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人間・キリスト  作者: John B.Rabitan
第2章 東方修行時代
34/146

幽界探訪・1(精霊界)

 気がつくとイェースズは、老人と二人で荒野の真ん中に立っていた。

 恐ろしくなるほど広い荒野で、地面にはわずかばかりの草も生えている。

 ずっと遠い遥か彼方を山脈がぐるりと取り囲み、そんな遥か彼方であるにもかかわらず山は中天近くまでそそり立つ岩山だった。

 あたりは何となく明るく、しかし光源はどこにもなくて、自分たちの影がないことにイェースズはすぐに気がついた。

 ここはどこなのだろうと思って、イェースズは老人を見た。すぐに、老人の言葉が胸の中に響いた。


――ここは人が死んだら、最初に来る所だよ。


 心で思っただけのことがすでに老人には伝わっており、相手の言葉も肉声ではなく心に響く声として伝わってくる。

 これまでたびたび遭遇した異次元体験での御神霊との遭遇の時と、ちょうど同じなのだ。ここはもはや肉声は不要の世界のようで、もっとも今のイェースズ自体が肉体として存在しているのではないようだ。なぜならついさっき、彼はクラウィ山の祭壇岩の上に残してきた自分の肉体を外から見たばかりである。

 しかし、立っている感触といい目に映る風景といい、肉体の世界と何ら変わりはない。

 イェースズはしゃがんで、大地に生えている草を手にしてみた。その感触も普段となら変わりなく、草自体も普通の草である。

 ただ、風景が限りなく広いことと、現界では決して見ることのできない遠くの高い山というのが異様だった。故国でも、悠久の大地と思えたアーンドラやシムの国でも、これほど広い盆地はなかった。


 老人に促されて乗ってきた円盤にイェースズが再び乗ると、円盤は広い原野の上を滑りだした。

 いつの間にか円盤は高台にいて、さらに広い盆地が眼下に大パノラマとなって展開された。ところどころに小高い丘があり、遠くには大きな湖が遥か彼方の山すそまで広がっている。丘と丘との間には林もあり、いくつかの家が建っているのも見えた。

 家は今までイェースズが現界でいた国のものと同じ、わらを円錐状に積んだ竪穴式の家だ。その林の一つに向かって、円盤は急速に近づいていった。大地に降り立つと、林の木々の梢からは小鳥のさえずりさえ聞こえてきた。

 イェースズがあたりをきょろきょろしていると、不意に家の中から若者が出てきた。やはり黒い髪と黄色い肌の人だ。


――あれ? 


 若者の声が、イェースズの胸で響いた。その若者と、イェースズは目が合った。


――あんた、新しく来たんかね。


――は、はい。イェースズも、心で答えた。


――そうかね。今はまだ状況がのみこめないだろうが、心配するこたあねえ。わしらも最初は戸惑ったが、慣れればここの方がずっと地上よりも暮らしやすいんじゃ。


 若いくせに、その口調はいやに年寄りじみていた。イェースズの隣にいる老人は、ただ微笑んでいるだけだった。


――わしゃあ地上で八十一歳の時にここへ来たが、そう、地上ではもう十年くらいたったかのう。ここには時間という概念がないからようわからん。


 イェースズがまだいぶかしげな表情をしているうちに、若者は行ってしまった。あの若さで八十一とは……。その想念を読み取って、老人が心の声で言った。


――この世界は現界でどんな年齢で亡くなっても、おまえさんくらいの年齢になる。年寄りは若返り、子供は成長して若者以上にはならない。


――そんな……。


――これからもっと驚くことがあるぞ。


 老人が歩きだしたので、イェースズもそれに従った。

 そして二人は、湖畔に出た。小鳥のさえずりのほかは、何の音もない静寂の世界だ。しばらく歩くと、湖畔で一家族と思える四人が座って食事をとっていた。父、母、そして二人の男の子だ。

 イェースズは、それに近づいて行った。


――あんた、一人でここに来たのかね? 


