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人間・キリスト  作者: John B.Rabitan
第2章 東方修行時代
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アブラハムの故郷

 祭りが行われるのが、この僧院の拝火殿であった。その前の広場は、群集が埋め尽くしている。四方八方より人々は拝火殿を囲み、一様にひざまずいていた。

 イェースズには特別の計らいで、拝火殿の真正面に席が与えられた。中の様子がよく見える。壁は内側のみ木の壁の部分があり、いくつかの窓の上には半円形のけばけばしいアラベスク調の紋様が入っていた。床は石畳で、中央には大きな円形の炉が据えられていた。

 僧は四、五名で、その中にカスパーもいた。皆壁に背を向け、白いかぶりものをかぶって座っている。それぞれの前に座卓があり、そこには祭礼の調度が置かれ、それぞれの右手あたりには小型だが金属製の小さな炉があった。ホルタザールたちは、奉仕者として働いているようだった。

 やがてざわめいてた人たちは波を打ったように静まり返り。部屋の中央の炉に火がともされた。皆が一斉にひれ伏すので、イェースズもそのようにした。壁を背に座っている僧たちが鳴り物を鳴らし始めたらしく、下げている頭の先でけたたましくガチャガチャと不断の音がした。

 やがて、天まで透き通るかと思うような鋭い声で、祭文さいもんの奏上が始まった。

 

――かれ、大いなる光神、アフラ・マズダーよ。スピターマ・ザラスシュトラにかく語りき。スピターマよ。神に義なるフラワシ。勝利に輝く天の栄光を告げん。その光輝は、ザラスシュトラよ、天空をあま馳せ巡り、いと高く輝きて大地を包む。そは神霊しんぴの界の力動にて立てられ、その輝きは大三界を貫かん……

 

 言語は理解できないまでも、その言霊は脈々としてイェースズの胸を打った。鳴り物のリズムに乗って、僧たちが唱和する声は延々と続く。

 イェースズはそっと上目遣いに、視線を上げてみた。炉に燃える火は当然物質の火であるが、そこから燦々《さんさん》と放たれている霊光を、イェースズは強く感じた。

 長い祈祷が終わり、静寂が一瞬取り戻されると、人々はごそごそと頭を上げた。僧たちが席を立つと、群集はざわざわと私語を始めた。


「皆さん!」


 刺すようなカスパーのひと言が、人々を再び静まり返らせた。

 彼は拝火殿の入り口に、群集の方を向いて立っていた。最前列のイェースズとは、面と向かって向かい合う形だ。


「今日は神聖な祭りです。ここに集められた人々のうち志あるものは、自由に前に出て話がすることが許されています。我と思わん方は、出てきなさい」


 そこで間髪を入れずにイェースズが立ち上がったので、群衆の中でどよめきが上がった。実はこれは前の日の、イェースズとカスパーたちの間での打ち合わせ通りのことだった。


「兄弟の皆さん!」


 人々は一瞬静まったものの、再びざわめきだした。そのような表現に慣れていないということもあっただろうが、何よりイェースズがギリシャ語で話し始めたからだ。ただ、人々から伝わってくる波動によれば、彼らのうちの多くがギリシャ語を解すらしい。

 しかしここでは、もはや顔つきからイェースズを異邦人と思うものはいないようだ。ここの人々はすでに、人種的にユダヤ人と同種なのである。


「今、私は『兄弟の皆さん』と申し上げたのは、皆さんは等しく神の子だからです」


 ざわめいていた人々も、次第に静けさを取り戻していった。


「皆さんだけでなく、この地上のすべての人は皆神の子なんですが、その中でも皆さんは特に恵まれています。皆さんが奉ずる教えは、神理にたいへん近い立派なものです。あなた方の大導師のザラスシュトラは、素晴らしい聖者です」


