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人間・キリスト  作者: John B.Rabitan
第3章 福音宣教時代
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荒野の誘惑

 ヨハネ教団の本拠地は、そこから程近い荒野の中だった。

 聞けば、預言者エリヤが火の車で天に上げられた場所も、この近くだという。

 ガリラヤのような緑豊かではないが、まだ少しは草木も生えている。そんな荒野の小高い丘のふもとに隠れるように石造りの小屋があって、そこに四十人ばかりの人がいた。

 だが、小屋にいるのはどうも幹部らしき数人だけのようで、多くの人々は岩山の上の方の洞窟に分散して住んでいる。あの、毎日ヨハネの洗礼に押し寄せる人々のおびただしい数から考えると、どうにもここはひっそりしていた。


「風当たりは強いよ」


 と、小屋の中でヨハネは苦笑しながらイェースズに言った。イェースズは今日ヨハネとヨルダン川で再会して初めてこの小屋に来たのだが、二人は二十年近くの空白などとうに埋めてしまっている。


「君も見ただろう。サドカイ人やパリサイ人もちょくちょく偵察に来る。ひどい時は、ヘロデ王の配下の兵までが見に来る始末だ。ただ、今のところローマ兵の姿はない。ローマだけは気をつけた方がいい。気をつけなければならないのはローマそれ自体よりも、ローマに反旗を翻してやろうなんて考えている血の気の多い連中のほうだったりするけどな」


 ヨハネはひとしきり笑っていたが、イェースズはそこに深い示唆がこめられているのを感じていた。


「ところで、ここでみんなと生活するためには、洞窟にこもって四十日間修行してもらうことになっているんだ。ミツライムであのピラミッドに籠もったであろう君には必要のないぎょうなんだということは分かっているけど、ほかの幹部の手前もあるんでね」


 ヨハネは、ばつが悪そうに頭をかいていた。


「それだったら、問題ない。何でもさせて頂くさ」


 イェースズはにっこりと笑った。確かにイェースズにとって、十年以上もの永きにわたる旅の生活から考えれば、四十日などあっという間だ。


「ほかの連中も、みんなやったもんでね。すまないな。四十日というのは、モーセが四十年荒野をさまよったのを追体験してもらうんだが」


「分かっているさ。何も君が考えたことではあるまい。エッセネにも同じ入門儀式があったしな」


「君には何もかも見透かされている」


 ヨハネはまたひとしきり笑った。


 指定された洞窟のある岩山は、ヨハネの集団の本拠地の小屋からは西に三時間ほど行ったところにあった。

 ほぼ平らな荒野の中の道を進んでいくと、ちょっとした町に出くわした。ヨハネの弟子の一人が案内してくれていたが、その者は町を指さして言った。


「あれがエリコです」


 聖書トーラーにもたびたび名前が出てくる町で、その記載によると高い城壁に囲まれた一大都市のイメージがあった。だが、今目の前にある町はちょっと規模が大きい程度の普通の町で、かつての城壁と思しき廃墟が少しは認められる程度だった。

 その町のすぐそばに、平地の真ん中にポツンと盛り上がった岩石だけの岩山があった。嶺は二つある。


「洞窟ああの山の上です。行けばわかります」


 案内人はそ笑顔で、


「ご検討をお祈りします」


 と、行って帰っていった。

 イェースズは一人で岩山を上った。高さはそれほどでもなく丘といってもいいくらいだが実際はかなり険しく、登るのがまず一苦労だった。しかし、あのダンダカ山に比べたら物の数ではない。

 だが、登ってみると実に眺めがいい。眼下のエリコの町もその全容が一望でき、遠くの山並みまでの平地が良く見渡せる。

 そんな岩肌にある洞窟で早速、行が始まった。行といっても何もすることはないので、ひたすら禅定を組んだ。エッセネの人々は禅定を組む習慣はなく、瞑想をするにも普通は歩き回りながらする。イェースズは静に目を半開きに閉じ、霊の元つ国から今日までのことをもう一度反芻した。――自分はまだまだ『』が強い。自分とて肉体の中にいる。では、どうすればいいのか……。

 イェースズは、そんな自問を投げかけた。


――肉体に入ってしまえばどんな魂でも五官に振り回され、盲目になってしまう。自分とて例外ではない。


 そこで、大きく息を吸った。


――その五官に打ち勝って人を救っていくものにならねばならない。


 禅定の思考はそのようなものだが、修行というのはそんな禅定ではなく、本当は断食の行なのである。全く四十日間何も食べなかったら死んでしまうので、一日に一食だけの食事は提供される。それもイナゴ豆とヤシの蜜だけだった。