 父親と思しき人がイェースズに目を向けた。


――いえ、あの、そのう。


 答えに窮したイェースズは、隣の老人を見た。そして、ふと心の中に疑問がわいた。先ほど老人は、ここでは皆若者になると言ったのに、目の前の家族には子どもがいる。


――皆同じ年齢になると言っても、すぐにではない。段々とそうなっていくんだ。その速さが現界よりも速いということで、地上で十八年かかる成長が一年くらいしかかからないし、年寄りは同じ速さで若返っていく。老人や子どもがいるとしたら、それはまだ来たばかり、つまり亡くなったばかりの人だ。


 心の声さえ発していなくても、疑問を感じただけで伝わってしまい、即座に返事がもらえるから便利といえば便利だが、


――わしは特別なのだ。


 と、返事が返ってくるときは、失礼な疑問まで伝わってしまったことになって、それは困ると感じた。誰でも若者になるなら、自分を案内しているこの老人はなぜ老人なのかとイェースズは考えたのだ。

 そんな想念のやり取りを、目の前の家族の父親は読み取っており、少なからぬ驚きの表情を見せた。


――この人は特別な人なんだ。


 と、イェースズについて考えていることが、イェースズにはありありと分かる。


――あんた、本当はまだ地上で死んでいないね。


――ええ、この方に案内されて来ました。


――なるほどそれで、まだ霊波線がつながっている。


 イェースズが先ほど見たクラウィ山の祭壇岩の上の肉体と今の自分をつなぐ二本の銀の糸のことであると、イェースズは説明されるまでもなく分かった。相手の想念が伝わってくるから、説明されずとも相手の考えていることや言ったことの根拠が分かるのだ。今の二本の糸はイェースズの体から出て、空中にずっと延びて見えなくなっていた。


――その霊波線が地上の肉体とつながっている限り、あんたはまだ死んじゃあいない。


――その通りだ。


 隣で老人が相槌を打つ。


――おまえさんは特別にここに来たのだから、また再び肉体に戻れるように霊波線はそのままだ。普通の人は、霊波線が切れてはじめてここへ来る。そうすると肉体は冷たくなって硬直し、やがて腐りだしてもとの土に返る。


――死とは、そういうことなのですね。


――そうだ。死とはすべてが終わって無になることではなく、ただ霊魂が肉体という乗り舟を乗り捨てるだけのことだ。霊魂は死なない。このご家族は死んだ後も、ここでこうして生きて暮らしている。だから人が死んでも決して墓に入って、安らかに眠っているわけではない。墓に入るのは、乗り捨てられたからの舟だ。魂がないからだから「亡骸なきがら」というのだ。


 父親がまた、イェースズを見た。


――俺もな、人が死んだらすべてが無に帰してそれで終わりと思っていたんだよ。でも死んだのにこうして生きているから、最初はずいぶん戸惑ったよ。死んだということがなかなか分からなかった。お迎えの方に説得していただくまではね。妻や子供たちとてそうだ。


 それを聞いたイェースズの疑問に、父親は一瞬顔を曇らせた。


――俺たち一家は、流行病はやりやまいで死んだんだ。あっという間だったよ。村が全滅だった。


 父親は、自分の末の子らしき子供を指さした。


――この子は生まれたときから両手両足だ動かなかったのだ。


 その子供が、今は両手を使って食事をしている。イェースズは首を傾げた。その疑問に、老人がすかさず答えを送ってきた。


――ここでは年齢が同じになるだけでなく、生まれつき体が不自由なものは五体満足になるんだ。


――あんた、まだ地上にいるんなら……


 父親は、イェースズを見据えた。


――みんなに言ってくれ。俺もこういう世界があることを知っていれば、死んだ直後にあんな遠回りをしなくて済んだ。


 その時、老人がイェースズの腕を引いて歩きだしたので、イェースズは慌ててその後を追った。そして歩きながら、老人の想念が伝わってきた。


――ここでは、「どうして死んだのか」ということは聞くものではない。この世界は死んだ霊魂が最初に来る世界で、本当の霊界ではない。ここでみんな生きていた時のことを忘れ、現界への執着をとるために修行しているんだ。それができたものがはじめて霊層界に行ける。だからここでは現界にいた時のことや、現界での死のいきさつなどは聞かないであげた方がいいのだ。


――現界への執着を断つというのは分かりますが、何もかも忘れるんですか? 


