最初の弟子
次の日、二人は長く逗留した村をあとにした。そしてヌプの案内通りに進んでいくと、道は峰がいくつか見えていた連山の中に入っていくようだった。平地が終わって丘陵地帯にさしかかるなというあたりで、日が暮れた。本当にこの国は、二日と平地が続くことはない。
翌日には、山と山の谷間に添って歩いていく形となった。ミチは確実に高度を増しているようだった。
狭い谷だが、中央には小さな川が前方から流れてくる。
そのうち、かなり本格的な山岳地帯となった。山は樹木が生い茂り、谷間の川沿いの道は木々のトンネルのようだった。川は時折瀬を作ったり、小さな滝となって落ちたりと変化に富んだ急流だった。リスやウサギなどの小動物が、時折歓迎してくれたりする。
ヌプの話では、あと三日ほどで彼のコタンに着くという。
イェースズは村の様子を、ヌプに聞いた。それによるとあのニカプの村とたいして変わらないようで、村には一人の王がいるが君主ではなく村人の中から選ばれた人であり、またすべての財産も共有財産だという。ただ、山がちな地方の村なので水田耕作はしておらず、生産は狩猟のみだということだった。
出発した翌日、日も西にわずかに傾きかけた頃、道は急に険しい上り坂となった。道は細いので、がんばって草をつかんで登らなければならなかった。もはや、体力を使うと汗が出る季節だ。
やがて、視界が広大に広がった。目の前に展開する空間は、平野ではなく湖であった。これまで世界のいくつもの湖を見てきたイェースズからすれば、さほど巨大な湖とはいえなかったが、それでも決して小さくはなかった。
この島国のスケールが細かく繊細な自然からすれば、大きな湖といってよいだろう。周囲は山に囲まれ、湖岸といえる所はわずかしかなく、ほとんどの岸が緑がよく映える岸壁となって湖水に落ちていた。だから水面は、かなり低いところにあった。
水は恐ろしいほど青く、明るい陽光の中で輝いていた。濃い青の濃度は一様ではなく、その青さの濃淡によって水面に紋様が描かれているようだった。水はかなり深そうだった。
一切の音がない、静寂な世界だった。
「これがトー・ワタラーだ」
「きれいだなあ」
と、イェースズは言った。
「ああ。でもおいらは、小さい時から見慣れてるんだ」
イェースズは笑った。
「そうか。でも、やはり感動する心は失ってはいけないよ。感動が感謝に通じる。本来、この世のものはすべて美しいんだ。それが美しいと思えるかどうかは、自分の魂の状態によるね。本来、すべてが神様の最高芸術作品なんだから、すべてが美しいはずだ。それを感じられなくなっているのは、神様に狎れてしまっていないかな? 私はそう思うが、どうかね?」
「そうだね」
ヌプはすぐに、イェースズが言わんとしたことが分かったようだ。
それから二人は、湖畔に出た。
「この湖、こんなに大きいのに魚が一匹もいないんだよ」
「ほう」
それはイェースズにも意外だった。故郷のガリラやの海はこの湖と比べ物にならないほど大きく、岸辺は漁師であふれていた。イェースズはいつになく遠い昔の記憶をたぐって故国の湖の風景を思い出し、頭がクラッとした感じだった。
「さあ、もうすぐだよ。おいらの村は」
そうは言うもののもう日も暮れかけているので、二人はこの湖のほとりの崖の上で野宿した。
翌日の早朝に出発し、道は湖に沿って続いた。湖の南を半周するようだ。こんな大きな湖は、もし一周したらまる一日はかかりそうだった。
半日ほど歩いてから、道は湖から垂直に離れた。少し山に登る形となっている道だ。その峠道で、湖がまたよく見渡せた。ここからの風景が、いちばん素晴らしかった。対岸の崖の向こうには連山が青くそびえ、湖でも右手の方に、緑を青々とたたえる小さな岬が湖の中に突き出ているのが見えた。
道はちょっとした山間へと入っていった。また峠を一つ越えねばならないようだ。左右から山が迫ってくるそんな密林の中を歩き続けると、前方にどうもイェースズにとって気になる山が見えてきた。
