プジの山とハタ族の村
しばらく平穏な毎日が続いた後、雪もすっかり溶けてからイェースズは再び旅に出た。この旅路で、なんとしても奥の座を修得しなければならない。奥の座とは簡単に伝授してはもらえないほど、大それたものらしい。
ミコは、東へ行けといった。東へ行くには雪の頂が天を突くあの山脈の壁を越えねばならない。しかも、ミコからは神業である瞬間移動の術を使うことは禁じられた。二本の足で、しっかりと大地を踏みしめて歩いて行けというのだ。だが、同時にミコは海岸伝いに行けば難なく山脈は越えられるというアドバイスもくれた。
そのミコの家族は、今頃また日常生活の中にいるであろう。イェースズは明るい砂浜に足跡を残し、海岸を東へと向かっていた。その海岸線は大きく左に湾曲し、その先に山脈の終点がある。
そこまで何とかたどり着いた時、彼はとてつもない不思議な光景を見た。大山脈がそのまま傾斜して、海に突入しているのだ。やはりミコから聞いた、天変地異で陸地が沈んで今左手にある湾ができたというのは本当の話らしい。そうでなければ、これほどの天を突く大山脈がそのまま海に飛び込んでいるはずはない。
やがて海岸線はそそり立つ断崖となり、イェースズは呆然と立ちすくんでしまった。海岸づたいの道など、もはや存在しないのである。断崖の上はそのまま、頭上に天高くイェースズを遥かに見下ろす白い雪の頂きである。仕方なくイェースズは断崖をよじ登って岩伝いに、時には両腕でぶら下がりながらその難所を越えようとした。足元は遥か下を、怒濤が吼え狂っている。
無心で身を運びながら、なぜミコが自分の特殊能力を使うことを禁じたのか、その理由が彼にはおぼろげながらも分かってきた。
神業は絶対他力である。ミコも、自分がするのではなく神様がされるのだと力説していた。しかし人は神が全智全能を振り絞られて創造された最高芸術品で、地上で物質を駆使し得る最高の叡智を与えられている。それを蔑ろにして他力ばかりに頼るのは、ご利益を期待するご利益信仰と同じである。
しかしまた、その自力を絶対とうぬぼれたら、逆の誤りをも犯す。絶対他力にて創造され、生かされあることをサトリつつも、与えられた自力で精一杯精進するというのが、本当の精進なんだとイェースズはあらためて認識した。
神業は自分のためではなく、人救いのために与えられているのである。絶体絶命の時に他力におすがりするという謙虚さは必要だが、あくまで神業は利他愛顕現のためだ。なぜなら、神そのものが利他愛に終始したもうお方だからである。
そういったさまざまなことをこと細かに教導下さったミコに、あらためて感謝の念が湧いてきた。そして、精進、精進と一つ別の岩に手をかけるたび、イェースズは心の中でつぶやきながら身を運んだ。
潮風が容赦なく頬を打つ。
ようやく断崖が終わって再び海岸線が砂浜になった頃には、日はもうとっぷりと暮れていた。
それから何日か泊まりを重ねた後、今度はイェースズは別の山脈沿いに南下した。海岸線はここから北上を始め、ミコの言葉通り東に行くには海岸線とは別れを告げなければならなかった。だが真東はかなりの高さの山岳地帯のようで、その山脈沿いの谷間のような平地を流れる川に沿って南下すればそのうち東へ向かえるだろうとイェースズは思ったのだ。
そして五日くらい進んだが、いつまでも山脈は左手に彼を追ってきた。時には壁のように垂直にそそり立って天を突いていたりする。
白い頂の上は、まるで神々が遊んでいるかのようにも見える神々《こうごう》しさだ。まるで雪の住処と見まごう大山脈が、しかも海岸近くにあるところなどから、この国が世界の霊成形であるというのは本当なのだと実感される。
世界にあるすべての自然はその大元がこの国にあり、スケールこそ小さいが全世界がこの国に凝縮されているといっても過言ではないとイェースズは痛感した。
やがてようやく山脈が空の彼方に遠のいてきた頃、東進が可能なくらいに行く手左前方に東に向かって盆地が開けた。盆地を取り囲んでいるのは、山また山が幾重にも重なる山地だ。その盆地の中央に湖があった。この国にしては大きな湖だが、ガリラヤ湖の半分くらいしかなさそうだ。峠の上からその湖の全景を見下ろし、イェースズはその美しさに思わず息をのんだ。
