハネという方は、それは立派な漁師です」
人びとは少し怪訝な顔をした。
「漁師といっても魚を獲る漁師ではなくて、人間の魂を獲る漁師なんです」
人々は、ざわめきだした。
「つまり」
イェースズの次の言葉が、また人々を静まり返らせた。
「いいですか。漁師って、どうやって魚を獲りますか? まず、網を海に投げ込むでしょう。そうして引き上げたら、おいしそうな魚がたくさん入っている……となればいいんですけれどね。まあ、引き上げてみたら、いろんな獲物が入っているんですよ。例えばカニ」
人々はどっと笑った。それはユダヤの人々にとって、ご馳走にはならないものだからだ。少し間を置いてその間は笑顔をイェースズは人々に与え、そして、
「ほかにはタコ、それからイカ」
一つ一つに、人々は笑いを上げる。それらもまた、ユダヤ人が決して食べないものばかりだからだ。
「そしてサンダル」
人々は爆笑だった。イェースズもいっしょに笑っていた。
「皆さん、笑ってますけどねえ、笑い事じゃあないんですよ」
そう言うイェースズの顔も、まだ笑っていた。
「いいですか、まともな魚は、ほんの少し。これは、皆さんのことです」
笑いが徐々に収まっていく。
「毎日ここに洗礼を受けにくる人はたくさんいますね。みんな水に浸かって、それで罪が許されたって喜んで帰っていきます。でもねえ、失礼だがたいていの人はね、あ、皆さんがそうだと言っているんじゃないですよ、あくまで今まで来た人々ですけれど、いざ家に帰って、ああ、罪は許されたって、いい気持ちで一杯やって寝ますね」
人々は和やかに聞いていた。
「ところがもう、翌朝になったらヨハネの悪口を言っている。ずいぶん並んで待たされた。やれ暑いだの、洗礼は遅くて時間ばかりかって、お腹はすいたしって、それがみんな『ヨハネが悪い』ってことになってしまうんですね。ローマや王様が恐くて、ここで洗礼を受けたこともひた隠しにしている。そうして頭の中は、こりゃもうよからぬことばかり考えている。挙げ句の果てには、神を呪っている」
イェースズは笑顔のままであったが、口調は熱を帯びてきた。人々は、再び静まり返った。
「いいですか、心が浄いことが大事なんですよ。さっき言ったようなんじゃなくて、何ものにも動かされない不動の心を持つ人にとってこそ、天国は近いって言えるんです。罪が許されたら、その後が大事なんですよ。これで終わったと思ったら大間違い、これからの精進だ大切なんですね。いわば、ここからが始まりなんです」
イェースズは慈愛に満ちたまなざしで、群衆を見渡した。
「皆さん、罪が許されて浄くなることを求めてここに来られましたね。こんなにも多くの人が浄くなろうと努力しておられる。それはとても立派なことです。神様もお喜びになります」
にっこりとイェースズは何度かうなずいた。そして続けた。
「デモですね。先ほど話したように、洗礼を受けて浄くなって家に帰る、もうその日のうちに夫婦げんかしてる」
人々の中の何人かははにかんで笑っていた。
「それじゃあ何にもならないですね。いいですか。浄くなろうと努力して浄くなった、そのあとが大事なんです。今度は穢さないように努力しないといけない。浄まったら浄まった分だけ穢さないように。そうでないともったいないですよ」
イエスは慈愛に満ちた目で、人々を見渡した。そしてまたにっこりと笑った。
「これで、私の話は終わります。真に有り難うございました」
大拍手喝采が沸き起こった。普通ヨハネが話したときは、こんな万雷の拍手で終わったりはしない。話が終わった終わらないかのうちに、人々はヨハネの先回りしてヨルダン川に殺到し、洗礼を受ける順番を少しでも前にしようと、我先にと駆け出すのである。
だがこの日は、イェースズが台から降りるまで、拍手は鳴り止まなかった。
台から降りたイェースズを、ヨハネの弟子の中の幹部たちが迎えた。
「いやあ、素晴らしかった」
「魂がゆすぶられる感じでしたね」
「その話術には、人をひきつける魅力があるんですね」
そう言ったピリポの後ろに、師のヨハネがいつの間にか来ていた。
「いや、話術だけではない。魂の波動が違う。その言霊はすごい光で包まれているし、だいいちイェースズの体からも光が発せられている」
さすがにヨハネともなると、イェースズの全身のオーラから発せられる高次元のエネルギーが見えるのだろう。それに加えて、言葉の一つ一つにエネルギーが乗っているのも感知したようだ。
そのままイェースズはヨハネ教団の幹部として収まり、月日も流れてイェースズがここに来てから約十ケ月後のある晩、イェースズはヨハの小屋へと呼ばれた。話を聞いてほしいと、ヨハネが持ちかけたのだ。
薄暗いろうそくの灯火の中で、ヨハネとイェースズは二人きりで対座していた。ヨハネはイェースズに横顔を見せており、その目もイェースズを見ていない。
「ヘロデ王を、君は許せるか?」
ヘロデ王といってもイェースズが生まれた頃の昔のヘロデ王と、その子である現在のヘロデ・アンティパスの両方を指す。だがイェースズはヨハネの想念から、それが今のガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスのことであることは分かっていた。
「聖書には、『誰も自分の兄弟の妻を、自分の妻としてはならない』と書いてある。それなのにヘロデ王は、それを破った。自分の弟の妻を自分の妻にしている。しかもそのためにそれまでの妻を追放し、その財産まで横領したのだ」
ヨハネは少々興奮していた。イェースズはしばらく黙っていた。そして、ヨハネの横顔に言った。
「神のミチを説くものは、地上の権力者のことはあれこれ考えない方がいいと思いますよ」
ヨハネもしばらく黙っていたが、やがて首を回してイェースズを見た。ろうそくの火の中で、その表情には悲壮感があふれているように見えた。
「ところで明日、弟子たちの何人かを連れて、ベタニヤに行ってくれないか」
ベタニヤといえば、エルサレム近郊の村だ。
「はい、行かせて頂きます」
「本来なら私がいくべきなんだ。ベタニヤのほうでぜひ私に来て話をしてくれという。でもここは君に私の代理として、行ってもらいたいんだ」
「はい。しかし……」
この又従兄は、何かを覚悟している。その悲壮な顔つきが十分それを物語っていたし、想念を読み取ればすべてが理解できてしまうイェースズにとって、自分まで胸を刺されるような心境になった。
「ベタニヤには行かせて頂きますが、どうか早まったことだけはなさらないように」
今のイェースズにできるのは、ヨハネにそう告げることだけだった。だが、おそらくその進言も無駄になるであろうことは、イェースズの能力をもってすればすぐに分かってしまう。今は、すべてを神に委ねるしかなかった。
「イェースズよ。弟子たちを頼むぞ」
「はい、かしこまりました」
たとえイェースズの能力がなかったとしても、幼なじみというのはそれだけの会話ですべての意思が伝わってしまう。イェースズはしっかりと、ヨハネの目を見た。




