ピダカミの国
イェースズは北へ向かう前に、まず東へと進んだ。それがハタ族の村の村長の助言だった。
イエスが目指すべきは正確には真北ではなく北東の方角ということで、まず東へ進んで海にぶつかったら、海沿いに北上せよとのことだった。
それにしてもイェースズが驚いたのは、本当に久々に、そしてこの島国に来てからは初めて広々とした平地を見たことだった。だが、大陸にあるようなどこまでも続く草原とか砂漠とかいう風景とは程遠く、やはりスケールは細かくして自然は繊細だ。平地にもなだらかな起伏があり、ところどころに雑木林が点在し、平地も背の高い草で覆われていた。そして視界の終点には平地を取り囲む山が横たわって続くのがうっすらと見えるのだった。そんな山がない一角は、その先が海であるようだった。
そうして村長の言葉通り海岸線に出くわしたのは、出発してからもう五日ほどたってからであった。海岸はどこまでも白く長く一直線に伸びる砂浜で、その砂浜沿いにイェースズは北上を始めた。食糧は今までは木の実などであったが、それからは海の幸を自由に採ることができた。
歩くことまた三日、再び山が海岸近くまで迫るようになった。平地は終わったらしい。だがその山の形や雰囲気も、今まで見慣れていたこの国の山のそれとは微妙に違ってきていることをイェースズは感じた。頂上に雪をいただくような高い山は、見当たらない。そんな峠道を、イェースズは越えた。
そこに村があった。小さな村ならこれまでいくつも通り越してきたが、それは久しぶりに見るまとまった規模の集落だった。
だがイェースズは峠を下りながら、近づいてくる集落の異様さに目を見張った。同じ島国の中であるはずなのに、その村は全く別の国のものではないかと思うくらい、景観が全く違っていたのである。
しかもさらに驚いたことに、イェースズが近づくにつれ村中の人が総出でといえるほどに村の入り口の柵の所に集まり、イェースズの方を見ていた。イェースズが来ることは、誰かがすでに見つけて報告がされているらしい。
だが彼らは武力でイェースズを向かい討とうというような様子ではなく、遠目にも笑顔さえ見えて和やかな雰囲気でイェースズが村の入り口に入ってくるのを待っているようだった。
イェースズはとにかく、村に入ることにした。そしてさらに近くなると、彼らの服装もよく見えるようになった。それは、今までの村の人々とは全く違ったものだった。少し厚めの皮衣の襟と袖はふしぎな紋様の入った帯状になっており、男は頭に同じ紋様の鉢巻きのようなかぶりものをかぶっていた。
村人たちは数十人いたが、近づくにつれてその顔つきもわかってきた。顔までもが今までの人々とは違って彫りが深く、成人した男たちは一様に濃いひげを胸元あたりまで伸ばしていた。
イェースズが彼らの前へ来ると、中央のがっしりした体格の男が、
「イランカラプテ」
というようなことを言った。イェースズには全く解せず、どうもはじめて聞く言語のようだった。こんな狭い島国なのに、ここまで来るともう住んでいる人の民族が違うのかとイェースズは思った。
大陸の多くの人種や民族の中を旅してきたイェースズだけに、民族の違いには敏感だった。
「カニ アナクネ ニケウシケ」
言葉が分からないだけにイェースズがどう答えていいか戸惑っていると、その男の脇から一人の妙齢の女性が前に出た。服装はほかの村人とは変わらないが、恐ろしいほどに澄んだ瞳の女性は、その瞳で満面の笑みをイェースズに向けた。
「ヤマトのお方ですね」
イェースズははっとした。はじめて理解できる言語を聞いたのだ。それはこれまで使っていた、この島国の言語だった。
「は、はい」
言葉が分かるだけに、その内容はどうでもよくイェースズは返事をしていた。
「あなたを歓迎します。私はこの村でただひとり、ヤマトの言葉を話すニカプといいます」
どうやら、通訳らしい。しかも、今までの村と違って、ここでは堂々と自分の名前を名乗っていいらしい。
「遅いお着きですから、これからすぐに歓迎の宴をさせて頂きます」
確かに、もう日は暮れかけている。それにしても、初めて来る村でいきなり歓迎の宴というのは、本来なら戸惑うものだ。だがそのとまどいは、イェースズの肉体的感覚によるものだった。もしそのままその感覚でいたら、歓迎の宴と見せかけてこの村の人々は何かたくらんでいるのではないかと邪推さえしてしまう。
それが当然だ。なにしろ本当に唐突の成り行きなのだ。
