ブッダの墓
二人が歩いているのは一面の平野の中で、驚いたことに見渡すかぎりの水田だった。ニカプのコタンを出てからもう十日以上も歩いているのだから、かなり北に来たはずだ。それなのにまだ水田がある。
右手の方には山地が続き、いくつか高い山も見える。平野は左手と、そして前方へと広がっていた。それでも、所々に若干の起伏はあって雑木林が視界をさえぎり、この国ではどうしても地平線というものを見ることはできないようだった。
そんな景色の中に、北国の遅い春を感じた。
「今日中には、例の山に着けるよ」
と、歩きながらヌプは言った。
その言葉通り、右手の四つの山が後方に退いた夕暮れ、前方に見えてきた丘陵地帯の中のそう高くない山を、ヌプは指さした。
「あれが、光るものが飛ぶ山だよ」
その山のふもとに着く頃には、日もとっぷりと暮れていた。そこにコタンがあり、ヌプが交渉して泊めてもらえることになった。久々の野営ではない宿泊になる。
ヌプの話では、このコタンで一、二ヶ月は過ごさねばならぬという。
光が出るのは夏で、この国の暦では第四の月のウベコ月になってからだということだ。今はまだ第二の月のケサリ月が終わろうといている頃だった。
そこでその二ヶ月というもの、イェースズは毎日山を見て暮らした。最初の印象は、ポウダツの山によく似ているというものだった。高さも同じくらいだ。ただ、ふもとは平地ではなく密林が茂っているので、木々にさえぎられて山の全貌はよく見えなかった。
そしてこの二ヶ月のイェースズにとっての課題は、ヌプたちの言葉をしっかり覚えることだった。その勉強が進むにつれてヌプともかなりこみいった話ができるようになったし、コタンの人々とも直接に交流することが可能となった。
村人たちには便宜上、イエスはヤマトの使者であるとしておいた。だから、みんながヤマトの話を聞きたがった。これにはイェースズも困惑したが、自分が見た範囲での西の方の国の話を適当にしてごまかし、イェースズの方からは当然のこととして、山の光のことを村人に聞いてみた。
その話によると、光は夏の間は毎晩出るが、特に真夏の一定の日付の日は光がまぶしく、その日はコタン中の人々が光を拝むために全員で深夜に登山するという。
そんな日を楽しみにイェースズはコタンで生活し、コタンの子供たちもイェースズになついて、イェースズの周りには笑顔と笑い声が絶えなかった。
そして二ヶ月くらいたったある日、ヌプがイェースズのもとに来て今日は寝てはいけないと言った。「いよいよ今日からなんだ」
この日、第四の月のウベコ月に入った第一日目ということだった。暗くなってすぐに登っても、光が出るにはまだ早い時間に山頂に着いてしまうということで、二人は夜が更けるのを待った。
光が一段と大きくなるというのは第七の月のフクミ月の初旬だということであと三ヶ月くらいあるが、その日までイェースズは待てなかった。幸い「その日」ではないので、二人のほかには深夜などに山に登る人はいないはずだ。
夜も更けて、逸る心でイェースズはヌプとともに山に登り始めた。月初めなので月も出ておらず、なにしろ真っ暗だった。松明は登山の邪魔になるので、途中で火を消して捨てた。
とにかく、眼をとじても開いても視界の暗さは変わりがない。本来なら手探りのみで進まなければならないのだが、こんな時イェースズはかえって肉眼は閉じてしまい、代わりに霊眼を開いた。そうすれば周りの霊界の風景が、手に採るように分かった。霊界には昼も夜もないので、明るい風景が飛び込んでくるのだ。回りの木々や障害物の霊質が、はっきりと見える。
そうしてどれくらい登っただろうか。夜半をかなり過ぎ、相当の高さまで上った頃に頂上らしき所に出た。夜の闇の中なので、景色は分からない。だが、遠くの闇の中に、ピカッと小さく光るものがった。そしてそれが火の玉となって、ものすごい勢いでイェースズたちの方へと飛んできた。そしてそれは、ほんの至近距離の木立の枝の上にぴたっと止まった。
それはあくまで肉眼で見る範囲の出来事だった。だがイェースズの霊眼にはものすごい閃光となって襲いかかった。肉眼では小さな光にしか見えないのだから、それは物質的な光ではなく霊光だったのだ。イェースズはそのまぶしさに思わず目を覆ったくらいだが、隣のヌプは平然として閃光を指さしている。
