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人間・キリスト  作者: John B.Rabitan
第2章 東方修行時代
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『ゼンダ・アベスタ』の地

「イヨマンデ!」


 と、人々は口々に叫んでいる。

 灯火を持つ男、躍る女など、コタンがこんなににぎやかなのは珍しい。

 いつもの特殊な紋様が衿に入って前で合わせる服に、今日はみんな木々の枝で飾った冠をかぶっている。広場の中央の篝火かがりびが夜空を焦がす後ろに、祭壇ヌサがある。祭司はヌプの父だった。

 オビラ・コタンの、年に一度のイヨマンデの熊祭だ。

 祭壇ヌサの後ろには大きな木の檻があって、獰猛そうな熊が一頭、その中で咆哮している。


「おいらたち、みんな熊を食べて冬を越すから、その感謝の祭りさ」


 ヌプがイェースズのそばで、けろりと言った。


「そうか、今日は熊祭りか」


 イェースズも日常とは違う華やかさに、心が浮かれてきた。華やかで、それでいて素朴な祭りはゆっくりと展開していく。


「おいらたち、熊の肉を食べて自分たちの肉体を養っている。だから熊を殺すけど、殺すのは熊の肉体だけで、魂まで殺すことはできないからね。だからその魂に感謝するのさ」


 確かにヌプの言うとおりだと、イェースズは思った。祭りの喧騒は最高潮に達し、人々は熊の檻を囲んだ。


「ミヤゲ! ミヤゲ!」


 と、人々は叫ぶ。天からの恵みという意味の言葉だ。人々の叫びはさらに高く、炎に焦がされた夜空へと舞い上がっていた。

 

「イェースズ」


 と、名前を呼ばれて彼は起こされた。


「もう、朝だぞ」


 それは、ギリシャ語だった。ヌプの話していた彼らの言語からギリシャ語へ頭を切り換えるのに、イェースズは少し時間がかかった。

 目を開けると、ひげ面の赤ら顔がのぞきこんでいる。イェースズは目をこすって、テントの中で起き上がった。


「ずいぶんと寝言を言っていたな」


 赤ら顔の隊商の隊長は、もちろんユダヤ人だ。


「え? 何て言っていました?」


 イェースズはばつが悪そうに、笑った。


「いや、分からんよ。どこかの国の、わけの分からない言葉でしゃべっていた」


 もうあの国を離れてから半年以上もたつのに、心のどこかはあの東の果ての海の向こうの島国に残してきているようだ。先ほどまで見ていた夢だけではなく、あの国で暮らしていたこと自体が遠い昔の夢だったような気もする。

 イェースズは、テントの外に出た。

 隊商のメンバーがラクダをとめて、朝食の準備をしていた。色とりどりの絨毯じゅうたんが敷かれ、高度な技術で作られた色彩豊かの陶器の食器が並ぶ――これが文化生活というものだろうかと、イェースズは何気なく思っていた。

 遠くへ目をやると、はるか彼方に薄っすらと青い山脈が地平線に張り付いて横たわっている。そこまでは果てしなく広がる巨大な空間の下、一面に広がる草原だ。草は申し訳程度に地面にはいつくばっている。もとつ国を離れてから、こんな大雑把な自然に慣れるまでに時間がかかった。

 そして半年以上たっていることが実感できないもう一つの要素は、季節感が全く感じられないということもあった。すっかり四季の移り変わりで月日をはかる癖が、彼にはしみこんでしまっているのだ。


 イェースズがこの隊商と巡り会ったのは、大陸に上陸してからイェースズがまっすぐに向かったシムの都ティァンアンでだった。五年以上も前に、ほんの短い期間だがここで暮らしたこともある。だが、かつていた場所だというのに、イェースズはまるで月にでも来てしまったかのような感覚を覚えた。