 空腹を感じないといえばうそになるし、食事をしないことによって霊力が落ち、その分邪霊に操られやすくなるわけであるが、それでもイェースズはス直に断食の行に励んでいた。


 そうして、四十日もそろそろ終わろうとしているある夜のことであった。イェースズが寝ずに瞑想をしていると、一陣の寒風が吹いた。それと同時に、目の前に大いなる光の塊が出現するのを彼は見た。

 だが心はざわめき、胸が鼓動を打つ。いつもの高次元の存在との邂逅の時のようなような心の安らぎが感じられない。しかも風とともに、ちょっとした異臭さえ漂ってきた。

 心の中に、声が響いた。


――イェースズよ。何をなしおるや。


「瞑想をしております」


――痴れ者なり! さような行為は邪霊に憑かられやすきゆえ、禁じておきしはずなり。


 心に響く声は、ただ居丈高に厳しく迫ってくる。


「あなたは、どなたです?」


「どなた」なのかイェースズにはほぼ分かっていたが、あえて聞いてみた。


――何度会えば分からん。トト神ならんや。


 出現する時に、我神なり、観音なり、天の父なりと名乗って出てくるのは、邪神・邪霊の常套手段だ。もしそれが本当なら、状況はかなり違うからよく浄まった霊眼ひがんにはすぐに分かる。


――いつまでもつまらぬ修行などなしおるか。パンで空腹を満たせ。ゴータマ・ブッダが難行苦行ではサトれず、一人の娘の牛乳でサトりしことを忘れしか。


 その理屈は巧妙だ。


――汝は神がアブラハムを試して、その子を殺させようとせし時の状況と同じなり。我が子ならぬ自分の身に、汝は手をかけんとせしなり。されば我は、その手を止めに来たりしなり。


 論旨が支離滅裂である。イェースズはその光源を見つめた。風は依然として激しく吹いている。その光の塊の周囲には、締め付けるような暗黒の塊があった。


「神は、いわれもなく人を試したりはなさらない」


 光体が動揺したかのように揺れたが、また威圧的な口調の声がイェースズの胸の中に響いた。


――何をか言わんや! 我は神なり! 神の言うこと信じられぬか!


「パンで空腹を満たせと言われても、ここにはパンはない」


――もし汝が神の子なら、そこの石をパンに変えよ。さすれば、我、汝を信じん。


 この仮定法による会話は、まさしく邪神の特徴である。


聖書トーラーには、『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るすべてのもので生きる』と書いている。あなたが私を信じようと信じまいと、どうでもよい。しかし私は神を信じている。いや、知っている。ここで石がパンに変わったら神を信じるというのは、本当の信仰ではない。たとえ石をパンに変えることができたとしても、私はそれをしない。自分だけがここでパンで満たされたとて、それが何になるというのだ」


――されば、もし汝神の子なら、この洞窟の入り口から岩山の下まで飛び降りてみよ。聖書トーラーにも、『主があなたのために天使たちに命じ、あなたの道を守られたのだから、あなたが石につまずかぬよう、彼らがあなたを手で支える』と書かれしならん。


「そんなに奇跡が見たいのか?」


――人々は神などを求めてはおらず、ただ奇跡を求めおるのみ。奇跡を見れば、神を信じん。


聖書トーラーには、『マッサで試みた通り、あなたたちの神である主を試みるな』とも書いてある。奇跡を見ないと信じられない人間の弱さは、もちろん神もご存知だ。だから方便として、奇跡も見せられる。だが、奇跡のみを求める御利益信仰者は、おまえのような邪霊に操られてたいへんなことになる」


――邪霊とな? 我は神なり。


 もうとっくに正体はばれているのに、まだそのようなことを言うなど論理が破壊されているのも邪霊の特徴だ。

 すると、突然光の塊の上に、表象が見えだした。その空中映像にはエルサレムの町の繁栄が映し出されている。


――その目を見開きて、このエルサレムの繁栄を見よ。我を拝まば。このすべての栄華を汝に与えん。


「シェマー!」


 という激しい声が、イェースズから発せられた。「聞け!」という意味のヘブライ語だ。この言葉から発せられる聖句は、イスラエルの民がその宗派を問わずに朝な夕なに必ず唱える句だ。