「あの光をごらん。あれだよ」
ごらんと言われずとも、イェースズは閃光に包まれているのだ。
「ほら、ろうそくの火のような小さな光が、ぽつんと見えるでしょう。あれが例の不思議な光だよ」
ヌプの肉眼には、小さな光としか見えないのだ。イェースズは、あたりを白く塗りつぶす光の洪水の中にいる。だからといって、その光で周りの風景が見えるという訳ではなかった。あくまで、霊的な光なのだ。
そんな光に包まれて、イェースズの意識はすでに肉体よりも巨大化して別の次元にいた。
イェースズの目の前にはいつしか一人の貴婦人が立っていた。その姿に、イェースズは懐かしさのあまりに胸を熱くしていた。現界にてはゴータマ・シッタルダーという男性の肉身の中にあって活躍した神界の女性で、イェースズとは霊的に旧知の仲である。
旧知どころか常にイェースズのそばに付き添って守護してくれている守りの主でもあるが、肉眼では見ることができないので悲しいほどに恋焦がれた人だった。その人が今、目前に立っている。
久しぶりの再会だった。霊界にてモーセやエリアの神霊とともに会って以来だ。
しかもここはゴータマ・ブッダの故地ではなく遠く離れた霊の元つ国であり、ブッダが修行をし、また終焉を迎えた国でもある。その国での再会なのだ。
イェースズは涙が止まらなかった。熱いものが胸全体に満ちて、どうしたらいいのか分からないくらいだ。ブッダはどれくらい距離をおいて自分と向かい合っているのか、イェースズにも皆目見当がつかなかった。遠いと思えば遠いし、すぐ目の前のような気もする。空間がないから、距離という概念がないのだ。
ブッダは何も言わず、無言で微笑んでいた。だがよく見ると、そのブッダの頬にも涙が伝わっているように見えた。そのまま、どれくらい時間が経過したかも分からない。いや、時間そのものが、ここには存在しないのだ。
ブッダは、ゆっくりと口を開いた。その声は耳にではなく、いつもの通り直接イェースズの魂に響いてきた。
――よく来てくださいました。この日をどんなに待ったことか。あなたがここを訪れるように、一所懸命導いてきたのです。
今までも何回か遭遇したブッダの神霊だったが、今回は何かこれまでと違うような新鮮さと緊張がイェースズの中にあった。
――今までも確かに何度もお会いしましたが、本当の意味であなたとお会いするのは今日が初めてなのです。
ブッダの言葉の真意を、イェースズはすぐには理解できずにいた。
――分からないのも無理はないでしょう。今まであなたとお会いして来たのは私の仮身で、私の本霊はこの山の霊界から離れられずにいるのです。
「そんな……。あなたは神界でご活躍中だと思っていたのですが……」
――たしかに私は、神界から天降りました。とある神霊の分魂として、肉身をもって人間となった応身の仏です。そして肉身の中で分魂としての役目を果たしたあとは第四のトゥシタ界、すなわち幽界の内院で現界にて着した汚れを払い、やっと神界に帰ることができました。しかしそれも仮のことで、本霊は肉身が埋葬されたこの山の霊界から離れられずにいるのです。すべて、私自身のせいなのです。
ブッダともあろう人が……と、イェースズは厳しい霊界の秩序を今さらながら思い知らされた気がした。すでに彼は、ブッダの状況をのみ込んでいた。さらにブッダは、話を続けた。
――私は「神」のみ意のまにまに教えを説き、人々が勝手に「神」より離れすぎないようにと歯止めをかけてきたつもりでした。そしてその時点では私の話に耳を傾けてくれた人も多く、任務は成功裏に果たしたと思っていました。しかし、現界という肉体の五官に振りまわされてがんじがらめになる世界で神理を説くのは、本当に難しいことなのです。ましてや今の時代はなおさらです。
「確かに目に見えるもの、耳に聞こえるものしか信じない世界ですからね」
――それも、肉眼、肉耳のみですね。どうも私の教えを、真に理解していた人はいなかったようです。私の教えを聞いたものたちはブッダ・サンガーという組織をどんどん拡大し、あまりにも大きくしすぎてしまった。そして私を教祖として崇めている。私の真意はそのようなことではなかったのです。