 人々の間で、喝采が起こった。それが静まるのを待ってから、イェースズは話を続けた。


「私は幼い頃から、あなた方の聖典である『ゼンダ・アベスタ』を学んできました。私の故国の『聖書トーラー』では天地創造は七日にわたって行われたと書いてありますが、『ゼンダ・アベスタ』では七位の大天使によったとなっています。さらには、創造主は唯一無二の絶対的なお方であるとしていることからも、素晴らしい教えだと思います。しかしあなた方は、唯一絶対の善なる神に対し、絶対悪の存在というものを認め、善悪の二元的な世界観をお持ちのようですね。創造主が唯一無二の絶対的善であるなら、なぜ絶対悪が生み出される余地があるのでしょうか。どうかお教え頂けたら幸いです」


 人々は、再びざわついた。その状態がしばらく続いたあと、一人の年配の僧がほど近いところで立ち上がった。


「ではお若い方、こちらの質問に先にお答えくださいますかな」


 イェースズがしゃべったのと同じ、ギリシャ語だった。


「何でしょう」


「私たちは確かに絶対善と絶対悪の二者で、世界を見ています。しかしその悪を絶対神がお創りになったのではないのなら、いったい誰が創ったと言われるのでしょうか?」


 まんまとイェースズの質問誘導にひっかかったわけである。イェースズは本来このような哲学的な論争は好きではなかったが、ここの人々がそれを好むようだから、相手に合わせて下座をして同じスタイルをとることにした。あくまで方便なのだ。

 それにしても、モノの文化が発達していればいるほど人々は理屈をこね回し、逆にモノがない方が素朴で、原始的で、ス直で、神さながらなのだと、イェースズは今さらながらに実感した。


「創造主は、善一途のお方です。その被造物もすべて善で、ゆえに神様は天地創造の後、すべてをご覧になられて『よし』とされたのです」


 イェースズの声は、静まり返った群衆の頭の上を飛ぶ。


「はじめはすべての被造物が善だったのですけれど、神様は人間に人知をお与え下さいました。しかしその人知は、全智ではありません。そして神様は人に物欲、競争欲などもお与えになったのです。それは神様の方のご都合で、必要なことだったのです。しかしそれらからやがて“”が生じ、それが一人歩きを始めて、人間が神から勝手に離れすぎた結果として悪が生じたのです。悪は人間の所産です。だから一時的なもので、絶対悪ではないのです。神様のご想念は絶対の大調和ですけれど、人間の想念は時には不調和を生み出すのです。それが悪だともいえるでしょう」


「では、神はなぜそれを許したもうたのだ?」


 そう叫んだのは、先ほどの僧の近くにいた別の男だ。イェースズはにっこりと笑った。


「あくまで方便として、今は許しておられます。神様もそれを必要とされていますし、今はそういう時代なのです。つまり、神様のお考えによるものなのです。今は詳しく申し上げられませんが、光を知らしめるためには闇も必要なのです。でも、やがて悪は許されなくなる天の時が来ましょう」


 神経綸による日神岩戸隠れの因縁など、今ここで話すことはイェースズには許されていない。それだけにもどかしくもあった。人々はまたざわめきだしたが、イェースズはこ今の時点ではれ以上何も言えないので席に着いた。

 

 翌朝イェースズは早くに起きて、誰もいない拝火殿の炉の前に座って瞑想をしていた。

 神経綸は人間に物質を使っての地上天国権限の前提としてまず物質を開発させるため、人々に欲心を与え、競争欲を与えた。だが、その欲を十分に発揮させるために火・日の系統は引退を余儀なくされた。

 だから今は陰光の時代、水の時代なのである。そんな時代だからこそイェースズにもこのような重大因縁の秘め事はこっそり耳打ちされたのだし。決して今世の人々に告げることが許されない内容だった。

 その時、人の気配を感じたイェースズは、そっと振り向いた。そこには彼と昨日問答をした若い僧が立っていた。


「おお、あなたでしたか」


 僧はゆっくりとイェースズの方に歩いてきた。


「この光は、何ですかな。広場の前を通りかかったら、ここからすごい光が出ているのを感じた。炉の火の光ではない。それで来てみたのですが、あなたから発せられた光だったなんて」


