アプリの社(やしろ)
その日はやけに、霧が濃かった。アプリの山のふもとまでは、朝にハタ人の村を出発し、歩いても翌日の昼過ぎにはたどり着いた。
しかし山に登り始めると、傾斜が急になるにつれて次第に空気もひんやりとしてきた。所々にある雑木林の間からアプリの山を仰ぎ見ると、なるほどここもまた霊山らしい雰囲気が漂っていた。
あのプジの山のような天を突く山ではないが、オミジン山などよりかはかなり高い本格的な山だ。山の上の方を隠している雲は紫色にたなびいており、山頂はその紫雲の上だった。イェースズはその雲の中に向かって、ゆっくりと登っていった。
最初は小川沿いに坂道を登っていたが、やがて岩の中から小さな滝が落ちている小川の水源まで来た頃から、本格的な山登りになってきた。
針葉樹の樹林で覆われた傾斜はかなり急で、所々に岩が露出していた。うっすらと立ち込めていた霧がどんどん濃くなり、当たりの見通しもきかなくなってきた。もうかなり登っただろうと思って下を見ても、下界は白く霞んで全く見えない。
単独の山ではなく尾根が幾重にも連なっている。もうだいぶ登ってきたと思ったが、頂上はまだ上のようだった。イェースズの呼吸も乱れてきた。
だが一心不乱に頂上目指してイェースズは登っていったが、どうも人間の視線を感じるようになった。視線というより、正確には彼は人が放つオーラを知覚できるのである。
だが歩みを止めてあたりを見回しても、誰も見えなかった。それでも、誰か人がいるのは間違いなかった。それも一人や二人ではなく、大勢のようだった。しかし今は、とにかく登ることしかイェースズにできることはなかった。
やがて、頂上はまだ上らしいが、ある程度平らな場所へ出くわした。そこに神殿があった。イェースズは驚きと喜びで、その神殿の前まで駆けていった。霧の中にひっそりとたたずむ神殿は小さくはなかったが、さほど巨大であるというわけでもなかった。
ただ、この国で今まで見てきた神殿と違うのは、素材は白木ではなくすべて朱色に彩色が施されていたことだった。
とにかくイェースズはその前に額ずき、柏手を打った。そうして参拝できたことに感謝をする祈りをささげている間中、背後の人の気配はますます強くなった。
イェースズは思わず立ち上がった。霧の中に黒い人影が、二人、三人と見えてきた。
「どなたですか」
とイェースズが問いかけても返事はないまま、段々と人影はその姿をはっきりと表してきた。
彼等は白い絹ではなく黒っぽい獣の皮衣を着ていた。伸び放題の髪は紋様の入った鉢巻きでしめられ、目つきは鋭かった。その鋭い目つきで、じーっとイェースズをにらんでいる。やがてその中の一人が、イェースズのすぐそばまで来た。
「おまえこそ何者だ。見るとハタ族の者のようだが」
「私はハタ族ではありません。西の果ての国から来ました」
そう言いながら目の前の人々を観察すると、その顔はユダヤ人の顔ではなかった。
「あのう、このお社の神様は、どんな神様なのですか?」
「そんなことは知らん。それより吾等オポヤマツミ一族の本拠地であるこの山に一人で勝手に登ってくるとはいい度胸だ。しかし、冒険もここまでだな。とっとと降りろ!」
ものすごい剣幕だった。
「いえ、降りるわけにはいきません」
そのイェースズの言葉がまるで合図であるかのように、人々は一斉にイェースズに飛びかかった。
その時、社殿の上とさらに上へと続く峰の間から閃光が放たれた。
光状はタテヨコ十字の形となり、その交わる部分は丸く光を放っている。イェースズに襲いかかってきた人々は、あまりのまぶしさにその場に倒れこんだ。
ただイェースズ一人だけが閃光を直視し、すべてがまぶしいほどに照らし出されている中に立っていた。
――汝、ユダの子よ。
光の中に声があった。いつもの心に直接響く声だ。
ユダの子と聞いて、イェースズは故国に残してきた弟のユダのことを一瞬考えたが、弟の子と呼ばれるのもおかしな話だし、すぐにイェースズはそれはユダヤ十二支族のうちのユダ族のことだと理解した。確かに彼は、ユダ族の出である。
――汝ユダの子、人類を救うものよ。
今さらながらに気がついたが、いつもの心に響く声がこの国の言葉であるのに対し、今回の荘厳な声はヘブライ語であった。アラム語でもなく、ヘブライ語なのである。その時あたりは、もはや光のほかは何も見えなくなっていた。
――このみ社の神は火の神で、アフリカを統べ開き給いし太古スメラ家の皇子よ。されど、ここは仮の社で、元つ社は水神に隠されおるなり。行け。行ってその元を正せ。さもないと、霊島が危ふきなり。
「元つ社って、どこにあるのですか?」
――この山の上より晴れておれば見ゆ。海を東へと渡れ。
「あの、あなた様は?」
――我はエフライムの父。ハタ人はエフライムの子よ。
光は消えた。そしてもとの静寂さが戻った。イェースズを襲おうとした人々は、まだ地に伏したままだった。恐怖のあまりおびえきっているようだ。
何か重大なことを聞かされたような気がしたイェースズは、一目散に山を降りた。そしてひとまずハタ人の村に帰り、村長に海を渡る決意を述べた。ただその理由は、「何となく」としか言わなかった。