ずっと道沿いにあった川はこの湖が水源のようだが、この湖からはちょうど反対側に流れ出る川もあって、今度はその川に沿ってイェースズは若干東向きに南下する形となった。左右を山に挟まれていることには変わりないが、今度の川沿いは少しは広々とした平らな土地で、そんな高原を進むこと三日にして、イェースズはこの世のものとも思われる実に神秘的な姿の山に出くわした。
周りには山脈といえるような山岳地帯はなく、なだらかな丘陵地帯の上にその山は単独でどっしりとあぐらをかいていた。見事なまでの円錐形で、高さはこの国に来て見たどの山よりも高く、その巨大さからまさしく神の山といえる様相だった。
三角形の頂点は大空にそびえ、頂上付近には冠のように雪が残っている。あまりの高度に、雪のない部分の山肌は青く見えた。そしてイェースズが何よりも驚いたのは、頂上からもくもくと煙が出ていることだった。
火を吹く山というのが存在するとは聞いたことがあったが、実際に見るのは初めてだった。今はおとなしく煙を吐いているだけだが、ひとたび怒れば中天まで真っ赤な炎を吹き上げることもあるという。
イェースズは思わず足を止め、息をのんだ。こんな神々《こうごう》しい山が地上に存在すること自体、まだ信じられなかった。
イェースズは跪いた。そして両手を挙げて山を仰ぎ、
「神様!」
と、大きく叫んでいた。それほどまでの山だったのである。
それからイェースズは、どんどんとその山に近づいて行った。だが、近づいても近づいても山はどっしりと鎮まり、なかなかたどり着けそうにもなかった。山は目の前にあるのに、まだまだその距離は遠いと感じているうちに日が暮れてしまった。
翌日は、山までの間にちょっとした峠道があって、それを越えねばならなかった。
そして峠を越えた時、イェースズはまたもや思わず目を見開いて足を止めてしまった。
なんと山のふもとは大きな湖がちょうど裾野を洗うようにぐるりと取り囲んでおり、湖水に三角形が逆さに反映してこれ以上の絶景はないといえるほどの大パノラマが彼の視界に飛び込んできたのである。
ここから見ると、山はまるで湖の中に浮かぶ島のようだ。イェースズは今すぐにでもその湖のほとりにまで行きたいと思ったが、彼の行く手を阻むものがあった。それは峠の下あたりから湖までの間に広がる果てしない樹海であった。
昼だというのに薄暗い雑木の樹海で、そのような密林に入れば東も西も分からなくなって永遠に出られなくなるということを、世界中を旅して来たイェースズは直勘として感じた。
山に向かって直進することは不可能のようだ。よしんば樹海を抜けたとしても、イェースズの目を感動させたあの湖が今度は行く手を阻む障害物になることは目に見えている。しかも山からは風景としての威容ばかりでなく、光圧の如き霊流が激しく放射されていた。
まさしく霊峰といって差し支えない山だった。イェースズは直進を断念したとはいえ、どうしても素通りしていい山ではないと感じ、しばらくは今までそれに沿って歩いて来た川に従って行くことにした。
川はここからは川幅を広げ、真っ直ぐに南下している。それに沿って歩くと、正面にあった山は次第に左手の方へと移ってきた。
そうして三日ほど泊まりを重ねたが、山はまだ左手にあった。その三日目の夕刻、イェースズは一つの集落に出くわした。十五、六戸の竪穴式住居が点在しているだけの村だったが、そこへたどり着いた時はすでに薄暗かった。村の中央に広場があって、篝火が焚かれているような気配があった。それが唯一の灯りだったので、イェースズはその方へと歩を進めた。
雪解けを待ってトト山を旅立ってからもうかなりの月日がたっており、こんな夜でもあまり寒さを感じない頃になっていた。
篝火の周りには村人たちが円くなって座っており、何やら寄り合いをしているようだった。そこへ髪も長くなり髭も伸び放題になっているイェースズが歩いてくると、人々は一斉に彼を見た。そして急に寄り合いを中止して皆でイェースズに向かってひざまずき、手を二つ鳴らした。
「ハタ人様、こんな夕暮れにおいでとは」
村長らしい風格の男が、恭くそう口上した。
「ハタ人?」
村人たちの手を二つ打つというしぐさは、これまでの村々ではなかったことだ。
ただ、二年前にこの国にはじめて上陸した際、そこの水田を持つ村々の人々も確か同じようにしていたのをイェースズは思い出した。あの時は自分は「ウシ」と呼ばれたが、ここでは「ハタ人」と呼ばれた。しかし今のイェースズには、そのようなことにこだわっている余裕はなかった。体力が限界だったのである。