 イェースズは目を伏せて、間をおいたあと目元で微かに笑った。


「魂が神様と一体になり、波調が合うと、魂が光明に満たされて、神の叡智が流れ込んでくるのですよ」


 僧は少し驚いたような表情で、ほんのしばらく無言で立ちすくんだ。そしてゆっくりと口を開いた。


「どうすれば、神と一体になれるのですかな。どこへ行けば、どこで祈れば、それができるのだ」


 僧は真剣に、自分よりずっと年下のイェースズに懇願するように尋ねた。イェースズは、穏やかに微笑んで言った。


「神様と一体になるのに、場所など関係ありません。特定の場所へ行く必要もないのです。私はスーッと思念を凝集させ、神様と大調和のご想念と波調を合わせることができます。神様の世界は、肉の眼では見えません。要は、魂を磨くことです。肉体の五官による一切の執着、とらわれれを捨て去って。物質中心の想念を霊主の想念に切り換えることが大事ですね。すべてを霊的に考え、自らの魂の曇りを落としていかないといけない。そして誰もが神の子で、魂は神様から頂いたもの、本来は水晶のごとく透明で輝く魂だったはずなのです。魂は必ず輝きます。肉の目を閉じて霊の眼を開くことです」


 また背後から足音がして、誰か近づいてきていた。振り向くと、カスパーだった。


「ご高説、拝聴しておりました。確かにその通りだと思います。あなたこそが神の智、それが人の姿をして現れてきたお方ですな」


 イェースズは困ったような、はにかんだような笑顔を見せた。

 

 イェースズはそのままパルチアのクテシフォンに、数カ月滞在した。ここまでいっしょに来た隊商のメンバーも何とか探し出せたが、彼らはこの後ユダヤには寄らず、小アジアのペルガモを通ってローマに行くという。そこで、イェースズはここで彼らと別れることにした。

 ただ、ラクダだけはそのままイェースズに与えられた。

 イェースズはすでに二十七歳になっていた。


 よく晴れた朝、いよいよ故郷を目指して出発することにした。カスパーもまた途中のユーフラテス川まで、イェースズに同行することになっていた。カスパーの郷里は、ここから北へ行った所にある海のほとりだという。海といっても実は湖なのだが、あまりの広さに海としか見えず、水も海水なのだそうだ。

 このクテシフォンを洗って流れるチグリス川とともにユーフラテス川というのも、イェースズが幼い頃から聖書トーラーで何度もその名になじんでいた川だ。

 ホルタザールたちの見送りを受けてクテシフォンの城壁を出ると、城壁の周りはしばらく緑草地だったが、やがてこの地方本来の砂漠になった。悠久の、限りなく広がる大地は、かの島国の霊の元つ国では決して見られない光景だった。

 見渡す限り一面の、平らな砂の大地なのである。そして遥か彼方には、くっきりと地平線が三百六十度彼らを取り囲んでいる。砂の大地はどこまで行っても途切れることがなく、風景の変化がないので、自分たちがどれだけ進んだかも分からなかった。