「東といっても、ここから東はずっと陸地だ。海は南の方に広がっている」
「でも、海岸沿いにでも、東へ行ってみたいんです」
イェースズの強い語気に、村長はほんのわずかに目を伏せた。
「舟を手配しよう」
「有り難うございます」
それだけで、イェースズの顔は輝くのだった。
イェースズは一度アプリ山のふもとまで行き、そこから南下して海に出た。
海辺は夏の名残が残っているかのような風が吹いており、まぶしい風景にイェースズは目を細めた。
右手の方は海岸が湾曲し、海に突き出た大きな半島となっている。その上には青く霞む山が連なっており、薄い水色のべた塗りのようにしか見えない。
左もまた海外線は海へと湾曲して半島となっているが、こちらは小さく、緑の木々が繁る山が認められる。こうして見ると、この国は実に海の際まで丘陵で、平地は海岸沿いに申し訳程度にあるだけのようだ。島全体が山なのである。
この海はオミジン山の近くの海とはこの島国の反対側の海のようで、どこか優しく感じられた。オミジン山近くの海の向こうはシムの国であることは分かっているが、この海の向こうは分からない。
まだ大地が球であることを知らなかった頃のイェースズなら、この海の向こうは世界の果ての断崖だと思ったであろう。この海こそ、その底に母なる国無有が沈んでいる大洋なのだ。それを今包みこんでいる海のやさしさは、母の優しさかもしれない。
振り返ると、世界の真中心の誇りとともにプジの高嶺が威容をもって、海岸の松原を見下ろしている。
イェースズはハタ人の村長が手配してくれた舟で、沖へ出た。一人乗れば満員の小さな舟だ。舟が沖へ出ると、海岸に横たわる緑の松原、その上にさらに横たわる低い丘陵地帯、それらすべてを従えてどっしりと腰を据えるプジの山とその白い煙……それらの風景が一度に視界に入ってきた。
舟はどんどん沖へ出るので南へと進んでいるはずだが、どうも潮の流れで東に流されているようだった。プジの位置の変化から、そのことは容易に分かった。
それでいいのだと、彼は思った。自分は海を東へと渡らねばならないのだ。今こうして東へと流されているのも絶大なる神のみ仕組みで、絶対なる目に見えない力がこの舟を引っ張っていってくれているのだと彼は確信していた。
東へ流されればやがて半島にぶつかるが、この半島が海を東に渡った所とは思えなかった。それならわざわざ舟で海を渡る必要もなく、海岸線沿いに歩いてきた方が手っ取り早いはずだ。
そこでイェースズは舵を操作して、半島沿いに南下した。この半島の上に高い山は見られなかったが、海岸線はすべて黄色い断崖の上に緑が覆いかぶさる形で続いていた。
海の色はどこまでも濃い深い緑で、その海も断崖の下では白いしぶきとなって砕け散っている。
そして半日もたたないうちに、半島の先端の岬を回った。先端には大きな島が、岬とは細長い水路で隔てられてついていた。
岬の先の島を回るのに、時間はかからなかった。そしてそこにはまた、別の風景が展開されていた。岬の先端から東の方は、海の向こうに陸地が横たわっていたのである。距離はさほど遠くない。多くの低い丘陵を乗せたその陸地が半島なのか巨大な島なのか、あるいはこの先ずっと陸地が続くのかイェースズには分からなかった。
右手の方、南へと続く陸地はその先が霞んでいてよく見えない。左手の方は今回ってきた半島と目の前の陸地の間に海が続き、右も左も彼方は水平線だった。
潮の流れが速いのか舟はみるみる東進して、海峡の向こうの陸地に近づいていった。これこそ東へ海を渡った土地に違いない。
目の前には、ひときわ奇妙な形の小高い山も見える。この国のなだらかな斜面の山を見慣れていたイェースズにとって、大陸ではいくらでもあった垂直にそそり立つ山が珍しくさえ感じられた。
イェースズが一夜を明かしたのは、その山のふもとだった。そして朝とともにイェースズは、その山に登った。山の北側はそそり立つ絶壁で登るのは大変なようだったが、南側はなだらかとはいえないまでも比較的登りやすい形状であった。頂上から眼下に見下ろされる海峡は、昨日小舟で渡ってきた海峡だ。
海は穏やかで、水平線さえ見ないようにすればまるで湖のように感じられる。山の頂上に立ち、イェースズは周りを見渡した。すべてが明るく輝く陽ざしの中にあったが、空の三分の一ほどは雲が覆っていた。海峡の反対側は低い丘陵地帯で、この山もそれほど高い山ではないのに、今の自分よりも高い位置に存在するものは太陽と雲だけのようであった。
プジの山でさえ、遠くに小さく見える。プジは遠くから見るとまた、つくづくときれいな三角形の山だと実感できた。海の反対側の丘陵地帯は大地の皺のように何重にも襞を見せていたが、このどこかに自分が探すべきアプリの元つ社があるはずと、イェースズは大きく息を吸った。
だが、この広大なパノラマの中から一点の目的地を探し当てるのは、至難の業のようにも思えた。そこでイェースズは、絶景に向かって祈りをはじめた。祈れば何とかなるという安易な心を持っていたわけでは決してなく、自分の力の限界を感じたときにス直に「神」におすがりするという心があっただけである。それだけすでに彼は「神」と一体となっていたし、また「神」は彼の中に境界なく内在していたともいえた。
