神啓接授
イェースズの頭上に閃光がきらめいた。それは翼を広げた鳩のような形の炎だった。人々の歓声は、より一層高まった。そして、高らかに鐘が打ち鳴らされたような感覚もあった。
その時、イェースズは突然光の渦の中、黄金の光の洪水のほかは何も見えない世界に放り出された。目の前に光球があるが、輪郭がはっきりしない。イェースズは光圧に耐えられず、うずくまった。うずくまったところで地面があるわけではなかった。
――ノリクラは祈りの座よ。ノリクラウィ岳よ。
魂に直接響くその声は、クラウィ山で遭遇した父神に間違いなかった。
――汝を祈りの座よりハセリミの界に召したるは、今こそ重大なる秘め事を、汝に知らしめおきたるためなり。
言葉では表現のしようのない、心などというものを通り越えて魂に厳しく痛く響く、神の荘厳なみ言葉であった。
――「父神」は「国祖の神」にて「弥栄の神」なるは、すでに示しおきたる通りなれど、今はわけありて、化身のみ汝の前に立ちおるなり。そのわけを聞かさん。まずは天地創造の太初の秘め事よ。
イェースズはますます頭を下げ、ただ畏まって無言で、さらには無心の境地で聞いていた。
――汝等、「国祖の神」をして「万物の造り主」「全智全能」などと褒め崇めしは嬉しきも、「国祖の神」はあくまで体の造り主にしてかつてはハセリミ界の主宰神、大昔の人類の生命誕生以前より働き、多くの生命を誕生させ、現在の社会の諸々《もろもろ》の事象を運営せるものなり。『宇宙の大根元、大宇宙の宇宙意識の大神』は、奥の奥のそのまた奥なり。汝等人類にとりて、すぐに分かろうとしても無理。大き無辺なる宇宙の真中心なればなり。
頭で理解しようと思ったら、まずは困難な話の内容だった。だが、肉体の頭ではなく、魂の次元にイェースズも切り替えた。
――「大祖神」のみ意もちて、火と水の神のみ力もて地美造りなし、そを第三現界となしおきたるなり。かくして「神」、あらゆる叡智を絞り、最高の芸術品、神宝として神の子霊止を創りおきしは、ことごとく物にて地の上天国を顕現させん意にて、それこそ「神」の一大芸術と申すなり。如何に宇宙広しといえども、肉身与えし神の子ヒトの存在は、この地美のみなることを思え。そを思う時、大いなる神大愛に思いを馳さざるべからず。
部分部分はすでに示された話、そして幽界にて実際に見聞したことと合致する。
――かくして肉身は微小なれど、「神」の御用を相果たさせんための諸々《もろもろ》の機能と智慧を分かち与え、霊力は「神」より劣るなれど、物造りの技を最高に与えしも、すべて地上天国を推し進めん「神」の大経綸によるものと知れ。故に汝等ヒトは地美を離るることも、地中深く潜りて生くることもなし得ざるならん。そはいわれありての事なり。
魂の次元で聴くならば、そのすべてが納得がいく。
――「神」、数百億年もかかりて人を造り、失敗や試行も繰り返しつつ、やがて成り鳴り也らしめし場所こそ、霊の元つ国の日玉の国なれ。そを無より有を生ぜしめし因縁ありて、この地を無有の地とも申すなり。
今はその言葉一つ一つが、イェースズの魂にすーッと入ってくる。
――そもそも天地初発の人類は霊力もいと高く、神と直接交流交感致すもたやすきことにて、神、人類によろずの事ども手取り足とり教え参りしものこの時のことよ。されば人類は神の教えのまにまに暮らしおりたるもまた地上天国にてありしかども、そは「神」の望みし姿にはあらず。あまりに人類、ものを掘り出し造り出ださん心とてなく、ひと時大かえらく起こして地の上の大掃除致させしも、そは神の子の育つを楽しみと致せし神の大愛の方便なり。かくして、幾度も泥の海となせし地の上にて、自ら知恵絞りて物造らしめしも「神」の鍛えにして、そのためには一時方便として人々に物欲をも与え、競争力さえ出だし得るようなさしめしも「神」なり。そは「神」、人に欲司る霊、言い換うれば生命の木とともに、知識の木をも「神」は人類に与え給う。されど「神」は汝等にその実を食すること許さざりしこと、汝等の申す「聖書」とやらにも示されたるごとし。しかるに、それを食せしこと、智慧を知枝とやらになしたるもまた同じことよ。すなわち、生命の木を主となし、神・幽・現三界にわたりて貫きたる置き手(掟)の法はすべて霊が主なるに、人間知識の木の実ばかり食らいて、霊主を蔑ろにし、小賢しき人知の実を主体となせしにより、おのものも万全と思いし「我と慢心」、ここに生ぜしなり。これ、人間最初の堕落と申さんか。
実に壮大な人類の歴史が語られつつあった。
――されど、神界の写し世が現界にてあれば、その大元はすべて神界にあり。人にはじめに欲与えしと同時に、『大根本神』もすべての「神々」との創造の糸を断ち切り申し、自在の夜、神の甘チョロ時代はここに始まりたるなり。加えて大いなる因縁の秘め事あれば、今その一部を茲に告げおかん。神と申しても、『大根元の神、最高神』は唯一絶対なれど、さらに多くの「神々」はさまざまに変化致し、神界にて活躍しあるなり。その中にも火のみ力強き火(日)神、水のみ働き強き水(月)神あり。あくまで火をタテとなし、水をヨコになして十字に組みてこそ、産土の力生じ、森羅万象創造のみ力出で来たるならんも、いろいろ便利なる物造り出ださんためには一時ヨコの力を主となす時期もまた必要なれば、今は火と水のホドケの世、物主仏主の仮の世、真如の法の世、月の教えの世、水神の統治せる世なるなり。