なだらかな草の大地の向こうの低い山のさらに向こうから、その山は顔をのぞかせていた。きれいな鋭三角形のとがった山だった。すぐに日来神堂だと、イェースズには分かった。こんなに遠くにある山なのに、霊気が感じられる。それも清浄な霊気だった。イェースズはどうしても、その山に行ってみたくなった。そのことをヌプに言うと、
「あの山のふもとにも村があるよ。ムータイ・コタンっていうんだけど」
「え?」
イェースズは耳をそばだてた。その名前になぜか引かれるものがあったからだ。
そこからイェースズとヌプは道からはずれて、草原の中をその村へと近づいていった。やがて目の前には、鬱蒼と茂る密林が立ちはばかった。イェースズは草を掻き分け、密林の中の道なき道をほとんど手探りで進んだ。
近づくにつれ、山はますますその異様な風体を押し付けてくる。それと同時に霊圧もただならぬものがあり、こうなるともう日来神堂であることは間違いなかった。
それほど高い山ではなく、全体が木々で覆われている。
「この山のどこかに巨石か祭壇があるかもしれないが、知らないかい」
イェースズの問いかけに、ヌプは首をかしげた。
「さあ。だってこの近くのムータイン・コタンの人々でさえ、この山には近づかないよ」
「なぜ?」
「よく分かんねえ。とにかく、ムータイン・コタンで祀っている祭壇は別の場所にちゃんとあるし」
話しているうちに、山のふもとに着いた。その時、イェースズは声を上げた。そこに小さな祠があったのである。周りは草が茫々で、祠自体も朽ちかけている。人の背丈ほどの祠はここのアラハバキ族のヌサではなく、紛れもない西の地方の神殿と同じいわゆるヤマト方式だった。
「珍しいヌサだね」
と、ヌプがぽつんと言った。彼はヤマトの神殿を見たことは、おそらくないはずだ。そんなヌプを、イェースズは振り向いて見た。
「おそらくは、超太古の因縁があるのかもしれない。この地方にこのような神殿があるというのは、普通のことではないからな。大昔は巨大な神殿だった名残が、これかもしれない」
「こんな小さなヌサが……?」
ヌプには、とても理解できるようなことではなさそうだった。
イェースズは簡単に祠の周りの草を刈り、それから祠に向かって手のひらを向けた。そこから霊流が発せられ、霊界が浄まっていく。すると途端に祠の中から黄金の光が輝き始めた。イェースズ以外の普通の人には見えないであろうその霊光がヌプにも見えるようで、ヌプは声を上げてたたずんでいた。
それをよそに、イェースズは土の上に座って祠に額ずいた。何が祀られているのかは分からないまでも、このあふれる光圧はただ事ではなさそうである。
イェースズはこの地に来させて頂いたことがとてつもなく有り難いことに感じ、ひたすら感謝の念を発し続けた。
それから彼は立ち上がり、山を見上げた。
「登ろう」
しかしヌプは、イェースズの袖を引いて首を横に振った。
「早く行かないと、日が暮れます」
そうはいうものの、まだ日は高い。どうもヌプは怯えているようだった。足が小刻みに震えている。ウタリもまたこの霊圧を感じて、それに耐えられないのであろう。
イェースズには、村の人々がこの山に近づかないというのも何となく分かるような気がした。だからヌプも無理に山に登らせるのは気の毒だと思い、イェースズはと登るのをあきらめた。
それからヌプが言っていたムータイン・コタンの方へと向かったが、その途中に小川があって、そのほとりに周りの密林の雑木とは明らかに違う独立した一本の大杉があった。幹の太さは大人が両手を広げて囲んだとしても、四、五人は必要だろうと思われる。その先端は天を突き、これまたただ事ではない様相を呈していた。
だがヌプが早足で歩くので、イェースズはその木が気になりながらもコタンの方へと向かった。すると急に山間から平地に出て視界が一気に広がったので、イェースズは驚いた。見晴らしがよく、遠くは原生林に覆われた低くてなだらかな丘陵が起伏を見せながら広がっている。広々とした土地は芝のような苔が一面に覆い、所々にシダが生い茂っている。その中央にコタンがあって、例の三角の山が見下ろしていた。
イェースズはウタリのコタンへ行くのは一日延期して、このコタンに泊めてもらうことにした。