「よく分かります。どんなに御神意を受けておろされた教団でも、現界におろされた以上は現界の組織として一人歩きを始めてしまうんですね」
大いなる共感を、イェースズは感じていた。
――そうです。ブッダ・サンガーも大きくなりすぎて、挙句の果てには分裂して闘争しています。すべての元は一つであると私が説いたこととは、正反対の様相を呈しています。もはや今のブッダ・サンガーには、私の心はありません。
ブッダの口調は厳しかった。
――ブッダ・サンガーはこれからもどんどん大きくなってやがてデイシャに広まり、そしてあと五百年もすればジャブドゥバーのケントゥマティー、すなわちこの霊の元つ国にも広まってくるでしょう。しかしその時には、私の教えとは似ても似つかないものになっているでしょう。後の世の人々が、人知を付け加えすぎるのです。どんどん自己流の尾びれをつけて哲学化し、しまいにはわけの分からないものにしてしまう。その、すべての責任は私にあるのです。
イェースズにはもはや、返す言葉がなかった。
――私が説いた教えは、その時代、その場所にとっては最高の教えだったつもりです。しかし、そういった限定的なものなのです。しかし人々はそれを宇宙唯一の最高の法と思ってしまい、そのために人々は“我”と“慢心”を持つに至ってしまったのです。私は神理の証として、霊的な力も示しました。しかしいつの間にやらそれは土着の呪詛的な民族宗教に結びついてしまい、わけの分からない呪法や加持祈祷となってしまっているのが現状です。
しばらく、無言が続いた。ブッダは泣いているようだった。
――サンガーなどという組織を作ったのが間違いだったのかもしれません。人々との絆を断ち切って、自分たちだけがサトりを開こうなどという集団は、神のみ意ではないでしょう。なぜなら、その集団に入らない人々は救われないということになってしまいますから。現界という盲目の世界で、皆が手を取り合って神理に近づいていくという姿が本当の姿だったのです。
「確かに」
遠慮がちに、イェースズも口を開いた。
「俗界にいてサトリを開くのは困難なことだけに、サンガーのような環境でサトリに到達する方がやさしいかもしれませんけれど、それでは意味がないということですね。困難な方が、より本物だったということでしょうか」
――そうです。私はウパサカ・ウパシカというような在家の信者という制度も作りました。しかしそうなると今度は逆に、徹底した他力信仰、いえそれならまだいいのです。徹底したご利益信仰に陥ってしまったのです。
「おっしゃる通りだと思います」
――絶対他力にて創造され、生かされていることを認識した上で、その他力に与えられた自力で精一杯精進しなさい、一人一人の自覚と覚醒が大事なのだと、私は説いてきたつもりだったのですが。
「現界とは、難しくも厳しいところです」
イェースズはそう言ってから、少しうなだれた。ブッダの目の涙は流され続けているままだった。そしてイェースズが顔を上げるのを待って、ブッダは静かな口調に戻って語り続けた。
――あなたに、どうかお願いします。あなたも「神様」から大きな使命を頂いているわけですが、もう天の時は近づいているというのにのほほんとしている人類に、今がどんな時期かをサトらせてあげてください。現界の人々の時間感覚ではまだ何千年か先のことであっても、幾億万年という高次元の神御経綸の中にあっては、本当に目前に迫っているといえます。やがてミロク下生の時を迎え、聖霊が降下しますが、そのときはまた私と一緒に現界に参りましょう。
ブッダの言葉は、切々とした訴えというようになって来た。
――お願いしますよ。頼みますよ。決して私のブッダ・サンガーの二の舞にならないようにしてください。私は、自分の教えの真意をせめて今世の人々に知らせたいのだけれど、直接はできません。ですからせめてもと思って、毎年夏が来るたび、この山で毎夜御霊灯明をともし続けているのです。
突然目の前の閃光も光の渦も、そして仏陀の姿さえ見えなくなった。遠くの峰に、小さな火がゆれているのだけが見えた。
「どうしたんだい? 立ったまま気を失っていたのかい」
ヌプの言葉で、イェースズは現実に戻った。
