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人間・キリスト  作者: John B.Rabitan
第2章 東方修行時代
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帰郷

 イェースズは大きな湖の岸に立った。

 まぎれもなく、夢にまで見たガリラヤ湖だ。その広さはまるで海のようだが、それでもいつしか彼はあの霊島ひじまの北国のトー・ワタラの湖を思い出していた。

 そのトー・ワタラの湖を見ていた時はこれが故郷のガリラヤの湖だったらなあなどと思っていたものだが、今や正真正銘本物のガリラヤの湖の前にいる。

 そのこと自体が、夢のようであった。

 今やアシナビとも別れて、イェースズは一人である。そして目指す懐かしい故郷のカペナウムは、この対岸に当たる所になる。真正面よりも右手の対岸に町が見える。あれがカペナウムだろう。

 湖の周りは緑豊かな高原だ。湖畔に立つとなだらかな丘陵のようにも見えるが、湖水は高原のすり鉢状の下にある。

 太陽は湖の向こうの西の方へとすでに高度を低くしていた。早く渡らねば、日が暮れてしまいそうだ。

 母は自分の突然の帰郷に驚くに違いないが、弟たちはどうだろうと気がくが、湖を渡る方法がない。竹のさおを二本投げれば水上を歩けないわけでもないイェースズだが、この土壇場でそれはしたくなかった。

 見ると、すぐ近くで漁師が漁から帰ったようで、網をいじっている。


「申し訳ありませんが、向こう岸まで船に乗せてくれませんか?」


 イェースズの問いかけに、漁師は顔を上げた。若い漁師だった。イェースズは、故郷に帰ってきたのが夢ではないことを確認したくて、わざと十四年ぶりに使う故郷の言葉のアラム語で聞いてみた。


「カペナウムにいくんですか?」


 アラム語が返ってきた。そのことが、イェースズにとっては飛び上がらんばかりにうれしいことだった。


「は、はい」


「いいですよ」


 漁師は、気前よく船を出してくれた。

 

 対岸に着いた頃は、もうすっかり宵闇が辺りを包んでいた。

 漁師はイェースズを下ろすと、慌てて引き返そうとした。そうしないと、彼が帰りつく前に暗くなってしまう。


「有難うございます。助かりました。お名前は?」


「シモンです」


 イェースズはそのシモンの手を取った。シモンは怪訝そうな顔をしていたが、イェースズにとっては帰郷以来はじめて会話をした故郷の人がこのシモンなのだ。

 そのシモンと別れて宵闇迫る町を歩きながら、ここが自分の生まれ育った町だと思おうとしても、なぜか実感がわかなかった。

 旅の途中で立ち寄ったどこにでもある漁村のように思えて仕方がない。全く記憶がないわけでもないが、かなりそれらは断片的なものだった。それでも湖岸のちょっとした林など、確実に思い出のベールを剥ぎ取ってくれる。

 ここが自分の故郷なのだと、イェースズは無理にでも思おうとした。そうすることによってようやく彼は、帰郷の感慨を覚えることができた。東西の交易で栄えている町だけに夜になってもにぎやかで、灯りもまぶしかった。

 ようやくガリラヤの風を確実に感じたイェースズは、行き交う人すべてに声をかけたい衝動に駆られた。町のたたずまいは記憶を刺激はしたが、まるで初めて来る町と感じてしまう部分もぬぐい去り得なかった。ただ、自分の家に向かう道だけは、間違えることはなかった。


 イェースズは、ついに戸口に立った。だが、その黒光りの木の扉を押すのに、ずいぶんと時間が必要だった。その時彼は自分が旅でぼろぼろになった衣服を着て、ひげも髪も伸び放題になっていることを忘れていた。

 何とか、ドアを押した。ろうそくにともされた室内が、すぐに目に入った。最初に見た室内の人は青年で、ドアが開くとともにこっちを振り向いた。ほかにも二人ばかり、若者がいた。最初の青年はイェースズを見ると胡散臭そうな顔をし、


