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人間・キリスト  作者: John B.Rabitan
第2章 東方修行時代
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ミツライム

 そしてその翌日、イェースズは本当にガリラヤを後にした。

 サロメはラクダ、イェースズは徒歩でまずガリラヤ湖沿いの道から離れ、西へと向かった。今が大地の緑のいちばん美しい季節だった。イェースズが歩いているのはまぎれもなく故国の山河で、その明るい陽春の真っ只中にイェースズはいる。

 道は結構ゆったりとした上り坂や下り坂の繰り返しで、起伏がある高原地帯だ。なだらかな丘陵に囲まれて、それでも広々としている感があるのは高い木がなくところどころに背の低い灌木が点在しているだけだからだろう。土地も短い草が覆っている程度で、土や岩が露出しているところも多い。

 時には丘陵が少し遠のいてぱっと視界が開けることもあるが、なんだかあのもとつ国のキムンカシ・コタンのあたりを歩いているのではないかという錯覚に陥るような風景もあった。


 二日目はほんの少し山道となったが、この辺の山はもとつ国の山よろしく緑の木々に覆われていた。緑に覆われた山を見るのも本当に久しぶりだ。

 そして最後の峠を超えると、広々とした緑豊かな平らな土地だった。

 三日目の朝には大海の岸に出た。果てしなく広がる大海原と漂ってくる潮の香りは、霊の元つ国からシムの国に船で渡った時以来だったので、イェースズは頭がくらっとする思いだった。

 白い波が打ち寄せる砂浜が続く海岸沿いに少し南下すると、城壁に囲まれた都市が見えてきた。そこがカエサリアの町で、ローマの知事プレフェクトが常駐する町だ。

 ここはエルサレムにも負けない大都市で、ローマが造っただけにまるで異国に来たような風情だった。何よりも目を引くのは、北のカルメル山から延々と続く海沿いの大水道のアーチだった。

 しかしこれを造ったのはローマ人ではなく、かのヘロデ王なのである。それでも町の中はローマ人があふれ、ローマ兵の姿も目を引いた。ガリラヤを治めるヘロデ・アンティパスとて、ローマの傀儡に他ならない。

 幼い頃、乳児であったイェースズを連れて両親がエジプトに向かったのは、この道ではなかったはずだ。その頃のサロメとイェースズも昔は婦人と幼子だったのが、今では老婆と男になっている。

 そんな二人は今回は先を急ぐので大海を船で行くことにしたのであった。当然、エルサレムには寄らないことになるが、故国にいればエルサレムはいやでもまた来ることになる。

 港は長く続く砂浜の一角に作られており、海に突き出ていたというかつてのヘロデ王の宮殿の廃墟のそばのローマの知事プレフェクトの巨大な城が圧巻だった。

 今、ローマから派遣されてきている知事は、ポンティウス・ピラトゥスというらしい。

 故国に帰ったからとて、旅を終えて安堵できるイェースズではない。大いなる使命を持ってこの地に派遣されたのも同然だ。その故国は今やローマの統治下にある。そんな不穏な空気の中を、イェースズはかつて祖先のモーセの出エジプトと逆のコースを船で南下していた。

 ただ、これまでの長い旅と違ってありがたいことは、夜になっても野営をする必要がなく、旅館に泊まれるということだった。

 そして船で三日ほど広々として穏やかな地中海を進むと、太陽の光も心なしか強くなったように感じられた。いよいよ南国に到着した。

 やがて行く手の大地に、緑がおおらかに横たわって見えてきた。そして近づくにつれ、緑はどんどん大きくなる。


「あれはナイル川の下流の三角州で、あの森の向こうにアレキサンドリアがあるのですよ」


 そうなると、いよいよエジプトに到着したことになる。やがて緑の大地と砂漠との境目の海沿いの、アレキサンドリアの町に船は着いた。

 ここはカエサリアと同様ローマ色が強かった。町の中はローマ風の甲冑をつけた兵や護民官の姿が目立つ。だが、エジプトは、正確にはローマの属州ではなかった。プトレマイオス朝滅亡後にローマに支配されるようになったエジプトだが、その人々は長い間祭政一致の王政に馴染んでいたので、総督や知事ではなく皇帝が王、すなわちファラオとして直接統治する必要があった。

 そのため、皇帝は自らの代理としてエジプト領事を派遣して治めさせていたのである。従ってエジプトは、属州というよりむしろローマ皇帝の私領なのである。

 町は人ごみでいっぱいだった。ちょっとした路地をのぞくと、店頭に袋を山積みにした店がいくつもある。香辛料を売る店らしい。

 ある骨董品屋では驚いたことに、店先であのシムの国でよく見た青い紋様の陶器が売られていた。聞けば、やはり東の国から来たのだという。手にとって見ると、底の部分にはまぎれもなくシムの国の文字が入っていた。