 イェースズの故郷はここからだとまっすぎ西へ行けばいいのだというが、カスパーは見せたいものがあるからと南の方へまずは向かった。 


 そして出発してから三日目の昼前に、砂漠の向こうに椰子の木が茂る森が広がるようになり、その中に町が見えてきた。

 町とはいっても廃墟のようで、人は住んでいないようだ。

 だがその中央部の川沿いの丘の上には朽ち果てた宮殿の柱のようなものが見え、破壊されてはいるが断続的な城壁に町は囲まれていた。

 雄大にして忽然として現れたこの巨大な廃墟を前に、カスパーは、


「バビロンです」


 と、だけ言った。


「え?」


 イェースズは驚いて、もう一度その廃墟をしげしげと眺めた。あまりにも巨大で、そしてあまりにも荒れ果てた無人の都会は、朽ち果てた残骸を砂漠の砂ぼこりにさらしている。

 町に入り、小さな川を渡ると、そこには宮殿の前庭のような広場が広がっていた。宮殿といってももはや建物ではなく、荒地に石が積まれた箱型の建造物が立っているだけだ。

 砕けている部分もある。かつてオリエント世界に覇を唱えた大国の華麗な都が、今はその面影をしのぶよすがとてない。

 そしてここには、ユダヤ人にとって屈辱の歴史がある。多くの同胞がここに都したバビロニアの兵によって拉致連行され、若い女は犯され、男や年増女は全身の皮がむけるほど鞭打たれて重労働を課せられたバビロン捕囚のその地が、今イェースズの立っている場所なのだ。

 この地には、ユダヤ人の怨念がこもっているといってもいい。確かにイェースズの霊勘にはそんなどす黒い怨念の塊がひしひしと感じられて、息も苦しくなるほどだった。

 事実、霊視してみると、数限りないユダヤ人の霊がいまだに怨念を晴らせずに至る所で哭泣している。

 イェースズは空中に手のひらを向け、そこから霊流を放射して、いまだにこの地であえぐ霊たちにかかぶらせて救っていった。

 そして宮殿の廃墟の中央の太い柱の前で、一息をついて言った。


「バビロンは栄華を誇ったが、多くのユダヤ人同胞をこの地に連れてきて奴隷として酷使した。しかし因があれば必ず果があって、そのバビロンもことごとく崩壊している」


 そして、カスパーの方を見た。


聖書トーラーには、バベルの塔という話があるんですよ。それも『ゼンダ・アベスタ』に由来する話ですけれど、人知の思い上がりを戒めるいい話です。人知を至上と思い込んだ人間の浅はかさが、今のこの荒廃を招いたんですね」


 そう言ってイェースズはまた霊たちを救って歩いたが、とても追いつくものではなかった。なにしろ果てしない怨念は、肉眼でこそ青い空のいい天気に見えるが、霊眼で見るとどす黒い厚い雲になってこの町を、否、この地方全体を覆っている。


「この因縁を解決しなければ、やがて天の時が到来するその前に、この地でたいへんなことが起こりますよ」


 イェースズがつぶやくように言うと、カスパーはただうなずいていた。


 それからは進路を西にとり、また半日ほど進むと、広々とした砂漠の中に左右にだけ緑をはべらせて忽然とユーフラテス川は現れた。

 満々と水をたたえて右手から左の方へと流れるその川の川岸に出た時、その光景がまた雄大なのでイェースズは驚いた。

 空には白い雲が三つ、のんきにゆっくりと流れている。それと川面のさざなみだけが動いているだけで、あとは時間をも含めてすべてが止まってしまったような世界だ。


「これが、ユーフラテス川ですよ」


 と、カスパーは言った。


「私はこの川に沿って、北上しなければなりません。ここでお別れです」


 多勢の隊商とともに来た旅も、クテシフォンからはカスパーと二人のみになったのだが、いよいよイェースズはここからは一人旅になる。


「この川を渡ってまっすぐ西へ行くとあなたの故郷ですが、もう故郷は目の前ですからちょっと寄り道をして、いいものを見ていきませんか?」


 カスパーは、ユーフラテス川の黄色く濁った流れを見ながら微笑んでイェースズに言った。


「この川に沿って下流の方へ十日ほど行けば、海に出る間際に一つの町があります。そこが、イブラーヒームの故郷です」


 イェースズにとってイブラーヒームというのは、聞きなれない名だった。


「誰です? それは」


「あなたもよく知っているはずの人ですよ。遠い昔の人ですが……」


 それ以上は言わず、カスパーは微笑んでラクダのきびすを返した。もっと詳しく聞きたかったのだが、もうカスパーは、


「旅の平安を祈ります」


 と言って、自分のラクダを上流の方へと進ませていた。

 だからイェースズは、


「いろいろお世話になり、有り難うございました」


 と、その後姿に頭を下げるしかなかった。

 