「こんな暗くなってから誰ですか。今日は忙しいんですよ。兄が旅から帰ってくるんでね」


 その顔と声に、イェースズは胸が熱くなって言葉も出ずにいた。するとその青年の背後から、鋭い声がした。


「イェースズ!」


 母のマリアだった。白髪が増えたな……少し老けたな……そんなことをイェースズはほんの一瞬の間に考えた。兄を見ても兄だと気付かなかったイェースズの弟たちは、まだ呆気に取られてイェースズを見ていた。


「イェースズなのね!」


「お母さん!」


 イェースズはやっと声を発すると、母子はしっかりと手を握り合った。すでにマリアの瞳は、潤んでいた。この時はじめてイェースズは、自分が故郷に帰ってきたのだという実感を持った。

 母の潤んだ瞳を見つめ、その髪に手を伸ばしてみた。まぎれもなくここは故郷で、目の前にいるのは母、そしてここは自分の家なのだ。


「イェースズ、よく帰ってきたね。今日を指折り数えていたんだよ」


 マリアはそれだけ言うと、どっと泣き崩れた。その震える背中をいたわるように、イェースズは母をやさしく抱き起こした。


「お母さん。突然帰ってきてびっくりしたろう」


「いや。知っていたんだよ。今日、おまえが帰ってくることはね。全部ナザレの家の人が知らせてくれたんだ。今日、この時間におまえは戻るって」


 エッセネの人たちの情報網の緻密さには、イェースズはあらためて驚かされた。そして、再会を喜ぶ母子の背後の若者たちに、イェースズは目をとめた。そして、最初に見た青年の方へ、イェースズは近づいた。


「おまえ、ヨシェだろう」


 ヨシェはそう言われても、無表情でイェースズをも見ていた。イェースズは、にっこり笑って見せた。


「面影が残っているなあ」


 それでもヨシェは、無言だった。そのことをいぶかるよりも前に、母がイェースズをヨシェからはぎ取った。


「とにかく、裏で水を浴びておいで」


 確かにイェースズは浮浪者同然で、汚いし臭い。そのことが自分でも分かっていたイェースズは、裏へと行った。そこは建物と建物との間のわずかな空間で、屋根はない。いわば露地のようになっているが、幼い頃もここで水浴びをしたという記憶がよみがえり、イェースズは頭がクラッとする思いだった。

 それでもまだ自分の家にいるということが、夢のように思われてならない。イェースズはそこで水を浴び、ひげと髪の手入れもしたが、ひげはあえて剃らず、髪も長いままにした。

 そうして母の用意した新しい服を着て、イェースズは再び家族の前に出た。その時、誰もが一瞬だけ


「おおっ!」


 と声を上げた。イェースズは自分の体から黄金の光が発せられていることを自分でも感じ、それは家族の目にも見えたようだった。

 だが弟たちは次の瞬間には、また遠巻きにイェースズを冷めた目で見ているのだった。ヨシェやヤコブはともかくイェースズが家を出たときにはまだ幼かったユダは、おそらくイェースズのことは記憶にないのであろう。ただ、話に聞いていただけにすぎないはずだ。


「この人がお兄ちゃん?」


 弟たちの後ろから突然小さな少女が前に出てきて、マリアにそう聞いた。


「そうだよ。初めて会うんだよね」


 マリアは、少女にそう言ってからイェースズを見た。


「おまえの妹だよ。ミリアムっていうんだ。おまえがこの家を出た後に生まれたんだよ」


「へえ、妹ができていたなんて」


 イェースズは初めて会う妹に手を伸ばし、その手を取ろうとした。だがミリアムははにかんだように後ずさりし、マリアの後ろに隠れた。


「今日はおまえのために、ご馳走を作っていたからね」


 マリアがイェースズを、食卓へと招いた。食卓といってもテーブルはなく床に直接座って食べるのだが、弟たちは誰もいっしょに席に着こうとはしなかった。

 たとえイェースズのように霊道が開けて即座に相手の想念が読み取れるものでなかったとしても、この弟たちがイェースズにいい感情を持っていないであろうことは容易に知れるはずだ。