翌朝、すぐに出発しようというヌプを引き止め、少しこのコタンの周辺を見たいとイェースズは言った。
イェースズの感覚では、ここは絶対に普通の村ではあり得なかった。まず、村人たちの顔つきが違う。全体的に明るい表情で、村人たちは行きかっている。それも優しく上品な顔立ちの人が多く、また性格も気さくな人が多いようだった。
しかも、村の名前の「ムータイン・コタン」の「ムー」が、イェースズには気になるのだった。当然、超太古に大洋に沈んだというあの「ムーの国」を連想してしまう。この島国がその沈み残りだというのだが、このコタンのあるこの土地は何かムーと強い因縁があるのではないかと思ってしまうのだ。
すると、万国の政庁が置かれていたトト山との関係はどうなのだろうと、イェースズの頭の中でいろいろなことが渦を巻く。
ただ、頭で考えても結論は出るはずないので、とにかくイェースズは村の周りを散策してみることにした。
まばらな樹木の中にイェースズが点在するこの村は、さながら園のようであった。今は秋で草木も枯れているが、春や夏などの風景はいかばかりかと想像してしまう。
村のはずれには、大きな池があった。その周りを背の高いススキが囲っている。この風景は、山地とその間の平地の水田というこの国の風景とは、明らかに質を異にしていた。大陸の西の果てのような羊飼いが羊の群れを追って現れたとしても、何の不思議もないような風景だった。
「まるで楽園だね」
と、イェースズは歩きながらヌプに言った。
「楽園といえば、このコタンは別名を『エデの園』っていうんだ」
「え?」
あまり大きな声でイェースズが驚くので、ヌプもびっくりしたようにイェースズを見た。
「エデの園とはどういう意味なんだい?」
「エデ」というのは、イェースズが覚えているこの部族の言葉の単語の中にはなかった。
「大昔は父のことを、そう言ったんだって」
「まさか……エデンの園? あの、アダムがいた……」
「アダムって、男でしょう?」
「そうだよ。よくわかったね」
「このコタンの独特の言葉で男のことをアダっていって、女のことをアバっていうんだ。ほかの村では通じないけどね」
「じゃあ、ここから川が四本流れ出ていないかい?」
「え? よく知ってるね。さっきの池から川が四本、東に向かって流れているよ」
「聖書」の記述では、エデンの園には川が四本流れていたことになっている。そのエデンの園とは、ここなのだろうか? この国が人類発祥の国なら、ここにエデンの園があってもおかしくはない。そして超太古この国から、追放ではないがアダムイブヒ赤人女祖という方がメソポタミヤに派遣されたのである。そんなことを考えながらもっと見たかったのだが、ヌプが時間がないと言うのでイェースズはこの村をあとにすることにした。
それからヌプとともに、ここからだと東に当たるというヌプのコタンを目指した。そこからは、平凡な風景だった。左右を低い山に挟まれた谷間のような平地が細く延び、その中に川が一本流れていた。平地はわずかながら水田であって、谷間といっても割りと見通しはいい。その川に沿って進む形でイェースズとヌプは歩いた。
そしてその日の夕方、周りを山に囲まれてはいるがちょっとした平な土地があって、活気づいた村が見えてきた。
「これがおいらの村、オピラー・コタンさ」
イェースズの手を引かんばかりに、ヌプは村の中へと入っていった。
周りの山はなだらかな丘陵でその谷あいの土地だが、狭いながらも何か開放感があった。
二人が村に入ると、誰もがそれぞれの動作を止め、そしてヌプを見た。
「おお、ヌプ。帰ってきたんかね」
口々にそう呼びかける人々に黙って笑顔だけ振りまいて、ヌプは歩いていった。彼はこの村で愛されているのだなと、イェースズにはすぐに分かった。それは畏敬とも違うし、超能力少年としてちやほやされているというふうでもなかった。
「そのお方は?」
人々の関心は、当然ヌプの後ろについて歩いている絹の環頭衣を着て長髪でひげもじゃの異邦人に向けられた。
「ヤマトのお方?」
口々に問いかけてくる村人たちに、ヌプは立ち止まって対応する様子はない。
