【回想】エルサレムでの聖別
ひとまずエリザベツ訪問を中止してカペナウムに帰ったヨセフとマリアは、その初子が生後四十日になった時にエルサレムに上った。
子供は生後八日目にすでに律法通りの割礼を受け、マリアの異次元体験に基づいてイェースズと名付けられていた。
あのお告げでは「イスズ」と名付けよとのことだったが、この地方の男子名としては違和感があるので、ごくありふれたヨシュアと名付けた。アラム語ではイエシューとなり、いちばん「イスズ」に近い。だがマリアはさらに「イスズ」に近づけたかったので、通常はイェースズと呼ぶことにしたのだ。
そのイェースズを連れて一家がエルサレムに上ったのは、ユダヤ全土の初子の新生児は、パリサイ、サドカイ、ナザレ人すべての共通の慣わしとして、エルサレムの神殿で祭司より聖別を受けることになっているからだ。
そして涜罪の証として、子羊一頭と小鳩二羽を奉納しなければならなかった。男であれ女であれ、初めて母の胎内より出る子は一切の穢れを母から受け継いで誕生してくるわけであり、そのための聖別であった。
荒野に囲まれた真ん中に、エルサレムの都はある。都市全体が石の城壁で囲まれ、周りの荒野と区切られている。
荒野といっても全くの不毛の土地というわけではなくて、若干の背の低い木々の緑ならあり、そんな土地がなだらかな傾斜となって都市を囲んでいる。
都市の北東部には神殿、西の端にはヘロデ王の宮殿が威容を誇っている。
かつて栄華を誇ったダビデ・ソロモン王の神殿はバビロン捕囚時代に取り壊されていたが、そのソロモンの栄華もかくやと思われる神殿を再建したのがヘロデ王だった。いわゆる第二神殿である。
神殿の規模はソロモン王当時のものの二倍はあり、エルサレムが都市として最大に機能した時代でもある。
華美を尽くした宮殿は王の専制を嫌悪すら知識人の間でさえ称賛され、ヘロデの神殿を見ずして建築の荘厳を語るなかれともいわれている。
ヨセフとマリア一行は城壁の北のエッセネ門をくぐって町に入った。この門は「一切装飾あの門をくぐってはならぬ」というナザレ人の掟のため、特別に造られた装飾のない門であった。
ろばの上のマリアが幼いイェースズを抱き、ヨセフとサロメは徒歩である。
到着したのが夕暮れということもあって、その日は参拝の手続きのみをして、神殿の南のダビデの町と呼ばれる一角に宿を取った。
町は決して平らではなく、かなりの起伏がある。しかし、モザイクのような立方体の石の建物が積み重なり、さほど起伏は感じなかった。また、最近ではかなりローマ風の建築も目立つようになっている。
翌日、順番を待つために、一行は神殿の南の二重門より中に入った。高い城壁の上には王の廊と呼ばれる横に長い屋根付きの回廊が乗っており、それは幾本もの巨大な円柱に支えられ、息をひそめて横たわっている。
ヨセフはそんな回廊を見あげていたが、後から次々と続く人々の群れに押されて、立ち止まってゆっくりと見物しているわけにはいかなかった。
それから一行は二つある二重門のうち、右側の門から神殿の城壁の中に入った。神殿全体が小高い丘で、それはかつてアブラハムがその子のイサクを犠牲として捧げようとした山であると伝えられている。門に向かって右手の角がいちばん高い部分で、神殿の頂と呼ばれている。
地下道を通る形で石段を上がると、そこはもうさっき見上げていた城壁の上だった。王の廊は後ろに、同じ高さにある。その屋根の下は両替商や露天商の屋台が並んでいた。
異邦人の庭と呼ばれているこの広場は、自由に歩けないほど人でごった返していた。よく晴れた空の下、広場全体が活気づいており、客を呼び止める商人の声、値切る客、家畜の鳴き声などが充満している。
そんな雑踏をかき分けて、神殿を目指す人々は黙々と進んでいた。
すぐに低い石の欄干に囲まれたスペースに出る。そこから石段を五段くらい昇るとそこはもう神域で、ここから上はユダヤ人以外が入ることは禁じられていた。