 マリアが席に着いたので、イェースズも弟たちを気にしないふりをして席に着いた。ろうそくに照らされた床にはパンとぶどう酒、子羊の肉、果物などのご馳走が並んでいた。

 弟たちはまだ席に着こうとしない。そればかりかどす黒い想念がかたまりとなってイェースズの方に飛んでくるのだ。


「まあ、おまえたち。早くお座りよ」


 マリアは軽くそう言っただけで、すぐに視線をイェースズに向けた。


「大変だったねえ。でも、すっかり大人になって」


「いろいろご心配をおかけしました」


 イェースズが頭を深く下げるので、マリアは口に手を当てて笑った。


「まあ、他人行儀に」


「いえ、なんだかまだ落ち着かなくて」


 長い旅路においては、自分の家という存在に対する感覚が鈍っていた。ただ、分かってはいたことではあったが、すでに父がいないということを現実として知ることになり、急にイェースズは寂しさを感じ始めた。

 弟たちは突っ立ったまま、イェースズをにらみつけるような目で見ていた。ヤコブの想念が、伝わってくる。


――なんだ、この男。俺たちの兄貴だっていうことらしいけど、突然にやって来て。わけの分からない所をほっつき歩いて、無一文になったからといって戻ってきただけの、ただのフーテンじゃないか。父さんが死んだ時さえ、いやしなかった……。


 彼らにとって十年ぶりに戻ってきた兄など、兄とはいってもどうしようもないエトランゼなのだろう。

 それは無理のないことだと、イェースズも思う。今まで彼らだけで、イェースズのいないこの家を運営してきたのだ。ただ、ヨシェだけはその記憶の中に兄の印象が残っているだけに、複雑な心境でいるようだ。


「母さん!」


 そのヨシェが、突然口を開いた。


「僕らずっと家にいたのに、僕らのためにこんなご馳走を作ってくれたことはなかった」


「なあにを言っているの」


 マリアは取り合わないというふうに、大笑いをした。


「おまえたちはずっと私のそばにいたじゃない。でも、お兄さんはいなくなっていたのに、今ここにいるのよ」


 おそらくマリアはただ何気なく言ったのであろうが、その言葉がイェースズの胸の中にやけに残った。マリアはイェースズを見た。


「ずいぶん、いろんな所に行ってきたんだろう? エッセネの人たちの目の届かない所まで」


「はい。最初のアーンドラ国に三年、それからユダヤ人の隊商に加わって、東の果ての国、太陽の国に長く住んでいました」


――この大ほら吹き、山師、ペテン師め……。


 弟たちのどす黒い想念は、ますます強くなってきている。


「ねえ、お母さん」


 何かを思い出したように、ミリアムは立ち上がった。


「この人、本当に私のお兄ちゃんなの? 証拠はあるの?」


「本当よ、母さんが見て間違いないって言うんだから、偽者にせもののはずないでしょう」


「どうして、お父さんが死んだ時もいなかったのお? いろんな所に行ってきたっていうけど、そんなにすごい人なの?」


「まあまあ」


 マリアは憤る娘を何とかなだめた。


「そんなことより、ご馳走がもったいないわよ。みんな、席に着いて!」


 弟たちも仕方ないという感じで、イェースズとは距離を置いて床に寝そべった。

 

 翌日はいい天気で、空も青かった。

 イェースズは昨日着いたのが暗くなってからだったので、明るい日差しの中の故郷の風景が見たいと思って、外に出た。

 その時、亡き父の仕事場であった所でいちばん上の弟のヨシェがもう作業に入っていたので、イェースズは声をかけた。


「ちょっと散歩したいんだけど、いっしょに来ないかい?」


 ヨシェはやけに緊張したような目でイェースズを見た。


「午前中はだめだね。木の腰掛けの注文が来てるんだ。午後ならいい。僕も兄さんに話がある」


「分かった。湖のそばで待ってる」


 それだけ言うと、イェースズは外に出た。

 かつて少年イェースズが走っていた生まれ故郷の町を、成長したイェースズは歩いた。わずかばかりの思い出を拾うとことはできたが、鮮明に覚えている建物はまれだった。

 ただ、昔は広く感じられた道もやけに狭く感じられ、家から湖まではかなりの距離を歩いた記憶があったのに、実際は家から目と鼻の先が湖畔だった。巨大な町と思っていたこの町さえ、こんな小さな町だったのかと拍子抜けするくらいだ。