ずいぶん長い間思念を凝集し、自分の行くべき先を示し給えとという強い波動を神界にまで送ろうとしていたイェースズは、やがてすくっと立ち上がった。丘陵の遥か向こうの一角が、ぴかりと光ったのである。
あそこだ!と、イェースズは深々と神に感謝した。自分の祈りが聞きいれられたことがただただ嬉しくもったいなく、涙が溢れてきた。
それから山を降りたものの、山頂で見た方向感覚は下界ではあやふやなものだった。そこで大体の方向に見当をつけ、イェースズは樹木の繁る丘陵地帯へと足を踏み入れていった。
所々に集落はあったが、もはや水田は見られなかった。このあたりの人々は、皮衣を着た狩猟生活の人々らしい。この国の文化は、狩猟と農耕がちょうど並存しているのだと感じられた。それは狩猟から農耕への過渡期にあるようでもあった。
狩猟文化圏にはユダヤの匂いは全く存在せず、だからどの集落でも人々はイェースズに無関心だった。
朝晩はだいぶ涼しくなったとはいえ、日中はまだ陽ざしは強かった。気温はさほど高くはないのだが、この島国特有の湿気の多さには時に閉口する。今ではだいぶ慣れたが、大陸の乾いた空気の中を旅して来たイェースズにとって、この国に来たばかりの頃にはそれがいちばんつらかった。
そうして次の日にイェースズは社を見た。社は丘の上にあり、そのふもとには集落があった。その集落に、イェースズは入った。
アプリの元つ社を探す以上、すべての社は調べてみなければならない。
それまでも集落のそばに祭祀場のような場所はあったが社殿はなく、多くは森林の中でいくつかの巨石の群れを縄で囲った磐座であった。そういった自然の祭祀場の方が圧倒的に多い
今回見つけた社の下の集落では竪穴式のわらの小屋のそばの小川で、中年女が四、五人、縄目の紋様の入った土器を洗っていた。彼女らはイェースズが近づくとふと手を止めて見上げたが、すぐに元の作業に入っていた。
「何か変な顔の人が来たね」
などと、お互いに言いあっている。そこでイェースズは、彼女等に声をかけた。
「あのう、あの丘の上の御神殿は?」
女の一人が、イェースズの指さした方をちらりと見た。
「ありゃ、アブリの神様じゃ」
「え?」
イェースズの驚愕をよそに、女たちはもう土器を洗いはじめている。イェースズは丘に向かって、一目散に走った。ふもとから社殿までは、長い石段となっていた。それをもイェースズは一気に駆け上がった。
社殿の前に出た。そしてイェースズは、膝を折って崩れた。
これは違う! それが、社を一目見た時のイェースズの直勘だった。大きくはないが、素材の美しい立派な社殿だった。しかし屋根には一面にカラスがとまり、イェースズが近づいても飛び立とうともしない。そして社殿からは、何の霊光も霊圧も感じられなかった。本当に御神霊が鎮座ましましているのかも不安になる。
石段を降りるイェースズの足は、力がなかった。さっきの女たちはまだ小川のほとりにいて作業を続けており、イェースズの会釈をしてのあいさつも無視された。仕方なく彼はまた、東へ向かってとぼとぼ歩きだした。
やがて日も西に傾きかけ、ちょうどその時に丘の谷間の狭い草原に出くわしたので、イェースズは夕餉に兎一羽を捕らえて焼いて食し、そこで野宿することにした。
翌朝、目が覚めたイェースズは、慌てて跳び起きた。まだ明けやらぬ東の方の空の一角が、光ったような気がしたからだ。しかもその光はアプリ山で見た、あの丸に十文字の閃光を小さくしたもののように感じられた。しかし次の瞬間には、周りはまた朝靄へと変わっていた。
とにかくイェースズは、その方角に進んでみることにした。そしてまた一日ほど進み、丘陵の間の盆地の中にぽつんと盛り上がっている丘の前に出た。そこでイェースズは立ち止まり、その丘をじっと見た。霊気を感じるのだ。しかも、いい霊気ではない。霊界において地獄という世界を訪れた時の気味悪さと同種で、どうもそれは邪気を含んだ霊気のようだった。
そんな霊気の中で、イェースズはアプリ山でオポヤマツミ一族と名乗るものたちから襲撃されそうになった時のことを思い出した。こんな気味が悪い山は早く通り過ぎようと、イェースズは歩を進めた。
しかし、虫が騒ぐ。このまま行きすぎてはいけないという内面の声まで聞こえてきたりする。そして、あの異常な邪気を前に、ここで自分がなすべきことがあるのではないかと思い直して彼は歩を止めた。
その時、一人の村の老人と行き違った。その老人はすれ違い際に
「どこへ行きなさる?」
と、イェースズに聞いてきた。
「あの丘の上に行ってみようと思いまして」
「やめなさい、やめなさい。あの丘に入れば祟りがある。我われは誰も、あの丘には入らねえだ」
村人の口調は、かなり慌てたものだった。
「有り難う。大丈夫です」
イェースズはにっこり笑い、また丘の方へ歩きだした。あの村人の慌てようといい、ますますただの丘ではなさそうだった。
丘の登り道は最初は楽だったが、次第に胸の苦しさを覚えるようになった。肉眼で見る空こそ晴れているが、まるで灰色の雲が立ち込めているような妖気を彼はひしひしと感じていた。
