幽界探訪・2(地獄)
円盤は急上昇した。そして再び精霊界に戻った。
――では、いよいよ本当の幽界、つまり霊層界に行くぞ。
――それは、どこにあるんです?
――あの山の向こうだ。
老人が指さした山は、現界の距離を表すどんな単位でも測れそうもないくらい遥か遠くにある。それでも、天に向かって巨大にそびえ立っている山だ。あんな遠くまでは、どんなに円盤がスピードを出してもかなりの時間が必要だろうと思われた。
しかし、次の瞬間には、円盤はもう山のふもとまで着いていた。老人とイェースズは、円盤から降りた。
ここは時間という概念がないだけではなく、空間という概念もないようだ。
――この先はもう、円盤はいらない。
と、老人は心の声で言った。
あたりは針葉樹林で、シンと静まりかえっている。
ところがイェースズがふと目を上げると、山がすごい勢いでこちらに向かってくる。
イェースズは絶叫した。押しつぶされると思ったのだ。雪の住処の数十倍はあろうとも思われる山が、自分目がけて迫ってくる。
だが次の瞬間、山の頂からふもとにかけてさっと真っ直ぐに縦の割れ目が生じ、それが次第に開いていった。まるで巨大な神殿の大扉が、ゆっくりと開くようだった。
そしてイェースズは山が割れて開いた大扉の奥へと、吸い込まれるように飛行していった。
山の向こうは、石ころだらけの川原だった。目の前には大河が横たわっている。ガンガーやシムの国の黄色い河も果てしなく広かったが、この大河はその比ではない。対岸は全く見えずまるで一面の海のようだが、それでも川であるという意識が鋭敏に彼の中であった。
いつの間にか老人はいなくなり、イェースズは一人だった。そこでとぼとぼとイェースズは、川原を歩いた。気がつくと、薄茶色の衣を着た白い髪の老婆が突然現れ、うずくまってこちらを見ていた。
――あんた、まだ本当に死んじゃいないね。
イェースズはいきなりその老婆に、想念で呼びとめられた。
――わしが誰かって? わしはここを通るものから、一切の執着をはぎ取るという修行をしておる。現界への執着を完全に取り払らわねえと、この川は渡れねえ。それでも渡ろうとしたら、執着の重みで沈んでしまう。霊界へは、現界で得た地位も名誉も財宝も、一切持って行くことはできねえ。
――沈んでしまったらどうなるんですか? 一度死んでいるんだから、もう死なないでしょう?
――地獄まで流れていくさ。まあ、無事に渡っても、自分の足で選んで地獄へ行くものも多いがね。あ、そうそう、思いだした。
老婆の口調が、急に変わった。
――あんた、これから地獄へ行きなさるんだよのう。
――え? 私が地獄に?
――あんた、聞いとらんのかい?
――はい。
――そうかい。地獄を見物に行くものがもうすぐここを通ると聞いたが、あんたのことだろう。気をつけなされ。地獄は恐いところだ。あんたのように見に来ただけの人にとってはなおさらだ。地獄に落ちるものは自分で選んで地獄へ行くからいいが、あんたは違う。
イェースズは大河に目を向けた。この向こうに地獄があるんだろうかと思って再び振り向くと、もう老婆はいなかった。それと同時に空には黒くもがたれこめ、あたりは薄暗くなった。川原には石が無気味に積み重ねられた石の小塔が、いくつも林立していた。
イェースズはまた何かに引っ張られるように足を進め、ついに川岸の水打ち際まで達した。そしてそのままさらに足は進み、気がつくと彼は水面の上を歩いていた。さらに二、三歩水の上を歩くと再び体が宙に浮き、猛スピードで水面の上を飛行していった。
気がつくとイェースズは、真っ赤な世界にいた。果てしなく広がる砂漠のような大地、そして空、遠くの山波も、すべてが赤一色だった。この荒涼たる風景に、イェースズは身が縮む思いがした。そんな風景に中にたった一人突っ立って、身動きもできないのだ。
その時、隣にいつの間にか例の老人が立っていた。
――霊界の中でも幽体で生活する所が幽界で、そこはいくつもの階層に分かれているから霊層界ともいう。まずはその最下層の世界から見てもらう。
――つまり、地獄ですね。
――そう。現界ではそう呼ばれている世界だ。あそこの岩影にも、地獄への入り口がある。
そう言われて老人の指さす方を見たが、イェースズには果てしなく続く赤い荒野が見えるだけだった。
――もっと霊的な力を上げて、強く念じるんだ。
言う通りにすると遠くに山が現れ、ふもとにどす黒く丸くなっている所が見えた。かなり遠くだが、鋭敏となった視覚ではよく見える。
――行くぞ。
かなり遠くであったにもかかわらず、老人とともにイェースズは三歩ほど歩いただけでもう山のふもとにいた。そこには黒煙が立ち込め、悪臭を放つ大きな穴があり、老人がそこに入っていくので仕方なくイェースズも従った。