 町の中で威容を誇っていたのが、四百本もの巨大な柱に支えられた大図書館だった。完全にローマ建築のその建物はかつての戦争で大部分が破壊されていたとはいえ、それでも威容を誇っていた。。ほかにも競技場や劇場など、ローマの建築が多数ある。

 だがそんな強い日ざしと砂ぼこりと潮風のアレキサンドリアに、イェースズたちが滞在したのはたった一泊だけだった。すぐにサロメたちの修院のあるタニスという町に行くという。

 そして最終的に目指すのはヘリオポリスであるということも、イェースズは告げられた。ヘリオポリスはここから南へとナイル川沿いに五日ほどさかのぼった所にあるという。そこは太陽の都といわれる所だと聞き、それだけにイェースズにとっては自分が今そこに行くことがごく当然のことのように思われた。

 

 二人は進路を東に取り、ナイル川下流の三角州の緑の多い地帯を旅した。そして五日ほど行くと、やしの林に抱かれて村があった。その村の入り口に、サロメと同じような尼僧姿の老婆がいた。イェースズとサロメが近づくと、老婆はゆっくりと歩み寄って相好を崩した。気品のある老尼僧だった。


「どうもご苦労様でした。ようお連れ下さいました」


 ラクダから降りたサロメに老尼僧はそれだけ言うと、すぐに視線をイェースズに向けた。


「まあ、あなたがイェースズなの? 本当に、あの……」


 老尼僧は、うれしそうにイェースズを見ていた。イェースズはただ困惑して、はあとしか言えなかった。サロメが、その老尼僧をイェースズに示した。


「このお方はエリフ様といって、エッセネ教団のユダヤ州での大元締めのお方です」


 つまりは、偉い人のようだ。


「まあ、大きくなりましたね」


 この年になって「大きくなった」と言われるのには、はにかみがあった。


「なにしろこんな小さい時」


 と、エリフは手のひらを下にして子供の背丈くらいを示した。


「あなたはここにいたのですよ。このタニスの聖林で、あなたのお父さんやお母さんといっしょに暮らしていたのですから」


 そう言われてあたりを見回しても、イェースズの記憶の中に蘇るものは何もなかった。


「ここがタニスなんですか?」


「ええ、古代のミツライムの都でもあった町ですよ。タニスというのはギリシャ語でして、ヘブライ語ではツォアンといいます」


「え? ツォアン?」


 イェースズは驚きの声を上げたのも無理はない。ツォアンといえば聖書トーラー詩篇テヒリームに、神が奇跡をなしたと記されている町だからである。出エジプトの時のモーセも、この町から出発したともいわれている。


「今日はここに泊まって、明日ヘリオポリスに向かいましょう」


 サロメにそう促され、イェースズはその背中について行った。


 ヘリオポリスへはここで方向を変え、南の方へ三日ほど行ったところにあった。イェースズにとっては二十数年ぶりにここに来たということになるのだが、感覚的には全く初めての土地である。

 町に近づくと、前方からイェースズが忘れかけていた霊流が自分にぶつかってくるのを感じた。果たして、町の西側の遠くの砂漠の中に三角形が屹立しているのが、砂ぼこりの中に望まれた。

 三角錐の人造物は、ピラミッドだった。はるか東方の霊の元つ国の日来神堂ピラミドウから感じた霊流と同じものだが、かの国ではそれが自然の山だったのに対して、こちらは人工の山だ。まだ遠くて細部はよく分からないが、見事な直線の三角のシルエットが砂漠の中に浮かんでいた。

 イェースズは、ふと思いついて急に気になりだしたことをエリフに聞いた。


「あのう、ヨハネもここにいるのですか?」


 エリフは振り向いた。そして、首を横に振った。


「残念ですけど、一足違いでヨハネは国許に帰りました」


「ユダヤへ?」


「はい。あの方も、大変なみ役を頂いています」


「そうなんですか。実は子供の時以来、彼とは会っていないのですけど」


「あとで、詳しくお話します」


 エリフはにこやかにそう言ってから、また前を向いて歩き始めた。イェースズはまた、それについて行くしかなかった。

 

 ろうそくの数も多い明るい部屋の中は、エリフとサロメ、イェースズの三人だけだった。


「あなたのお父さんは、とても強い意志をお持ちでしたよ」


 エリフの話が父の話題に及んだので、イェースズは思わず身を乗り出した。


「そしてその遺志をあなたに継いでもらいたいと、今はの際まで口癖のようにおっしゃってました」


 父の遺志とは、イェースズにとって寝耳に水だった。父が自分に望んでいたのは、イェースズの記憶では早く一人前の大工になることしかない。しかも、どこへ行ってしまったか分からない遠い異国で行方不明になっていた自分に父はいったい何を託したのだろうかと、イェースズは気になった。