「このたびは、大神宮に御参拝でしょうか」
村長のそんなわけの分からない口上に応えるよりも、イェースズはひと言だけ言葉を返すのがやっとだった。
「くたびれ果てております。どなたか泊めて頂けませんか」
「あのう」
すぐに名乗り出たのは、腰の曲がった老婆だった。
「わしの所へ、お泊まり下され」
「あ、ありがとう」
イェースズの顔に、パッと笑みがさした。
「わしの家はすぐそこじゃて、案内致しますだ」
歩きだした老婆に、イェースズはついていった。その間、ほかの村人たちはイェースズに一礼したままだった。老婆の家は、確かにすぐそばの竪穴式の住居で、中には誰もいなかった。
「今、火を灯しますだで」
「いえ、いいですよ、お婆さん、ありがとう、とにかく眠らせて下さい」
その言葉通り、イェースズは中に入るとすぐに眠りに落ちた。
翌朝目を覚ますと、老婆はもう朝飯の仕度をしてくれていた。
「さ、どうぞ」
と、いう言葉にイェースズは起き上がり、土器の並ぶ前に座った。そして驚いた。土器に盛られていたのは、何と米の飯だったのだ。ポウダツの山を降りて峠を越えて以来、イェースズはもう二年近くも米の飯を見たことがなかった。土器も分厚い縄目の紋様が入ったものではなく、薄茶色の薄手のものだった。
イェースズが驚いたのはそれだけではなく、そばで給仕してくれている老婆の着ていた貫頭衣にも眼も見張った。昨夜は暗くてよく見えなかったが、老婆の服はこれまでの村の人々のような獣の皮衣ではなく、またこの国に来てからよく見たような植物性の麻布でもなかった。
「お婆さん、その服」
「服がどうかされましたかいのう」
「だって、それって絹でしょう?」
絹はシムの国で産するもので、ユダヤの隊商によって西へ運ばれる超高級品の織物で、故国ではローマ皇帝や各地の王クラスの人でないと手にできないものだ。
「キヌ? さあ、このへんの人はみんな、これを着てますだ」
老婆は欠けた歯を見せ、からからと笑った。しかしそんなことよりもイェースズは空腹を抑えきれず、とにかく米の飯を平らげた。するとすぐに老婆は立ち上がった。
「お宮はこちらですだ」
さっさと老婆は出て行くので、イェースズもそれに従うしかなかった。
外へ出てから、イェースズはまた驚いた。これも昨夜は暗くて見えなかったが、一面の水田が広がっているのだ。そして行きかう村人たちも皆、老婆と同じような絹の環頭衣を着ている。そしてイェースズとすれ違うときは足を止め、ひざまずいてイェースズに二拍手を打つのだった。
「さあ、お宮はあそこですだ」
例の巨大な三角の山を背景にほど近い所にこんもりとした森があり、老婆はそこを指さした。なぜ老婆は自分をそこへ行かせようとするのかわけが分からなかったが、とにかくその森へ行けば何かありそうな気がしたので、イェースズは笑顔で老婆に礼を言ってから森へと向かった。
森の周りは見晴らしのいい広々とした高原で、そのまま巨大な山まで緩やかなスロープになっている。裾野がそのまま高原になってしまうことが、その山の雄大さを物語っていた。
森へと歩きながら、イェースズは状況を整理した。ここでは自分は「ハタ人」という名の部族の者と思われている。そのハタ人という人たちは、ここへ来れば必ずこの森へと向かうらしい。そこまでは推測がついた。あとは森へ行ってみるだけだ。
森の中には、巨大な社があった。それを取り囲むだけの規模の森だったのだ。社はオミジン山の神殿と同じような造りだが、何倍も大きかった。苔の匂いとひんやりとした空気に包まれ、イェースズは社殿の前にたたずんでそれを見上げた。高床式で、社殿までは何段かの木の階段がついていた。
そして、その脇には小屋があった。ちょうどオミジン山の神殿の脇の、ミコの家と同じような位置関係だ。小屋は高床式でも竪穴式でもなく土の壁で、屋根にわらがふかれていた。その前まで行き、イェースズは中へ声をかけた。
「どなたかいらっしゃいますか」
すぐに扉が開き、小太りの中年男が顔をのぞかせた。そしてイェースズを見るや否や相好を崩し、扉の外へと出てきた。
「これはこれはハタ人様。ようこそ」
その男もやはり絹の環頭衣を着ていたが、村人たちと違ったのは袖の裾に房がついていたことだった。これはイェースズの故国のサドカイ人の祭服と全く同じである。
「今日は御参拝ですか」
「いえ」