しかしイェースズは、その霊智に満たされ、この村人たちを信用していいという信号を霊界の自分の意識である本体の神霊から受けていた。
「アフプ ヤン!」
「どうぞ、お入りください」
中央の男の言葉に引き続き、ニカプと名乗った娘が言葉を伝える。もしここが幽界なら相手の想念を読み取ることによって言葉が通じなくても意識は分かるものだが、しかし残念ながらここは現界であった。それでも霊勘を働かせれば、今のイェースズにとって通訳は不要な程度には相手の意思は分かる。
自分は「ヤマト」という国の使者だと思われているということすら、イェースズには見えてきた。それでも、あくまで通訳の労をとってくれる女性を立てることにした。
「我らピダカミの国とヤマトは、あくまで対等なお付き合いですから宴を出させて頂くのですよ。ヤマトにお帰りになりましたら、必ずお伝えくださいね」
ニカプの物腰はあくまで柔らかだった。
やがて村の中を案内されたが、すでに夕闇に包まれていてよく見えなかった。そして村の中央のかなりがっしりとした大きな建物に通され、そこで酒宴が始まった。
驚いたことに肉も豊富で、ほかに海の幸もふんだんに並べられていた。酒が、ことのほかうまかった。
村の入り口で最初にイェースズに言葉を掛けたがっしりとした男を、ニカプは酋長だと紹介した。
「この村……村のことをここではコタンといいますが、こちらが私たちのコタンの酋長のニケウシケです」
イェースズは軽く頭を下げた。いくら相手の想念がわかっても、イェースズの話す言葉では相手は理解できないはずだ。まずは宴の礼を述べ、それをニカプに伝えてもらった。
「酋長のことを、ここではエカシというんです」
それから酋長ニケウシケは何か言い、それをニカプは、
「今日は難しい話はやめにして、大いに飲んでください」
と、イェースズに伝えた。話題は食べ物のことばかりだった。
やがてイェースズもかなり酔いが回り、宴も果ててあてがわれた客間のようなところに案内されて、イェースズは寝台に横になった。
屋根のあるところに寝るのは、ハタ人の村を出て以来だった。酔いもまわってかイェースズはすぐに眠ったが、しばらくして不意に目がさめた。
まだ夜中らしかった。布団はやけに厚くて温かかった。もうここはかなり寒い地方に属するらしく、これくらいの布団でなければ冬は越せないようだ。どうも鳥の羽毛か獣の毛を皮でくるんだものらしい。
建物も今までのどの村のものよりも頑丈で、太い丸太をしっかりと組み合わせて壁にしており、暖が逃げないようになっている。
イェースズは上半身を起こし、そんな暗い室内を見回した。
その時、音とともに入り口の扉が開いた。月の光を背にしたその人影は、すぐには誰だか判別できなかった。だが、それは女だということは、イェースズにはすぐに分かった。
「起こしてしまいましたか? ヤマトのお方」
声を聞いて分かった。通訳をしてくれていたニカプだ。
「酔いはさめましたか?」
「ええ、ありがとう」
イェースズは笑顔を作った。
「旅のお疲れをお慰めするために、参りました」
そう言ってからニコプはイェースズの寝台のすぐそばまで来て、木の根で作られた椅子に腰を下した。今のニカプの着衣はやけに裾が短く、白くて細い足がももからすらりと伸びていた。そして懐から竹のへらのようなものを取り出した。親指の付け根から人差し指の先くらいまでの長さで、片方に糸がついていた。
その竹をニカプは口にくわえ、糸を強く引いた。ビーンと糸は振動して空気を震わせ、妙なる音色となって闇の中に響いた。ニカプはそんな動作を何度も繰り返し、そのたびに音色は旋律となって空中を飛来した。折りしも入り口から月光が差し込み、ニカプの横顔を照らした。
それは実に美しかった。長い黒髪、黒い瞳が、イェースズがそうでないだけに余計に美しく感じていた。
そこには、耽美の世界があった。だがイェースズは、純粋に魂で美しいと感じただけで、何の邪念もなかった。
イェースズは、ニカプに向かって手を伸ばした。楽器を見せてくれという意思はすぐに伝わり、ニカプはそれをイェースズに渡した。
「ムックリっていうんです」
竹のへらに糸がついているだけの本当に簡単な楽器で、これがあのような幻想的な旋律を奏でるのでるから不思議だった。糸を引く強弱で、音色が変わるらしい。
イェースズはそれを、ニカプに返そうとした。だがニカプの両手が包んだのは楽器ではなく、イェースズの手だった。
「温かいお手」