やがて道は上り坂となり、木の根などでできた自然の階段を、イェースズは両手も両足をも駆使して這いつくばるようにして登った。しかし、何かが自分の来訪を拒否いているという感覚が、まとわりついて離れなかった。
高い丘ではないので、すぐに頂上に出た。そこに朽ち果てた社があった。屋根も崩れ、柱も腐っている。その近くへイェースズは行こうとしたが、すごい力で押し返されるような感じで、近づくこともできなかった。社の回りは背の高い杉が林立し、昼でも暗いトンネルのようになっていた。あまりの暗さに、背筋に寒気が走るほどだった。
肉眼では見えない灰色の雲は、ますますその濃さを増してくる。
イェースズは肉眼の目を閉じた。そして霊の目を開くと、肉眼では見えないものが見えてきた。それは跋扈するおびただしい量の魑魅魍魎であった。グロテスクなその形相は、まさしく地獄の霊以外の何ものでもなかった。これが邪気の正体だったのだ。
イェースズは、もはや後には引けなかった。今来た道を戻って逃げるのも不可能だ。後ろもすでに、邪霊たちにふさがれている。怨念の嵐のような耳元まで裂けた口、つり上がった眼の異形の怪物たちは、すでにイェースズを十重二十重に取り囲んで荒々しい炎のような憎悪の波動とともに襲いかかろうとしている。
イェースズはまずそういった連中にも、対立の想念を持たないようにした。あくまで温かい愛と光の想念波動を送り、それから地獄での体験を思い出していた。霊界の太陽の霊流を送れば、彼等は苦しがるだろうがそれが究極的に彼等を浄めて、彼等の救いになるはずだ。魑魅魍魎とて、本来は神の子なのである。
しかし彼等に、直接手を置くことは不可能だった。そこで地獄でしたように、迫り来る彼等に空中越しに手のひらを向けた。想念によって霊流は手のひらから飛び出し、光の束となって空中を魍魎たちに向かって飛んでいった。
あたりの闇が割かれ、パッと黄金色に輝いた。超高次元のパワーを、イェースズは今放射していた。自分が宇宙と一体であるという強い認識とともに、霊流は宇宙から直接イェースズの体内に飛び込み、霊細胞を伝わって手から放射される。魍魎たちはあるいはもだえ、アガキ、あるいは苦しがってたちどころに退散し、二度と戻ってこなかった。
風景が元に戻った。周りの杉の枝が、風もないののい激しく揺れていた。
イェースズはゆっくりと肉眼を開き、社殿を見た。そしてそのまま社殿の前の広場に向かって、空中に手をかざし続けた。灰色の雲も霧散し、明るい陽光が降り注いできた。また、社殿にも手をかざすと、社殿の中からまばゆいほどの黄金の光が発せられ、灰色の雲に変わって紫雲がたなびきはじめた。
イェースズは、思わずおおと声をあげていた。だが、肉眼で見る社殿は朽ち果てたままだ。そこでイェースズは、赤池のお堂で鍛練した力をもって、思念を凝集した。そのパワーはエクトプラズマの波となって社殿に飛んでいき、あっという間に社殿は元の新築同様に復元された。
柱も壁も朱に塗られた、決して大きくはないが荘厳な社だった。屋根の上の鰹木は七本あった。社殿はどんどん霊光を放ちはじめ、清浄な霊圧となってイェースズの体を包んだ。イェースズは、社殿の前の地に伏した。これこそ間違いなく、アプリの元つ社だった。そして黄金の光の中にアラベスクを彼は見た。それは幼い頃を過ごしたエジプトの風景だった。
参拝が終わってから社殿の裏に行ってみると、そこはスロープ状の崖になっていた。ここから見る遠くの景色も丘陵が幾重にも重なり、平らなスペースは、この丘の下のわずかな谷間だけだった。今やどの山も全体が、黄色に色づいていた。
社殿を背に反対側に目をやると、少し離れた所に海が見えた。ここまで渡って来た海峡とは反対側の方角なので、やはりここは大きな島かあるいは半島であることを、彼は確信した。
イェースズはその海を見ながら、とりあえずはハタ人の村に帰ろうと思った。
ハタ人の村に帰るとイェースズは、最初に村長の老人のもとへ帰還報告へと出向いた。しかし村の中を歩きながら、どうも様子がおかしいと彼は思った。こんなに人が多かっただろうかと思ったのである。
そして気づいたことに、絹ではない獣の皮衣を着て顔もユダヤ人ではあり得ない人々が多数、村の中を歩いていたのだ。
しかも、それがどうも最初に行ったこの近くのアプリ山の社殿の前で自分を襲ってきた、オポヤマツミ族と称する山の民のようないでたちなのだ。イェースズはわけが分からなくなって、とにかく村長の所へと急いだ。
「おお、帰ってきたか」
村長は首だけイェースズの方へ向け、時間をかけてから上半身を起こした。
「目的の場所には着けたのかね」
「はい。お蔭様で。有り難うございました」
その時、部屋にぬっと入ってきたものがいた。頑丈な体格の男で、皮衣を着ている。その顔を見てイェースズは息をのんだ。向こうも、イェースズを見て驚いていた。それは間違いなく、アプリ山の社殿の前で襲いかかってきた男だった。ところが男は、
「あの時は失礼した」
と、イェースズに丁寧に頭を下げた。
「このお方は」
と、村長が寝台の上から口を開いた。