イェースズはどう答えていいか戸惑った。この男はちょうどオミジン山のミコのように、この社殿の神に仕える神官らしい。
「お一人ですか?」
「はあ、実は」
とにかく、言ってしまうしかない。
「私はその、ハタ人というものではないのです」
「え?」
男の表情に、驚きが現れた。
「だってそのお顔つきといい、そのお目の色といい、ハタ人様ではありませんか」
「違うんです。わたしは遠い西の果ての国から来た者で、真理を求めてこの国まで来たのです」
「西の国って、ジョプク様の故国ですか?」
「ジョプク?」
「ハタ人様方のご先祖ですが」
「さあ、よく分かりませんが、とにかくずっとずっと西の国です」
「たったお一人で?」
「はい」
「その西の果ての国とは、どれくらい遠いのですか?」
「私は今二十歳ですけれど、十三歳の時に故郷をあとにしてずっと旅をしてきました」
「そんなに遠いんですか?」
男はますます驚いた様子を見せた。
「ええ。そしておととしこの島国に着いていろいろとまた旅してきましたけれど、あの山……」
イェースズは程近い所にどっしりと見えている山を指さした。
「あの山の不思議さにひかれて、この村へ来たのです。ところで、ハタ人というのは、どういう人たちなんです? ジョプクとかいう人の子孫だと言っておられましたが」
「ここから少しだけ南に行った所に、ハタ人様方の村があります。正確にはジョプクの子孫というより、ジョプク様がつれて来られた五百人の従者の子孫ですけれど」
「あの、すみません。ジョプクという人は、五百人の従者をつれてどこかからここへ来たのですか?」
「ええ。ジョプク様は海の向こうに西の国の王の命令で、ポウライ山にあるという不老不死の薬を求めてこの国に来られました」
「え?」
イェースズは、思わずその男に詰め寄っていた。
「そのジョプクって、もしかしてギァグ・ピュァクのことではないですか?」
「さあ、そのような呼ばれ方もされてますかねえ。海の向こうの言葉では」
「あのう、その話をもっと聞かせて下さい」
「いいですとも。あなたはただものではないと見た。きっと、かなりの霊力をお持ちでしょう」
「はあ」
とにかくイェースズは何とか、小屋の中へ入れてもらうことに成功した。中は土まで、中央にいろりがあった。その周りの筵の上に二人で座った。
「ところで」
と、イェースズは開口一番、あの神秘的で巨大な山についてきりだした。
「あれはどういうお山なのです? どう見ても霊峰だと思いますが」
「ああ、プジの山ですね」
「プジ?」
「昔からそう呼ばれています。二つとない美しい山だから、『不二』なんです」
男はそう説明したが、イェースズには「プジ」という言霊にもっと重大な秘め事があるような気がしてならなかった。
そしてミコが、東には「不死」の山があるとも言っていた。この山が「プジ」なら、これがミコが言っていた「不死の山」ということになる。そして「不死」といえば「不老不死」だ。不老不死の薬を求めて船出したギァグ・ピュァクの話とも合う。
さらにそれを裏付けるかのように、男の言葉は続いた。
「ジョプク様はあの山こそ自分が求めていたポウライの山だと言って、この地に従者とともに住みついたんですよ」
「ポウライとはブンムラグのことですか?」
「ジョプク様の国の言葉では、そうなりますか」
イェースズはもともとシムの国でギァグ・ピュァクの話を聞いたことも、この国へ来た理由の一つでもあった。そしてとうとうギァグ・ピュァクが目指したというブンムラグに、イェースズ自身もたどり着けたようだ。
話を聞いた時は半信半疑だったが、まさかこのように美しくも荘厳な神々しさで実在していようとは思いもよらなかった。
「で、ギァグ・ピュァク、つまりジョプクという人は、不老不死の薬を見つけたのですか?」
「いいえ。そんなものありませんよ」
「では、なぜここに住みついたのでしょうか」
「それは、こういうわけです」
と言って男は立ち上がり、奥のやはり土壁でしきられた部屋に入ると、すぐに手に何枚かの巻物を持って戻ってきた。しかも、紙の巻物だった。
「この文献が、ジョプク様をしてここに永住させたのです。普通はめったに人には見せませんが、あなたなら見せてもよさそうな気がする」
巻物は、シムの国の文字で書かれていた。しかしイェースズにとってあれほどお手上げだった象形文字のジャングルのシムの文字も、今でも読めこそしないが、その内容は霊勘によってすべて分かるから不思議だった。