 ここが故郷と意識して来なければ、今まで見てきた世界各国の村や町のひとつと同じような感覚で通り過ぎてしまっていたかもしれない。

 それでもイェースズは、包み込むような優しさを感じた。子宮の羊水の中につかっているかのように、故郷の風景の暖かさを実感した。

 町外れの小さな川の川原で子供たちが遊んでいるのが、石橋の上から見えた。ちょうどあの子供たちと同じくらいの年齢の頃に、イェースズもこの川原で遊んでいたのだ。

 そして気がついたことは、この町は今も何ら変わっておらず、変わってしまったのは自分の方だということだった。

 イェースズはそのまま湖畔に出た。町と湖畔の間は林になっているが、木と木の間は十分に離れていて景色はよく見渡せる。

 この町を離れる直前に、この場所でヨシェに父と母のことを頼んだ。そのヨシェももう一人前の大人になっており、間もなくここに来るはずだ。すでに太陽は中天にまで昇っている。

 イェースズは、湖の景色を見ながらしゃがんだ。そして、どうやって家族を神のミチに導けばいいのだろうかと考えた。人類を霊的に目覚めさせる使命を帯びて戻ってきた以上、まず自分の家族を目覚めさせなくてはならない。家族すら導けない想念では、人類など救えないと考えたのだ。

 しばらくして、彼は立ち上がった。ここで考えていても仕方がないと思ったのだ。すべては神のみ意にお任せだと思ったイェースズだが、もちろんやるべきことをやった上でのお任せでないとならないと同時に自戒した。

 その時、背後に人が立っているのに気がついた。振り向くとヨシェだった。イェースズは笑顔を作ったが、ヨシェの表情は変わらなかった。

 だが、その目元あたりがハッとするほど自分に似ていると、イェースズはあらためて実感した。まぎれもなく、自分と血を分けた兄弟がここにいるのだ。イェースズはそんな弟を見た後、視線を湖畔に戻した。広大な水をたたえるガリラヤ湖の水面は、今日も穏やかだ。ヨシェは、無言のまま兄の背後に立っていた。


「ヨシェ。覚えているかい?」


 イェースズは背中で言った。


「私がここを離れる前に、ここでおまえとこうして湖を見ていたな」


「あの時の……」


 ヨシェは、ボソッと言った。


「本当に、あの時の兄さんなんですか?」


 イェースズは笑顔で振り向いた。


「そうだよ。当たり前じゃないか。なぜ、そんなことを聞くんだい?」


「だって、兄さんは変わりすぎた。遠い人になってしまったようだ」


「それはお互い様じゃないか。時がたてば誰でも年を取るんだ。私もおまえも大人になった」


「そういうことではないんだ」


 ヨシェは、じっとイェースズを見ていた。そこで、イェースズの方から口を開いた。


「肉親という感じがしない、他人のようだって、そう思っているんだろう」


 ヨシェの顔が、急にこわばった。


「察しがいいですね」


「それに、自分には兄がいたが、もう死んだものと思っていた。エッセネの人たちの目が届かない所まで行ってしまって、父さんが死んだときも戻ってこない兄なんて、もう死んだも同然……そう思っているだろう」


 あまりにも図星を突かれて、ヨシェは言葉を失くした。ヨシェはどうやらイェースズが勘が鋭いだけでも、読心術があるというだけでもないことに気付いたようで、その驚きの想念波がイェースズにはひしひしと伝わってくる。


「兄さんはいったい今まで、どこで何をしていたのですか?」


「私はある所で修行をしていた。そして、大きな使命を持って戻ってきたんだ。神様のお使いとしてね」


 その時、イェースズの体からまた黄金の光が発せられ、ヨシェは目を覆った。その間に、イェースズは懐から短剣アマグニ・アマザのうちの一振りを取り出し、袋から出して抜身をヨシェに見せた。ヨシェはたちまち血相を変えた。