イェースズは少し驚いて、もう一度ニカプの顔を見た。月光に照らし出された顔は、驚くほどイェースズの近くにあった。若い女性の顔をこんなに近くで見るのは、イェースズにとって初めてのことだった。
次の瞬間には、ニカプの両腕はゆっくりとイェースズの背中に回り、甘い香りが鼻をつく中でイェースズを寝台にと引き倒した。柔らかい肌の感触が、じかに触れる。目の前には豊かな黒髪がある。イェースズの肉体は、ほんの一瞬だけ恍惚の境地に入ろうとした。
だが、霊性がすぐに目覚めた。やさしくニカプの腕を解いて、イェースズは上半身を起こした。ニカプはあっけに取られたように、驚いてイェースズを見ていた。
「申し訳ない」
と、イェースズは優しく言った。
「どうしてですの?」
ニカプは本当に驚いているようだった。
「この村にヤマトのお使いの方が来られた時は、いつもこうして私が伽をするのが習慣ではありませんか」
そうだったのかと、イェースズは思う。だが、彼はそれを受け入れることはできない。自らにそのような戒律を課している訳ではなく、また可否の問題でもなくて、霊的にそういう行動には自然に出られないように彼の魂はなっている。
「お気持ちだけで、有り難いです。私の場合は、必要ないんです」
ニカプはばつが悪そうに、ゆっくりと出ていった。
しばらくはイェースズの肉体に、甘美な経験が記憶として残っていた。物質としての肉体の脳には、少なくともそう刻まれていた。
だが彼は、肉体には勝っていた。この国に来る前の覚醒に至る前の彼だったら、甘美な誘惑に負けていた可能性がある。なにしろ、肉体的には彼は二十一歳の男性なのだ。
だが、霊界には、この種の甘美はなかった。霊界の歓喜はもっとレベルの違う、別の種類のものだったと彼は厚い布団の中で考えていた……肉体のこの営みは子孫を残す上では必要なことだが、それは正当な夫婦の間だけで許されるべきもので、それゆえに神聖な営みであるはずだ。
男と女の交わりは火と水を十字に組むことで、そこにものすごい産土力が生じる。神の宇宙創造の原理そのものなのだ。神聖なだけに、不純なものは許されない。太古の「生めよ、増えよ、地に満ちよ」の時代は別としてである。
イェースズがこの耽美な誘惑に打ち勝ったのは、心で制したからではない。禁欲は神の摂理に反する。だが、制欲は必要で、それは心で制して肉体が納得するようなものではない。人類を増やすために、神から賜った快楽なのである。それを制御し得るのは、霊性、魂でしかない。
心で戒律を課しても、肉体は弱いものなのである。心よりもさらに奥の霊・魂の世界があくまで主体なのだということをイェースズは知っている。心は従属しているにすぎないもの、ずっと肉体に近いものである。それを、心の方を主体にして欲望のままに行動したら、それはもはや人ではなくて獣に等しい……そんなことを考えながら、イェースズはいつしか眠りに落ちていた。
朝日が痛いほどに目をさす。起きて外に出たイェースズは、はじめて見るこの村の明るい陽ざしの中の風景を見た。ここも、山に囲まれた盆地だった。山はそれほど高くはない。だが風土がなんとなくこの島国のこれまでいた所よりも大陸的で、大まかな雄大さがあった。
そんな景色を見ながら、イェースズは昨夜のことを考えた。いきなりここへ来て宴会だった。そしてすぐに寝床に就き、あの出来事があって、そうして朝を迎えた。
この村の人は、自分を「ヤマト」という国の使者だと思っているらしい。そこで自分はどう振舞ったらいいのかと思う。とにかく自分は使者などではなく、釈尊=ゴータマ・ブッダの墓を求めてここまで来たのだ。
「おはようございます」
背後で声がした。振り向くとニカプだった。昨日のことが全く何もなかったように、笑顔で彼女は立っている。昨夜自分の所に来たのはこの女性ではなく、魔性の化身だったのかという邪推さえしてしまう。
イェースズも、そこで笑顔を返した。
「村をご案内いたします」
それだけ笑顔で言うと、ニカプは歩き出した。イェースズはその後ろを歩きながら、もう一度村の様子を見た。家はこれまでの円形の竪穴ではなく、どれも四角くて長細い壁のある建物だった。屋根は笹か萱で葺かれていてかなり急な傾斜の屋根であり、壁はしっかりとした丸太を積み重ねた頑丈なものだった。
多くの村人がすれ違い際にイェースズに挨拶をして行ったが、その言葉といい村人同士が話し合っている言葉といい、全くこれまでの村とは形態が違う別言語だった。