「歴史の書物ですね」
「全世界の歴史です」
「私はトト山というところで、やはり同じような歴史書を見たことがあります。でもそれは、この国固有の文字で書かれていましたよ。なぜこれはシムの文字で書かれているんです?」
「もともとは同じように、この国の文字で書かれていたんですよ。それをジョプクが今のその文字に書き替えたんです」
「これ、ゆっくり読ませて頂いていいですか?」
「どうぞどうぞ、何日でも泊まって、ゆっくり読んでいらっしゃって下さい」
笑顔で言う男の言葉に、イェースズの顔も輝いた。
「有り難うございます」
イェースズのその地への逗留は、一カ月近くに及んだ。その間ずっと彼は、巻物を読みふけっていたのである。
すでにオミジン山で莫大な量の太古文献を閲覧していた彼にとって、その内容はさほど驚くべきものではなかった。ただ、神代七代から始まる点では同じでも、その後の皇統のスメラミコトは、ここではすべて「神」になっている。それでも、超太古の初発神はすべて「火の系統」に属することは、しっかりと記されていた。
だが、ジョプクの作為もかなりあるようで、人類が発祥したのがこの国になっていない。皇統の祖は西のこの頃でいうパルチア王国あたりから移住して来たとなっているが、それだけはいただけないとイェースズは思った。
それでも神々の御名の合致や皇統の治世の合致など、オミジン山の文書を合わせ鏡のごとく裏付けるものであった。そのほかに、ジョプクの渡来のいきさつやプジの山の噴火の記録なども、おびただしい量に及んでいた。
文書閲覧を終えた日、イェースズは森のはずれに出てプジの山を見つめながら座っていた。春の真っ盛りで、風の中に初夏を感じたりさえする。プジの山はその頭の雪の冠をかなり小さくしており、それでも白い煙を吐き続け、青い山肌でどっしりとあぐらをかいている。
イェースズがここへ来る前に見た裾野を取り囲む湖は「セの海」というのだそうだが、こんなにも美しい山は、本当に世界に二つとないであろうと思われる。だから「不二」であり「不死」なのだ。もしかしたらこの山こそ世界の真中心、世界の霊界のヘソかもしれない。
その時、またイェースズの心に直接響く声が聞こえた。
――「ジ」は二、二は火と水、霊と物とがホドケたる姿よ。されどフジは二に非ずよ。火と水結びて産土力となるよ。
イェースズは顔を上げた。そしてプジの山と、その向こうの青い空を見た。心の声はそこまでだった。
そうして、ハタ人という部族の村に行ってみようと、イェースズは思った。イェースズはまずジョプクやその従者の子孫に会ってみたいと思ったのだ。ジョプクについて知りたいことは、山ほどある。それは、渡来の真意、あの古文献に接した時の心情、そしてなぜ故国に戻らなかったのか、などであった。
ハタ人の村は、二日くらい歩けば行かれるとのことであった。イェースズは神官の男に丁重に礼を言って社のある森をあとにした。
峠を一つ越えれば、そこがハタ人たちの住む村落だという。そこで彼等は絹を生産しているとのことだった。
そして峠を越えた時のイェースズの驚きは、言葉では言い表せられないほどのものであった。村ではなく、町があったのである。
そこには竪穴式の家ではなく、壁と屋根を持つ家が密集する文明が、山に囲まれた盆地に展開されていた。この島国に来てから、イェースズがはじめて見る「町」であった。
峠を降りてから町までの間は、背の低い木が植わっている畑だった。畑とはいっても、この木は実もなく、葉もとても食べられそうもないようなもので、食用のための耕作ではないような様子だった。
イェースズが町に入ってそこで会った人々は、紛れもなく自分と同胞だった。赤ら顔に青い眼は、完全にユダヤ人なのだ。だからイェースズは行きかう人々に、「シャローム」と呼びかけてみた。しかし誰もが怪訝な顔で、見知らぬ旅人を迎えるのだった。
もはやここでは誰も、イェースズに二拍手を打つものはいなかった。その代わり、イェースズの周りは黒山の人だかりとなった。皇帝しか着られないような絹の服を、彼等は惜しげもなく着用している。
「あなた方は、ハタ人というのですか?」
と、イェースズはアラム語で尋ねて見た。反応はなかった。次にヘブライ語で聞いてみたが、人々はざわめくだけだった。顔つきこそユダヤ人だが、ここの人々はアラム語もヘブライ語も分からないらしい。そのざわめきの言葉は、この国の言葉だった。