どこまでも続く長くて暗い洞窟だった。その中の道は、どんどんと下降していく。そのうちかなり広い所に出たが、視界はよくきかない。かなりの広さがあるようだったが、視界を遮っているのはどす黒い霧で、さらに鼻をつく悪臭にイェースズは耐えているのがやっとだった。とにかく、薄暗い世界なのだ。
やがて闇の中に、多くの人がうごめいているのがイェースズにも分かった。ところがイェースズたちがそばに来ると人々は悲鳴をあげ、一目散に逃げ失せてしまう。
――彼らには、我われが光のかたまりにしか見えないのだ。この霊流は、彼らにはとてつもない苦痛なのだよ。
そう言われて自分のからだを見てみても、そこには普通の体があるだけだ。
しばらく行くと、ここにも林があった。そこまで長い時間がかかったのかほんの一瞬だったのか、とにかく時間の感覚がない。
空にも一面にどす黒い雲が立ち込めているが、その一角だけほんの微かにぼんやりと明るかった。林の中にはたくさんの人影がいて、林を埋め尽くすような数でうろうろとさまよっている。イェースズは息をのんだ。
腹の底から絞り出されたような不気味なうめき声や悲鳴をあげながら、あてもなく人々はさまよっている。うめき声の充満の中のその人々は生気というものがまるでなく、その姿にイェースズは背筋が寒くなった。あるものは顔が半分つぶれ、全身血みどろの人もいる。ほとんど髑髏状の人もいて、まさしくそれは亡霊の姿だった。
そのうち、林の一角で叫び声が上がった。頭のはげた男が近くにいた男につかみかかり、思いきり殴っている。さらにはそばにあった石で、その男の頭蓋骨を砕いた。イェースズは口を開けて、呆然とそれを見ていた。周りのものは止めるどころか、たちまち加勢している。
――やめろ!
ついに黙って見ていられなくなって、イェースズは叫んでその方へ走っていった。やはり人々は、クモの子を散らすように駆けて逃げていった。
――こういう世界なのだよ。ここの人々は他人に苦痛を与え、他人を支配することを喜びとしている。
イェースズはいたたまれない気持ちになった。なぜこのような世界があるのかと、イェースズはもう逃げだしたくなった。
さらに地下におりる階段があり、老人とともにそれを下ると遥か遠くまで見渡せる高台の上に出た。見渡せるといっても大地は限りなく暗い。現界の夜の暗さとは、また違う意味の暗さだ。その一角に、町があった。かなり遠いが、そこだけ薄ぼんやりと明るい。
――目を閉じて、霊の目を開け。
老人に言われて意識を上げると、遠くの町なのにその様相がよく見えた。見ようという想念で、対象物の方がこちらにぐっと近づいて来るようだ。町の細部まで手に取るように分かる。
家は皆あばら家で、その間を無数の人々がうごめいている。灰色系統一色に塗りつぶされた町は、見ているだけで悪寒が走る。故国に地の民の町もアーンドラのスードラの町も、ここに比べれば天国だ。
――あの人たちも、現界にいるときはまともな姿だったのだ。
前にも老人から聞いたように、ここでは想念通りの姿になってしまうということだ。道徳も法律も律法もない世界だから、悪の想念を秘めたものはその悪が表に引きずり出されてあからさまになる。
そしてよく耳を澄ますと、町のあちこちで互いにののしりあう声も聞こえた。争っている人々はどちらも自分のことばかり主張し、思う存分言いたいことをぶちまけた後は必ず暴力沙汰になる。
それも石で頭を砕いたり、首を引きちぎったりしている。首をちぎられても彼らはすでに死んでいるのだから死ぬこともできず、首のないままうろうろしている人もいる。
イェースズは、深くため息をついた。町の至る所で怒号と罵声が上がり、家と家の間の道も糞土と流血で覆われていた。
イェースズは、老人を見た。
――すべての被造物を慈しみなさる神様が、いくら罪びとを懲らしめるためとはいえ、こんな世界をお創りになったのですか。
――それは違う。この世界は神様がお創りになったのではない。最初はなかったのだ。神様が現界をお創りになったあと、現界は物質の世界だから物質の肉体はいつかは滅びるため、人は死ぬようになった。そこで霊界の中に、死んだ人の魂が次に転生するまで修行する幽界という場が必要になった。だから現界よりもあとに幽界が創られたんだ。そこには、はじめは地獄などなかった。現界すら神界そのものの天国であったし、人々も神々と自由に交信ができた。それが段々と人々が神から離脱し、堕落の道を歩みはじめたので、そういった人々の悪想念が地獄という世界を造り上げてしまったんだ。だからここにいる人々も決して神の罰で来たわけではないし、地獄は裁きの場ではない。
――地獄に落ちる人は、罰せられて落ちるのではないのですか?