 なにしろここには、文化がある。ものがある。さまざまな生活調度がある。高い文明の家がある。

 そんな違和感と共に、イェースズはユダヤ人街での日々を暮らしていた。確かに快適ではあるが、何かが違うと彼は叫びたかったのである。竪穴にわらをかぶせた家やその中にあるのは土器ばかりという霊の元つ国の村に対して、ここのは瓦屋根の家があり、その中には棚や扉、椅子やテーブルがある。貨幣もあって、ほしいものは金で買える。すべてが恵まれすぎているのだが、何かがもの足りないのだ。

 夕暮れの市に出かけると、次から次へと肩に人がぶつかってくるような人ごみだ。高い楼閣が、そんな人々を見下ろしている。そしてティァンアン城の巨大な楼門と高い城壁、そしてそれを兵士が警護する。そんな中を、色とりどりに着飾った貴族の輿が通る。

 霊の元つ国は、ものはなくてもその素朴さの中に太古さながらの霊性があり、心があった。

 ここはものがあふれていても、ここの人々の唯物思考の中には、人の心などというものが入り込む余地はないようだった。ここは、金と目に見えるものがすべてのようだ。

 ほんの少し海を越えただけで、こうも違う。前にここに始めてきた時は、それほど違和感はなかった。そして今は印象が全く違う。しかし、街自体は何ら変わっていない。イェースズの方が変わったのだ。


 変わったといえば、イェースズにとってのこの国の意味も大きく変わっていた。

 霊の元つ国で霊覚が開けたイェースズは、はじめてこの国に来た時に感じた妙な懐かしさの意味を、この大陸に再び上陸したその瞬間にすべてサトった。

 霊の元つ国では自分の過去世のヴィジョンを見たが、それは超太古に自分がムーの国のスメラミコトの王子だった時のものだ。だがこの国に来てイェースズの中に霊智として鮮やかに蘇ったのはそんな超太古ではなく、一つ前の前世記憶だった。

 彼は、確かにこの国にいた。かつてこの国にも神霊の分魂として降ろされていた自分の姿が、この国に来て手にとるように分かった。


 ちょうど約三百年前、その頃はまだティァンアンの都はなく、この巨大な帝国も小さな国に分かれて相争う戦国時代だった。

 イェースズはマング・カールという名の人間としてこの国に生まれ、そして多くの弟子を持つ人々の師となり、人の本質は神の子であって善であることを説き、「仁」と「義」を人々に教えていた。この国でかつて感じたデジャブは、そんな過去世記憶だったのである。


 やがてこの国に花火が上がり、イェースズは二十四歳になった。

 そうこうしているうちに、やっとローマに向かう絹商品の隊商があると聞き、イェースズはそれに同行させてもらうことにした。こうしてイェースズは、隊商のメンバーの一人になったのである。


 出発は慌ただしかった。


「今、このシーンの国では都から離れたところで皇帝への反逆の勢力の火種がくすぶり始めている。もしかしたら内乱が起こるかもしれないから、なるべく早く離れよう」


 隊商の隊長はそのようなことを言っていた。隊商はイェースズを入れて総勢七人ほどであった。

 ティァンアンをあとにしてしばらくは高原の岩と土の砂漠状態だったが、やがてステップの草原が広がるようになる。なだらかな起伏はあちこちにあって、遊牧されている牛や馬の大群と出会うこともあった。

 こうしてして八カ月ほど単調な高原の風景の中を進んだある日、夕暮れになってから隊長が前方を指さすので、見たら沙漠のはるか彼方に巨大都市が広がっているのが見えた。

 近づくにつれ、砂漠の彼方に巨大都市が横たわっているのが見えてきた。さらに近づくと、町全体を覆っている黄金のドームも見えてきた。


「パルチア王国の都、クテシフォンだよ」


 と、隊長はイェースズに言った。

 

 そこは一大都市だった。シムのティァンアンを出て以来、八カ月ぶりくらいに見る都会だ。

 町全体は城壁に囲まれ、楕円形をしているようだった。ここへ来るまではずっと砂漠の中の旅だったが、目の前の都市は緑豊かな草原に囲まれている。その都市の背後には大河が流れ、そこから無数の運河が掘削されて、街中へと水が引かれている様子も遠目ながら分かる。そんな運河が、都市の中を縦横に走っている。