 果たして、確かに十日ほどである町に出くわした。

 砂漠の中に薄茶色の箱型の家がモザイクのようにいくつか重なっているだけの、寂れた町だった。やたら乾燥した風に舞い上げられた砂ほこりが路地を我が物顔に走り回るそんな町中で、イェースズはラクダから降りた。

 そして町の入り口付近の小さな家の黒っぽい茶色の木の扉を叩いた。

 出てきたのは、どっぷりと太った中年女性だった。


「どなた? 何の用かしら?」


 言葉は分からなかったが、イェースズは想念を読み取った。


「あのう、ギリシャ語は分かりますか?」


 と、イェースズがギリシャ語で尋ねると、婦人は肩をすくめた。


「少しね」


 確かにそのギリシャ語は、片言だった。


「私は、ガリラヤから来ました。ユダヤの北の、ガリラヤ」


「あら、あなたユダヤ人?」


 なんと婦人の言葉は、そこからヘブライ語になったのである。イェースズは驚いて、返事もしなかった。


「ヘブライ語もそんなに上手ではないけれど、ギリシャ語よりはまし」


 そう言って、婦人は笑ってから、


「ところで、何の御用?」


 と、もう一度ヘブライ語で聞き直してきた。


「はい。ここがある方の生まれ故郷だと聞いてきましたので。ところでなぜ、ヘブライ語が分かるのですか?」


「ずっとずっと古い先祖から受け継いでいるのさ。で、そのある方とはもしかして」


「イブラーヒームとか」


 それを聞いて、婦人はまたにっこりと笑った。


「どなたか、お分かりでなくって? ユダヤの方なら知らないはずないけれど」


「もしかして、この地方の言葉でイブラーヒームという人は、我われのいうアブラハムでは?」


「そうですよ。音が似てるでしょ」


「やはり」


 イェースズの顔は、パッと明るく輝いた。


「ここは、アブラハムの生まれ故郷? すると、ウルの町ですか?」


「そうですよ。それにしてもガリラヤからわざわざ?」


「いろんな土地を自分の目で見るために、旅をしているんです。そしてわれわれの先祖のアブラハムの生まれた町へ、ようやくたどり着きました」


「そうですか。よろしかったらお入りなさい」


 婦人は依然笑いながら、イェースズを中に招いてくれた。そしてイェースズを二階にと通すと、婦人しばらく姿を消した。

 部屋には小さなテーブルと、油で燃えるランプがあった。イェースズは小さな明かり窓から、外を見ていた。この家は町の入り口だから、窓からは町の周りがよく見える。

 そこは一面の砂漠で、聖書トーラーで読んでいたイェースズのイメージの「緑豊かな羊の遊牧の地」というものからは程遠かった。

 ややあって、入り口のほうが騒がしくなった。そして階段をどやどやと上がってきたのは、この町の人々のようだ。みんな相好を崩している。


「いやあ、あなたですか。ガリラヤからアブラハムの故郷を訪ねてはるばる来られたのは」


 みんなそれぞれ地元の言葉でそのようなことを言っていたが、先ほどの婦人がすべてヘブライ語にしてくれた。想念を読み取れば分かるので通訳は必要ないなどということは、決して言うようなイェースズではない。