――いや、違う。すべての人は神が愛する神の子だから、神はそう簡単に裁いたり罰したりはしない。ここにいる人たちは皆自分の意志で、自分で選んでここに来ているんだ。
誰がこんな醜悪な世界を自ら好んで選んだりするのだろうかと、イェースズは信じられないと首を横に振った。
――ここを選ぶはずもない人から考えれば信じられないことかもしれないが、ここを選ぶ人は外面的な喜びばかりを追及して霊的な真の幸せを感じようともせずに現界で暮らしていた人々で、自分さえよければ他人はどうでもいいという自己本位のものたちだ。肉体的、物質的な快楽の追求、憎悪、嫉妬、不平不満、怒りの想念、そういった想念は現界では内に秘められているだけだ。だが精霊界ではそれらが暴き出され、あらわになって、それ相応の姿になってここを選ぶ。神界・幽界・現界を貫く厳とした置き手、つまり掟に「相応の理」というのがある。同じような想念のものが、類は類を呼んで一つの世界を造る。そして想念通りの世界ができあがる。ここは、何から何まで想念の世界だからだ。
イェースズは、無言で聞いていた。
――だから悪の想念を持つもの同士が寄り集まって、そういう想念で造られた世界が地獄なのだよ。ここにいる人々は、ここにしか住めないのだ。仮に天国につれて行くと苦しい苦しいと言って、あたふたと逃げ出してここへ帰ってくるだろう。現界でも、こうもりはじめじめとした洞窟を好む。そんな所に普通住みたいとは思わないような所が、彼等にとってはいちばん居心地のいい住み家なのだ。そのこうもりをみんなが憩う春の暖かいお花畑のような明るい所に連れ出したら、大慌てで洞窟へと逃げていってしまう。それと同じだよ。ここにいる人々にとっては、地獄こそがその想念にふさわしい、いちばん居心地のいい所なんだ。いろんな想念の人が交じり合って生活している現界でさえ、例えば盗賊にとってはみんなが恐がる盗賊仲間のところがいちばん居心地がいいし、その一人を善良な市民の輪に入れたら場違いを感じて逃げ出してしまうはずだ。いいかい、あれをご覧。
老人が指さしたのは、空の一角の薄ぼんやりと明るい所だった。
――あれは太陽だ。太陽とはいっても霊界の太陽ではなく、現界の太陽だ。ここにいる人々は皆光を嫌うから、その想念があんな黒くて厚い雲を造り出して光を隠しているんだ。
それから、老人は歩きだした。イェースズも後を追った。そしてまた、道が下降する洞窟へと入った。
今度は、下の方がやけに明るい。しかしそれは、温かさを感じるような光ではなく、無気味な炎の明るさだった。やがて、ものすごい熱も伝わってきた。
そして洞窟を出た時、イェースズは声をあげた。一面の炎の海だった。ひと山ほどもありそうな炎の柱があちこちで上がり、それが延々と果てしない広さで広がっている。イェースズはもう、それよりも先には進めなかった。そしてその業火の中で、おびただしい数の人が焼かれていた。
――この炎は、物質の炎ではない。
と、老人はイェースズに優しく言った。
ここで焼かれている人たちの嫉妬や憎しみ、怨み、怒りの想念が現象化して炎となって、自分自身を焼いているんだ。皆他人の幸福のことなどかけらも考えずに、憎悪の心を持ち続けてきた人々なのだ。
――助けてあげたい。どうしたらこの人々を救えるのですか。
イェースズの言葉は、叫びに近かった。
――あの人たちとて皆神の子だから、神も救いたくてうずうずしている。しかしそれを頑なに拒んでいるのは、あの人たち自身なのだ。だから救われるには、自分でサトるしかない。自分の意志でサトれば救われるが、そうでない限り誰も救えない。なぜ自分がこんな世界を選んだのか、まずそれに気づいて徹底的に反省し、こりごりさせられてサトッたものは、すっと上に上がれる仕組みになっている。
イェースズはまた、ため息をついた。
次の瞬間、イェースズはさらに自分がどんどん下降しているのに気がついた。投げ出されたのは殺伐とした暗い荒野で、今までとは逆にひどく寒かった。
前方にうごめくものがいた。イェースズが近づこうとすると、老人の声が心で響いた。
――これ以上近づくと、毒にやられるぞ。
しかし、左右のどちらを見ても、例の老人はいなかった。
ここでも、あちこちで喧嘩や殺戮が行われているようだった。互いに口汚くののしりあい、暴力に及ぶ。
中には自分は神であるから従えと、高らかに吠え立てているものもいた。それに対して自分こそが神だという人が詰め寄って、そこでまた殺戮になる。ところが、ここでは殺されても死なない。だから苦しみは終わらないのだ。
イェースズは恐ろしくなって、立ちすくんでしまった。今まで以上に凶暴な人々なのだ。
――あの人たちはだなあ
また、老人の声だけが響く。
――大洪水の前に、現界に生きていた人々だ。
――大洪水って、ノアの時の?