そこでイェースズは、この国の言葉でもう一度同じことを尋ねてみた。
「あなた方はハタ人ですか?」
「いかにも、この絹で機を織って生業としているので、ハタ人と呼ばれておる」
力強い返事が、人垣の中央の若い男から帰ってきた。今までの村では顔つきが違うだけにイェースズは特別扱いでちやほやされていたが、ここでは全く同等だといった感じで、人々の態度は横柄ですらある。
「あなた方はジョプクの子孫だと伺ってきたのですが」
「いかにも、ところでそう言うあんたは、何だね? 我われと同じ顔をしているが、同族ともいい難いような」
「私は全世界を旅しているもので、西の果ての国から来ました」
すでに大地が球であることを知っているイェースズは、ユダヤが西の果てではないことも知っていたが、ここではあえて彼等の文化的知識に合わせておいた。
「西の果ての国とは、ダドゥビェク王の国かね」
「ダドゥビェク王?」
その名だけがなぜかシムの国の言葉のようだったが、イェースズはそれが何ものか分からず少し考えたが、思考とは別のところでひらめきがあって、
「ダビデ王……」
とつぶやいた。
「そのダドゥビェク王とは、いつごろの人です?」
「そんなこと知るかい。ずっとずっと大昔だ」
「千年くらい昔かのう」
脇にいた、老人が口をはさんだ。千年前の西の果ての大王と言えば、ダビデ王かソロモン王だが、ダドゥビェクという音から紛れもなくそれはダビデ王のことらしかった。だからイェースズは、
「そ、そうです」
と、叫ぶように言っていた。その言葉に、人々の間でどよめきが上がった。イェースズは、一歩前に出た。
「この村の村長さんの所へつれて行って下さいませんか?」
「ご案内致します」
イェースズがダビデ王の国から来たと言っただけで、人々の態度は一変した。
最初にイェースズと会話をかわした男が、丁重にイェースズを導いてくれた。その男について行きながらも、イェースズはしっかりと町を観察した。
この国にはふさわしくないような高度な文明水準は、町の建物を見る限りシムのそれとほとんど同等だった。丘陵地帯の向こうにはまだプジの山が顔をのぞかせ、盆地を見下ろしている。
「あのう、どうしてこの国にこんな町が……」
と、歩きながらイェースズは、男に尋ねてみた。男は少し笑った。
「ジョプクはここへ来る際、ありったけの知識人を選抜してつれて来たんですよ。農耕、養蚕、大工、紙師、傘張り、楽人、機織女、酒酔造人、製油職人、製塩職人、鍛治、鋳物師、石工、諸細工師、医師など当時の超一流の有識者をつれて来ましたから、こんな町はわけないです。その子孫が、我われですからね」
いささか男は誇らしげだった。
「今は皆さん、何をされておられるんです? 先ほど、機を織っておられるとかおっしゃってましたが、この周りは木が植わっている畑がありましたが」
「そう、絹を織っているんです。周りの畑は、そのための桑畑ですよ」
「桑?」
イェースズにとって、はじめて聞く植物の名だった。
「その桑から、絹を作るのですか?」
男も、周りの人も一斉に笑い始めた。イェースズは自分の失言を知り、恥ずかしい思いになった。
「これは失礼。その桑の葉を食べる虫が、絹を出すのです。桑はその虫のえさです」
「虫が絹を出すって?」
「桑の葉を食べた虫が繭のために吐く糸で織った布が、絹なんです」
イェースズは感心して聞いていた。これまでイェースズが知っている服は獣の皮衣か植物繊維ばかりだったからだ。虫の吐く糸で布を織る……何と絶妙な自然界の仕組みなのだろうと、イェースズは舌を巻く思いだった。
やがてイェースズは、一つの建物に通された。中央の一室には木の寝台があり、頭髪のない白い髭の豊かな老人が、そこに寝ていた。イェースズは、久々に寝台というものを見た。
寝たままイェースズをじろりと見たその老人が、この村の長らしい。ここまでつれて来てくれた男は軽くイェースズを老人に紹介すると、すぐに出て行った。
部屋の中は、イェースズと老人だけとなった。しばらくは無言で見つめあっていた二人だが、
「村の長ですか?」
と、イェースズの方から尋ねた。
「いかにも。そなたは西の果ての国、ダドゥビェク王の国から来たとな」
老人はやっと、力なく上半身を起こした。そして、イェースズの頭の上からつま先まで、じろじろと眺めた。