「オポヤマツミ族の族長の方で、ここで一緒に住んでもらっておる」
「我われの部族では、村長とはいわずにムレコカミといいます」
呆然としているイェースズを、ハタ人の村長は見た。
「突然変異が起こってな、これまでアプリの山に籠もって我われハタ人を頑なに拒んでいた山の民が、急に山を降りはじめたのだ。こうしてこの村の人も、自由にアプリ山へ行かれるようになったし、ようやくアプリ山の社殿に参拝できるようになった」
村長の説明を、ムレコカミといった男が受けて続けた。
「今までがどうかしていたとしか言えない。これまではムラコの全員が何かにとり憑かれていたようにひたすらあなたがた天孫族を憎み、一歩も山に入れませんでした」
「天孫族?」
やっと一言だけ、イェースズは口を開いた。
「この山の民の方々は、我われハタ人を天孫族と呼ぶんじゃ」
ムレコカミに代わって村長がそう説明した。さらにムレコカミが言葉を続けた。
「二、三日前に、我われは憑きものが落ちたように、この天孫族の村にトケコミするべきだという声が聞こえたのです」
「声?」
「我われはずっと、あのアプリやまのお社は、我われ山の民の守護神であるオポヤマツミの神の御神殿だと思っていたのです。だから、天孫族を拒んできたのです。オポヤマツミの神はプジの山に鎮座まします御神霊のコノパナサクヤピメの父神にてあらせられます。しかしここ最近、先ほども言いました声が、あの社に神様は本当はもっとすごい神様なのだというのです」
「その声とは……?」
「はい、エプライムの父というふうに言われておりました」
イェースズは、すべてが納得がいった。二、三日前と言えば、自分がアプリの元つ社で、悪霊を退散させたときと一致する。やはりそこは元つ社で、山の民が何ものかに取り憑かれていたのも、元つ社が邪霊に封印されていたからだったのだ。
その元つ社の邪霊の封印がとかれた今、霊界現象が現界に反映して物質化し、山の民の改心となったのだろう。やはり何から何まで、霊が主体なのだ。
イェースズはそこで、再びアプリ山に言ってみたいと思った。ムレコカミが、それに同伴してくれることになった。
この日は霧もなく、山全体が明るく感じられた。元つ社の方はひと息で登れるような丘の上だったが、ここはちょっとした山だ。その山肌には、前に来たときは霧でよく見えなかったが人家が点在していた。しかし、ふもとにあるような竪穴式住居ではなく、それよりもっと簡素な、イェースズの故国の羊飼いのテントのようなものだった。筵を二枚屋根型に組み合わせただけのもので、人二人が寝ると満員になる。
「あれは我われ一族のセブリですよ」
前を進むムレコカミは、振り向きもせずに説明した。
「あれが我われ一族の住居です。もっともこれはテンパモンのセブリでね、イツキになるともう少しはましですよ」
どうもこの民だけの特殊な用語が多く、イェースズは理解するのに少し苦労した。
「アマサカリピムカツピメのスメラミコト様の御時、それまで穴に住んでいた地の民をあない払いといって地上に引き出し。セブリ、タツキのムナパリにさせられたんですよ」
だがイェースズは霊勘を働かせると、テンパモンとは移動民のようで、だからこんな簡単に運搬できる家なのだろう。それに対するイツキとは、定住者のことのようだ。
「それでも私がトケコミをすると言ったとき、ユサパリの多くのものは、テンパして行ってしまったのです」
そんなことを話しているうちに、社殿の前に出た。
ここからは海もよく見える。そして海の彼方にうっすらと横たわっているのは、イェースズが行ってきた元つ社のある半島らしい。海と反対側はプジの山が一望だ。イェースズはあらためて、社殿に参拝した。社殿は、心なしか輝いて見えた。こちらが末とは言え、元つ社よりも大きくて頑丈だ。この社殿を守り抜くことは、偉大な使命だなとイェースズは感じていた。
山を降りながら、イェースズはかつてこの社殿で閃光を見た時のことを思い出していた。その時に聞いた声を、ムレコカミも聞いたという。
その声は、自分をエフライムの父と名乗っていた。シムの国やこの国にいる本来は消えたはずのユダヤ十支族の総称がエフライムとすれば、エフライムの父とはその祖ということにもなる。だが単純に解すると、イスラエル十支族のうちの一つのエフライム族の祖であるエフライムという個人の、その父のヨセフともいえる。
それがアフリカの神を祭る社殿とどう関連付けられるのか、また遠い故国の歴史上の人物とこの山とはいったいどんな因縁があるのかと思いをめぐらせていた。
そこでイェースズは、村長なら何か知っているかもしれないと思い、村に帰りついた日の夜に村長を訪ねた。そして、アプリの山でのことや元つ社のことなど、すべてを話したのである。村長はそれを、横になったまま聞いていた。
「元つ社はプサの国にあったか。それで光の中の声は、エフライムの父と告げたのだな」
「はい」
村長は、しばらく何かを考えていた。そして、寝床の上で首だけイェースズに向けた。
「明日、連れて行きたいところがあるから、朝ここに来なさい」