 そして驚いたことに、大きな川の向こうにも、別の城壁に囲まれた別の都市があるのが見えた。


「川の向こうはセレウキアだ。このへんには、もっと同じような都市が集まっていて、全部まとめてマーホーゼーというんだ」


 マーホーゼーとは、イェースズが幼い頃から使い親しんできたアラム語でも、すぐに意味が分かる名だった。すなわち「町の集まり」を意味する。アラム語での地名がつけられているあたり、いよいよ故郷が近くなってきたことを実感したイェースズだった。


「あの川は、チグリスだよ」


「え?」


 さらにイェースズはその川の名に、頭がクラッとするのをさえ覚えた。実際に見るのは初めてだが、聖書トーラーにはその名も記された川で、名前だけはいやというほど耳にしている。

 つまりこのあたりは、アブラハムの故地でもあるメソポタミヤということになる。

 不覚にもイェースズは、川の名を聞いただけでとめどなく涙を流していた。こここそが、超太古にイェースズの直接の先祖であるヨイロッパ・アダムイブヒ赤人女祖あかひとめそ様が派遣された場所なのである。だから女祖炎民野メソポタミヤという。

 言霊をすでに理解できるようになっていたイェースズは、そんな地名の正しい意味も直勘としてすぐに分かるようになっていた。これが往路との大きな違いの一つでもあった。

 女祖メソ様はバラの花がたいそうお好きで、それゆえこの地は当時は一面のバラの花畑となったという話も、イェースズはすでに聞いていた。

 だが、今は一面の砂漠である。ノアの時代の洪水はじめ多くの天変地異によって、バラの花畑も砂漠になってしまったのかもしれない。


 クテシフォンの城壁の中は石造りの二階建ての箱型の家が隙間なくひしめき合い、道路はすべて石畳だった。

 街中を行く人々は、みな着飾って歩いていた。道の所々にはバザールの出店がテントを張った模擬店舗を並べ、店先には宝石や金属製の雑貨が並べられていた。

 そしてひときわ目に付いたのが、都市の中央で威容を誇る宮殿だった。シムの宮殿のような屋根のある木造ではなくすべて石造りで、三つの円筒形の塔が町を見下ろしている。

 町の喧騒はどこまで行っても途切れることなく、それがこの都市の巨大さを物語っていた。

 そして人々の顔つきも、明らかにイェースズ自身の顔と似てきた。人種が同じなのだ。すくなくとも顔つきからだけでいうと、イェースズはもはやここでは異邦人ではなかった。

 そんな人ごみの中を、イェースズを含む隊商の一行はらくだから降りて、そのらくだの口紐を引いて歩いた。

 やがて、町外れと思われるところに来た。ここは貧民窟のようだ。みすぼらしい人々が、所狭しとひしめき合って暮らしている。家は石積みの粗末なものだが、かの霊の元つ国の竪穴の住居よりもはるかにましに思われた。しかし人々は、卑屈さを背負って生きているように、背中を丸めて歩いていた。

 イェースズは思わず、一人の少女を呼び止めた。少女といっても花のようなという形容とは無縁の、ぼろをまとい頭にはハエがたかりそうな少女だった。


「君たちはなんで、そんな悲しそうな顔をしているんだい?」


 少女はきょとんとして、イェースズを見つめていた。その目はとろんとして、まるで死人のようだった。イェースズは人々の顔つきももう自分と同じであるし、文化も故国に近いため、試しにギリシャ語で話しかけたのだが、少女には通じないようだった。

 隊商の中でこの地方の言葉に堪能なものが、イェースズの言葉を通訳した。少女はそれを聞いても、しばらく黙っていた。やがて口を開こうとしたが、その前にイェースズはすでにその意識を読み取っていた。


――悲しそうな顔? いったい何のこと? これが普通の顔だよ。あたいら、喜んだり悲しんだりしている暇はない。


 その時、貧民街の一角から、大声で怒鳴る声がした。少女は一瞬、怯えたような表情を見せた。イェースズがその方角を見ると、中流階級のような太った男が手に鞭を持ち、それで地面を叩いて何やら威嚇している。しばらく見ていると、どうやらこの貧民街の人々が集められているようだった。中には逃げ出そうとするものもいるが、たちまち捕らえられてしまう。