「まだ、若いのう」
イェースズは少しはにかんでからうつむき、そのままその場に立っていた。
「実は西の果ての国からここに来るまでの間にシムの国でジョプクのことやポウライのことなどを聞いてきたのですけれど、あのプジの山こそジョプクが求めたポウライの山ですね。シムの言葉ではブンムラグといいますが」
「ジョプクが求めたのではない。シクワウテイが求めたのだ」
「シクワウテイ?」
「海の向こうの国の昔の王だ。ジョプクに命令してこの国に来させたのもその王だよ」
その話からすると、シクワウテイとはジェン・チャーグ・フアンのことだと思ってほぼ間違いなさそうだった。
また、沈黙が流れた。今度は、老人の方から口を開いた。
「あのプジの山は、確かにポウライだ。ジョプクがそう認めたのだから間違いない」
「ではなぜ」
イェースズは一歩進んで、老人に近づいた。
「あの山が目指すポウライなら、なせジョプクは帰らなかったのですか? そこで不老不死の薬でも見つけて」
「そんなもの、あるかい」
老人は冷たく言いはなった。もちろん、肉体をそのように保つ薬が存在し得ないことは、イェースズの方がむしろよく知っている。
その時、イェースズはひらめいた。肉体が不老不死になるのは不可能だとしても、魂は永遠である。そしてその魂を永遠にせしめ得る薬――それは宇宙の根本の妙法にほかならない。それがこの国にはある。
つまり、魂にとっての立派な不老不死の薬は、果たしてこの国にあったのである。
もちろんジェン・チャーグ・フアンもジョプクも、そのことまで考えていたかどうかは分からない。
「あのなあ、お若いの」
イェースズがそんなことに思いをめぐらしていたら、老人に厳かに呼ばれて、イェースズの思考は中断した。
「ジョプクがこの国にきた真意は、お若いの、ご存じかな?」
そのような話を、なんとなくシムの国で聞いた気がする。
「シクワウテイから逃れて来たんですか?」
「その通り。シクワウテイというやつは我われと同種だが残忍なやつで、自分の意見と合わない学者を生き埋めにしたり、都合の悪い書物はみんな焼いたりした」
「そのことも、シムの国で聞きました」
「そんなシクワウテイにジョプクは嫌気がさして、脱走を企てたというのが真相じゃよ。ジョプクはもともと帰国するつもりなどなかった。新天地を求め、そこで生活し得るだけの人材を取りそろえて、故国をあとにしたのだ」
「それで、おびただしい船団と、おびただしい技術者をつれてきたのですね」
「不老不死の薬を求めて戻るだけなら、そんな大船団や技術者などいらんだろう」
老人は声を上げて笑い、また言葉を続けた。
「ポウライだの不老不死の薬など、そんなのは口実だ」
「シクワウテイは知っていたのでしょうか。そんなジョプクの心を」
「恐らくは知らなかっただろう。むしろジョプクの話に、そんな自分の国よりも優れた国は打ち滅ぼしてしまえと、征討軍のつもりでジョプクを遣わしたのかもしれない。しかし、ジョプクの方が役者が一枚も二枚も上手だ。この国で太古文献を見て、この国の神聖さにジョプクは気づいてしまった」
「でも……」
イェースズはそこで口をつぐんだが、実はかつて見たジョプクの文献には、ただ太古文献をシムの漢字に直してあったというだけでなく、どうもジョプクの作為が加わっていたような気がしていたのだ。
今、目の前にいる老人もユダヤ人だし、ハタ人もみなユダヤ人だ。するとジョプクもシクワウテイもみなユダヤ人……つまり、消えた十支族のエフライムなのである。
だから、高次元から天下った神々を、西の国から来たなどと書き換えてしまったのだろう。枝の国であるユダヤを、正統化するためだ。
そこでイェースズは、
「ジョプクの書いた文献の、元になった文献は現存しないのですか」
と、聞いてみた。
「ジョプクの先祖が信奉していたコウシという人の著作とともに、プジの山のふもとの氷穴に納められておる」
やはり、とイェースズは思った。この国の西の方にいて「ウシ」と呼ばれていたエフライムたちも、自分たちのこの国における正統性を造り上げるため、この国の正史を葬り去ろうとして歴史の隠蔽工作をしていたが、ジョプクも同じことをやったらしい。文献を書き変えるなど、もっと次元が高い。だが、見方を変えればジョプクの方がはるかに、この国の古文献に対して敬虔だったともいえる。