 それにしても、こんな小さな町でこんな歓迎を受けるとは思わなかった。アブラハムを慕っての来訪者が来るというのは、この町にとってこんなにも大事件なのだ。

 イェースズもニコニコして立ち上がった。


「私はついに、我われユダヤ人の祖であるアブラハムの故郷に来て、わが民族の原点をここに見たのです」


「いやあ、友よ」


 それを聞いて人々は、口々にそう言った。


「イブラーヒームがあなた方ユダヤ人の祖なら、私たちの祖でもあります。そうなると、我われは兄弟ではないですか」


「そうですとも」


 別のものが、口を挟む。


「我われはイブラーヒームの長男のイスマーイールの子孫、あなた方ユダヤ人は次男イスハークの子孫」


 なるほど、それでこの国の人々とユダヤ人は共通の顔立ちをしており、この地に来てイェースズが懐かしさを感じたのも道理であった。

 イスマーイールとはイシュマエル、イスハークとはイサクのことに間違いない。ユダヤの民とこの国の民は、実に兄弟なのである。


「二千年もの昔に私たちの祖であるアブラハムはこの地で生まれ、そして預言どおりに星の数ほどにも増えたイスラエルの父となりました。でも、その血は我われユダヤの民だけではなくて、確実にこの国の人々、つまり皆さんにも引き継がれていたのですね」


 人々の間で、歓声が上がった。イェースズはさらに話し続けた。


「アブラハムが讃えた神様は、今でも厳として実在される神様です。かつてアブラハムが愛した緑豊かな大地はもう今はここにはありませんが、いつの日か必ず再びこの地に花が咲き、ぶどうが実り、羊が群れをなすようになるでしょう」


 人々は歓喜の渦の中で、こぞってイェースズに握手を求めてきた。

 この晩、この家の広間で、イェースズを囲んでの晩餐会が行われた。パンとさまざまな果実に子羊の肉、そしてぶどう酒とヨーグルトなどが食卓を飾っていた。

 そして宴たけなわの頃、一人の祭司らしき中年男が、広間に入ってきた。人々は、立って一斉に礼をした。

 祭司とはいってもカスパーのようなマギの僧のようでもなく、かといって故国ユダヤのサドカイびとなどとも少し雰囲気が違った。その男を見るなり、イェースズは奇妙な感覚にとらわれた。

 男は入ってくるとすぐにイェースズのそばに来て、


「あなたがいるという話を聞き、飛んできましたよ、イェースズ君」


 と、アラム語で言った。イェースズは驚いた。なぜこの男は自分の名前を知っているのだろうか……。しかもギリシャ語でもヘブライ語でもなく、イェースズの故郷の日常語であるアラム語を話す。


「私は、アシナビといいます」


「この地方最大の聖者です」


 と、この家の主でもある婦人がヘブライ語でイェースズに告げた。そのアシナビも、宴の席に着くや、


「この方はすごいお方なんですよ。本当の神様の言葉を、あなた方に告げるお方です」


 と、イェースズのことを皆にギリシャ語で言った。初対面なのになぜ自分のことをこのように言うのだろうとイェースズはいぶかしげに思い、その想念を読もうとしたができない。

 しかし、このアシナビというのがただものではなくすごい聖者だということは、そのオーラが黄金に輝いているのを霊視すればすぐ分かることだった。

 アシナビは、イェースズにぶどう酒を勧めながら今度はアラム語で言った。


「かつてはこの周辺は、あなたが言ったように牧草地でした。しかも、羊を放牧していたのです」


 やはり……と思うのと同時に、イェースズには不思議でもあった。イェースズが先ほどその話をしたのは、アシナビがここに来るずっと前だったはずだ。

 そこでまたアシナビの想念を読もうとしたが、またもやできなかった。逆に、こちらの方がすべて見透かされているような気がする。


「明日から、しばらくお供します」


 アシナビのその申し出は、イェースズに有無を言わさないという感じだった。

 

 それから数日、イェースズはアシナビとともに西に向かっての旅路に着いた。

 すでに雨季に入っており、冷たい雨がぱらつく日が多い。風もすっかり冷たくなっていた。

 そうして一月ほど歩くと、平坦な砂漠も終わって緑豊かな丘陵地帯となり、道はちょっとした峠を越えるようであった。そんな晩、いつもと同じようにイェースズとアシナビはテントを張った。

 だが、イェースズの心はいつもとは違っていた。なぜならアシナビが、ここで一夜を明かせば明日はガリラヤ湖畔に出るといったからだ。

 思えば故郷を離れて十年、何度この日を夢に見たか分からない。その故郷に戻る日が、とうとうやってきたのである。それを考えるたびに、イェースズの胸には熱いものがこみ上げてきた。