やがて、昨夜宴が催された中央の大きな建物に着いた。中は中央に炉があり、その左側にはこの村の村長のニケウシケがすでに座っていた。
「アフプ ヤン! エ ヤン、エ ヤン」
「どうぞお入りください。朝食を召し上がってください」
ニケウシケの言葉を、ニカプが伝えた。朝食は、穀物と魚を焼いたもの、さらに獣肉を焼いたものもあった。
朝食が済むと、ニケウシケが村を案内すると言うので、ニカプとともにイェースズは外に出た。
「冬はほとんど雪に覆われます。人の背丈の二倍は積もりますから、家が頑丈でないとつぶれてしまうんです。そして、寒さにも強いんです」
ニカプを通して、ニケウシケは説明しながら歩いてくれた。ここの人々は、かなり過酷な自然の中で生活しているらしいことが察せられた。集落は秩序だって配列されており、村の全体はかなりの広さがある。
そしてイェースズが驚いたのは、集落と周りの山の間に、水田が広がっていることだった。水田はポウダツの山の向こうは至る所にあったが、オミジン山周辺よりこちらは、人々は狩猟生活をしていて農耕の水田は全く見たことがなかった。
唯一の例外が、ハタ人の村だった。あそこは彼らの先祖との関係で特殊事情があったわけだが、ここはこんなにも北の寒い地方なのに、それまでなかった水田が忽然として現れたのである。
ハタ人の村でこれから北へ行くと言ったら、北の地方では土人が穴倉生活をしているだけだなどと言った人がいたが、それは嘘であった。
この国にしては、かなり高度な文明を持つ村のようだった。さらには家畜としての馬や牛の姿もあった。馬や牛は大陸では飽きるほど見てきたイェースズだが、この島国に来て馬や牛の姿を見るのは初めてだった。
やがて、ひときわ大きな高床式の建物があった。
「あれは飯塚です」
質問するよりも前に、ニカプが説明してくれる。
「凶作の年に備えて、食料を貯蔵しているんです」
「この村の長は、そんなことにまで気を使っているんですか」
「ここの酋長は、人々の君主でも王でもありません。そこがヤマトとは違います。人民を保護し、導く役目です。年齢性別に関係なく、酋長は村人の間から村人によって選ばれます。酋長といえども、罪を犯せば罰せられます」
「罰せられる?」
「はい。すべての民は酋長も含めて、財的に平等です。一食一汁に至るまで、皆人民の共有財産です。ここには、私物は一切ありません」
さらにここでは労働も自分が食べるためではなく、全体に奉仕するためになされるという。それらのことを象徴するかのように、村でいちばん大きな建物は中央の酋長の館ではなく、食糧貯蔵庫だった。
イェースズはそれを聞きながら考えた。全体への奉仕、すべてのものは共有財産で自分のものは一切ないというのは、神理の世界に非常に近い。
だが、この村の主は酋長ではなく村人たちだという。そうなると、神不在ではないだろうかとも思ったのである。だから、
「ここでは、神様を祀っていないんですか?」
と、聞いてしまった。そのイェースズの言葉をニカプの通訳を通して聞いたニケウシケは、近くの山並みのひときわ高い山を指さした。
「あの山の上で石を並べて石神を祭っています。この国では神のことをカムイというんです」
ニケウシケの言葉を伝えるニカプは「この村」ではなく、はっきりと「この国」と言った。それによって、この異民族は同じ島国の中でも、自分たちを別の「国」と位置づけていることが分かった。
こうして村を一巡し、もとの中央の建物に戻った。今度もニカウシケは自分が上座、イェースズを下座というふうにではなく、入り口から見て左右に対等な位置に対座した。
「この度は、ようこそおいで下さいました」
相手の想念を読んでいるイェースズは言葉が分からないまでも何を言っているかは分かっていたが、一応ニカプの通詞を待ってから微笑んでうなずいた。イェースズの意思を相手に伝えるには、ニカプの力を借りねばならない。
「ところでヤマトの使者のお方。このたびのご来意は?」
しばらくイェースズは黙った。それからようやく口を開いた。
「実は私は、あなた方がいうヤマトとかいう国の使者ではないんです」
ニケウシケはニカプの通詞を聞き、怪訝な顔をしていた。さらにイェースズは言った。
「その、ヤマトの国とは、どういう国です?」
「あなたと同族の国ではありませんか? お顔から、あなたはまぎれもないヤマトの方だ」
「どこにあるんです? その国は」
「ここからずっと南に行って、さらに西に行くと、我われと同様に農耕をするヤマトの国がありますが」