 イェースズには信じられない光景だった。人が人を鞭で打つなど、原始的な文明しかなかったあの島国では絶対に目にしなかった。それなのに高度の文明を誇るこの国で、そんなことが行われている。

 イェースズは駆けていき、鞭を持つ男の腕をつかんだ。


「何をしている。おやめなさい」


 男はイェースズのギリシャ語が分からないまでも、いきなり腕をつかまれて憤怒の顔をイェースズに向けた。


「何だ! 貴様は!」


 その怒りの想念波が、イェースズにも伝わる。毒気で頭がやられそうだ。それでもイェースズは、負けなかった。


「あまり怒りますと、体によくないですよ」


「何だ、この野郎。その言葉はギリシャ語だな。ユダヤ人の隊商か。だったらすっこんでろ。俺はこの貧民窟のやつらを奴隷として買い取ったんだ。ちゃんと金は払ったんだ。文句はあるか!」


 これが今の世の中の現実だと、イェースズは悲しくなった。


「人が人を奴隷として、金銭で売買することなど許されないのですよ」


 男はとうとう、イェースズにつかみかかってきた。いつの間にか、男の仲間の方が増えている。慌てたのはイェースズが加わっている隊商のメンバーたちだ。周りは黒山の人だかりとなってしまった。

 そこで隊商のメンバーたちが、なんとか怒りまくる男たちを鎮め、場をとりなしてくれた。男たちがふてぶてしく去ると、貧民の群集から大歓声が上がった。自分たちがイェースズによって解放されたと思っているらしい。

 それからイェースズは隊商とともにその場を後にしようとしたが、人々は群れをなしてイェースズの後をついてくる。ふとイェースズの頭の中に、生き神として祭り上げられてしまったあのプジの山のふもとの村でのことがよぎったが、あの時とは違ってここの人々は自分たちが奴隷から解放されたという即物的なレベルでイェースズを賞賛しながらついてくる。

 歩きながら人々は、盛んにイェースズに話しかけてくる。彼らの言っていることは想念で分かるが、イェースズの言葉が通じないことは分かっているので、イェースズはただ笑顔でうなずいて見せるだけだった。そうして歩いているうちに、広場に至った。

 そこでイェースズをはじめ、隊商のメンバーは足を止めざるを得なかった。広場の中央に横一列になって、彼らの行く手をさえぎっている者たちがいたのだ。それは、長い刀を抜いた兵士たちだった。


「我われは王宮護衛兵である。正当なる奴隷売買を妨害し、奴隷を逃がした罪で、そこのユダヤ人隊商の中の若者を逮捕する」


 そう言って彼らは、いっせいにイェースズに詰め寄ってきた。群集たちは一目散に逃げ去り、隊商のメンバーでさえらくだを引いてあたふたと逃げていってしまった。

 これはとがめられない。彼らは異境を旅することを生業なりわいとしているだけに、身の危険の回避は天性のものだ。

 しかし、イェースズには逃げ場がなかった。もはや四方を取り囲まれている。こんな時は瞬間移動の術を使うしかないとイェースズが決めた時、兵士たちに動揺が走った。彼らはイェースズに横顔を見せて、広場の一角に意識を集中させた。その方角から三人の老僧が、ゆっくりとこちらへと近づいてきていた。

 兵士たちはすばやく刀を納め、緊張して直立不動で立ちすくんだ。イェースズだけが何事が起こったのかと、呆気に取られて立ちすくんでいた。もはや、逃げることも忘れていた。

 三人の僧は、すぐ近くにまで来た。きらびやかな錦の糸で飾られた僧衣から、かなりの身分のある高僧のようだった。

 その僧たちは、イェースズの前まで歩いてきて立ち止まった。かなりの高齢で、腰も曲がっているようだ。そしてイェースズを見ると、無言で目を細めた。イェースズは何ごとか分からず、想念を読み取るのさえ忘れてたたずんでいた。群衆は息を潜め、成り行きを見守っている。