――それもある。しかし大洪水のような天変地異は、一度ではなかった。大きいのだけでも過去に六回あった。その天変地異の直前の人たちの世界だよ、ここは。
――つまり、天変地異のような神裁きを引き起こした原因となったような想念の持ち主たちが、今ここにいるんですね。
――そういうことだ。かつては神界とも直積交流でき、地上も天国であった時代があったが、その後で人々はどんどん堕落していった。
――原罪、つまりエデンの園からの人類追放ですね。
――天国は生命の木と智識の木の均衡の上に創造された。それは火と水であり、霊と体であり、陽と陰の結合ということだ。それが神結びであり火水産霊なのだ。しかし人々は神に反逆し、神の法に逆らった想念を持つに至った。
――知識の木の実を食べたということですね。
――その意味が、分かるかな? 知識の木の実を食べたらタテの火の働きを失い、人間の文明はヨコの文明になってしまったのだよ。火と水の均衡が崩れたわけだ。そこで、物欲、肉体的感覚という外面的なものの比重が多くなって、そこから堕落が始まったんだ。
――人間の方から、神に背いたということですよね。
――そのへんになると、神の世界の方にももっと深い事情があるのだが、それは天界の秘め事であり、まだはっきりと告げるわけにはいかん。
イェースズの目の前に広がる暗黒の世界の中でうごめく人たちは、巨大な影のように実体はよく見えない。
――そこにいるそれらは、現界にいたときは皆英雄だった。しかし、物質的な力で英雄の座を勝ち得たもので、生きているうちから人々によって神と崇められ、ここへ来てからもその感覚を持ち続けているのだ。
そして、姿の見えない老人は、その後のイェースズの想念まで読み取って言った。
――ネピリムだよ。
やはり、とイェースズは思った。神の子たちが人の娘たちの所に入って、娘たちに生ませた存在。昔の勇士であり、有名な人々と「創世記」には書いてある。つまり、物質的欲望を満足させた結果生まれた存在で、ネピリムとは堕落した人々、物質欲のみに生きてきた人々なのだとイェースズははじめて知った。
――よく分かったな。
――でも、彼等とて、本来は神の子でしょう?
――確かにそうだが、だがあれらは自分の手で魂を汚し、落ちるところまで落ちたのだ。つまり、自分で自分を裁いているのであり、決して神の裁きではない。地獄といえども幽界の一部であって、そこに存在が許されているだけでも神の愛の残り火だ。神の本当の裁きは、もっとほかの所にある。そしてあれらの毒は全霊界に影響を及ぼし、さらには現界にも達している。霊界と現界は写し鏡だから、彼等の毒は現界で物質化しているのだ。
イェースズはすぐにローマ帝国やその他の国の暴君のことを思いだした。
――その通り。みんなあれらの影響だ。
と、老人の想念は言った。
――しかしそのようなものは、間接的なものだ。霊界現象の現界への影響にはもっと直接的で、しかも性質の悪いものもある。
老人の言葉がそこまで来た時、イェースズは我慢の現界を越えた悪臭に包まれ、頭がクラッとし、嘔吐感さえこみ上げ、その場にしゃがみこんでしまった。
見ると、周りをいくつもの光る目で取り囲まれていた。イェースズは逃げようと思ったが、あまりの恐怖に足が地について動かない。
多くの目玉は、じわじわと近寄ってくる。その眼光は闘争心と憎悪に満ちており、つかまったら八つ裂きにされるのは目に見えていた。
その時イェースズの脳裏に浮かんだのは、いつも病人などを癒していたあのパワーだった。そのパワーを病人を癒すためではなく、目の前に迫りつつある魑魅魍魎に放射しようと彼は思ったのだ。
しかし、直接手を当てるには距離がありすぎるし、そうでなくてもさすがにためらわれた。仕方がなくイェースズは、迫ってくる目玉の一つに向かって手のひらを向けた。ここは空間の概念がないのだから、もしかしたら直接手を当ててなくても空間を超越してパワーは届くのではないかと思ったのである。
イェースズは意識を高めて高次元エネルギーを凝集し、その宇宙のパワーを生体エネルギーとして、手を通して放射した。とたんに自分の手のひらからものすごい閃光が発せられるのをイェースズは見たので、自分でも驚いてしまった。
閃光は光の束となって、相手へと飛んでいく。その瞬間それがあたりの闇を照らし、目玉の正体も見えた。口が耳まで裂け、目がつりあがった形相の、地上のどこにも生息していないような無気味な化け物の姿がそこにあった。長くて太いしっぽまである。
しかし、そんな異形の怪物の姿をじっと見ている暇はなかった。それらはイェースズの手の光が当たると一斉にもがき苦しみ始め、そして一目散に逃げていってしまった。
それらを苦しめるためにそうしたわけではなく、何とか救わせて頂きたいというのがイェースズの本心だったが、それらにとってはイェースズの光はまばゆく熱く、この上なく苦しいものであったようだ。