その神域の中央に神殿の聖所(拝殿)がある。神殿は東を向いているので南から入ると神殿の側面を見る形となり、正面に回るには右の方へ回り込まなければならない。神殿はちょうど直方体を二つ縦にT字型にくっつけた形となっており、正面の美門をくぐった所にある庭が女人の庭だ。そこでヨセフはマリアからイェースズを抱き取った。
女性が入れるのはここまでで、中門であるニカノル門をくぐることは女性は許されていない。そのニカノル門の向こうに、神殿にそびえ立っているのである。
ここまで入ると今までの喧騒がうそのように静まり、微かに外から騒音が聞こえ続けている程度になる。ヨセフはニカノル門をくぐる順番を待つ列に加わり、やがて門に入って行くと、それまで黙っていたマリアはサロメの耳元で遠慮がちにささやいた。
「のみ込まれそうな気になる御神殿ですね」
マリアはニカノル門越しに、神殿の正面を目を凝らして見上げた。青い空を背景に、それは静かに息づいているようでもあった。
「神様の栄光を表すため、これだけの巨大な御神殿が造られたのでしょうけど」
「でもねえ」
サロメは腑に落ちぬ顔で、やはり神殿を見上げていた。石造りの赤茶けた聖所の書面には四本のヘレニズム風の円柱があり、その内側の二本の間がかなり高い所まで口を開いている。
「かつてソロモン王の神殿は、これより規模は小さくても目を見張るような黄金神殿だったっていうけど」
「ほかの神様を祀ったために、神様によって破壊されてしまったというあの神殿ですね」
「ええ。でも、この神殿も、なんか仮のようなものって感じがするのよね」
「どうしてですか?」
「だって……。この神殿は、なぜ東を向いているのでしょう?」
二人はさっきくぐってきた美門のそばまでゆっくり歩いていって、門の外の異邦人の庭の雑踏を見た。その向こうには城壁の東の縁にソロモンの廊がやはり何本もの円柱に支えられて横たわり、柱越しにオリーブの丘が遥かに眺められた。その丘と神殿との間の谷は、緑茂るゲッセマニの園だ。
「実は私……」
そんなオリーブの丘を眺めながら、サロメが口を開いた。
「ヨセフはあのお年だから、正直言ってあなたに子供ができるとは思っていなかったわ。だから、この間洞窟であなたを見たときは、本当にびっくりした」
それから、サロメはマリアと目を合わせた。
「そしていつかあなたが話してくれたあの体験が、本当の話だったって初めて知ったの。やはり人間の頭では理解できない不思議なことが、この世にはまだまだたくさんあるのね」
「だからこそ、神様って本当にいらっしゃるって言えるのではないでしょうか。私が身ごもることができたのも、すべて神様のお力ですから」
「そうね。それにあの洞窟に私が行ったのも、偶然のように見えて偶然じゃなかったのだわ。すべてが神様のお仕組みで、この世の中に偶然なんてものは一切ないのね」
マリアが伏し目がちにそう言っていた時、
「終わったよ」
という声がした。見ると、ヨセフがイェースズを抱いて出てきている。
「あら、早かったのねえ」
マリアはそう言って、イェースズを再び受け取って抱いた。
一行はそれから、美門を出て再び異邦人の庭の雑踏の中を進んだが、店でもない所に人垣ができているのを彼らは見た。好奇心からヨセフがのぞくと、人垣の中には今にも崩れそうなよぼよぼの老婆が座っており、一人の若者を前にして何やら語りかけていた。
「何ですか? あれ」
ヨセフが見物人の中の、自分とほぼ同世代と思われる男に聞いてみた。
「預言者ですよ。若者の将来のことを予言してるようですがね」
「女預言者ですね」
「アセル族のバヌエルの娘で、アンナという預言者ですよ。旦那はガリラやの訛りがあるから知らないのかもしれませんがね、エルサレムじゃ有名ですぜ。それがまた、よく当たるんだ」
どうやら一種の霊感占いのもののようだ。都にはいろんな人がいるものだと思いつつ、ヨセフは立ち去ろうとした。すると、
「あれ、もし!」