 しばらくしてから、三人の中でもいちばん年齢が高いと思われる老僧が、


「お待ちしていましたよ」


 と、口を開いた。ギリシャ語だった。


「お懐かしい」


「立派な青年におなりになりましたね」


 ほかの二人の僧も、口々にそういう。怪訝に思ったイェースズが想念を読み取ろうとしても、なぜかはじき返されてしまう。相当強い霊力を持った存在であるようだ。

 ところが、もっと奥深い魂の次元での叫びがイェースズの中で起こり、それが全身を震わせた。理屈ではなく、霊性がすべてをサトらせたのであった。

 三人はそのイェースズの様子を見てうれしそうにうなずき、優しく口を開いた。


「わしはホルタザールという」


「わしはメルヒオール」


「わしは、アスパールンじゃ」


 再会を懐かしむ涙が、イェースズの頬にも伝わった。肉体的な頭脳では、イェースズはこの三人については何の記憶もない。だが、霊的には分かる。

 イェースズが物心つく前、つまり生まれた直後、エルサレムに滞在していたイェースズのもとを、わざわざ東の国から尋ねてきてくれた東方の三博士だ。母の話では、黄金と没薬もつやく、乳香をくれたという。

 今、その三博士が、年老いた姿で目の前にいいる。そうして三人とイェースズは、しっかりと手を取り合った。誰もが泣いていた。

 そのあとで、ホルタザールと名乗った僧が驚きの声を上げた。


「なんというすごい光だ」


「光?」


 イェースズが尋ねると、ホルタザールはゆっくりと言った。


「あなたの体を、黄金の光が取り巻いておる」


「そうじゃな」


 と、アスパールンも話に入った。


「人は誰でも霊衣という目に見えない衣をまとっている。普通の人には見えないが、わしらには見えるのだ。そしてそなたの霊衣は、黄金の光を放っているぞ」


 その時、周りの群衆からどよめきの声が上がった。しっかりと手を握り合う四人の周りを、ものすごい閃光がとりまいていたのである。

 

 四人は歩きだした。メルヒオールの住む僧院へ行くとのことだった。ホルタザールとアスバールンはイェースズのらくだに乗り、イェースズとメルヒオールがその手綱を引いて歩いた。

 やがて、広場での四人の変容を見ていた群集が、口々に神の降臨と言って騒ぎ出した。そんな人々をかき分け、一行は町外れを目指して歩いていった。

 群集はもはや畏敬のためか、もう誰もついてこようとはしない。ここまでイェースズといっしょに旅をしてきたユダヤ人隊商のメンバーたちの姿も、もうどこにもなかった。


 町外れといっても、そこにたどり着くまでにはかなりの時間を必要とするようだった。


「本当にこんな所で皆さんとお会いできるなんて、神様のお仕組みとしか思えません」


 歩きながら、ともに歩いているメルヒオールにイェースズは言った。


「あなたは、私たちのことは知らないでしょう? なにしろ、まだ生まれたての赤ちゃんでしたから」


「もちろん覚えているわけがありませんけれど、あとで母から詳しく聞いています。でも、私ごときを訪ねてきてくださったわけは何だったんです? 母に聞いても要領を得ないので、ずっと気になっていたんです」


「星ですよ」


 と、メルヒオールは言った。


「巨大な星が西の方の空に現れましたからね。そのことについて、あれこれとわけなんて考えません。我われは星の動きで未来を予測する術を心得ています。そしてあの時の大きな星は、まぎれもなく偉大な魂の誕生を暗示するものだとして、その星の導きに従ったまでです。何も考えていませんでした。星はうそをつきませんから」


「こんな遠い国から、エルサレムまで?」


「星の導きには、ス直に従うのです。今回も、成長したあなたがこのちを訪れれことを星から読み取って、それでお待ちしていました」


「私が来るのを、知っていたのですか?」


「知っていたというより、そういうふうに星が出ていたのです。あの時と同じ星が出たのですよ。しかも、今度は西ではなく東の空に。あなたは、今回は東から来られたのでしょう?」