それよりも今見た光景に、本来の神の子がこのような醜いという言葉では表現できないような程の異形になってしまっていることに、イェースズはやるせなさを感じていた。
ところが次の瞬間、イェースズの体自体が黄金の光に包まれた。そして見るみる上昇感を味わい、光のドームの中を実際に上昇していた。
気がつくと彼は、最初に来た赤茶けた一面の広大な砂漠の中に再び立っていた。しかし、どんなに荒涼とした真っ赤な砂漠であっても、今の彼にはほっとして深いため息をつけるような感覚だった。地獄からは脱出できたのである。
――イスズ。
と、彼は不意に自分の名を呼ばれて振りかえっすると例の老人が、いつの間にか再び隣に立っていた。
――霊の意識のレベルを高めるんだ。
前にも言われたことがあったので、同じようにしてみた。すると不思議なことに、一面の砂漠だったはずなのに、遠くに巨大な山脈が見えはじめた。そしてその山と山の間、ちょうど胸の高さあたりから日がさしはじめた。
朝なんだなとぼんやり思っていたイェースズだったが、太陽は昇るでもなく、同じ位置でどんどん光を増してきていた。
そこでイェースズは、もう一度あたりの風景を見ようとした。そしてさらに驚いたことに、太陽は自分が顔を向けた方角の真っ正面に常にある。いろんな方角を向いてみたが、どの方角を見ても太陽は胸の高さあたりの真っ正面にあるのだった。
――あれが霊界太陽だ。見るものの霊の意識のレベルによって、光が違ってくる。あの太陽は光と熱だけではなく、霊流という神のみ光を注いでくれるのだ。この霊流がないと、この世界で人々は霊として生きていけなくなる。
イェースズはよく分からないので、小首を傾げていた。
――霊層界の最下層を見てきたが、これからは軽労働界からもう少し上の温暖遊化界まで探訪だ。あの山の向こうに行こう。
老人が指さしたのは、現界の距離感覚では歩いて何十日もかかりそうなほどの果てしもない遠くにそびえる高い山だった。だがいつものことで二、三歩歩いただけで山のふもとに到着し、さらには山をも突き抜けて向こう側へとイェースズと老人は瞬時に移動していた。
そこはちょっとした高台で、見渡す限りの大地に、一面に村が広がっていた。面白いことに、どの村もそれぞれ家はすべて同じ形で、幾重もの同心円を描いて村の中の家は並んでいた。
だが、一つの村の中の家はすべて同じ形だが、村と村では同じ形の家はなかった。多くの村が点在する広大な盆地の向こうは先が尖った山の壁で、まるで全体が氷でできているかのように山肌は透明に光っていた。
不思議なことに、地上ならそのあたりが視界の限界になり、山がなくても地平線で終わるが、ここでは山のさらに向こうに大地が広がって、それがまるで空に向かってと湾曲しているかのように地上では考えられないくらい遠くまで遥かに見渡せる。
そしてその向こうは地平線になって終わるのではなく、空へと溶け込んでいた。ここでも、顔を向けた方の胸の高さに、いつでも太陽は輝いていた。
老人に促されて歩きだしたイェースズは、やはり二、三歩で高台の遥か下に見えていた村の一つにたどり着いた。周りは森になっている。
ところがその村の中で、イェースズは悲鳴を聞いた。そばによってみると、若い男が自分の首をしめている。
「おやめなさい」
イェースズは叫んでその男のそばに駆け寄り、首をしめている腕をつかんで離そうとした。だが、すごい力だった。
「いったい何をしているんです。死んでしまうではないですか」
そこまで言ってイェースズは、この若者が一度死んでこの世界に来たのだからもう死ぬわけはないということにはっと気づいたが、しかし死なないだけに苦しみは延々と続くだろう。
それでも何とか若者の腕を押さえ込んだイェースズに、若者は息を切らしながら言った。
「おお、光り輝くお方。自分でも何でこんなことをしてしまうか、分からないんです。地獄の悪霊が、僕に入ってくるんです。いつも足の方から入ってきて、気がつくとこうして自分で自分の首をしめているんです。光り輝くお方、助けて下さい」
「そんなことって……」
――本当にあるんだよ。
と、後ろから歩いて来た老人が想念で言った。そこでイェースズは霊の視覚を少し高めてみると、口が耳まで裂けて赤い舌を出した異形の悪霊が、若者と二重に重なって見えた。悪霊はイェースズの方を見て、無気味に笑っていた。
イェースズはふと気がついて、先ほど地獄でしたように悪霊に向かって手のひらを向け、パワーを放射した。ここでも黄金色の光の束が手のひらから飛び出して、若者に当たっているのがよく見える。たちまち悪霊はのた打ち回って、退散していった。次の瞬間若者はすっと浮上し、空の上まで上がっていって見えなくなった。
イェースズが呆気に取られていると、老人はその隣でにこやかに微笑んでいた。
――おまえさんの今のパワーは、大昔は誰でもできた業なのだよ。
平然と言って、老人は驚いているふうもなかった。
――今の人はなぜ、空に昇っていったんですか?