聞け(シェマー)、イスラエル! 主は我われの神、主は唯一のものである。あなたの神である主を、心0を尽くし、魂を尽くし、全力を尽くして愛せよ」


 これも聖書トーラーの一節である。ちょうどエッセネでもよく問答をする時、聖書トーラーの聖句を引用し合ってその知識を競うことがあるが、まさしくイェースズは邪霊への問答を、ほとんど聖書トーラーからの引用で行った。そして、さらに続けた。


「この栄華が私のものになるかならないかなど、どうでもよい。すべては、神に委ねている」


――そのような考えが、神のみ意にかなうとうぬぼれおるならん。


「神のみ意にかなっているかどうかは分からないが、しかし私はすべてを神に委ねているし、神を信頼している。私はもう、五官による肉体的欲望はすべて捨て去ったのだ」


 次の瞬間、光体の光が薄れて、中に人影がうっすらと見えた。しかしそれは実際は人ではなく、異形の化け物でしかなかった。


「奇跡が起こせるかどうかで、神の子かどうかが決まるわけではない。自分がいかに神から愛されているか、その自覚が大事なのだよ」


――俺は、神から愛されてなどおらぬ。地獄の底で、いつも苦しんでいる。神から

見捨てられたのだ。


「私が神の子なら、あなたも神の子だ。すべての人は神の子だからね。あなたもかつては肉体を持った人間として、この世に存在していただろう?」


――ふん、忘れたね。俺が神の子だって? 笑わせるんじゃねえ。俺は神を憎んでいるし、神も俺を嫌っているさ。俺はいつか、神の座を奪ってやるんだ。それなのに、おまえが出てくると邪魔なんだよ。


「その恨みや嫉妬心が、今のあなたの姿を作っている。どの世界に行っても、あなたがもともとは神の子であることに変わりはない。神様もあなたを救いたいんだ。それなのにあなたの方で、勝手にその救いを拒絶している。あなたが救われるかどうかは、あなたの心一つなんだがね。本来は光の天使として肉体を持って地上に降りたあなたが、いかにして自ら神様から遠ざかり、離れていったかを反省するんだ。そして、どんなに醜い心や姿になっても、神様の愛によって生かされ、存在を許されているということに感謝するんだ」


――馬鹿なことを言ってんじゃねえ! 俺様は地獄でも、一番偉いんだ。何を好きこのんで敵の大将の神なんかに頭を下げなきゃなんねえんだ!


 言葉で言っても無駄である。だがイェースズは、何としても目の前の邪霊を救いたかった。今は邪霊でも、本来は神の子なのである。

 イェースズは自分の霊体を満たす霊流の圧力を上げた。肉眼ではそこは闇のままだが、明らかにあたりの暗黒の闇は消え、イェースズのオーラが放つ霊光を受けて輝き始めている。邪霊は一歩、二歩と後ずさりする。


「この光は、天国の光です。神様の愛の光です。これを受けて、あなたも悔い改めなさい。神様の大愛は、必ず許して下さいます」


――うるせえ!


 邪霊はまだ何かを、苦し紛れに言おうとしていた。しかし、議論からは何も生まれない。神理は理論理屈の世界ではないし、理屈に関しては邪霊の方が一枚も二枚も役者が上だ。

 問答無用、とイェースズは思った。この邪霊を救いにはこれしかないと、イェースズは邪霊に向かって手のひらを向けた。そこから霊流が束となって、邪霊に放射された。それを受けた邪霊は改心するどころか、苦しみもだえはじめた。まるでナメクジに塩をかけたように縮こまった邪霊は、


――覚えてろ! もしおまえが神の子ならという問いかけで、一生おまえに付きまとってやる。


 それだけ言い残して、邪霊はイェースズから離れた。イェースズは声高く、言い放った。


「悪よ、去れ!」


 決して目の前にいた邪霊を悪と言ったのではなく、邪霊が持ちかけてきたさまざまな物質的欲望のことを言ったのである。そして、今夜の邪霊の誘惑と試練は今までの人生の中で自分が受けてきたさまざまな神試し、神鍛えの総集編のような気がしてならなかった。

 たとえどんな高級神霊をみ魂に持っていようと、この世に肉身をもって生まれてきた以上すべてが分からなくなり、物質的快楽と欲望の誘惑の中にさらされることになるのだ。使命は、それを乗り越えてはじめて達成できる。

 そして今イェースズは「悪よ、去れ」のひと言で、それらに打ち勝ったことを高らかに宣言したのであった。その宣言によって、一切の物主欲を拭い去り、霊主に生きることを確認したのである。


 そこには再び夜の闇に包まれた洞窟があった。イェースズはくたびれたので、その場に倒れ伏してそのまま眠ってしまった。

 