これでイェースズは分かった。ユダヤ・エフライムの民を「ウシ」と呼ぶあの地域だ。かつて彼が初めてこの国に上陸した場所が、すなわち「ヤマトの国」らしい。大陸では「ワール」と呼ばれ、オミジン山のミコは「霊の元つ国」といっていた。ここで初めて耳にした「ヤマト」という呼称だが、イェースズはその霊勘によってその言霊の本義をすぐにサトった。
かつてここが大洋に沈んだムーの国の一部だった時、今のこの島国に当たる部分は相当高い山であったはずだ。そしてムーが沈む時、人々はこの山に逃げ込んだ。だから今は島となったこの地にとどまった人を「山にとどまった」という意味で「ヤマト人」といい、その土地をヤマトというようになったらしい。
「ヤマ」はあくまで縦・日・火を現す。ゆえに、日の国(火の国)で、太陽の直系国、霊の元つ国なのだ。
「実は私は、そのヤマトの国から来たのではありません。ここからヤマトまでの距離の、三十倍も遠い所から来ました」
ニケウシケは、しばらく何を言っていいいか分からないような様子でいた。
「それでは、何をしにここへ?」
やっと動いたひげの中の口から出た言葉がこれだった。
「はい。神理のミチを求めています。そして偉大な聖者、ゴータマ・ブッダの教えを知りました。この国では釈尊というそうですが、その人のお墓がこの国にあると聞いてはるばるとやって来たのです」
ニカプの通詞を聞いてからも、ニケウシケからは返事はなかった。
「その釈尊について、何かご存じありませんか?」
「いや、知らぬ。そのような人のことは聞いたこともない、いつごろの人ですかな?」
「もう五百年も前の人とか」
「そんな昔の人のことは、分かりませぬな」
ニケウシケは、はじめて少し笑った。
「しかし……」
その時イェースズの頭の中で、あることがひらめいた。山の神を祀る所なら祭司に当る人がいるはずだ。祭司なら何か知ってるかもしれないと思ったのだ。
「お願いがあるのですが」
イェースズは視線を変えて、ニカプだけに言った。
「山の上に神を祀る所があると言っていましたね。そこへ連れて行ってくれませんか」
ニカプはニケウシケとなにやら話していた。イェースズをそこへ連れて行く許可を取っているのだろう。やがてニケウシケは、何か言いながらうなずいた。
「分かりました」
そう言ってからニカプは、にこりと微笑んだ。
イェースズはニカプとともに外に出た。その建物の前は少しばかりの広場となっており、その向こうに木立があった。イェースズとニカプがその木の近くまで来ると、木の枝が風もないのにゆれてざわめきだした。イェースズは立ち止まって、それを見上げた。
「どうして枝が?」
と、不思議そうな顔をしたのはニカプの方だった。イェースズは落ち着いている。すると目の前の二本の木の幹が大きな音とともに折れて、木全体がばさっと倒れた。根元からそれは、完全に切断されていた。
かなり太い幹だったが、木の下ではその木を切ったような人は見当たらない。イェースズならこんなにも離れた距離でも同じことをするのは簡単だが、今はイェースズは何もしていない。ニカプはおびえきっている。かといって、この状況は決して自然現象ではない。何かしらの霊的な作用が、折れて倒れた木に及んだのは確かだ。
イェースズは霊の眼を開いた。霊的な力がこの広場全体に漂っているのは感じる。しかし、そのことよりもまず、石神を祭る山に行くのが先決だとイェースズは思った。
恐怖におびえているニカプをやさしく促し、とにかく霊的束縛がかかっているこの広場を出た。あとはニカプの道案内で、目的の山へとイェースズは向かった。
山はこの集落を四方から取り囲んでいる丘陵地帯とは独立していて、きれいな円錐形の山だった。こういった形の山は、イェースズの経験上たいていが日来神堂であることが多い。特にこの島国ではそうである。
果たして近づくにつれてかなりの霊気をイェースズは感じた。かつてピダマの国あたりでは本来聖域である日来神堂が祟りの山になっていたりうち捨てられていたりしたが、ここではこうして日来神堂としてちゃんと信仰の山になっている。
木々に覆われた山肌には。まっすぐに頂上に向かう細い石段がよく整備されていた。
頂上はすぐだった。わずかばかりのスペースに神殿らしきものがこぢんまりと見えたが、これまで見てきたどの神殿とも違って、柱で櫓を組んでいるだけのごく簡単なものだった。それよりもイェースズの眼を引いたのは、その神殿を中心として同心円を描くように、幾重にも並べられている列石だった。一つ一つの石は小さいが、並べられている様子は見事な円形で、これでこの山が日来神堂たるべき要件のひとつが備わった。あとは、東西南北を示す太陽石があればよい。