「その通りですが。十三の時に故郷を離れて、ずっと東の果ての島国に行っていました」


「今は、確か……」


「二十五です」


「すると、十一年も」


「はい。私がいた国は、ここから東へ八ヶ月くらい歩かねばならないのです」


「そんな遠い所へ……。でももう、故郷は目の前ですよ。ユダヤまでは、ここからだと一ヶ月ほどで着きます」


 それを聞いたイェースズの顔が、パッと輝いた。


「もう、そんな近くまで来ていたんですか」


 そう分かっただけで、周りの景色が変わって見えてくる。故郷の香りさえ感じられるから不思議だ。


「われわれが行った頃にいたヘロデ王という王は残忍な王だったが、今はもうその王も死んで、ユダヤはローマの属州になっているようですね」


 ヘロデ王という名を聞くと、イェースズは触れられたくない心の傷口が開いたようで、胸が痛む。だから黙ってうなずいただけだった。

 しばらく行くと建物が切れてまた広場となり、その中央に円筒形の建物が見えた。太くて低いそれは、石造りで上部は平らだった。


「あれが私たちの僧院、拝火殿です」


 メルヒオールが、その建物を指さして言った。その隣にはもっと小さい箱型の、石造りの建物もある。そちらが住居だろう。拝火殿に近づくと、ホルタザールとアスバールンはメルヒオールの手助けでらくだから降りた。

 その時、四角い建物の方からやはり三人の老僧が出てきた。その姿を見ると、ホルタザールは声を上げて歩み寄った。


「おお」


 そして互いに、しっかりと手を握り合った。


「来ていたのかね」


「突然お邪魔して、すまんのう」


「まあ、祭りも近いし」


「無論、そのために来たんじゃ」


 はたでそれを聞いていたイェースズに、メルヒオールが耳打ちをした。


「この国きっての高僧の方々で、右からカスパー、ザラ、メルゾーンというお名前です。もうすぐここで祭りがあるので、北の国から来られたのですよ。あとで、あなたのことも紹介します」


 この国きっての高僧といえば、かなりの宗教的指導者のはずだ。イェースズの胸が高鳴らないわけがなかった。

 その三人の客人もともに、ホルタザール、アスバールン、メルヒオールも中に入り、イェースズも勧められたのでひんやりとした石の扉をくぐった。

 室内もやはり石の壁だが、いたるところに装飾があり、明かり窓も取られている。壁に設けられた燭台の上のろうそくの照明が明るい。

 中央のテーブルには、すでに夕食が用意されていた。皿の上には小麦粉を練ったパン、酒、そしてスープなどの料理が乗っている。テーブルの上にもまた、ろうそくがあった。

 イェースズを含めた七人は、そのテーブルに着いた。そしてメルヒオールがイェースズとカスパーたち三人の高僧の中に入って、互いを紹介した。イェースズとホルタザールたちの不思議な縁に、カスパーたちは恐れ入った様子だった。

 このカスパー、ザラ、メルゾールがホルタザールたちよりも僧としては格が上であるらしいことは、その僧衣を見ればすぐに分かった。だが、どういう教えの僧なのか、今ひとつイェースズにははっきりしなかった。

 そもそもイェースズは母から自分の幼時のホルタザールたちの来訪の話を聞いた時も、それがどのような教えの僧なのかまでは、母は知っていたかもしれないが少なくともイェースズは聞いていなかったのだ。

 この国の風土はアンードラとはぜんぜん違うし、当然バラモンでもブッダ・サンガーでもあり得ない。しかも、このテーブルについているものすべてがギリシャ語で会話をしているところから、もはやここは東地中海の文化圏のようだが、彼らはユダヤ人でもあり得ない。