すると今までのことは夢だったともいえる。しかし、夢にしては極彩色で鮮烈すぎた。
「どうしたんだい?」
しばらく放心していたイェースズの顔を、ヌプは心配そうに覗き込んでいた。イェースズも無言でうなずいた。現界での修行も厳しいが、それ以上に霊界の置き手(掟)と秩序の厳しさに、夏だというのに彼はしばらく震えが止まらなかった。
翌日はイェースズは一日中死んだように眠り、その次の日になるとまた例の山に登ると言いだした。ヌプも同行を快諾した。
「よかった。先生はてっきり、気が狂っちまったかと思った」
安心したような微笑とともに、ヌプはイェースズに従った。今度は夜ではなく昼間である。登るにつれて、ここから見る景色はこんなにも美しかったのかとイェースズはあらためて実感した。天気もよく、雲ひとつない。一息ついたところで辺りを見回すと、南の方はちょっとした平野で、すぐにその向こうが山地になる。
左の方にはここへ来るまでずっとみえていた五つか六つの峰のかたまりの連山があり、右手の西の方には平野の向こうにぽつんとひとつだけうずくまっている山があった。どちらも、今いるこの山よりははるかに高い山のようだった。
「あれが、昔あったアソベの山の名残だよ」
と、ヌプが指さした。山の形はちょうどプジの山を何十分の一かに縮小したような円錐形だ。
「大昔はもっと大きな山だったんだ。神の遊ぶ山だから、アソベの山といわれていた。そしてアソベの民は、あの山が見える範囲に広がって暮らしていたんだ。でも、ある日ツボケの民がやってきて、アソベの民は山の中に逃げ込んで、そんな時に山が突然火を吹いて、峰は吹っ飛んで、今のあの山の大きさになったんだそうだよ」
「いつごろの話?」
「だから、大昔。それしか分かんない」
アソベの民というのは、初めてこの北の国に来た時に会った女ニカプや、あの時出会った神官からも聞いたような気がする。
そんな会話をしながら先を急ぎ、やがて頂上に付いた。ここが一昨日の晩に昇ってきたところだ。この山の本当の頂上は少し離れた所に見える。ここから登ってきたのとは反対側の山の東を見ると、遠くに海なのか湖なのかわからないが、広い水域が見えた。それほど高い山ではないのに、こんなにもよく周りの見通しがきく山も珍しい。暗い時と今とでは、全く別の場所に来たみたいだった。
水域はやはり海のようだがは大きく入り組んだ湾のようで、向こうにも陸地があり、水平線は見えなかった。
ここは北の果てである。ついに、この国の最後の土地まで来てしまったのかとイェースズは感慨深かった。そのことを確かめるために、
「あの海の向こうは?」
と、イェースズはヌプに聞いてみた。
「一晩くらい舟を漕いで行ったら、大きな陸があるよ。オシマっていうんだ。そこにはアラハバキの同族が住んでいる。でも彼らは狩猟だけで農耕はやっていないって。すごく寒い土地だから、作物が育たないんだ」
ヌプの説明に、イェースズはもう一度空の彼方を見つめた。
それからイェースズは、一昨晩の出来事があったと思われる場所へといってみた。そこには、腰の高さくらいの土の塚があった。塚は無言でイェースズに何かを語りかけているようで、彼の胸は高鳴った。さらには、ものすごい霊圧を感じる。
これがブッダの墓であることには間違いないようだった。イェースズは、静かに手を合わせた。
するとその時、目の前の杉の木の樹齢何百年もあるだろうと思われる図太い幹が、風もないのに大きく揺れだした。鋭く天を突く杉の木の全体が揺れだしたのである。
これはただ事ではないと、イェースズはすぐに察した。やがて大音響とともに大杉の幹は左右に真っ二つに裂け、その間から大きな鷹が羽音も鮮やかに青空めがけて飛び立って行った。それを見てイェースズは、思わず涙ぐんでいた。隣ではヌプが、ただあっけにとられてそれを見ていた。
「あ、あれは……」
イェースズはあえて、何も答えなかった。
山を降りながらも、ヌプはしきりと鷹の話をしていたが、イェースズは何の気もなしに、
「さあ、これからどうしようか」
と、つぶやいていた。
「じゃあ、おらがコタンに来てよ」
ヌプもそう言うし、拒む理由もないのでイェースズはそうすることにした。