果たして近寄ってみると、中央の木組みの神殿の祭壇の上にそれらしきものが乗っている。それが御神体なのだろうかとイェースズはさらに上を見て、そして驚いた。
太い柱が三本直立した上のもうひとつの祭壇の上に、二つの石が安置されていた。向かって右はそそり立つ男根、右は女陰を明らかにかたどった石だった。
「あれは……」
イェースズは思わずそれを指さし、ニカプを見た。
「あの祭壇はヌサといいます。下の方の石はイシカカカムイ、つまり太陽の神の御神体です」
そうなると、確かにあの石は太陽石だ。
「上の方のは左がカモカムイ、右はイベカムイで、互いに相反する陽と陰なんです。その二つを合わせてホノリのカムイ、つまり母なる大地の神となります」
イェースズはうなずいた。単なる未開民族の土着信仰と馬鹿にできない要素がある。むしろ哲学化、観念化してしまったこの時代のブッダ・サンガーの教えやバラモン、そしてユダヤの教えよりもずっとましで、その素朴さは神理に近いとイェースズは感じた。
「あれが大地の神なら、大宇宙の主催神も祀る所があるんですか?」
「さあ、そこまでだいそれたことは、私たちには分かりません。ただ、私たちはこの二柱の神の結合として成りませるアラハバキの神を戴く民なのです」
これらの神々の御名も、空想の産物とは言いきれまい。実在する御神霊の別名なのだろうと、イェースズは思っていた。ニカプはさらに言葉を続けた。
「私たち人間の運命は、ダミのカムイが握っておられます。人は死して後、その魂はダミのカムイによって生々流転して生まれ変わってきます」
この民族は、すでに輪廻転生のことまで知っている。
「そしてアラハバキの眷属の神としては海の神のツボカムイ、衣の神のドギカムイ、飢えの神のセモチカムイ、住居の神のコタンカムイ、山の神のアソベカムイ、農耕の神のオヤゲカムイ、戦の神のシャーマンカムイ、薬の神のシラクカムイなどがいらっしゃいます」
延々とニカプの説明が続いている間に、彼女の後ろに一人の老人がニコニコして立っていた。それに気づいたニカプは言葉をとめて、老人に微笑みかけてからイェースズを見た。
「この方が、この山で神々を祭祀されている神官です」
イェースズは慌てて頭を下げた。神官はニコニコ顔のまま、何かひとことふたこと言った。そこでイェースズは、来意を告げるべく口を開いた。
「あの、私は五百年前にこの国に来たはずのゴータマ・シッタルダーという方の足跡をたどってここまで来たものです。それについて、何かご存じありませんか?」
ニカプの通訳を聞いても、老神官はニコニコしたまま首をかしげるだけだった。
「五百年も前かね」
ニカプの通訳よりも前に、イェースズは相手の老人の想念を読み取った。
「あるいはブッダとも釈尊ともいいますが」
「その頃といったら、このあたりにはアソベの民がいた。狩猟生活だけの民でな、アソベとは山という意味だ。カムイの降り遊ぶ所だから山なのだ」
そういえば、プジの山のふもとで見た古文献には、プジの山の別名をアソの山ともいうと書かれていた。アソとは天祖という言霊のようだ。
「アソベの民は山の民で、そこへ西の海の向こうからツボケの民がやってきた。ツボは海だから彼らは海の民で、海で魚貝を採っておった」
これもプジの山のふもとで聞いたオポヤマツミとオポワダツミという二つの、山と海の民のことと重なる。
「そしてさらに西より稲作、農耕を伝えた民が来て、それまでのアソベとツボケの民の戦いを収めて、ここにアラハバキ族が誕生したのじゃ」
しかしイェースズが聞きたいのはそのようなこの民族の歴史などではなく、ゴータマ・ブッダという一人の人のことだ。イェースズはもう一度、そのことを聞いてみた。
「知らないのう」
あまりにもあっさりと言われてしまったので、イェースズは引き下がるしかなかった。そして、ニカプを見た。
「申し訳ないが、私は出発します」
「え? もうですか?」
「あなたには感謝しています。いろいろとどうもありがとう」
相手の言うことは想念をよみとれば分かっても、こちらの言いたいことはたとえ想念を送ってもそれを読み取れる人は現界にはいない。だから、ニカプの通訳は助かった。
「本当に、ありがとう。酋長さんには、よろしく伝えておいてください」