――そうしなければ、本当の魂の故郷では生活できない。肉体があった時の感触や現界での地位、名誉などすべてをきれいに洗い流して、本当の霊魂としての自分を取り戻すまでは、霊層界には行かれないんだ。ここは、そのための待合室で、長い人では現界の時間で三十年もここにいる。


――本当の霊魂としての自分? 


――生きている時は五官に振り回され、とかく本来の自分を押し殺して生活をしている。集団の掟とか、見栄とか外聞などもそうだ。現界での行動は魂の行動ではなく、「そう決められているから」とか、「恥ずかしいから」「人にとやかく言われるから」挙げ句の果てには「制裁を加えられる」とか、そんなのが優先となる。そして、肉体があるだけに人には外見しか見えないので、本当の自分を押し隠すことは簡単だ。ごまかしがきくのだよ。


――ごまかし……


――しかしここでは肉体はもうないし、みんな幽体と霊体だけで生活しているし、想念がすべて筒抜けだ。会話も想念でする。だからごまかしはきかない。それに、ここには律法も法律も道徳も世間体もない。つまり、してはいけないということがなく、何をしても自由なんだ。それだけに。己の本質がむきだしになる。

 イェースズは納得した。そして、現界の林の中と何ら変わりのない林の中を歩いた。


――ここに来ただけでたいていの人は戸惑うのだから、とてもとても本当の霊層界には直接に行かれるものではない。だからここでゆっくりと現界への執着を断って、魂の故郷である霊界のことを思い出すんだ。こういう世界が用意されていることもまた、創造主の至れり尽くせりの御愛情だ。


――でも人はどうしても現界の名誉や地位、欲望を持ってきてしまいますよねえ。


――それがそうはできないのだよ。


 老人は大らかに笑った。

 その時、前方の林の中で男の叫び声が聞こえてきた。


「やめてくれえ!」


 と、いう声は肉声だった。


――今から、面白いものをお見せしよう。


 そう心の中で言って老人は、叫び声がした方へと微笑みながらイェースズをいざなった。

 

 林の中央は、ちょっとした広場になっていた。そこに十人ばかりの白い衣の人たちが、中央で頭を抱えてうずくまっている人を取り囲んでいるのをイェースズは見た。白い衣の人たちの表情は、皆穏やかだ。

 叫び声の主は、中央の男だった。すらりと背が高く、年配だがいかにもまじめそうないい男だ。その男が耳を両手でふさぎ、地面を転がりながら足をじたばたさせて泣き叫んでいる。


「もう、いい! やめてくれ! 俺が悪かった。やめてくれ、頼む!」


 だが周りの人々は依然として穏やかな表情で、黙って男を見ていた。


――あれをご覧。


 老人が、イェースズに男の上空を示した。ちょうどそのあたりの空中に、風景が展開されていた。


――あれは、何ですか? 


――この男の一生が鮮明に、空中に映し出されるんだ。現界に生まれてから死ぬまでの一瞬一秒の善行や悪行がすべて映し出され、自分の一生を客観的に見せられるんだ。


 イェースズはしばらく黙って、そんな映像を見上げていた。見事な立体映像で、状況が手にとるように分かる。まるで芝居を見ているようだが、舞台は空中にあり、主人公は今目の前でのた打ち回っている男その人だ。

 どうやらその男が一人の女をめぐって、同じ村の仲間を謀殺しているシーンが繰り広げられているらしい。巧妙な手口で相手を誘いだす男の声が、頭上からはっきりと聞こえてくる。口に出した声以外の、心の中で思っていたであろう想念まで副音声で聞こえてくるのだ。そこには何の装置もなく、ただの空中である。


――絶対に人に見られていないはずの行いも、こちらではすべてこのように記録されている。一瞬一瞬の想念やたくらみなども、本人が覚えている覚えていないに関係なく、すべてだ。


 これはあまりに残酷だと、イェースズは思った。


――残酷だと思うかね。すべてがこのように明らかにされて本来の姿になった方が、ずっといい。それを、ごまかしで包み隠している方がずっと残酷だよ。


 老人の声が響いてきてはじめて、思っただけが伝わってしまうことを忘れていたとイェースズは気づいた。


――ここは嘘のつけない世界だ。現界では人を騙すだけでなく、自分自身にさえも嘘をついて生きている人が多いが、ここではそれすらもできない。この儀式は、ここへ来た誰もが必ず通過しなければならないことなのだ。


――しかし、何のために。


――その人を裁くためでも、賞罰を与えるためでもない。


 確かに裁判官のような審判者はどこにもいない。


――その人の、魂としての本来の姿を正しておかないと、霊層界へは行かれない。これによって、霊層界で行くべき所が決まるのだ。


――つまり、天国か地獄かということですか? 