「おいらの先生だい」
歩きながらそう言うだけで、村人たちがいぶかしげな顔をしている間に、ヌプはもうその場をあとにしている。
やがてヌプは村を抜け、坂を少し下った所まで歩いていった。そこには見事な環状石があり、その中央にヌサと呼ばれる祭壇があった。かつてニカプの村で見たものと同じだった。
ヌプはその脇にあった小屋へと、イェースズを連れて行った。小屋の中には、冠をかぶった中年の男がいた。黒いひげがたくましい。ヌプが入っていくとちらりと振り向いた。
「おお、帰ったか」
「父ちゃん! 先生を連れてきたよ」
この男は、ヌプの父親だったのだ。
「先生?」
ヌプの父親は、本格的に首をねじってイェースズを見た。そこには、ばつが悪そうに立っているイェースズがいた。
「おいら、この人の弟子になったんだ。だから連れてきた。すごい人だよ。おいら以上の力を持っているんだ」
自分のことをヌプにそう言われてもイェースズはなんと切り出していいか分からず、困っていた。すると父親の表情がぱっと変わり、相好を崩した。
「あ、そうですか。せがれがとんだご迷惑をおかけしているようで」
「いえ、迷惑なんてとんでもない。申し遅れました。イスズと申します」
「ま、どうぞあがってください」
この部族の言葉で、イェースズはすでにここまで会話ができるようになっていた。部屋は簡素なもので、柱は自然の丸太そのままであり、その図太さといい黒光りといい男性的なたくましさがある。
勧められるままに床に座り、イェースズは笑顔を作って恭しく尋ねた。
「失礼ですが、祭司の方ですか?」
ヌサの隣の小屋だから、イェースズはそう思ったのである。
「ええ。この村の神を祀っておりますが」
そうすると、ヌプとは祭司の息子だったのだ。
「ちょっと待っていてください」
父親は立ち上がり、いなくなった。そしてしばらくしてから夕餉の支度をして戻ってきた。
「あなた、ちょうどいいところに来た。そろそろ日も暮れるのでめしにしようと思っていたのですが、よかったらご一緒にどうぞ」
ニコニコして勧めるので、イェースズも受けることにした。
「恐れ入ります」
イェースズが勧められた席にひざを進めると、奥から女が一人、酒の用意をして出てきた。
「女房ですよ」
二人は、笑顔で会釈を交わした。
それからイェースズはヌプの父とともに食事をして杯を重ねながら、問われるままに、ヌプとの出会い、故国のことや旅立ちに関して、そしてこの国に来たいきさつやブッダの墓を探してこの土地まで来たことなどをかいつまんで話した。
「それで、目的は達成できましたか?」
「はい……と、言っても、まだ完璧ではありませんが……」
「なるほど」
父親はまた、杯を口に運んだ。
「それで、これからどうなさるおつもりで?」
「はい、ある程度目的は達成しましたから、この国で私が修行をしているトト山という所に帰ろうと思います」
ヌプがそれを聞いて、パッと顔をあげた。そんな我が子の姿を見て、父親は言った。
「あなたはせがれの先生になったのですよね」
「はい、おこがましいのですが、どうしてもと頼まれましたので」
父親は、杯を置いた。
「では、私からもあらためてお頼み申します。うちの子を、よろしくお願いいたします」
「はあ」
本来、弟子を持つというのは本意ではなかっただけに、またもやイェースズは当惑した。
「この子はご存じのとおり、普通の子ではない。私にもない不思議な力を持っていましてね。もっとも、この村の中では、決してその力を使うなとは言ってありますが」
イェースズにも覚えがある。並外れた超人は、故郷では受け入れられない。だからイェースズも、十三歳になるまで自分の力を秘めていた。
「どうですか。しばらくはここにいてくれませんか。狭い所だがここに泊まって、せがれの相手をしてやってください。私も神に仕える身ですから、あなたからいろいろと教わりたいこともある。なにしろ、あなたは広い世界を見てこられたのだ。どうか、しばらくでいいですからここにいてくれませんかね」
「いえいえ、こちらこそいろいろ教えていただくことも多いと思います」