そう言われてイェースズが翌朝村長のもとへ行くと、もう村長は上半身を起こしていた。そしてイェースズが入ってきたのを見ると、もぞもぞと動き出した。どうやら寝台から降りようとしているようだ。
イェースズはあわてて駆け寄った。
「どうなさるんですか? そんなに動いて大丈夫なのですか?」
「大丈夫だ。ちょっと肩を貸してくれ」
村長はそう言うや否や、もうイェースズの肩に両手をかけ、ゆっくりと両足を床に伸ばした。
「歩けるんですか?」
イェースズが尋ねたのも無理はなかった。初めてここへ来てから数ヶ月の間、イェースズはまだ一度も村長が寝台から降りて歩いているのを見たことがない。しかし村長は一度よろめいたものの、しっかりとイェースズの両肩を握りしめて立ち上がった。そのままイェースズの肩に負ぶさる形で、危なかしげにゆっくりと村長は歩を進めた。
「さあ、行くぞ」
そこへ村長と同居している例のムレコカミが入ってきたので、イェースズは同行を求めた。このような老人だから、万が一何かあった時に自分一人でない方がいいと判断したからだ。
村長が連れて行こうとしたところは、村から距離にしてそう遠くはないところだった。しかし村長のその体であるから、優にまる一日かかった。それはアプリの山の近くで、土地が丘陵に差しかかる前の最後の平らな場所だった。
そんなすっかり黄土色になった枯れ草の草原の中に、ぽつんと胸くらいまでの高さの土饅頭があった。ポウダツの山で見たモーセの墓もちょうどこんな感じだったので、イェースズはすぐにそれが墓だと分かった。その前で村長は止まるように、イェースズとムレコカミに言った。
「我われの祖先のジョプクやシクワウテイもさらにその先を尋ねたら、アプリカに君臨していたある王に行きつく」
「ダビデ王、つまりダドゥビェク王ですか?」
「いや、もっと前だ。アプリカの神とでもいうべき王で、モパモシェスという王だ。彼こそエフライムの父なのだ」
「やはりヨセフ!」
イェースズはこの、自分の父と同名の先人をすぐに思い出した。聖書の「創世記」のラストは、このヨセフの壮絶な死で終わる。そのときヨセフは一族のものに、「神は必ずかつてアブラハム、イサク、ヤコブと契約した土地へと、あなた方を導き出すでしょう。そのとき、私の遺骨をここから運び出しなさい」と遺言し、その後はそのままアフリカのエジプトにあったという。
ヨセフは幼い頃に兄たちの虐待を受け、ついにエジプトへと売られたが、エジプトであれよあれよと宰相になってしまった人物である。その後、ヨセフたちイスラエルの子らは、エジプトへと移住した。だがその後、モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民は、ヨセフの言った通りに契約のとカナンへと戻った。
だからヨセフの遺言が実現されれば、ヨセフの遺骨はすでにエジプトにはないはずである。
そして確かにモーセは出エジプトの真っ最中に、この国を訪れている。ヨセフの遺言通りにその遺骨はエジプトの地から持ち出されたなら、それをモーセがこの国に持ってきたことも十分に考えられる。あるいはエフライムの十支族、つまりこの国では「ウシ」と呼ばれている人たちが持ってきたのかもしれない。いずれにせよヨセフの墓はこの霊の元つ国にあったのだ。
イェースズはもう一度、土饅頭をながめた。そのとき、肩にかかっていた力が急に弱くなり、村長は地に倒れ落ちた。
「どうしました?」
イェースズとムレコカミが慌てて抱き起こして揺り動かしても、村長はぐたっと元気がなく、意識もないようだった。いくら呼んでも、返事はない。イェースズはすぐに、自分の特殊能力のことを思い出した。そして手を、村長の頭に当てようと、近づけていった。
ところがその手は、頭まであと一アンマーよりも少し短い長さ(約三十センチ)あたりでとまってしまった。見えない力に、止められたようだ。
だがイェースズはス直に何かをサトッた。手のひらは村長の眉間にかざされた形になっている。
そのとき頭をよぎったのは、アプリの元つ社で空中を浮遊する邪霊に手のひらを向けた時のことだった。その時と同じ状況になっている。たとえ手をぴたりと当てなくても、霊流は宙に放射されて対象に飛んでいった。この時もイェースズは、偉大なる高次元宇宙エネルギーが自分の手のひらから村長に向かって放射され、村長の体を包む生体エネルギーとなっているのをイェースズは感じた。
肉眼でこそ見えないが、霊視するとまばゆい黄金の光が手のひらから出て、村長の肉体と重なる霊体を包んでいる。
すぐに長老は目を開けた。そして驚いたことに、一人ですくっと立ったのだ。それを見ていたムレコカミは呆気にとられ、ぽつんと立ちすくんでいた。村長は、しかもしっかりとした足取りで歩き出した。全く普通の人と同じ足取りだ。そして長老はひざを折って天を仰ぎ、「ああ、神様!有り難うございます」と叫んで、その場に泣き伏せた。
イェースズも泣いた。どこからとも知れぬ感動が湧き上がって、村長と手を取り合って泣いた。
ムレコカミが言いふらしたのか、この話はたちまち村中のうわさになった。そうでなくても、今まで寝たきりだった村長が村の中を歩きはじめたのだから、うわさは事実として人々の目に焼きつかれた。そして毎日イェースズのもとに、病人やけが人が押し寄せてくるようになった。