――おまえさんのパワーで魂が浄まったから、上の世界に昇っていったのだろう。悪霊は離脱した。
――上の世界?
それには答えず、再びイェースズとともに歩きながら老人は話を続けた。
――しかし、いくら浄まって上の世界に昇っても、本人のこれからの想念次第ではまたここまで落ちてくることはあり得るし、あの邪霊も戻ってくるだろう。邪霊にとり憑かれるということは、どこか波調が合う想念があるからだからな。
――どうして地獄の霊が、こんなところに?
――やつらは我欲のかたまりだから。自分たちの地獄より上の霊界の人々が妬ましくてしょうがないんだ。だから、ちょっとでも波調の合うものを地獄に引きずり込もうと、憎悪と嫉妬だけで虎視眈々《こしたんたん》と狙っている。
――そんな、別の人の中に入りこむなんて……
――ここだからまだ自覚できるからいいが、現界では大変だな。
――え? 現界の人のまで、悪霊は入りこむことがあるんですか?
驚いて老人を見るイェースズに、
――そんなのは、ざらだ。
と、老人はさらりと言ってのけた。
――現界の人の肉身に入り込むのは、もっと簡単だ。なにしろ現界の人は、悪霊に入り込まれていることを自覚できない。それだけに厄介でもあって、現界人は悪霊に操られていても、自分の意志でやっていると思っているから始末が悪い。
――悪霊が憑いている人は、どれくらいの割合でいるんですか?
――まず、ほとんどの人がそうだと言っていい。それでも本人の霊力が強ければ表面に出ることはないが、場合によってはその人の人格すべてを支配してしまうこともある。
――でも、人の肉身に憑かるなんて、そんなことが許されるんですか?
――もちろん、よくない。そのようなことをしたら幽界脱出の罪といって、何百年も地獄で苦しむことになる。
――それなのに、そんなにも多くの人が憑霊されているなんて……。
――いけないことなのだが、やろうと思えばできてしまう。つまり、必要悪として許されているのだろう。あのさっきの若者にしてもそうだが、皆それぞれ因縁があって邪霊に憑かれてしまう。やはり、波調が合ってしまうということだ。
二人が歩く道は、いつの間にか森の中へと続いていた。ここでも木々や地面、小鳥のさえずりなど現界と何ら変わりはない。
ただ一つ違うことは、顔を向けた方に常にある太陽だった。太陽が昇りも沈みもしないだけに時間の感覚がないようで、イェースズはこの世界に来てから今までどれくらいの時間がたったのか、皆目見当もつかなかった。
ここへ来てから一度も夜になっていないし眠ってもいないのでまだその日のうちのはずだが、もう何日もたったような気もした。
――あの太陽からの霊流は、神の光といってもよい。つまり、神の愛の具現そのもので、すべての魂に平等に注入されている。
――あの地獄の霊にもですか?
――もちろんだ。しかし地獄霊たちは自らの想念で雲を作って、神の愛の霊流を自ら拒否している。現界人でも己の罪や穢れで魂を覆い曇らせ、自ら霊流が入り込みにくくしている人も多いがな。
――現界人にも、霊流は注がれているのですか?