そうしたひょんなことから、イェースズはしばらくこの村に住むことになってしまった。
こんな北の国でも、夏はそれなりに暑い。夏は暑く冬は背丈以上もの雪だった。自然だけではなく、世界のすべての気候がこの国には凝縮されている。季節の移り変わりは、その季節ごとに美を競う。こんな国は、世界にそうあるものではない。いよよ世界の真中心たる霊の元つ国ならではのことである。
もっとも現界的にはヤマトの国とこのピダカミのくにでは風俗も習慣も言語も、そして民族も違うようだ。ヤマトの国自体もまた一つの国ではなく、政治的には百以上の国に分かれているらしい。
この村にも、イェースズはすっかり溶け込んでいた。ヤマトの使者ということにはしていなかったし、特殊な力を使うことも説法もしていなかったので、イェースズのことを必要以上に詮索するものもいなかった。溶け込むには、普通の人であることがいちばんだ。
「おらあ先生と一緒にいると、とても心が安らぐんだ。先生はおいらよりもすごい力を持っているけど、最大の力はそれじゃないかなあ」
ある日、小屋で二人気にの時に、ヌプは言った。イェースズはただ微笑んだだけだった。
「ただ、注文もあるさ」
「注文?」
「そう。先生なんだからもっと偉そうに、威張ってくれよ」
「それは無理な注文だな」
イェースズはまだ笑っていた。
「先生なんて呼ばれて偉そうに思い上がったりしたら、私は先生でいられなくなるよ」
ヌプには、その言葉がよく分からないようだった。
そしてある日、二人で村はずれの山のふもとを歩いていた。
そのうち、周りの木々がまた動き出した。ところが今度はヌプは一向に驚いた様子もなく、ただニヤニヤと笑っている。するとたちまち激しい旋風とともに木の葉などのすべての落下物が宙に舞い上がり、二人の方へと回転しながら向かってきた。ヌプはまだ笑いながら、
「エイッ!」
とかけ声をかけて、旋風を手で切るまねをした。すると風は真っ二つに割れ、その中からちょうどヌプと同じくらいの年格好の少年が現れた。それに向かってヌプは、
「よお」
と手を振り、相手からも同じ返事が笑顔とともに返ってきた。
「おいらの先生さ」
もう一人の少年に、ヌプはイェースズを紹介した。そしてイェースズに向かっても、
「ほら、いつか話したでしょう。おいらと同じ力を持ったやつが隣の村にもう一人いるって」
確かにヌプは、そんなこと言っていた。
「こいつ、おいらの仲間。こうして現れるのが、いつも俺たちの挨拶になっているんだ」
ヌプよりも幾分顔の彫が深く、とっつきにくそうな様子だ。
「ヌプの先生になったんだってね」
その少年の笑顔は、普通の人なら皮肉の笑顔と見ただろう。だが心が読めるイェースズは、それが安心感から来るものだということをすでに察知していた。
「ウタリっていうのかい?」
「違うよ」
ヌプに言われ、それが「友だち」という意味の言葉だったことをイェースズは思い出した。そのあとで少年は長い名を名乗ったが、イェースズは覚えきれそうもなかったので「ウタリ」で通すことにした。
それから村に戻り、ヌプの家で三人は夕方近くまで話していた。ヌプの時もそうだったが、このウタリに対してもイェースズは初対面とは思えず、そこに強い因縁を感じていた。イェースズについての詳しい話しはヌプがしてしまい、それだけでウタリもイェースズに心酔してしまったようだ。
「君の村は?」
と、イェースズは尋ねた。
「ここから北に行ったキムンカシ・コタンさ」
「年は?」
「ヌプといっしょ」
そして次の瞬間、ウタリは床に手を付いていた。
「お願いだ。ヌプと同じように、おいらも弟子にしてくれ」
これはまたイェースズにとっては困ったことになったが、ヌプだけ認めてウタリだけを拒絶するわけにもいきそうもない。
「分かった。弟子を持つほど私は偉くないのだけど、いっしょに修行していこう。これが神のみ意なら仕方がない」
ヌプとウタリの顔が、同時に輝いた。
「ただし」
イェースズの顔は、微笑みながらもその中に厳しさを見せた。
「そうなった以上、言葉遣いを正してほしい」