――確かに霊層界には天国といえるような所や地獄ともいえる所があるが、そんな二つの内どちらかというよな単純な所ではない、霊層界は。


 その時どうやら映像は終わったようで、男はゆっくりと立ち上がった。しかしその姿は先ほどまでの紅顔美麗な姿ではなく、見るも無残な醜男がそこにぼんやりと立っていた。


――現界では想念がどうであろうと、外見でごまかすことができる。醜い心の持ち主でも、その美麗で人をだますことはできるがな、ここは想念の世界だから姿も想念通りになってしまうのだよ。最初は生前の姿や服装でいるが、あの儀式を通過するといやでも自分の本質を自分で知ることになるから姿も変わるのだ。


 老人はそれだけ想念で語るとゆっくりと歩きだし、その場を後にした。

 イェースズはその老人と再び並んで林の中を歩きながら、自分が現界でしていた修行の大切さを実感した。多くの人はここに来てはじめてあのような目に遭う。しかし、現界にいる時から自分の一生を深く瞑想し、すべての行いを点検して詫びるべきは詫び、改めるべきことは改めて反省するという行をしてすでに心の垢を落としておけば、ここに来てあんなにのた打ち回る必要はないはずである。


――確かに、自分の本質を知るのは大切ですね。でも、ここでは現界のことは忘れなければならないのでしょう? 


――わしの言った忘れるという意味は、執着をとるということだ。悪いことから逃げるため、それを忘れるというのとは意味が違う。そういう意味では、決して忘れることは許されない。逆に覚えていないことまで認識させられてしまう。ただ、現界での物欲に基づく執着心はここには持ってこられないのだよ。


――生涯かけて愛した人や、自分に注がれた慈しみや恩を思い続けるのも執着なのですか? 


 老人は笑った。


――こちらの世界の方が現界よりもずっと、真の愛と慈しみに包まれた世界なのだよ、もっとも、地獄は別としてだが。この世界のことも、現界に生まれた人は皆忘れてしまう。いいかい、ここよりも現界の方が、ずっと厳しくて残酷なのだ。だから現界は、魂の修行の場ともいえる。


――確かに。


――今いるこの精霊界はずっと現界に近い様相を呈しているが、本当の霊層界に行けばそこは完全に相応の世界だ。同じような魂の状態、想念の人、つまり同じ霊相の人々が集まって暮らしている。違う霊層界の人々とは互いの交流はできない。いろいろな霊相の人が渾然と交じり合って生活しているのは現界だけだ。そういう意味でも現界は厳しい世界だし、魂の修行の場なのだ。霊層界では、現界で家族であったもの同士でも、魂のレベルが違うと別々の世界へ行って二度と会えない。


 その老人の言葉に、イェースズの中でひらめいたものがあった。


――あのう、私の亡くなった父も、今この世界のどこかにいるんですか? 


――人によっては四、五年もここに留まらずに霊層界に行ってしまう人もいるが、たいていは二、三十年はいるから、おまえさんのお父さんもこの世界のどこかにいるだろう。


――では、探せば会えるんですか? 


 イェースズは興奮しはじめた。心臓が高鳴る。肉体はなくても、幽体としての心臓はきちんとあるようだ。だが、老人は首を横に振った。


――おまえさんの国の人々が集まって暮らしているあたりに行けば会えるかもしれないが、会ってはいけない。


――え? 何でですか? 