――あたりまえだよ。現界人とて物質の肉体という容器に入っているだけで、本質は霊だ。現界人の肉の目には、霊界の太陽は見えないだけだ。
ここ霊界は、現界人の人知という既成概念は無意味になってしまう世界らしい。
しばらく歩くと、前方の森の木々の下で人の頭ほどの石をせっせと運んでいる人々の集団に出くわした。皆黙々と石を運び、森の中央の広場に積み重ねている。石の山は、もう空にそびえるほどになっていた。それでも人々は長い行列を作って、あとからあとから石を運んでくる。
イェースズは好奇心から、その集団の中の一人の若者の前に立った。
「うわッ!」
若者はすぐに目を覆い、地面にひれ伏した。周りの人々もまた、石を放り出して同じようにしている。
「大いなる光の御方。あなたは神様ですか?」
ひれ伏したまま、若者は言った。そんなことを言われて、慌てたのはイェースズの方だった。
「違います。私は神様なんかじゃあない。どうか、お立ちください」
――意識のレベルを下げないと、彼等からはおまえさんは光のかたまりにしか見えんぞ。
言われた通りにイェースズは、自分の姿を現すように意識した。びっくりしたような顔で、人々は地に座ったままイェースズを見上げていた。
「何のために、石を運んでいるんですか」
だが、その疑問に即答する者はいなかった。なぜか、互いに顔を見合わせたりしている。確実に彼等は困惑していた。自分たちが考えたこともないことについて尋ねられ、当惑している想念がイェースズに伝わってきた。
「分からないんですか?」
と、もう一度イェースズは聞いてみた。
「はい、分からないんです。こうして石を運ぶのは当然と思っているからやっているだけです」
「もう、どれくらいやっているんですか?」
「どれくらいって、どういうことですか?」
「どのくらいの時間、やっているんですか?」
「どれくらいの時間って、どういうことですか?」
この世界には時間の観念がないのだったということを、イェースズは思いだした。彼らの方も、イェースズのことを奇妙な人だと思い始めたようだ。そして彼らはもう、なにごともなかったように作業を再会していた。
イェースズの肩に、老人が手を乗せた。
――なぜこのようなことをやっているのか、彼らは分からなくて当然だ。分からないからやらされているのだ。
――どういうことですか?
――なぜこのようなことをしなければいけないのか、なぜさせられているのか、それをサトるまでこの行は続くということだ。ここはそういうサトリの世界なんだ。なぜこういうことをさせられているのかをサトれば、すっと上の世界に上がったりもする。現界でいう時間がここにはないから彼らはどのくらいやっているかも分からんだろうが、現界の時間でいえばもう二百年は毎日やっているな。
「二百年!?」
思わずイェースズは、叫んでしまった。
――毎日といっても、現界のように朝から晩までというわけではない。
――では、ちゃんと休憩もするんですね。
――いや。その逆だ。朝から晩までではなく、現界的に言えば朝から次の日の朝までぶっ通しということだ。この世界には夜などというものはないからな。現界の肉体を持った人と違って、睡眠というものも必要ない。
――二百年も、つらくはないんですか?
――つらくても、逃げだそうという意志は持たないのだよ。しかし、決して幸福とは言えまい。彼らは罪穢消しをさせられているんだ。ここは現界での罪穢を消していくための修行の場でもある。
――では彼らは何をしたから、こんな石積みをさせられているんですか?
――石を積むということは、それほどまでに罪穢を積んできたということをサトレということだ。
――彼らも悪人なんですか?
――地獄に落ちるほどの悪人ではないにしろ、些細な罪穢を本人もそれと気づかずに積んできてしまったのだ。現界では一応外面は善人で通っていた人たちだろう。
――では、そうだと教えてあげればいいじゃないですか。
老人は静かに首を振った。
――他人が教えても、彼等が自分で自らの魂の本質からサトらない限り救われないのだよ。救われるためには、自分でサトるしかない。そういう意味では、ここは厳しい世界なんだ。決して他力にすがっていればいいというわけにはいかない。
石運びの集団をあとに、二人は再び歩き始めた。やがて森が切れ、二人はまた高台の上に出た。目の下の盆地には、限りない広大さにもかかわらず数々の村がひしめきあっていた。
――あのう、救われるとか上の世界とかって……。
――あの空を見なさい。
と、老人は言った。イェースズがそうしても、ただ瑠璃色の空があるだけだった。
――よく見てごらん。
それでも何も見えないので、イェースズは小首を傾げた。
――肉の眼ではなく、霊の目で見るんだ。霊の目はここだ。
老人は、自分の眉間を示した。
――ここで見るんだよ。ここにもう一つの霊的な眼がある。
そこにイェースズは意識を集中させた。そして、
「あっ!」
と、声をあげた。空中に垂れ幕のようなものが薄ぼんやりと見え、それが次第にはっきりした実体になっていった。しかも空中のその実体には同じように山があり、木々が生えている。
――あれが上の世界だよ。