「私は医者じゃあないんです。この力は病気を治すのが目的ではないし、また私の力ではない。神様の力なですよ」
そう言って笑ってかわすイェースズだったが、なかなか人々には分かってもらえなかった。これでは寓居させて頂いている家の家族にも迷惑がかかるので、家は村長に頼んでもっとアプリの山に近い草原の真ん中に家を建ててもらい、そこへ移り住んだ。
ところがイェースズを慕う人々はそれでもそこへ押し寄せ、中にはハタ人の特殊技術でたちまち家を建て、それまでの草原がちょっとした部落になってしまった。
その部落を人々は、イェースズの村という意味でイェスパラと呼んだ。アプリの山が見おろすあたりで、ハタ人とオポヤマツミ族の人々がちょうど半々ずつくらいだった。
やがて冬になった。オミジン山あたりはとっくに大雪の中に埋もれていると思われるが、この地方は冬も温暖で、雪も積もっていない。
そこでイェースズは求められるまま、人々の病を癒した。それが目的ではないとは分かっていても、やはり苦しんでいる人々を救うのも自分の使命だと、イェースズは毎日朝から晩まで何人もの人に手をかざした。
それは、手のひらをぴたりと当てていた時よりも霊流は強く感じられ、効果も早くて顕著であった。そのパワーは肉体に作用するのではなく霊体に直接影響を与え、その結果として肉体も癒されてしまうもののようだった。かつて霊界探訪した時の最後の天上界の光そのものが、イェースズの手から発せられていた。
これほど偉大な神業はあっただろうかと、イェースズは驚いた。そして一人癒されるごとに「神」への感謝と喜びと歓喜がこみ上げ、また癒された人々からの感謝の波動がまたこの上もない楽しみであった。
決して自分の力ではないということは、イェースズはよく知っていた。「神」がイェースズの霊体をお使いになり、「神」の権限と栄光を現すために霊流を送って下さっている。
しかも何日か続けているうちに、そこに住んで毎日イェースズからパワーをもらっている人々の人相が、いい方に変わってきた。人相が変わるということは霊相も浄化している証拠で、個々の魂の霊層も昇華していることになる。
このパワーは肉体の癒しのみではなく、霊質の向上という霊的救いになることもイェースズには分かってきた。そしてそのことに気づいたときも、イェースズは声をあげて泣き、天を仰いで「神」に感謝した。それは「神」の愛そのものであった。それに包まれている自分が、イェースズには実感できた。
もはや、「神」は別の存在ではなく、自分の中に神がいることを感得するイェースズだった。生かして下さっているだけでなく、こんな力を与えてくれてお使い下さっている、それを思うにつけ、イェースズはそれまでの自分の至らなさに思いをはせて涙が流れるのだった。
それなのにこんな力を授かったということは、よほどの使命が自分にあるに違いないとイェースズは身を引き締め、またどっしりと重みを感じていた。
そしてイェースズは、あるものすごく大きな事実に気がつき、愕然とする思いとなった。それは、これこそミコの言っていた奥義中の奥義、奥の座ではないのだろうかということである。それに気づいたとき、イェースズは一晩泣き明かした。
そこでイェースズは「神」の力を賜ったのなら、「神」の光のみではなく「神」の教えも伝えるべきだと思った。ただ、病気老いやしただけでは、その病気は「神様」の仕組みによる大愛の浄化であるにもかかわらずそのご愛情を断ち切ってしまうことにもなる。だから、病を癒すのと「神」の教えを授けるのは車の両輪でなければならないはずだ。
まだ本当にすべてを自覚などしてはいなかったアーンドラでは、知ったかぶりで人々に教えを説いて反発も買った。それに今は「神」に、すべてをはっきりと人々には告げ知らせよとの命も出ている。
だが。イェースズ自身もいろいろな体験を積むことができた。現界にいる人でも、かなりの数の人が幽界の霊に取り憑かれているということだった。そういった霊が不幸現象の原因になっているのだが、イェースズの放射する霊流はそういった憑依霊にはまばゆく痛く、苦しいものであるようだった。時にはイェースズが手をかざしている間に、憑いている霊が浮き出て本人を操り、暴れたりもした。
こうして人々がますます集まってくるようになってから、イェースズは疑問と不安を感じるようになった。
この地のとどまってこの村の人々を救うことだけが、果たして自分の使命なのかということだ。そして、なぜ自分はこの霊の元つ国ではなく、西の果てのユダヤの地に生を受けたのかということだったが、そこには偉大なる神のご計画があるはずだとイェースズは確信していた。
そうなると、この村にとどまっていることは、絶対に自分の本来の使命ではないとイェースズは強く感じ始めていた。
ユダヤに生まれた以上、自分の使命はユダヤにあるということもまた感じた。もちろん、全人類的な意味での救いという使命もあるだろう。
しかしいくら偉大な神業を与えられたからといって、イェースズはいまや肉体の中にいるのだからどうしても肉体的限界も生じてしまう。