――お父さんも、現界を忘れる修行をしているのだよ。


――あ、そうか。


 そんなところに現界で息子であった自分がのこのこ現れたら、執着を断つための修行の妨げになる。


――いいかね。亡くなってこちらに来た人に対しては、残された人はなるべく早く忘れてあげる、それが本当の供養だ。現界の感覚では冷たいかもしれないがな。年に一度くらい亡くなった日にみんなで偲ぶくらいならよいが、現界にいる人がこっちに来た人への執着を断たずに、いつまでも嘆き悲しんでいるとその波動がこの世界にまで伝わってきてしまうのだ。それで修行の足が引っ張られて、みんな迷惑する。それに、東の国では子孫が先祖を供養するが、おまえさんがた西の国では供養はしなくてもよい。東の国は火で象徴されるタテの霊界、西の国は水で現されるヨコの霊界なのだ。


 なるほどとイェースズは納得し、やがて二人は円盤の所に戻ってきた。二人が円盤に乗ると、円盤は上昇し、すぐに光のドームの中にすごいスピードで吸い込まれて行った。

 

 気がつくと、別世界にいた。

 先ほどよりも狭い感じがする。スケールの小さい山が間近に取り囲んでいる。

 円盤が下降すると、村があった。イェースズにとって見慣れた、いつもの竪穴式の家だ。人々は皮衣を着ており、老人もいれば子どももいる。新しく来た人たちなのかなとイェースズが思っていると、


 ――ここは現界だよ。


 と、老人は言った。イェースズがもう一度村を見渡してみると、確かに現界でイェースズが暮らしていた国の村だ。だが皆気ぜわしく動き回り、狩りにも行かずに、村は人で溢れていた。

 イェースズと老人を乗せた円盤は地表すれすれまで下降して、停止した。それでも村の人々は誰一人として老人やイェースズを見もせず、二人は完全に無視された状態となった。


「何かあったんですか?」


 と、イェースズはすぐそばを通り過ぎようとした村人の中年女性に、肉声で尋ねてみた。それでも女性は振り向きさえもしなかった。イェースズの隣では、また老人が笑っていた。


――いくら現界に戻ったといっても、おまえさんはまだ肉体には戻っていないのだよ。だから今はまだ霊体と幽体だけなんだ。彼等から見えるはずはない。


 確かにそうだと思っているうちに、老人が円盤から降りた。イェースズもそれについて地上に降りたが、足が地面に着かず、ふわっと浮いた状態だった。そして移動しようとすれば、空中をふわりと飛ぶこともできる。


――この村の村人が今朝方猪に突かれて、今死にそうになっているのだよ。


 確かに村人たちからは、そのような想念が伝わってくる。

 ところがイェースズがしばらく飛んでいるうちに、あちこちに同じようにふわふわ飛んでいる人たちがいることに気がついた。彼等はイェースズが見えるらしく少し意識して、それでいてわざと無関心を装って飛んでいく。


――あの連中は、死んでも向こうに行けない魂だ。


 イェースズの疑問を読み取って、老人がそう答えてくれた。


――現界への執着がとれずにいたり、あるいはまだ自分が死んだことが分からない困った人たちだよ。生きていた時に、死んだらそれですべてが終わりだと思っていて、霊の世界のことなど信じなかった人たちだな。死んだら墓に入るだけだと思っていた人たちは、死んでも生きているからそれが不思議で、死んだということがサトれない。それがサトれない限り、その霊はこうしてふわふわと現界を飛んでいなければならない。でも、現界に生きている人からはその姿は見えないのだから、彼等は安らぎは得られないだろう。


 それから少し行って、老人は一軒の家を指さした。


――あの家だ。死にかけている人がいるのだ。


 その家まで飛んで行き、そのままわらの屋根を素通りして二人は中に入った。多くの人が、中央のいろりの脇の土間に敷かれたむしろの上に横たわる男を囲んでいる。もちろん彼等にはイェースズたちが見えないから、勝手に入っていったところでとがめるものはいない。

 誰もが心配そうな表情で男を揺さぶり、大声でしっかりしろと励ましているものもいる。男は血まみれで、苦しそうな表情でのた打ち回り、見るも無残な姿だった。周りの人々は、ただ手をこまねいているだけだった。

 その時、男を囲む人の背後に、落ち着いた穏やかな表情の人がいるのをイェースズは見た。ほかの人の皮衣とは違って純白の服を着たその若い男は実に輝くような容姿だったが、一人だけ澄ましているのは奇妙な違和感があった。