と、老人は言った。
気がつくとイェースズは、再び光のドームの中にいた。ものすごい勢いで体が上昇し、ぱっと広い所に投げ出された。そこは今までいた所とは、別の世界だった。
やはり見晴らしのいい高台の上に、イェースズは白髭の老人とともにいた。太陽は依然として真っ正面にあるが、かなりその光度を増していた。
そのせいか、先ほどまでいた所よりも全体的に明るく、暖かく感じられた。すべてが明るく輝く世界だった。
眼下の盆地にはやはり同じように、無数の村がひしめきあっている。本当にこの世界は果てがないようだ。
大地は空の彼方まで永遠に広がりを見せ、遠くには湖も見える。さらに巨大な三角形の山がいくつも連なって、天を突いている。それらすべてが、手に取るように見えるのだ。
――ここが上の世界だよ。
と、老人は言った。目の前に明るく輝いて展開する大パノラマに視点を奪われながらもイェースズは小首を傾げた。老人は速やかに、そんなイェースズの想念を読み取って言った。
――霊界は一つだけれど、段階はいくつもあるんだ。
イェースズは驚いて老人を見た。
故国の教えでは、人が死んだ後の世界は天国か地獄という二元論だった。サドカイ人などは、聖書に載っていないというだけの理由で霊界の存在さえも否定する。
今この世界に来てイェースズは、現界の宗教の教義がいかに人知のみで作られた浅はかなものであったかを痛感していた。いかなる宗門宗派の教義も、今実際に体験している霊界の実相の前には単なる人知による観念遊戯にすぎない。
霊界は一つなのに、それぞれの宗教が自らの正統性を主張して争うなど、何と愚かしいことかと感じる。
ただ、霊界は一つだが段階はいくつもあると老人は言っていた。事実、今イェースズは下の世界からこの上の世界へと来た。
――まだまだ、ここより上の世界があるんだぞ。
――霊界の段階って、そんなにあるんですか?
イェースズは風景から老人に目を映し、その顔を食い入るように見つめた。
――いいかね。霊層界の最下層は、最初に行った地獄界だ。そして上に行くほど、段々と天国になっていく。地獄をのぞいても、霊界のうち幽体を持つ人々の住む幽界は、大まかに上・中・下の三つの段階に分かれている。つまり温暖遊化界、軽労働界、重労働界だ。しかし、さらに細かく分ければ、二百以上の段階に分かれている。
――え? 二百も?
こうなると、天国と地獄の二つどころではない。
――さらに上の世界では、幽体をお持ちになっている神々の世界、龍神界がある。
イェースズがかつてアーンドラのブッダ・サンガーにいた時に読んだスートラにあった第四トゥシタ界というのが、それのことだなとイェースズはひらめいた。
トゥシタ界は浄土である内院と穢土である外院があると書いてあったが、この幽界が外院、龍神界が内院なのだろうか……そう思っていると、
――正確にはその内院という世界には、幽体さえいらない世界もある。
と、イェースズの想念を読み取った老人は言った。
――それがハセリミ神界。天地創造の神々がおわします世界だ。さらにその上に、
――まだ、上があるんですか?
――あるとも。現界が第三の界、ここが第四トゥシタ界がハセリミ神界と、その一画が幽界となっている。
一画といってもこれだけ広大な世界が幽界だ。それが一画というのなら、ハセリミ神界がどれほど広大な世界なのかは想像を絶する。
――その上には第五カゴリミ神界、第六のカガリミ神界あって、そこは「大天津神」様の世界だ。見たまえ。
老人は、前方の太陽を指さした。
――あの太陽の光は第八の界、つまり宇宙最高の世界から発し、あまねく大千三千世界の諸霊を貫いている。つまり、万物の存在の根源なのだよ。
――『大根元の神』は、第八の界におられる。
三次元と四次元でさえこんなにも違う世界なのに、八次元など到底イェースズには想像に余る世界だった。
――『大根元の神』は唯一絶対神、宇宙最高の『神様』は奥の奥のそのまた奥の『神様』で、おまえさんがたの聖書とやらに書かれている「神様」よりずっとずっと上なのだ。聖書の「神様」は大根元神の御意志によってその体の面を担当され、実際に世界をお創りになった造り主の「神様」で、いわば国祖だ。事情があって、今はお隠れになっているが。
――お隠れになっている? 事情とは?
その問いに、老人は答えることはなかった。決して言ってはならないことを隠すように、その口は貝のように閉ざされた。それからしばらくして、
――村に行ってみよう。
と、だけイェースズに言った。
老人のそぶりが気にはなったが、とにかくイェースズは老人に従うことにした。
坂道を下ると、一つの村があった。すべてのイェースズが木造でトンガリ屋根という全く同じ造りで、同心円状に何重にも丸く配置されている。その間を、人々が行きかっていた。寸分違わぬ家がよくもこう並んでいるものだとイェースズが驚いていると、村人達はニコニコして寄ってきて、
「こんにちは」
と、明るくあいさつをしてくれる。そのあいさつは陽の気に満ち、善意が込められていた。イェースズがいちいちそれに答えていると、老人はどんどん行ってしまうので、イェースズは慌ててそれを追った。