それだけ言うと、イェースズは村には帰らずに、まっすぐと北に向かった。
盆地が切れて、イェースズは峠道にさしかかった。どちらを見ても木が生い茂る山で、進むうちにどんどんと山奥へと道は入っていった。
一陣の風が、さっと吹いた。
その時イェースズがはっと上を見あげると、巨大な岩が地響きとともに彼めがけて転がり落ちてきていた。イェースズは身をかわそうと走ったが、なんと岩はまっすぐに落ちずに自分を追ってくる。
これで、自然の落石ではないことは明らかになったが、ただ誰かが上で落としたというだけのことでもなさそうだ。それならば、たとえ故意に落とした岩でも、落とした人の手を離れた瞬間に自然の落下を始めるはずだ。
今のは自然の落下ではない。明らかに超常的な力が加わっていた。イェースズは自分の年動力を、岩に向かって放った。だが、それさえも跳ね返されてしまった。
そこでイェースズは全宇宙の意識と波調を合わせ、強い想念波動を送った。それでやっと、岩は粉々に砕けた。
息をつく暇もなく、今度は周りの木々がイェースズめがけて一斉に倒れこんできた。いちいちそれをかわしながら、イェースズは空中に向かって手のひらを向け、霊流を発した。悪霊の仕業かとも思ったからだ。だが、どうも違うようだ。霊視しても魑魅魍魎の姿は見えない。
だが、自分のちょっと上の木立の中あたりに、かなりのエネルギー体の存在をイェースズは感じた。そこでそちらへと、イェースズは手のひらの向きを変えてみた。
とたんに茂みがざわついて、一人の人間が、イェースズの目の前に転がり落ちてきた。しかもそれは、まだ十歳にもなっていないだろうと思われる子供だった。服装から、ニカプたちと同じ民族らしい。一度は尻餅をついたものの、子供は立ち上がって何か叫んで尻をはたいた。「痛い!」とでも言ったようだ。
ところがその少年は、すぐに消えた。そして近くの木の枝の上から、イェースズを見下ろして笑っていた。
「君は誰かね? 降りておいで」
イェースズがそう呼びかけても、少年は消えては別の木上からイェースズを見て声を出して笑っている。
「何で、そんなことするんだ?」
また、同じことが何度か繰り返された。こんな力を持ってはいても、ちゃんと肉身を持った人間の子供のようだ。その子供が現れる木の枝が、だんだんとイェースズから遠ざかっていった。
そこでイェースズは自らの肉体をエクトプラズマ化させ、高次元へ滑り込んだ。少年の瞬間遠隔異動の原理を、イェースズなら熟知している。高次元で少年を捕まえて、すぐに三次元界に引きずり込んだ。まだ少年はイェースズの胸を抜けようとしたが、その霊力はイェースズがすでに封じ込めてしまっている。
――君は何ものかね?
イェースズは想念で語りかけた。肉声で語っても、言葉が通じないだろうと思ったからだ。
――見ての通りの小僧さ。
想念が返ってきた。イェースズの想念が通じたことになる。少年にはそれが感受できたようだ。そこでイェースズは肉声で、彼らがいう「ヤマト」の言葉でしゃべった。言葉が通じなくても、互いに想念を読み取れば会話はできるはずだ。
「どうして、あんな力があるんだい?」
「知らないよ」
少年も自分の民族の言葉でしゃべったが、イェースズもまた想念を読み取って理解した。
「ある日突然、強く念じるとその通りになるようになったんだ」
似ている、とイェースズは思った。自分の少年時代もちょうど同じように、自分に霊力があると分かったのは突然だった。
「なぜ、私にあんなことをしたのかい?」
「あんた、コタンに来た時からずっと見てたけど、あんた、普通じゃないね。ただものじゃあない。すごい人が来ちゃったなあって、すぐに分かったんだ」
「それで?」
「でも、癪に障ったから、おいらの力とどっちがすごいか試してみたかったんだ」
「そうかい。その気持ちは分かるけど、力があっても立派な人とは限らない。それに、試すというのはよくないと思うな」
イェースズは説教調ではなくやさしく諭すように言ったので、少年も少しは心が開いたようだった。だからイェースズは、少年を捕らえていた手を離した。少年は道に座り込んだ。イェースズもその前にしゃがみこんだ。少年は下を向いて、小石を軽く投げた。
「悔しい。おいらの力を打ち破ったのは、あんたが初めてだ。特に隠れていたおいらにあんたが手のひらを向けた時、すごい光がそこから飛び出てきて、おいら、頭がくらっとなった。あんなこと、おいらにはできねえ」