 しかも驚くべきことに、その人はイェースズや老人の姿を見て軽く会釈してきたのだ。霊・幽体となっている自分が見えるということは、その人も現界の人ではないということになる。

 そのうち、血まみれの男はこと切れた。周りのものはわっと泣き崩れて、男にすがりつく。男の妻と思しき女はほとんど狂乱となって髪を振り乱し、男の肩をゆすっている。男の顔は苦痛にゆがんだままもはや動かなくなっており、硬く閉ざされた瞳は開きようがなかった。

 その時、白い衣の若者は、今息を引き取った男の耳元で何かをささやいていた。本来なら聞こえようもないほどの小声だが、不思議とイェースズの心にははっきりと聞こえてきた。肉体の中にいた時よりも、今は数倍も聴覚も視覚が研ぎ澄まされている。

 白い衣の人は、この男の名前を呼び続けていた。男の体は硬直したままで、顔も蒼白になっていった。しばらくはそのままだったが、やがて死んだはずの男の体から心臓の鼓動が聞こえはじめた。

 イェースズは、男が生き返ったと思った。白い衣の若者は、男を死から救いに来た霊人だったのだと納得していた。しかし次の瞬間、


――違うぞ。


 という老人の声が、心に響いた。


――あの男の肉体意識は、今消えようとしている。


――でも、心臓の音が……


――肉体の心臓が止まったのと同時に、霊・幽体の心臓が鼓動を開始したのだ。ようやく、霊として誕生したわけだ。現界では死でも、幽界では誕生なのだよ。


――あの白い衣の人は? 


――あの男の守護霊だ。


 守護霊といえば、故国のエッセネの教えでは守護の天使という名で伝えられている。それが単なる観念上の教義ではなく、実在のものだということはすでに彼は知っていた。

 かつて、自分の守護霊であるゴータマ・ブッダと、すでに彼は邂逅かいこうしている。気がつけば、ここにいるすべての人の左肩の上あたりに、一人に一人ずつ白い衣の守護霊が付き添い、イェースズが意識を向けた途端に見え出したその守護霊たちは、一斉にイェースズに向かって微笑んで会釈した。

 現界人と守護霊は銀の糸で結ばれ、さらに糸は先に延びてどこかへ消えている。自分にもゴータマ・ブッダが寄り添っているはずだと振り返って見たが、そこには何も見えなかった。そんな意識を、老人は読んでいた。


――あのお方はおまえさんが肉体から離れている間は任務外で、ほかの用事をされている。なにしろ本来は高次元神霊界におわしますべきお忙しい方だから。


 この老人は、自分の守護霊がブッダであるということさえ知っているということは、よほど特別な人らしいとイェースズは感じた。


――あの銀の糸は? 


――本人と守護霊を結ぶ霊波線だ。その霊波線はさらに背後霊団とつながっている。守護霊は現界にいる人に四六時中付き添って直接守護するわけだが、霊界の奥深い所にいて、守護霊をさらに指導する方々が背後霊団、つまり指導霊たちだ。守護霊はたいてい本人の二、三代前の先祖で、本人より少しばかり霊格が高い霊で、背後霊団もたいていは先祖だ。普通は守護霊の方が霊格が高いが、本人が現界で修行して霊相浄化し霊層昇華すると守護霊の交代が行われて、もっと霊格の高い守護霊に代わる。そうなると守護力も増すから、その人は運命が急に開けたりするのだよ。もちろん霊相が下がると、その反対もある。


 老人とそんなやり取りをしているうちに、目の前の現界ではもう葬式の準備が始まっていた。死んだ男の守護霊は死んだ男に向かって、彼が死んだことやこれから霊・幽体のみで幽界へ行かねばならないことなどを切々と説いている。硬直して動かない男と重なって、いまだに苦しみにもがいている男の姿が見える。