 イェースズはヨハネ教団の本拠地の小屋に戻った。そして出されたパンをほおばると、まる一日死んだように眠った。

 もう確実に冬が到来している。ローマの暦では、新しい年も明けたであろう。イェースズはすでに二十代も後半になったことになる。

 ひとしきり眠ってから、彼は起き上がった。ここはヨハネの住む小屋で、自分が寝ていたのはヨハネのベッドらしい。ベッドといっても木の枠にわらを詰め込んだだけだが、仮にも師のベッドである。そこに寝てしまった後ろめたさに、イェースズは勢いよく飛び起きた。

 部屋の中には、誰もいなかった。外は明るい。今は昼間のようだ。

 イェースズは外へ出た。昼の日ざしが一気に顔にぶつかり、思わず彼は目を細めた。

 緑の麦畑が広がる中の岩山のふもとの小屋で、程近いところにヨルダン川沿いの林が横たわる。

 小屋のすぐそばに、ヨハネはいた。自分の若い弟子二人と何やら立ち話をしている。だがこみいった話ではなく談笑という感じだったので、イェースズはそのそばに近づいていみた。

 ヨハネは、笑顔のままイェースズを見た。岩山での修行の後で正体もなく眠ってしまった自分がばつが悪く、イェースズも照れ隠しの笑いを浮かべながら、三人の方へ歩み寄った。


「ほら、見てごらん」


 ヨハネは二人の弟子に、笑ったままイェースズを示した。


「神の小羊こひつじが来たよ」


 イェースズは、歩みを止めた。


「何ですか? その、神の小羊っていうのは」


 イェースズも笑っていた。イェースズはいくら又従兄弟ではあっても今は自分の師へ言葉を正した。会話はアラム語で、アラム語には別に敬語はないが、心の中では霊の元つ国の言葉のような敬語を使っていたのだ。


「いや、何となく、そんな言葉が頭に浮かんだのでね」


 そう言ってからヨハネは、二人の弟子にイェースズを示した。


「今度、四十日の修行を終えたイェースズだ」


「はじめまして。イェースズです」


 その口調に少しおどけた様子があったので、二人の弟子も明るく声を上げて笑った。


「私はベツサイダのピリポといいます」


「私はカペナウムのアンドレ」


「え?」


 イェースズは、思わず叫びをあげた。


「私もカペナウムですが」


「本当ですか?」


 アンドレと名乗った男も、驚きの声を上げた。


「今までカペナウムで、何をなさっていたんですか?」


 早速質問が、イェースズに飛ぶ。


「父は大工でしたが、もうなくなりました。大工は弟が継いでいます」


「大工? 失礼ですが、お父さんのお名前は?」


「ヨセフです」


「ああ、あの大工のヨセフ。よく知ってますよ」


「本当ですか?」


 このアンドレももとはエッセネのナザレ人なのだと、イェースズにはすぐに分かった。そうでなければ、カペナウムのヨセフといってよく知っていると、近所の人でもない限りは言うわけがない。


「でも、ヨセフの息子さんってヨシェとか」


「ヨシェは弟です」


「確かにそっくりだ。それにしても、ヨシェにお兄さんがいたとは初耳だ」


「ちょっと国を離れていましてね」


「ミツライムへでも行っていたのですか?」


「はい、ミツライムにも行っていましたけれど、その前はもっともっと遠い国へ行っていたのです」


 イェースズはひとしきり笑った。


 その日から、イェースズのヨハネ教団での生活が始まった。

 午前中はヨハネが洗礼バプテスマを求めて集まってきた人々に説教をし、弟子たちもみなその群衆の中に入って毎日ヨハネの説教を聞いた。午後は洗礼バプテスマの儀式が始まるので、その人員整理に大わらわだった。

 修行といえばヨハネの説教を聴くことと、夜にそれを回想して互いにわかちあって話し合うことだけだった。ここでは、あまり瞑想をする人はいない。

 ここにいるのは五十人くらいで、若い人が圧倒的に多い。だが、毎日あんなにおびただしい数の群衆がヨハネからバプテスマを受けるのに、その数は一向に増えなかった。

 聞くと少しは入門希望者も残るが、イェースズと同じ四十日間の修行でたいていは脱落し、五人に一人が岩山から帰ってくればいい方なのだという。

 ここでは小屋に住んでいるのはヨハネだけではなく、幹部クラスの人たちは皆、一軒の小さな小屋が与えられているようで、それは広い範囲に分布して点在していた。

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