ただ、やはり話が難しくもある。だがイェースズは疑問を持つでもなく、ただ真ス直になってその言霊を魂に刻んでいた。
――神々もまた自在の世を迎え、勝手気儘に振舞いたるその果は、神々もまた色恋沙汰で争うようにさえ相なり、そがため地の上一度かえらくとなり、その科によりて火(日)の神隠遁せざるを得ざることと相なり、「国祖」は艮に神幽り申し、火の神々も地中海中に今は隠れあり。されど色恋沙汰と申すも『大根本神』の大愛にして雄大なる大芝居にして、その義は水神も、また火の神の多くも知らざる重大因縁なり。さればいまだ汝にも明かなに告げ申すことできざるわけあるなり。
やはり神界の話は奥が深すぎる。
――然らば汝のみ役は、あまりにも欲高くなりすぎて、水晶の如き神の分けみ魂、「真我の吾」を包み積み曇らせし今世の人々、このままにては大いなるアガナヒ受けさせ、「ゲヘナの火」の満員御礼となるを「神」は可哀そうに思えば、それに歯止めかけさせんみ役を汝に与えたるなり。されば神幽りし艮より化身を水神の目を盗んで汝のもとへ遣わすも、なかなかの苦労よ。すべて密かになし給うことにて、さらば汝は人々を明かな正法に切り換えせしむる必要は未だあらざるなり。汝は水神の教えに徹しながらも、あまりにも物欲のみに生きんとせし今世のヒトに、歯止めかけやればそれでよきなり。やがて時来りて岩戸開かれ、正神真神お出ましの世とならば、神理のみたま世に降り、すべてを明かな正法に導かん。それをそれ、ミロク下生、メシア降臨の世と申すよ。汝等人類の時間と申す感覚にては今しばし先のことなれど、幾億万年の大仕組みの神界にては、すでに間近に迫り来たれるなり。その時までに、汝、手遅れと相ならぬよう、しかと歯止めかけおくべし。
イェースズは思わず息をのんだ。ここがこの神示の核心なのだ。
――汝は人々に愛を示せ。愛はすなわち天意なり。愛を示して愛を説け。人々の想念「神」より離るる度合いキツクならぬよう、世の人々の包み積み気枯れせし魂霊を大いなるアガナヒもて明かな霊とせよ。そのアガナヒにて、人々の包み積みし罪は許さるるならん。
光の中の声は一段と高くなった。
――夜明けは近づきぬ。やがて陽光燦然と輝く世になるなり。それまでは汝、夜の闇を照らす淡き一筋の光となれよ。汝の教えは、ヨモツ国に広がり行くならん。ヨモツ国の東、カナンの地は、東と西、言い換うれば火と水を結ぶ重大因縁の地なり。今や神界は、正神のお出ましにお邪魔致さんとする邪心悪神が暗躍し、人間をも気ままに操り、この逆法の世はますます渾沌の度合いヒドクなりゆけば、まず汝に仮の方便として水の教えを広めしめんとして、汝をヨモツ国に龍神体のひと鱗とばして降ろし給いしなり。
光の中の声は、少しだけ落ち着いた。
――されど、深く思え。汝がみ魂は火の直系にして、火は日・陽・霊なり。故に吾、汝の「父神」と申せしは、吾は「四十八神」を統べる「サシスセソ」の「スの神」にて、支国に現れましては「弥栄の神」なれど、汝は「天津神」たる吾の愛し子にて、国津神の最初の代にて火の直系たる日出の神の分魂なればなり。それ故、吾を「天の父」とも申させしなり。これまで汝を分魂として地の上に降ろし鍛え参りしも、今世のためなり。「神」、汝を使うよ。汝ただ真ス直になりて、己を捨て、人々がやがて霊主の世を迎え得るよう歯止めかけ、人々を救えよ。救いの主となれ。それこそメシアなり。
そのころから、イェースズは嗚咽を始めた。涙がどんどん目にあふれてくる。
――これまで『大根元神』の直系のみ魂、現人神のスメラミコトとして遍く世を統治め参りしも、人々の穢れ一度ミソがんがための大かえらくにて、これより後のスメラミコトは、五島のみのスメラミコトとならん。汝の責、いよよ重きよ。さらに神鍛えも多く、人々の誹りをも受くるに至らん。されど、「神」は常に汝とともにあり。常に見てあるなり。忘るることなかれ。すべてを「神」に任せおけば、「神」、汝のやりやすきように仕組まん。
イエスの嗚咽は続いた。全身の震えが止まらない。
――この示しは重大なる神界の秘儀なれば、書き記すなかれ。今世の人類に告げ申すべからず。己が心内に秘めおきて、ただ己の精進の糧とし、そのカケラを語りて教えを広めん基とせよ。
クラウィ山山頂の肉体の中に戻ったイェースズは、それから三日ほどずっとむせび泣き続けた。今までどんな預言者にも告げ知らされなった大宇宙の秘め事を、自分には示されたのだ。それは感動と感謝以外の何ものでもなかった。
そしてある朝、意を決してイェースズは立ち上がった。この感動を、人々にも分かち与えていかなければならないと思ったのである。
昔の預言者と違って、すべての啓示をあからさまに人々に告げられないというところにもどかしさはあったが、今は時代が時代なのだと自分に言い聞かせて、とにかく彼は山を降りることにした。
そうして日数をかけて泊まり歩き、川に沿って北上して、トト山のある平野にたどり着いた頃には山の木々はすっかり葉を落としていた。