「兄さん、それは危ない。殺されるますよ。兄さんはずっとこの国を離れていたから知らないだろうけど、今ローマ当局は血眼になっているんだ。だめですよ、そんな滅相もないこと」


 ヨシェがどのような勘違いをしているのかも、イェースズは想念を読んで分かっていた。だが、あえて反論はしなかった。

 

 一人の婦人がイェースズの家を訪ねてきたのは、二日後のことだった。ちょうど夕食の時間となって家族と食事をともにしたその婦人、サロメは上機嫌だった。

 なにしろ、十年ぶりのイェースズとの再会なのだ。しかも子供だったイェースズは、立派な若者になっている。

 だが、イェースズの方にしてみれば、この初老の女に関する記憶はわずかしかない。サロメがイェースズと深くかかわっていたのは、もっぱらイェースズがまだ幼児期だった頃のことだ。

 かつてイェースズの母マリアとナザレの家でともにメシアの母候補として修道生活をしていたサロメは、マリアがヨセフのもとに嫁いでイェースズが生まれてからは、イェースズの養育係のような立場でイェースズと接してきた。いわば、イェースズの家族にとってはエッセネ教団の窓口のような人だった。

 だから食事をしながらのサロメの話は、ほとんどがイェースズの幼児期の話ばかりだった。


「本当に信じられないわ。あんな小さかった子供が、こんな若者になって。ねえ、マリア」


 サロメは饒舌だ。マリアもうれしそうだった。


「ええ、この子も突然戻ってくるものですから」


「ミツライム本部からの知らせで、私も飛んできたのよ」


 ミツライムとはアエギュプトゥス、すなわちエジプトのヘブライ語名だ。その地名を耳にしたイェースズは、心に弾けるものがあった。ここへ戻る直前まで同行していたアシナビと、エジプトへ行くという約束をイェースズは交わしていたからである。


「ねえ、マリア。思うんだけど、イェースズにもそろそろミツライムに行ってもらったら?」


「そうねえ。私もそう考えていたの」


 アシナビの言った通りだった。家に戻れば、イェースズは母からも必ずエジプト行きを勧められるとアシナビは言っていたのだ。


「ミツライムに、何かあるんですか?」


 アシナビから聞いて知っていたのだが、イェースズはわざと鎌をかけた。サロメはにっこりと笑った。


「ミツライムには、ヨハネも行っているのよ」


 これもイェースズはすでに聞いていたが、わざと驚いて見せた。アシナビはヨハネをイェースズの従兄いとこと言っていたが、正確には母マリアの従姉いとこのエリザベツの子だから、イェースズにとっては又従兄またいとこになるのだが、そのヨハネはイェースズの子供の頃はいちばんの遊び相手だった。


「あのね、イェースズ」


 と、マリアが口を開いた。


「ミツライムには太陽神殿があってね、エッセネの男の子は一人前になったらそこに籠もって試験を受けて、合格してはじめて一人前のエッセネ教団のナザレびとと認められるのよ」


 もともとサロメの来訪は、イェースズをエジプトに連れて行くのを目的とするエッセネ教団からの派遣であることは、想念を読み取るまでもなくすぐに分かることだった。イェースズは断る理由もなく、むしろアシナビにはすでにエジプトに行くことは言ってある。それに、何よりもヨハネに会いたかった。

 ここで自分が使命を果たすそのよすがに、どうもヨハネがなりそうだという予感がイェースズはしていたのである。今、自分が会うべき人物はヨハネに違いないと、イェースズの中ですでに確信ができていた。


「このガリラヤの地にエッセネの教えをもっと広めるというのが、死んだお父さんの願いだったわ。それをお父さんは、おまえに継いでほしかったのよ」


 今、エッセネ教団に所属しておく方が自分の使命を果たすための方便としても有利なのではないかと、イェースズは考えた。別に功利を狙ってではないが、神のためにいちばん最良の方法を工夫しなければならないのである。


「明日、ミツライムに行きます」


 と、イェースズは言った。まだ故郷の町に帰ってきてから数日しかたっていないが、いつまでも感傷にふけっているだけでいいイェースズではなかったのである。この申し出にマリアは驚き、サロメは喜んだ。

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