と、鋭い呼び声がヨセフら一行を呼び止めた。振り向くと先ほど人垣の真ん中にいたアンナという老預言者がよたよたと頼りない足取りで、群衆をかき分けてヨセフたちのそばまで歩み寄ってきていた。
「おお、その子は……」
アンナはマリアが抱いているイェースズを見て、その場にひざまずいて大声を上げた。
「この子を包んでいる、黄金の光は何じゃ!」
しかしどんなに目を凝らしても、ヨセフにもマリにも我が子のイェースズがそのようには見えなかった。だから二人とも、そして周りの群衆たちも呆気にとられてアンナを見ていた。アンナは狂ったように胸をかきむしった。
「ついに神が、われらとともにいましたもうた。ああ!」
あとは何度も何度もマリアの上の中の乳児であるイェースズに向かってひれ伏し、拝礼していた。
そこへつかつかと歩み寄ったのは、サロメであった。サロメはアンナの背に、そっと手を置いた。
「お婆さん、おやめなさい。この子は人間の子ですよ。人間を拝礼するのはおやめなさい。それは偶像崇拝と同じです。人物主体の信仰はいけませんよ。尊敬するのならいいですけどね。いいですか? 拝礼すべきは神様のみです。神様だけを拝礼して下さい」
サロメはそれだけを優しく言うと、ヨセフたちにこの場を去るように促した。だがこの出来事は、マリアやそしてヨセフの心にも深く刻まれていた。
一行が宿に帰るべく、ダビデの町に戻ったのは昼過ぎだった。朝はだいぶ冷え込んでいたが、ようやくぽかぽかとする陽気となっていた。彼らはエルサレムにもう一泊してから、次の日にガリラヤに帰る予定である。
ところが宿に着く前から、どうも町の様子がおかしいとヨセフもマリアも感じていた。ダビデの町全体がざわめきたっているのである。
「何かあったのかしら」
ろばの上でマリアがつぶやくとやはりそう思っていたヨセフも、あたりを見回した。
「あっちの方にみんな駆けていっているようだなあ」
確かに人々は、ヨセフが今指差した方角に向かって走っているし、そうでない人もひそひそと何かをうわさしたり人々が駆けていく方の方角を指差したりしている。
「行ってみよう」
ヨセフがサロメを促した。
「でも、私たち疲れてますから。マリアはもっとでしょう」
「じゃあ、俺が見てくる」
ヨセフはロバの手綱をサロメに預け、人々が走っていく方角へと人の流れに乗って向かった。そしてある大通りまで来ると、その左右には延々と人垣ができていた。何ごとかと人に問う間もなく、
「来たぞ、来たぞ!」
という、幾人もの叫び声をヨセフは聞いた。
人ごみの中で背伸びしてのぞいてみると、巨大ならくだがこっちの方へゆっくりとやってくる。らくだは三頭で、それに騎った人は高貴な身分であろう服装をしており、しかも一目で異国人と分かる人々であった。
そのことが、らくだという動物の珍奇さに加えて、こんなにも人垣を作っている要因だった。ギリシャでもローマの人でもなく、またエジプトの隊商でもなさそうだ。
この地ではめったに見られない紫の錦織の服で、異様なのは頭にかぶった白い布であった。三頭のらくだがゆっくりと進んで行く先には、ヘロデ王の宮殿がそびえていた。
らくだの異邦人が行ってしまうと、見物人は三々五々に散っていった。ヨセフもマリアとイェースズが待つ宿へと戻った。
「いったい何でしたの?」
「なんだかわけが分からなかったけど、遠い国の偉い人たちのようだった。王様にあいさつにでも来たのだろうな」
「ローマの人?」
「いや、むしろ、東の方の人のようだな」
その話題は、それ限りで終わった。
その日の夕方、サロメに客が来たということを、宿屋の主人が告げにきた。そしてそのまま、サロメは客と一緒にどこかへ行ってしまった。
程なく一人で戻ってきたサロメは、ヨセフたちにさらにもう一泊して、ガリラヤに帰る日を一日延期するように告げた。突然そのようなことを言われて、ヨセフもマリアも顔を見合わせた。
「もう一泊?」
「ええ。あなた方に会いたいという人たちが、明日ここに来るんです」