「私もちょうど君と同じ頃、いや、もっと小さかったかな、そんな時にある日突然に不思議な力がわいたんだ。それでけんか仲間をやっつけたりもしたさ。だけど、この力が自分のものじゃあないって分かった時、世のため人のために使うべきなんだって分かったんだよ」
「自分の力じゃないって?」
「そう。私の力も、そして君の力もね」
「違う! これはおいらの力だ!」
本当に自分の少年時代に似ていると、イェースズは感嘆した。そしてこの少年に、少なからぬ因縁を覚えた。この少年との出会いは、決して偶然ではないことをイェースズは知っている。霊的因縁まで、今のイェースズにはあからさまに見ることができるのだ。
「君のコタンには、君と同じような力を使える人がいるのかい?」
「いねえ。おいら一人だ。でも、隣のコタンに、一人いるよ。そいつとおいらと二人だけだ。知ってる限りではね」
「ほかの人には、そんな力はないんだね」
「ねえ」
「いいかい。君もほかの人も同じ体を持っているだろう。手が二本あって、足も二本あってね。だから、もし君の力が自分の力だって言うんなら、ほかの人にもみんな同じ力があるはずじゃないか。それなのに、力があるのは君ともう一人だけだろう?」
少年は、何も答えられずにいた。
「君の力はね、私の力もそうだけど、神様が何かお考えがあって特別に下さった力なんだ。だから、神様のお力であって、自分の力ではなんだ」
「特別に? おいらに? カムイが? 何で?」
「それは、私には分からないよ。本来人間はみんなすごい霊力を持っているはずなんだけど、肉体に閉じ込められると普通はそれが発揮できなくなる。特に、現代ではね。それが肉体の中にいながらにして霊的な力が使えるというのは、それはもう自分の力ではなくって神様のお力だ。だから、君は今どうしてと聞いたけど、どうしてなのかそれは私には分からない。どうしてそんな力を神様がお与え下さったのか、君自身が自分でそのあたりを読み取ることが大事だ」
少年は、しばらく考え込んでいた。
「分かんねえ。何でだろう」
そして急にぱっと姿勢を正し、少年はイェースズに向かって座って地に手を着いた。
「おいらを弟子にしてくれ。もっといろいろ教えてくれ。あんたに、いや先生についていけば、何か分かるかもしんねえ」
イェースズは当惑した。自分を慕ってきた人が、一村を形成してしまったこともあった。しかし、その中から誰も、彼は自分の弟子にしようとは思わなかった。そのような存在を、彼は今まで持ったこともない。あのハタ人の村でも、自分を慕ってきた人々は自分を治療師か生き神様くらいにしか思っていなかった。
だが、少年の目を見た時、ス直さで燃えていた。だから、イェースズも成り行きにス直になろうと思った。出会うべくして出会った少年である。この場で別れてもいいはずの浅い因縁ではない。
「まあ、立ちなさい」
イェースズもゆっくり立ち上がり、少年を優しく引き起こした。そして微笑んで言った。
「私は弟子を持つようなものじゃあない。それに、私についてくれば救われるというのも間違いだよ。私は何も教えてあげることはできない。君が与えられた自力でもって他力をサトるしかないんだ。自分の足で歩いていくんなら、一緒に歩いていこう」
「はい」
少年はにっこり笑った。
二人は、連れ立って歩きはじめた。少年は自分の名を「ヌプ」と名乗った。ヌプとはあれだと少年が指さした先には、山があった。ヌプとは、山という意味らしい。そのヌプの方から、イェースズにある話題を持ちかけた。
「さっき山の上で、ゴータマ何とかという人のお墓を探してるっていってたね」
「そうなんだ」
「ここからずっと北の方に、夏の間だけ真夜中に小さな光が現れる山があるんだ。昔、西の国の偉い人が来て、その山で亡くなったので、その人のお墓なんだって」
「え?」
イェースズはびっくりして、喜びを顔中に現した。
「そこへ、連れて行ってくれないか?」
「いいよ。ここから見れば、おいらの村もその方角さ」
その後、二人は多くは語らなかった。なにしろ肉声の言葉は互いに通じないので想念を読み取って会話しているのだが、それはかなり霊力を使うので、長く語り合っていると疲れてしまうのだ。
その日のうちの峠を越えて平地に出て、そこで野宿だった。イェースズはまず、少年ヌプの民族の言葉を覚えようとした。それで肉声でしゃべれるし、この国のほかの人との会話もできるようになる。それには、逆にヌプがイェースズにとってはよい教師だった。