さらにイェースズは、「歯止め役」という神から賜ったみ役もまた気になった。サトリ得た神理正法も、大部分はまだ明かしていけないということだ。もしそうではなく本当のメシアならユダヤという西の果てではなく、この霊の元つ国に生まれてもよさそうだ。とにかく今は水の教えに徹せよという神示もイェースズは受けているし、そうなると急に故郷が恋しくなった。
おまけに、この新しくできた村の村人たちの、イェースズに対する様子もおかしなものになりつつあった。治療師と間違えられているうちはまだいい。最近はまるでイェースズを神のごとく崇め、しかもここに集まってきている人たちはほとんどが生業を投げ打って来ている人たちだということも聞いた。
イェースズはアーンドラのスードラの村での苦い思い出もあることから、自分が神のごとく崇められるのをいちばん嫌った。神理正法は決して他力本願で到達し得るものではないが、自分がこの村にいる以上人々の他力本願は断ち切れそうもなかった。
ましてやこんなところで教団を作って、自分が教祖に収まるのも自分の使命だとは思えない。
霊的にはここは霊の元つ国で太古は世界の文面の中心地であったとしても、現時点での文明的にはここはまだ未開国なのだ。
だからと言ってイェースズは決して村人たちを邪険にはせず、いつもニコニコと接したので、イェースズを取り巻く人々の間では笑い声が絶えなかった。だから、イェースズの人気はますます高まっていってしまう一方だった。
イェースズは現状打開の必要性を認識しながらもなすすべがなく、この地も本格的な冬を向かえた。イェースズがこの島国に来てから三度目の冬だった。
イェースズがもう一つ気になってたのは、ブッダ=ゴーダマ・シッタルダーの墓だった。モーセやヨセフの墓は見たが、やはりこの国で亡くなっているはずのブッダの墓はまだ見ていない。そもそも彼がこの国を目指したのは、ムー大陸のこととブッダの足跡を尋ねてということだった。ブッダのが修行した堂で自分も修行できたが、ブッダの終焉の見届けるまでは、いくら故郷が恋しくても帰れないとイェースズは思った。
オミジン山のミコなら何か知っているかもしれないが、ここは冬でも雪がないにしてもオミジン山のあたりは雪に埋もれているはずだから、向こうの雪が解けた頃を見計らって一度オミジン山に帰ろうとイェースズは思った。それが、この村を離れるいい口実にもなるはずだった。
そんなことをも相談するため、ある日イェースズはハタ人の町を訪れ、村長を訪ねた。もはや村長は寝台の上ではなく、イェースズとは座って対座した。
「実は」
と、イェースズはいきなり切り出した。
「この国に来る前、ある国で偉大な聖者にお目にかかったんです。といっても、もう五百年も昔の人なですが」
え? というような表情を、村長は見せた。確かに普通に聞けば、おかしな話だ。イェースズはかまわず話を続けた。
「その人は立派な法を遺し、人々は彼を崇めました。でも五百年たって、その教団は伽藍を誇るだけの形骸化したものになってしまっているのです」
「どんな教えも、時間がたてば人知が入るものよのう」
「ですから、私はここで私の周りに人々が集まって、教団ともなりかねない勢いになっているのが怖いんです。同じように形骸化してしまうのが怖い。あれほどの偉大な聖者の教団とて、今はこの状態ですから」
「その聖者とは?」
「ゴータマ・シッタルダーといって、サトリを開かれてブッダとなられました。この国で亡くなっているはずです。私はその人の足跡を尋ねて、この国に来たのです。この国では確か、釈尊と呼ばれていたはずですが」
「おお、釈尊かね。確かにこの国に墓がある」
イェースズはこれから尋ねようとしていたことへの答えを先にもらってしまって、驚くと同時に目を輝かせた。
「本当ですか? 実はそれを、今からお伺いしようと思っていたのですが、どこにあるんです?」
「ずっと北の方じゃ」
イェースズはすくっと立ち上がった。
「行きます。そこへ」
もはや、オミジン山に戻る必要はなくなった。
「待ちなさい。ここは冬でも暖かいが、その地は今は豪雪の中で、春にならなければ近づくことさえできない」
イェースズはため息を一つつき、また座った。結局は、雪が深いことはオミジン山と同じなのだ。
「では、春になったら行かせていただきます。こちらは、おいとまさせて頂くことになりますが」
「今では村人たちもずいぶん、君を慕っているそうではないか。彼らはどうするのかね?」
「このまま私がここにいたら、彼らはだめになります。気づかれないように夜中にでもそっと旅立ちます」
「分かった。行くがいい」
村長は、きっぱりと言った。
「ここから北へ北へとまっすぐに行って、そう、ひと月も行けば海にぶつかる。そこが北の果てだ。そうしたらあたりを見回して、目立つ山の一つに釈尊の墓はある」
「ありがとうございます。いろいろお世話になりました」
そうしてイェースズは、それまでの日常の生活を続けながら、春を待った。
春が来た。
イェースズは自分の言葉通り、夜中にこっそりと村を出た。目指すは北であった。