「どうですか。故郷へ帰る気持ちは」


 テントの中のろうそくの明かりの中で、アシナビが言った。


「複雑です。故郷といっても、もう記憶も定かではありませんし」


「故郷に戻ってから、あなたは何をするのですか? 大工を継ぎますか?」


「え?」


 イェースズはまた驚いて、アシナビを見た。死んだ父の生業が大工だったことは、まだアシナビには告げていないはずだ。


「どうして大工だと?」


「まさか大工をやるために、故郷に戻るのではないでしょう?」


 イェースズの疑問ははぐらかされ、アシナビに自信たっぷりに言われてしまったので、イェースズにもいたずら心が生じた。


「はい、大工をやります」


 しかしアシナビはもう、イェースズの冗談の意味が分かっているように微笑んでいた。


「人間の魂を建て直す大工ですね」


 アシナビの方が、一枚上手のようだ。


「やられました。その通りです。神理のミチを説いて人々の霊眼ひがんを開かせ、神様から勝手に離れすぎている人類に歯止めをかけること、それが来るべき天の時の到来に向かって私がなすべきみ役であり、神の御用だと思います」


 その後、アシナビはしばらく何かを考えているようだった。そして、目を上げた。


「一度故郷に戻ったら、その後でミツライムに行ってほしい、そこに、我われの太陽神殿、ピラミッドがある」


「あッ!」


 イェースズの中で、すべての疑問が氷解した。

 アシナビはナザレびとと呼ばれるエッセネ教団の、その聖者だったのだ。

 エッセネ教団とは、イェースズの亡き父や、そして母が所属している教団である。だから、今ここにこの男が現れたのも決して偶然ではなかったのである。

 全世界に張り巡らされたユダヤ人の情報網の中でも、ひときわ緻密なのがエッセネ教団の連携であり、イェースズはカリンガのシシュパルガルフのジャガンナス寺院を飛び出すまでの間、自分でも気付かないうちに彼らの監視下にあったのだ。

 いくら彼らの情報網でもさすがに霊の元つ国にまでは把握できなかったにせよ、彼らにとってメシアの母候補の生んだ失うべからざる子であるイェースズが長い行方不明からやっとその消息が知れ、しかも故郷を目指しているという情報を得たのだろう。

 アシナビは、そんなイェースズの護衛として派遣されたのだ。


「ミツライムにお行きなさい」


 アシナビの言葉は、すなわち教団の指示だった。今はローマの属州としてアエギュプトゥスと呼ばれているミツライム、すなわちエジプトは言うまでもなくエッセネ教団発祥の地であり、今でも一大拠点である。

 アシナビがイェースズをエジプトにいざなうのは、至極当然のことなのである。

 今のイェースズは地上の教団などという存在をすでに超越しているのだが、だからといって無関係を装うほど傲慢にはなっていない。イェースズにとってもエジプトは、その幼少期を過ごした土地でもある。


「アエギュプトゥスには、ヨハネもいますよ」


「ヨハネって、あのヨハネ?」


 ヨハネなどというのはそう珍しい名でもないので、イェースズは一応確認した。


「あなたの従兄いとこです」


 しかしイェースズの記憶にあるヨハネは、今でも少年でしかない。

 しかし、自分より年上なのだから、彼もすでにいっぱしの青年になっているはずだ。イェースズは、無性に会いたくなった。


「分かりました。ミツライムには参ります。でも、やはり私が留守中に父が死んだので、一度は故郷に戻りたいのですが」


「それは当然ですね。いいでしょう」


 アシナビは、しばらく黙った。それから、


「あなたのお母さんも、きっとあなたにミツライムに行けと言うはずです」


 と言った。


「有難うございます」


「私は一足先に、ミツライムのナザレの家に行ってあなたを待ちます。明日、とりあえずお別れしましょう。あなたはお一人で故郷にお帰りください」


 そう言ってアシナビは、にっこりと微笑んだ。

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