 やがて苦しんでいる方の男の姿は頭の方へとずれていき、そのまま頭の先からずれ出てきた。そして腰あたりまで頭の先から出た時に、もう一人の死んだ男は上半身を起こした。

 そして蝉や蛾が己の殻から抜け出るごとくに、死んだ男の幽体は、肉体から離脱した。そして、自分の遺体の上空あたりに浮かんで、依然として苦痛にもがき苦しんでいた。


「この人も、これで苦しみから解放されたね」


 何も知らない現界人が、身動きもしない遺体に向かってそうささやいている。しかし当の本人は、解放などされてはいない。


――肉体があるうちは肉体が痛みをある程度隠すが、霊・幽体になると霊体や幽体の痛みをもろに感じるわけだから痛みは数十倍になるし、下手したら数百年もそのままだ。このままでは、彼は幽界へは行けまい。よしんば行けたにせよ、死に際のあの苦悶深刻な表情では地獄行きだ。


 老人の声を聞き、イェースズは黙って見ているわけにはいかないと思った。ところが、まだ生きている人の傷を例のパワーで癒したことならあるが、目の前で苦しんでいる人はもうすでに死んでいるのである。イェースズがためらっていると、


――ためらう必要はない。


 と、老人は言った。


――苦しんでいる彼と遺体は、まだ霊波線がつながっている。まる一日たつと、あれも切れてしまう。


 それを聞いてひらめいたイェースズは、遺体の傷口に手を当てた。そしてすべての宇宙のエネルギーをとらえ、手のひらから放出した。すると自分の体じゅうにすごい熱を感じ、自分の手が発する光で自分がまぶしくなったほどだった。

 そのエネルギーは男の遺体から銀の霊波線を通って、空中で苦しんでいる男の幽体に達し、すぐに苦しんでいた男は何事もなかったようにきょとんとした。


――すごい霊流でしたねえ。


 と、男の守護霊が語りかけてきた。イェースズもまた、驚いていた。肉体の中にいる時は同じパワーを使っても、こんなに強烈にエネルギーは流れない。ましてやそのエネルギーが、肉眼に見えることは絶対にない。

 男の遺体を囲んでいる人々の間からも、ざわめきが上がった。


「さっきまであんな苦しそうな顔だったのに、いつの間にかこんな穏やかな表情になっている」


「本当だ。信じられない。まるで眠っているみたいだ。今にも目を開きそうではないか」


「血色もよくなってきたわ」


 人々はそう言いあいながら、遺体の顔をのぞいている。


「これでやつも、黄泉よみの国で永遠の眠りにつけるってわけだ。安らかに眠ってくれ」


 しかし本人は、眠っている場合ではない。自分の遺体を取り囲んでいる一人一人に、必死に話しかけていた。


「おい、どうしたんだ。俺はここにいるぜ」


 しかし、誰にもその姿は見えないのだから、それに答える人はいない。


「どうしたんだよ。何でみんなして俺を無視するんだ」


 そんな男の方を守護霊が軽く叩き、すでに死んだということの説得が再び始まった。そして自分の遺体を見せられ、何が何だかわけが分からなくなって、男はパニックに陥っていた。

 しかし死んだといっても手も足もあって息もしているし、感覚は肉体の感覚よりも遥かに鋭敏になっているわけだからなかなか死んだことがサトれないのも無理はないと、イェースズはそう思って見ていた。

 守護霊は、ひとまず引き上げていった。


――一応、四十九日間の猶予が与えられるのだよ。四十九日間はこのまま、霊として現界に留まることが許される。その間に自分が死んだということをサトれば幽界に行けるし、サトれずに執着が強ければそのまま浮遊霊になってしまう。たいていはどんなに霊界に無知であった人でも、死んで四十九日もたてば何かおかしいと感じ、やがて死んだということをサトる。だが、突発事故で即死した場合はなかなか難しい。場合によっては幽界に行かれないどころが、現界の死んだ場所からずっと身動きがとれなくなるときもある。自殺などした場合は、必ずだ。現界の時間で二百年から三百年くらいは、その場から動けない。


 そう老人がイェースズに説明しているうちに、葬式が始まった。男は村はずれの貝の捨て場所の近くに運ばれ、すでに掘られていた穴にかめに入れられて埋められようとしていた。