「あなたのお父さんは、単に大工としてあなたを育てようとしたのではありません。もっと深い志があったのです」


 エリフの顔がろうそくに照らされ、薄赤く揺れている。


「ここだけの話ですが、あなたのお父さんは、ご自分にできなかったことをあなたに託されようとしたのです」


「自分にできなかったこと?」


 あまりの話の唐突さに呆気に取られ、イェースズはエリフの想念を読むことすら忘れていた。


「今、ユダヤの神の教えは、混沌としています。パリサイびと、サドカイびとなど、いろいろな宗門宗派に分かれています」


「ええ。それはどの国でも同じようで、たいていの社会は文化対立し、相争っています」


「神様は、御一方おんひとかたです」


「はい。それなのに、今世の社会は全く神のみ意は伝えていないバラバラ事件です」


 イェースズは笑みを見せた。エリフの顔も穏やかに笑んでいた。


「ですから、あなたの父さんも、そんなユダヤの教えを改革しようとなさっていたんです」


「それが父の遺志……」


 父がそんな志を持ち、しかもそれを自分に托そうとしていたなど初めて聞く話だった。記憶の中の父は何らそんなそぶりさえ見せたこともなく、ただの大工にすぎなかった。あるいは時期を見て自分に打ち明けようとする前に、自分は故郷くにを飛び出してしまったのかもしれない。

 しかし、待てよとも思う。思い当たる節もあるのだ。自分が「ゼンダ・アベスタ」や「聖書トーラー」に必死にかじりついているのを、父は黙認していた。普通の大工の跡継ぎを育てたいと思う父親なら、それも大事だがもっとカンナの削り方も覚えろと言っていたかもしれない。

 だが、ついぞイェースズは父からそのような言葉を聞いたことはなかった。むしろ黙認どころか、父としてはイェースズのそんな姿を喜ばしく思っていたのかもしれない。

 そしてイェースズが旅立ったのも、将来に備えて世界を見せようとした父の思いからのことだったことも考えられる。


「つまり父は、ユダヤの教えをパリサイだのサドカイだのと争っている状況から建て直し、真実の神様の教えに近づけようしたのですか」


「そうです。お父さんは、神様を真中心とした自主独立のユダヤを夢見ていました。そしてそれを自分ができなかった分、後進に托すお考えで二人選んでいたようです。一人はもちろん、あなた。そしてもう一人は、ヨハネです」


 意外な名前が出た。


「ヨハネと二人で、父の遺志を継ぐんですか?」


「あなたは霊の面でヨハネはたいの面、つまり、あなたは火でヨハネは水です。二人で十字に組んで、お父さんの遺志である大業を成し遂げてほしいんです」


「で、そのヨハネは、今は?」


「すでにユダヤで、一足先に活動に入っています。もう、多くの信者がいます」


「では、私もすぐにそこに行けと?」


「いいえ。あなたはここで、エッセネ兄弟団のテストを受けねばなりません」


「テスト?」


「今お伝えした大業を成し遂げるには、エッセネ教団を基調にしなくては、お父さんのご遺志ではなくなります。お父さんはこのエジプトの地からエッセネの教えをユダヤに伝え、それによってユダヤの宗教の改革を図られたのです。ですから、あなた方もエッセネの一員として活動してほしいのですが、それは必ずしも教団の組織内で動かなければならないことを意味するものではありません。自由になされて結構ですが、一応前提として入団儀式はしなければならないのです」


「はあ」


「現にヨハネは、エッセネ教団の組織とは別に活動しています。しかしそれも、エッセネ兄弟団のテストに合格したから許されるのです」


「その、テストとは?」


「別に、難しく考えなくてもいいのですよ。教団の構成員の子供で男の子が一人前のメンバーになる資格があるかどうかを試すもので、一種の通過儀礼です。申し込んでからその翌日には受けられます。ヘリオポリスの太陽神殿ピラミッドで、テストは行なわれます」


 これでサロメが、自分をヘリオポリスに連れて行こうとしたのだということが分かった。アシナビがエジプトに行けと言った真意も、これだったのだ。

 イェースズには神界から、そして霊の元つ国で授かった神経綸の一端を担う聖使命がある。そしてここで、新たな課題が自分に課せられようとしている。しかしイェースズは、腹をくくっていた。自分の聖使命もエッセネ教団の上に乗って果たせれば、それに越したことはない。ここで、地上の宗教団体に所属などしないと拒否してみたところで、それは損こそすれ益などない。損得勘定で考えているわけではないが、すべてが神のみ意成就のためになることなら、それは方便となる。ここにサロメやエリフとともにいること自体、神様のお考えがあっての仕組みだろうと、イェースズはス直に受け入れることにした。