少なくとも彼は、それを焼きはしなかったからだ。イェースズがしばらく黙ってそんなことを考えていると、老人は優しい目でイェースズに言った。
「しばらくこの町に留まってはどうか」
「は、はい」
イェースズは目を上げた。それは、この地でもっと何かを勉強しろという神の仕組みに違いないと、イェースズはたちまちのうちに直勘していた。そしてここでなら、もっといろいろなことを学べると彼は信じていた。
「どこでも好きな人々の集まりに入りなさい」
「はい。有り難うございます。では、絹を作る……」
「養蚕部かね」
「はい」
「では、そこで暮らすとよい」
さっそくその後すぐにイェースズは養蚕の部落へ行き、老人の手配によってひと部屋が与えられた。ここでの生活は、わずかながらも故国の匂いはあった。
しかしその大部分、特に「ヤハエの神」への礼拝など大切なところはほとんど失われているようだし、会堂すら見当たらなかった。シムの国のユダヤ人街と違い、ユダヤ本国との交通が全く遮断されているせいだろうと思われた。
イェースズはここではじめて、絹糸を吐く虫を見た。人さし指ほどの白いイモムシで、それがうじゃうじゃと何百匹と飼われている。
イェースズはここで暮らしながら、養蚕の技術を身につけていった。人々ともすぐに打ち解けた。何も山中で孤独に修行するだけが行ではないことを、今のイェースズは知っている。
すでにその意識が宇宙と一体となった彼だ。自分も宇宙の一部であり、またすべての人々も宇宙の一部である。つまり彼我の間に境はなく、すべてが一体となって調和された存在であることを自覚しているのである。
こうしてイェースズはここで暮らすうちに、季節は雨季をも通り過ぎて暑い夏がやってきた。作業は虫のえさとなる桑の木の畑仕事が主だ。
やがて冬が来る前に虫は糸を吐いて自分の体をまとい、その中で一冬を過ごすという。その間に糸で巻かれた虫――すなわち繭を湯で煮て虫を殺し、糸をほぐして生糸として絹を織る原料とする。生糸を織って絹織物にするのは、機部の仕事だ。繭を煮て虫を殺さなければ、春になると虫は生糸の繭を破いて外に出て、蛾になるという。そうなるともう、生糸はだめである。そこで、虫を殺すのだということだった。
昔のイェースズなら、生ある虫を殺すなんてと心痛めたであろう。しかし今の彼の魂には神の声が直接響き、また、虫が蛾になる前――我を出す前に自分を殺してこそ美しく高級な絹がとれるのだという仕組みを、イェースズはじっくりと教えられた。
そんな絹を、故国やローマでは貴族のぜいたく品として扱っているのである。
そうして何日か過ぎ、プジの山の頂上の雪も全くなくなった。
その頃までに、イェースズは気になっていたことが一つあった。昨日今日思いついたことではないが、プジの山の向こうにもちょっとした丘陵地帯があって、その中の一つの山が妙に気になっていたのである。丘陵自体プジの山に見下ろされているような低いものだが、その山からはものすごい霊気が感じられるのであった。
何日もその山を気にしながら暮らしていたイェースズだが、ある日この村の長の老人のところへ行って、その山のことを尋ねた。
「あの山かね。あれはアプリの山だ。あそこにも社があるが、オポヤマツミ一族の住む山となっている」
「オポヤマツミ?」
「あのへんには海の部族であるオポワダツミ族と、山の部族であるオポヤマツミ族とがいてだな、そのオポヤマツミ族の根拠地ともなっているのがあの山だ」
「そのお社とは?」
「アプリの神を祀っておる」
ふとイェースズの頭の中に、「アフリカ」という言葉がひらめいた。もちろんイェースズは、今はそんな地名を耳にすることはない。ただ、その名称はオミジン山でミコに見せてもらった古文献にあったのだ。超太古に全世界に派遣された皇子の中に、確かそんな名前の方がいらっしゃった。
その派遣先であるアフリカというのは、エジプトを含む巨大な大陸だとミコは言っていた。そしてそのエジプトは、イェースズが幼少時に一時住んでいたこともある因縁の地だ。
それだけでなく、エッセネ教団の本拠地でもあり、遠い祖先のヨセフからモーセまでのユダヤ人ともかかわりが深い。イェースズはアフリというひと言を聞いて、そのオオヤマツミ族のいる山への関心をさらに高めた。
数日後、イェースズは村長の老人に、
「アプリの神様の社のあるあの山に登ってみます」
と、言っていた。