 甕の中には、足を頭の上になるくらい、体全体を折り曲げられて入れられた。その間も、埋葬される男の霊は、自分を埋めるなと叫び続けていた。

 老人とイェースズは、その場をあとにした。


 ――幽体と霊体は肉体と同形で、肉体が物質でできているのに対して幽体は精神世界、つまり心の体、霊体はさらに極微の霊質でできている。死ねば肉体を脱ぎ捨て、幽界では霊体と幽体のみで生活する。やがて昇華すると、幽体をも脱ぎ捨てて霊体のみで生活できるようにもなるが、そうなるとそれは高次元の神霊界の住人ということになる。


 老人の説明を心で聞きながらしばらく行くと、老人は前方の林の中を指さした。


――あそこに、いよいよ守護霊に導かれて精霊界に旅立とうとしている人がおるな。


 ところが老人が指さす方を見ても、イェースズには何も見えなかった。ただ林の中の道が、現界の荒々しい波動の世界の中に見えるだけだった。老人は笑った。


――君が見ているのは、現界の風景だ。意識のレベルを、霊界にまで高めてごらん。


 そう言われても、どうしたらいいのかイェースズには分からなかった。


――肉の目で見ようと思うな。肉の目は閉じて霊の目を開け。強く念じるのだ。


 言われた通りにしてみると、確かにすぐ前方を二人の人が歩いているのが見えた。歩いているといっても、現界の道よりはほんの少し上空をすべるように飛んでいる。

 白い衣の守護霊に付き添われた年配の女性だった。

 そして二人の人影が現れたのと同時に周りの景色が一変したので、イェースズは驚いた。それもパッと変わったのではなく、現れた別の風景は現界の風景と重なっていた。その別の風景にも山があり、林があり、野には川も流れていた。


――今、見えてきたのは霊界の風景だよ。現界の風景と重なっているだろう。もっと念を強くしてみなさい。


 イェースズが老人に言われた通りにすると、徐々に霊界の風景が強くなって、現界の風景はその中に解けてやがて見えなくなった。

 ところが次の瞬間、イェースズの目の前は再び元の現界の風景だけとなった。精霊界に旅立とうとしている人の姿も、もうどこにも見えなかった。


――いいかい。ここに現界があって、霊界とはどこか別の場所にあるのではない。霊界と現界は表裏一体、ぼけて入り組んでいるんだ。いわば一枚の金貨の裏と表のようだな。


――金貨? 


 この国には無縁のものと思われるような言葉をイェースズは久しぶりに聞き、その言葉の響きが懐かしかった。

 そしてさらにその老人の言葉は、イェースズにアーンドラのブッダ・サンガーで聞いたスートラを思い出させた。


――ヤドゥ ルーパン サー スーニャター、ヤー スーニャター タトゥ ルーパン……


 その一節は本当だった。スーニャターとは霊の世界で霊そのものであり、ルーパンが現界の物質のことだというのが、今はいやというほど理解できる。そしてこの霊の元つ国の言葉を知ってこそ理解できることもあって、スーニャター――くうからであるがゆえに何もない、すなわち0=れいであって、それが「霊」に通じるのである。

 それは、霊体を構成する極微の世界のことで、それらの構成物質を人類が探求し得るのはこの頃から見てまだ二千年以上の歳月が必要とされるのだった。

 そしてさらに、スートラはスーニャターとルーパンが別のものではなく、「ルーパン すなわちこれ スーニャタースーニャター すなわちこれ ルーパン」と説く。

 何の難しい哲学も理論もそこにはなく、ただ霊界の実相をありのままに述べたにすぎないのがあのスートラだったのだ。


――だいぶサトッてきたようだな。ただ、一つ、忠告しておこう。


 老人の顔は微笑んでいたが、目は厳しかった。


――今おまえさんを霊界探訪に案内しているが、だからといって必要以上のへんな興味を霊界に対して持たないように。


――え? どういうことでしょうか? 


――要は、霊界が厳として実在し、現界に影響を与えているということを知ればいい。それを好奇心を持って興味本位に根掘り葉掘り調べようとすると、道を誤る。神に向かうべき信仰が、変な霊媒信仰になってしまうと、たいへん危険なことだ。


――はい。心得ました。


 イェースズが明るく返事をすると、老人は円盤の所まで戻り、イェースズに再び円盤に乗るよう促した。

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