 

 翌朝、太陽礼拝があるからということで起こされた。林の中にちょっとした広場があって、ここからは砂漠の向こうのピラミッドがよく見える。

 ちょうど今、日が昇ろうとしており、広場に集まったエッセネの修道僧たちは一斉に朝日に向かってひれ伏した。朝日はゆっくりと万生を照らし、人々はますます額を地にこすり付けてから朝日を仰ぐ。

 その中にはエリフとサロメもいた。これがエッセネの旭日礼拝である。朝日は東から昇る。東には日()づる国、もとつ国がある。


「ラーの神よ。おお、ラーの神よ」


 礼拝にイェースズも加わりながら、彼の中には感動が走っていた。「ラー」は言霊からいえば「」である。かつて霊の元つ国ピダマの国のクラウィ山の祭壇石で、彼も朝日を礼拝していた。

 太陽は天地創造の「神」の愛の物質化であり、「アマテラス日大神様」の物質化でもある。こんな地玉の反対側にあるこの国でも、同じように朝日を礼拝する。やはり世界は元一つ、万教もまた元一つなんだなとイェースズは実感した。


 そしてその日の昼前に、イェースズはエリフとサロメに連れられて、ヘリオポリスへと向かった。再びナイルに沿って上流へと南下する。川の上には白い帆船がいたりして、三角の帆が水面を漂っていた。


「エッセネの教えは」


 ラクダの上で、エリフが口を開いた。


「その昔、エジプト皇帝アメンホテプ四世が、白色大同胞団として作られたのが最初でした。そのときの日の神の神殿こそ、ピラミッドなのです」


 話のつじつまは、霊の元つ国で聞いた内容とぴたりと一致するので、イェースズは感心した。


「今では昔の王の墓などということになっていますが、ピラミッドが墓などとはとんでもない。真実はそのようなものではありません。今は、真実が隠される時代です。メシアの到来までは……」


 空気が乾いているのを気にさえしなければ、すがすがしくて明るい雄大な気分の真っ只中だ。

 やがて、三日ほどして、ツォアンで見ていたのよりもはるかに大きい巨大なピラミッド太陽神殿が三基、砂漠の近くにそびえる位置にまでたどり着いた。そのすぐ隣接する石造りの修院が並ぶあたりが、ヘリオポリス――太陽の都らしい。その町に、三人は入った。

 商人たちの姿は皆無ではなかったが、町を歩くのは修道僧たちのほうがはるかに多い。町のどこからでもピラミッドが見え、驚いたことにピラミッドのすぐそばに同じくらい巨大な石造があるのも見えた。伏せているライオンのような四足の動物だが、顔は人間なのである。イェースズは呆気に取られて、そんな風景を目に納めた。

 すぐにエリフに案内されて、イェースズはエッセネの教団本部へと向かった。白い石造りの建物に二階は、赤い絨毯じゅうたんが敷かれていた。エリフは教団の幹部らしく、顔が立つようだ。人々の会釈を下に見て、どんどんと奥に入っていく。

 エリフがイェースズに引き合わせたのは初老の男で、ユダヤ人だった。実に愛想のいい腰の低い人で、イェースズの名を聞いて笑顔の中にも驚きの表情を見せていた。


「ほう、あのヨセフとマリアの」


 両親をよく知っているようだ。なにしろ母マリアはナザレの家僧院でメシアの母候補として暮らしていたのだし、その子のイェースズが目の前にいるのだから自然と扱いも変わるはずだ。


「あの方たちのお子さんがこんな立派な若者になっておられるのだから、世の中もどんどん変わっていくはずだ」


 男はニコニコ笑って、イェースズに椅子を勧めた。


「エッセネ教団ではそんな方の子息でも、成人に達した時点であらためて入会の儀式がありまして、明日から早速太陽神殿の中にお入り頂きましょう。その中で一切の儀式は行なわれますが、そこでのテストで合格して入会となるんですよ」


 とりあえず、その日はそれで終わりだった。そしてエリフやサロメとともに、イェースズは宿舎として割り当てられた僧院へと向かった。窓の外のすぐ間近に、ヤシの林越しにピラミッドが望まれる。まだ昼過ぎだったがイェースズは疲れていたので、そのまま夕方まで休んだ。目を覚ますと窓の外はとっぷりと日が暮れていて、空も色を濃くし、闇が微かに漂い始めていた。すべてが沈み込んでいくような時間に、ピラミッドだけは夕日の残照を照り返して黄金色に光を放っていた。

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