 イェースズのそんな疑問はよそに、カスパーたちの関心はイェースズの遠い東の異国での見聞にあった。だから、イェースズは根掘り葉掘り体験談を聞かれることになった。


「あなたは、このこの世の果てまで見極めてきたのですか?」


「いいえ。この世に果てなどありません。たとえ大地の果てになっても、大海を船で漕ぎ出せば、また陸地があります」


「それをもっともっと行くと?」


「そこまで行ってはいませんが、どこまでも行けば、またもとの位置に戻ります」


 六人ともが怪訝そうに、互いに顔を見合わせた。


「この大地の先の海の向こうの島が、霊的に世界の真中心なんです」


 そこまで言うと、もはや彼らの理解の範疇を超えているようだった。それでも彼らの好奇心は収まらず、次から次へと質問攻めで、イェースズの方から逆に彼らに対する疑問を切り出す余裕を全く与えてくれそうもなかった。

 その間もイェースズは、何とか同席する高僧たちの想念を読み取ろうとした。そして強く伝わってくるのは、「火」ということだった。彼らの教えは火と関係がある……? そう思ったとき、イェースズの中にひらめいたものがあった。だから、


「ゼンダ・アベスタ」


 と、イェースズは言ってみた。高僧たちの口も動きも、一瞬止まった。


「今、なんと?」


「ゼンダ・アベスタ」


「おお」


 声を上げたのは、六人とも同時だった。


「我らが聖典の名を、なぜご存知で?」


「やはり……」


 イェースズはパンをとった手を休め、目を上げた。


「あなた方の教えは、ゾロアスターの教えですね」


「いかにも」


 と、いうカスパーの声は弾んでいた。


「ギリシャ語ではゾロアスター、我われがザラスシュトラと呼んでいるお方こそ、我われを偉大な光神のアウラ・マツダーにお導き下さった大導師であります」


 これでイェースズにはすべてが理解できた。イェースズが幼いころに特に気に入って学んだ『ゼンダ・アベスタ』は、東の国のものだと聞いていた。そして今いるこの地こそがゾロアスターの故地であり、幼時に自分を尋ねてきてくれた目の前のホルタザールたち三人の僧も、ゾロアスターのマギ僧だったのだ。

 イェースズは、不思議なめぐり合わせに胸を躍らせた。かつてイェースズは幼い頃に『ゼンダ・アベスタ』にあこがれてそれを学んでいたが、彼はその故地を飛び越えてもっと東に行きすぎて、今や『ゼンダ・アベスタ』以上のものを身につけてしまった。その帰途になって、やっと『ゼンダ・アベスタ』の国に至ることが許された。

 この国がかの東の国よりもはるかに故国に近いのにだ。イェースズは幼少の頃に、聖書トーラーの原型が『ゼンダ・アベスタ』であることを見抜いていた。聖書トーラーは単に、『ゼンダ・アベスタ』のヘブライ語訳にすぎなかったのだ。そしてさらに高次元に達している今にして考えれば、『ゼンダ・アベスタ』に見える神と人との一体感は、まさしく霊の元つ国の惟神かんながらのミチである。

 だから、『ゼンダ・アベスタ』も、本家である霊の元つ国の教えの流れを汲んでいたのだと、今ならば分かる。それも当然で、この地はアダムイブヒ赤人女祖様が霊の元つ国から派遣された土地なのだ。ゾロアスターの教えは火を尊ぶところからも、火・日の系統であることは明らかだ。


「『ゼンダ・アベスタ』こそ、私の出発点でした」


 そのイェースズの言葉に、誰もが驚きの顔を見せた。


「ああ、やはり星は嘘をつかない」


 目を細めてそう言ったのは、ホルタザールだ。


「我われが昔見た星は、まさしく救世主の降誕を告げるものだった」


「とんでもない」


 慌ててイェースズは否定した。


「本当の救世主は、神様です。私はその手足として、お使い頂いているにすぎません」


「するとあなたは神のみ使いの、預言者ですかな?」


 カスパーの発言は、まだどうもイェースズの言葉の真意を理解していないようだった。


「おお、そうだ」


 と言って、ザラがひざを叩いた。


「もうすぐ祭りだ。われわれもそのために都に来たのだ。その祭りを機会に、この町の人々にぜひあなたの話を聞いてもらおう。われわれだけが聞いているのでは、もったいない」


 皆がそれに賛成のようで、カスパーは満足げにうなずいていた。

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