ヌプたちの言葉は普通の霊の元つ国の言葉のような敬語というものはない。それはイェースズの故国の言葉であれ、これまで行ってきたどの国の言葉でも同じだった。それを「言葉を正せ」というのは、話し方、態度、口調で霊の元つ国の言葉の敬語に匹敵するかそうでないかは分かる。イェースズは、そのことを言ったのだった。
「決して偉ぶって言っているのではないよ。神様の世界はタテの秩序が厳しい世界だ。形だけで内容が伴わないのはだめだけど、でも最初は形から入ることも大事だ。先生と弟子というタテ別けは厳しいよ」
「はい、分かりました。今後、気をつけます」
ヌプの口調が変わり、このように敬語で話したかのような態度になった。イェースズはそこで、やっとニコリと笑った。
それからウタリもイェースズとともに、ヌプのオピラ―・コタンに滞在した。その間、イェースズが二人に教えたことは、たった二つのことだけだった。それは、「感謝」と「ス直」だった。
「私は、自分が生きているということが不思議でならないんだ。生きているというより、生かされているということだな。あなた方と出会ったことも、もっとさかのぼってふるさとを離れてここへ来ていることも、すべて神様のみ意で動かされているんだ。自分の意志に反することもあったけれど、あとになってすべてが仕組まれていたんだと分かるよ。結果はすべてが善なんだ。私たちは、神様がおつくりになって『よし』とされた世界の一部だからね。悪いと思われることも、神様からご覧になればすべて良かれと思って神様がされている。だから、人間の人知では、善悪の判断なんてできない。できないから、いいにつけ悪しきにつけ、ことごと一切徹底感謝が大事なんだ」
決してあらたまって、さあ説教だというような感じでイェースズはそれを二人に告げたのではない。日々の暮らしの中の何気ない話の中に、そのようなことが盛り込まれていた。
「そうなると、いいことも悪いと思われることも、すべてにス直に従っていれば間違いはない。神様の大愛によるお仕組みなのに、人知で屁理屈言って逆らったら、神様に申し訳がない」
ヌプとウタリはそんな話を時には涙しながら聞き、そして二人とも日増しに明るくなっていった。ただ、イェースズがこのコタンでこのような話をするのはヌプとウタリに対してだけで、一般の村人とはただの世間話しかしなかった。
やがてウタリは病弱の母が気がかりと、自分の村であるキムンカシ・コタンに帰ると言いだした。すでに、秋の訪れをしっかりと肌で感じる頃だった。そしてイェースズとヌプに、自分のコタンへ必ず来てくれるよう強く要請して、ウタリは帰っていった。
秋も深まってから、イェースズはウタリとの約束通り、ウタリのキムンカシ・コタンを訪ねるべくヌプとともにオピラ―・コタンをあとにした。
かなり日が高くなってから出ても昼にはキムンカシ・コタンにたどり着けるという。
二人は、北に向かってい歩いた。かなり広くなだらかな丘陵の草原の中を道は続く。それでもどちらも山に囲まれていることには変わりはなかった。道の両脇に広がる草原の草はすっかり枯れ、今は黄色い干草の海のようになっている。このあたりにも水田は全くないようだった。
もう太陽も中天まで昇っているので間もなく到着と思って道を急いでいると、前方の枯れた草の茂みがざわめきだした。二人とも息を呑んで、立ちすくんだ。
草は枯れてはいても、人の背丈以上に茂っている。すぐにそれを踏み分け、一匹の熊が現れた。ヌプは身構えた。その額には汗が生じてきていた。熊はその巨体を持ち上げて、大きく咆哮した。イェースズがこの国に来て、はじめて遭遇する猛獣だった。イェースズの方はいたって冷静で、微笑さえ浮かべていた。
「せ、先生、動いちゃだめだよ」
ヌプの声を押し殺して、それでいて叫びに近い言葉にもかかわらず、イェースズはニコニコして熊に近づいていった。ヌプはぎゅっと目をつぶった。
しかし何も起こらないのでヌプがそっと目をあけると、イェースズと熊は鼻をつき合わせていた。イェースズは笑顔のままで、まるで熊と何か会話しているようだ。そしてそのまま熊は背を向けて、四足になって行ってしまった。ヌプは力をなくし、へなへなと座りこんだ。そして、力なくイェースズを見あげていた。
「何も恐がることはない」
と、イェースズはヌプに語りかけた。
「いたずらに恐がったり敵愾心を持つから、その波動が動物にも伝わって危害を加えてくるんだ。だから、友だちなんだよっていう魂の波動を相手にも与えてやるといい。動物だって、魂があるんだからね」
それでもヌプは、尻もちをついたままだった。
その熊との遭遇にすぐ後に、集落に着いた。左右に続く低い山のふもとの東西に細長いコタンだった。ウタリの家は北側の山に向かって、少し坂道を登ったあたりだった。
イェースズたちが着く前から霊勘で察したらしく、ウタリは外に出て待っていた。ウタリはイェースズに、恭しく礼をした。そして勧められるままにウタリの家に入ると、中はほとんど土間だったが、わずかばかり板が張っていある所があって、その上の寝台の上に女が横になっていた。
「母です」
と、ウタリはイェースズに紹介してから、女は上半身だけ起こして力なく頭を下げた。
「ご病気?」
「はい。母一人子一人なんですが、母は熱病で寝たきりなんですよ」
「それはお気の毒に」
イェースズは寝ているウタリの母親の脇に、イェースズは座った。母親はひと言ふた言世間並みな挨拶をして、ウタリが世話になっている旨の礼をイェースズに言った。
「いえいえ、こちらこそ」
と、イェースズも世間並みな挨拶を返してから、おもむろに立ち上がった。そして母親に向かって空中にかざす形で手のひらを向けた。
その夜、母親の熱は急に上昇した。ウタリが慌てて医者を呼びに行こうとしたが、イェースズはそれを微笑んで制した。
「こういう時こそ、感謝が必要なんだよ」
そう言ってからイェースズは、ヌプとウタリの二人に祈ることを勧めた。
やがて母親はおびただしい下痢をし、薬の臭いのする大量の汗をかいたあと、翌朝には長年わずらっていた熱病がけろりと治って元気に起きだしてきた。
イェースズはこのことをヌプにもウタリにもそして本人にも固く口止めして、ほかの村人に知られないようにと言い渡した。また噂が広まって、病気治しのご利益信仰の教祖に祀り上げられるのがいやだったのである。
そうしてイェースズは、しばらくこの村に滞在することになった。狭いウタリの家にヌプとともに寝起きし、日々を重ねるうちに秋はますます深まりゆき、木枯らしが身に突き刺さるようになってきた。
ところが、とうとう噂は広まってしまった。いくら口止めしても、長年寝たきりだった人が元気に歩き回っているのだ。それがイェースズという異邦人の来訪と期を一にするのだから、人の口に戸は立てられない。
イェースズは何となくいづらくなってきたことを感じて、ヌプの村に帰ろうかと思っていた矢先、ウタリの母が、
「どうか、ここで冬を越してください」
と、言ってきた。冬になると豪雪ですべての村が雪で閉ざされ、互いの行き来は不可能になるであろうことは、トト山もそうだったのでイェースズはよく知っていた。
だが、時が悪かった。ご利益信仰の教祖にならないためにも、この村にはいないほうがいい。かといってヌプのオピラ―・コタンに帰るとウタリもついてくるに決まっているし、いくら元気になったとはいえその母親に一人で冬を来させるのも忍びない。ウタリとておそらく同じで、ジレンマに陥るだろう。
そこでイェースズは、妙案を思いついた。
「ムータイン・コタンで、冬を越そう」
ヌプもウタリも驚いたが、それに従うと言った。ウタリにとっては、自分のコタンをさほど遠く離れるわけではないので心強い。この村からムータイン・コタンまでは、歩いて半日ほどしかかからないという。朝に出れば昼前には着くということだ。
やがてウタリの母親の感謝に満ちた目に見送られながら、三人は西南西へと向かったその日、この地方に初雪が降った。
このあたりの豪雪は、トト山以上かもしれなかった。背丈よりも高く積もった雪に、コタンでは除雪ばかりが日課となる。屋根の雪を下ろすのを一日でも休めば、家は雪の重みでつぶされてしまう。
そしてせめてコタンの中では互いに行き来できるよう雪を掘って道を作り、白銀に輝く壁を持つ道で家と家は結ばれる。そんな労働を、皆嬉々としてやっていることにイェースズは気がついた。
この村全体の霊層の高さを思わせる。やはり、ここは普通の村ではない。霊層が高いということは、再生度数が多い人々が吹き寄せられているのだ。
そしてイェースズも、その労働にともに加わっていた。いっしょに働く人も皆笑顔で作業し、それがほのぼのと胸を熱くする。そして寝泊りさせてくれているヌプの父の友人である祭司の家に帰って夕食をとると、イェースズはたいていすぐ寝てしまった。
この村では、冬に入る前に各家庭で食料採取は考えない。冬の間はすべて平等に、コタンの飯塚から村民に食料は配分される。その食料は秋のうちにコタンの共同作業として、皆で収穫または狩猟したものである。
トト山もここよりずっと南なのに、冬は雪で閉ざされた。しかし、プジの山の付近は、冬でもほとんど雪が降らなかった。どうやら海が北にある島国の北岸の地方は冬は豪雪地帯で、海が南にある南岸地帯は雪は少ないらしい。冬でも雨が降るという話をしたら、ヌプもウタリも目を白黒させていた。
そしてたまには、夜更けまで二人の少年と語らうことも多かった。
「感謝をせずに、寝てはいけない。感謝をせずに起きてもいけない。今、生かされているということ自体が感謝なんだ。再生転生中に、どんな罪穢を積んできたか分からない。それでも神様は許して、生かさせてくださっているんだ。感謝以外はないだろう? 息を一つ吸わせて頂いた、これとて神様のお許しがあってのことで、奇跡以外の何ものでもないんだ」
時には、祈りのコツというものも教えた。
「祈りとは、神様の波調と自分の波調を合わせることだ。人が神様に対して祈りがあるように、神様にも人に対する祈りがある。それを聞き取ることが大切だ。まずは思念を凝集して祈る。祈りが御神意にかなっていれば、必ずかなえてくださる。その絶対的信頼心が大事なんだ。神様にすがりきって、お任せしてしまう。でも、やるべきこともやらないでただお任せというのは違うぞ。そのように神様のみ意に合っていなければ、祈ってもかなえては下さらない。または、祈ってもかなえられないのは、神様がもっと深い別のお仕組みをご用意下さっている時とか、あるいはまだ時期ではないなど、神様のほうのご都合もあるんだ」
そんなイェースズも、ふと春になったらどうしようかと思う。このコタンに永住してしまいたいという気もするのだ。おそらく春になれば、色とりどりの花が咲き乱れるこの世の楽園になるだろう。人々の心も温かい。
だが、果たしてそれがご神意かどうかと思う。自分には使命がある。人々が神より離れすぎないよう、導いていかねばならない。しかし、それがこの村にいて可能だろうか……。
だがイェースズは、必要以上に頭で考えることはしない。まずは神のみ声を聞かんとして祈り、そしてもし答えが与えられたらス直に従うだけだと思っていた。すべてを神への絶対的信頼の上においていた。
そんなある晩、イェースズは夢を見た。行くべき道を示したまえと、ことのほか強く祈った晩だった。
一面の花畑の中で、イェースズはヌプやウタリとともに童心になって蝶を追いかけていた。相変わらず三角の山が、そんな光景を見下ろしている。
その時、
「イスズ」
と、背後で呼ぶ声がした。自分の名前をそんなふうに呼ぶ人は、この国には今のところいないはずだ。そこでイェースズは振り向こうとしたが、振り向く前にもう一度、今度はもっと力強く、
「イスズ」
と、呼ばれた。
その声で、イェースズは目が覚めた。まだ暗い。そんな前方の闇の中に人影があった。
イェースズは飛び起きた。暗くて顔は分からないががっちりした体格で、少年のヌプやウタリではあり得なかった。目が暗闇に慣れるのを待って、イェースズはもう一度その人影を凝視した。
「イスズ」
はっきりとした肉声が、その人影から発せられた。聞き覚えのある声だった。
「ミコ……様?」
「そうだ。久しぶりだなあ」
しばらく耳にしていなかったこの地方でいうヤマトの言葉だった。




